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坂本龍一の微分音 ─「iconic storage」楽曲解説─ [YMO関連]

 イエロー・マジック・オーケストラ(以下YMO)が各メディアで挙って取り上げられる様になり爆発的な人気を博していた1980年。その年の初夏にアルバム『X∞Multiplies 増殖』を戸塚で購入したという事は先日も語った通り。音楽でもファッションでも最先端の存在という誉れ高き名声を恣(ほしいまま)にして来た坂本龍一が突如アルファ・レコードからソロ・アルバムを発表するのがその年の秋の事でありました。

 矢野顕子のソロアルバム『ごはんができたよ』のリリース時にはその独特の節回しがCMを賑わせておりましたが、その直後、日本の歌謡界にも必須アルバムと位置付けられる1枚となるであろう名作の誉れ高き『B-2 UNIT』がリリースされる事になる訳です。

B-220Unit.jpg

 
 坂本龍一が「ソロ・アルバムを作らせてくれなければYMOを脱退する」とアルファ・レコードを説得して予算を獲得したと言われるアルバム。全世界を賑わせたジョン・レノンの暗殺はここから数ヶ月後。併行して田中康夫の『なんとなくクリスタル』が話題をさらっていた頃でした。

 『B-2 UNIT』の凄さを語るのに最早聴き慣れた美辞麗句の言葉は必要無い程であるのは疑いの無い所とは思いますが、このアルバムには随所に微分音が使われているという事までを語られるのは非常に少ないのが意外な側面でもあります。


 YouTubeにて私の譜例動画チャンネルでは既に「riot in Lagos」や今回の記事用に予めアップロードしておいた「iconic storage」では顕著に微分音表記を施しているのでありますが、「riot in Lagos」の頻繁に多くの微小音程が鏤められている方が「iconic storage」よりも採譜の作業が楽であるのは不思議な所であります。「iconic storage」では、その微小音程の音価の歴時の長さがいつの間にか耳が「そっちの世界」に持っていかれてしまい、24等分平均律(=24EDO)の情緒に音律の軌道が乗せられたままに既存の12等分平均律(=12EDO)の側を半ば「複調的」に聴いてしまう事すら実感させぬ程に周到に作り込まれている為、今回採譜して明示化されない限りはごく風に単なる12EDOの曲として知覚している方すら居られても不思議ではないかと思います。

 斯く謂う私とて「iconic storage」を嘗ては商用着信音(32・40和音)でリリースした事があるものの、その時は12EDOで「均して」作ってしまい、その後あらためて原曲を久方ぶりに耳にした時に微分音の存在に気付いたという経験があった位なので、単に12EDOとして知覚していても不思議でもなんでもないと思う所です。



 私が以前に商用着信音を制作していた当時は己に対してある強いモットーを備えて挑んでいた事があった物でした。それは、《制作用に音源を準備する事が出来ずとも自身の記憶を手繰り寄せて完成させる》というのが私のモットーでありました。それがいつしか変容して行き、記憶だけを頼りに制作するという風に変化して行った物であります。

 よもや、商用着信音という機会が無ければ耳に触れる事も無いであろうという曲を制作の為にしこたま耳にし、自身の好む楽曲は1・2回聴いて記憶に留めるという風に、楽曲をトコトン耳にせねば曲の良し悪しなど判らぬ様な人からすれば飛んだジレンマを抱え込んでいるかの様にすら思えるかもしれませんが、好きな曲は記憶に焼き付けて滅多に聴かないという事は私にとっては珍しい事ではなく日常的な事でもあるのです。


 とはいえ、微分音が絡む曲というのは脳にしてみれば相当ハードルが高いのか、意識せずに12EDOだと知覚が均して聴いてしまっていると記憶が変質してしまっている事は多々有るという事も亦事実。しかも、手許にベースを爪弾き乍ら堪能する楽曲と異なり、坂本龍一のこれらの楽曲というのは、ベースを手許に置いて爪弾きたくなるという楽曲とは亦異なる物でもあり、手許の楽器とのチューニングのずれに気付く事が疎かになり乍らいつしか記憶が変質してしまうという事になってしまったのでありましょう。「riot in Lagos」の微分音にはしっかりと注力しているにも拘らず「iconic storage」にはその注意力が及ばずに居たという所は、音律の先入観が変質させてしまった悪しき例として反省する必要がある所です。


 然し乍ら「iconic storage」を商用着信音として取扱っていた頃に本曲のクレームを受けた事はなく、寧ろ好意的な声を頂いていたかと思います(笑)。5kbyte以内に収めねばならなかった当時のデータサイズが今や懐かしい物ですが、当時の携帯電話各社が1バイト辺り一体幾ら稼いでいたのであろう!? と現今社会での「ギガ」サイズが当たり前の情報通信量と比較するとバカバカしくすら思えてしまうかもしれません。通信インフラストラクチャーというのは税金で培って来た訳でありますから、それの利益に預かるのが常に「選ばれし」大企業ばかりではなく、使用者は常に金を取られ利益を蒙る事が出来ないのは日本の悪しき慣習でもありましょう。そうやって固定電話の保証料の使用者への返済義務も法律で免れる様になったのも記憶に新しい所です。


 扨て本題に入りますが、「iconic storage」は曲冒頭から微分音を耳にする事が可能であります。私は本曲をト短調(Key=Gm)で表わしている物の結句するのは下属音 [c] でありますし、テーマAでは短属九などを執拗に聴かせる物のトニックに直ぐに解決せずに長々とドミナントを掛留させてみたりと、調性感を蹂躙している所があります。

 後述しますが、ドミナント感が演出されている部分にしても12EDOの音階外の音となる音組織=即ち四分音(24EDO)の音脈を使って来るのでありまして、短調が手始めに軽く虚ろな感じで酩酊感を伴わせる様な虚脱感、或いは短調が色濃く残る余薫に交えて本来なら埒外となる微分音が違和感なく辷り込まされているとも聴く事ができる物であり(※四分音に気付かなければ酩酊感に陥っている事すら自覚できない)、こうした移ろいはなかなか興味深い所であります。取り敢えず本記事を読まれる方の為に四分音のドイツ語音名をゲオルギー・リムスキー゠コルサコフに倣った名称で語って行きますので、下記音名を参照して欲しいと思います。

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 余談ではありますが、四分音のドイツ語音名として私のブログでは以前からゲオルギー・リムスキー゠コルサコフの物を載せておりますが、その理由はこちらの方が出典としてアクセスしにくい物であろうと推察するので取り上げているのです。数年前にもネットでバズった四分音のドイツ語音名がありましたが、それとは全く異なる物で出典を探るのが容易である物が1892年にゲオルク・アウグスト・ベーレンス゠ゼネガルデン(Georg August Behrens-Senegalden)が著した四分音体系という物もあります(下記参照)。

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 とはいえこれは嬰種と変種の混合と簡素化という中庸を採った体系であり、上下に「増二度」となるセスクイシャープとセスクイフラットが省かれておりますので(※用例から類推するならばCセスクイシャープは [cisus] となり、Bセスクイフラットは [bos] となる事でしょう)、そういう意味ではゲオルギー・リムスキー゠コルサコフの方が嬰種・変種共に示し易いので、私は以前から援用している訳ですのでご容赦下さい。


 イントロ部分の4小節は曲中盤でも更に2回リピートされて耳にする事ができますが、全音符で聴かれるパートのトップノートが24EDOの音脈つまり四分音で奏される物です。

 本パートが夫々左右にステレオ・パンニングで振られている所が心憎い所でもありまして、倍音成分に乏しい音でもあるので定位感すら暈滃される状況であります。加えてその倍音の乏しさは音高知覚面でも倍音に潤沢なソースよりもピッチ感覚が暈される状況にある訳です。ステレオ・イメージが左右に微分音で振られる用法はおそらく武満徹をヒントにしたのではないかとも私は推察するのでありますが、嘗ては武満徹を断罪した坂本龍一もこうしてリスペクトしたのではなかろうかとも思うのです。
 
 茲で取扱われる微分音のパートの音は倍音に乏しい音ではあるものの純音ではありません。とはいえ倍音成分が潤沢ではない音源では特に、恣意的に一部の倍音を省かれた複合音や基音すら失われた複合音(=レジデュー・ピッチ)などで錯聴を齎す事も有り得る物です。

 実際には聴き手が錯聴と実感していない知覚である所が重要な側面であります。通常、成人男性が発する母音は120Hz近傍にあるにも拘らず固定電話の周波数帯域である300〜3200Hzでも声の主の声色だけが変質した様に感ずる物です。つまり、和音で喩えると根音が120Hzから300Hz(純正長十度=1オクターヴ+純正長三度)上がった様には聴こえず、欠落した基底の周波数が無くともそれに伴ってピッチが高くシフトされない様に聴こえるのは人間の特殊な能力に依る物でもあります。

 加えて純音だと顕著に現われる現象として、高い周波数ほどピッチを高めに採り、低いピッチを更に低く採ってしまうという本来のピッチ・ハイトを「錯誤」している事にもなる音響心理方面の不思議な側面というのは無視できぬ物です。ピアノ調律などでは広く知れ渡っている音響心理的現象であります。調律の「ストレッチ」とも呼ばれる物です。

 音響心理的現象も勘案しつつ先述の「暈滃」と称した理由は、使用される音には倍音成分の乏しさに加えてその上でステレオ・パノラマ感に対してディレイを付与させ乍ら聴き手の心理を好い意味で蹂躙しているという効果があると思われるのです。そうした状況に加えて堂々と四分音をトップ・ノートに使うという所にも、ギミックの意図や楽音認識の卒倒感などを演出する狙いがあっての事だと思われるのであります。こうした諸点をあらためて勘案すると、採譜をするにも一筋縄では行かない曲であると言えるでしょう。 

 前述のギミックが齎す作用として、四分音を違和感なく捉える(≒それとは気付かされる事のないまま甘受させられる)という事が可能となっているのでもあり、その「ごく自然な」ギミックに依り知らず識らずの内に微分音を聴かされている状況は微分音社会すら知らない人からすれば音痴にすら聴こえかねない音脈を騙し騙し聴かされている様にすら思えるかもしれません。そうしたギミックに注力しなければ、それを微分音とすらも微塵も感じない程に周到に用意されている音であるという事があらためてお判りいただけるでしょう。

 他方、四分音が用いられてはいない八分音符のシングル・タップ・ディレイが施されたパートは譜例動画にて一目瞭然の様に、音域が低く採られているので譜例動画はハ音記号から書き始めておりますのであらためてご注意下さい。

 斯様な音響心理的側面を挙げた理由は、『B-2 UNIT』というアルバムが比較的広汎に知れ渡っている作品であるにも拘らず、その作品の中に用いられる微分音の存在を全く知らないままに耳にしている現実をまざまざと知らされる所にあり、微分音を知らず識らずの内に耳にしている周到な施し方にあらためて深く首肯させられるのではないでしょうか。耳というのは非常に敏感な器官であるので、音楽的素養など無関係に音高の僅かな違いをも知覚する物です。そうであり乍らも周到に施された微分音を「音痴」の様には聴かせない所にあらためてその凄さを実感すべき点でありましょう。


 扨てあらためて本曲の解説へと進みますが、四分音が用いられるパート「Synth 1a」での1小節目のトップノートの音高はGセミフラットと呼ばれる物になります。つまり [g] より1単位四分音低いので [get] となる訳ですが(※読み方はゲオルギー・リムスキー゠コルサコフ流を踏襲)、調号がト短調で書かれているという事を勘案すると [get] は導音 [fis] よりも1単位四分音高く、主音よりも僅かに50セント低い音であるというのが実に特徴的な所でもあるのです。

 その特徴的な音が意味する物とはつまり、曲冒頭から主音よりも50セント低い音が実在している状況を《主音に「解決」する為の導音》という振舞いであるという解釈を避けた上で、《主音に解決しない七度由来の音》または《主和音を粉飾する減八度由来の上音》という2通りの解釈を持ち来す事になるので、私は後者の減八度由来の音としての解釈を採る事にした訳です。

 導音よりも50セント高い音である [fist] は四分音社会ではクォーター・トーナル7thとも呼ばれる事があります。つまり、このクォーター・トーナル7thの異名同音= [get] としての取扱いを選択している訳でして、この減八度由来の [get] はセミオクターヴとも呼ばれる事がある物なのです。何れも異名同音ではある物の、両者の取扱いは全く異なる物なのであらためてご注意願いたいと思います。

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 あらためて [get] の存在理由が判った所で1小節目に戻ると、四分音を伴う全音符のパートに於ける [e・get] 間の物理的な音程は250セントの音程だという事が判ります。この250セントを二度由来か三度音程由来か!? という解釈を採る事で表記も全く変わって来るのであります。つまり二度音程由来にすると [get] を [fist] と書く必要性が生じ、導音よりも50セント高い七度音程由来の音を《主音に解決しない七度由来の音》として曲冒頭から使うよりも八度由来の音として三度音程という解釈を採ったという訳です。

 三度由来の250セントの音程はセプティマル・マイナー3rd、サブマイナー3rd、minor 3rd quarter-low などと呼ばれますが、日本語として通じやすいのは前者または中間であろうと思うので本記事では中間のサブマイナー3rdという呼び方を踏襲する事に。余談ではありますが後者はハリー・パーチ、ルー・ハリソン、ベン・ジョンストン関連の名称とは異なるヴィシネグラツキー流の英訳でもあります。

 嘗てフレンチ・ニューウェーヴ&テクノのサッフォーを取り上げた時、「Méthylène(メティレーヌ)」で用いられる中立短三度=セプティマル・マイナー3rdをレコメンドした事がありましたが、短三度音程よりも僅かに低い音程を我々は特段耳におかしくは聞かずに受け入れる物なのです。
(※下記動画埋め込みヶ所での [c] と [h] との間にあるCよりやや低い音)




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(※下記譜例はC音とそれより250セント高い音となる音程の異名同音を示したもの)
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 扨て2小節目。トップノートには相変わらずDセスクイフラット(=D♭よりも50セント低い)が登場しており、先行小節同様に「Synth 1b」パートとは250セントのサブマイナー3rd音程を維持した平行和音である事があらためて判ります。但し原曲では先行小節 [e・get] が掛留しているので注意が必要です。但し譜例動画では [get] を余韻としての掛留、[e] を自発的な掛留として表わしております。その点に関しては原曲と状況が少々変わる解釈だと思いますのでご注意下さい。

 譜例動画では「より強く」聴こえる先行音の [e] を明示的に弾いている様にしてデモを作成しておりますが、原曲は掛留である可能性が高い物です。そうした「掛留 or NOT」という判断を困らせるのは3〜4小節目でのディレイの用法で語る事なので後ほど詳しく述べる事に。譜例動画では1小節目の [get] を2小節目では敢えて載せていないのは、譜例を見て再現する方がリバーブなり掛留なりでサスペンドさせれば良いだろうというだけの事であり、2小節目に於て [get] はそれほど強く主調して掛留させずとも良いであろうという私の判断から、譜例上ではこの様にしております。

 こうした特殊な和声的状況を判り易く説明すると、[e] を根音とする減七和音(=dim7コード)の第3・5音が夫々50セント低いという風に見立てる事も可能でありましょう。根音・重減三度、減五度・重減七度という風にも言い表わす事が可能となります。ここから重減七度を除けばその三和音は「減過減三和音」と称される物で過去にも諸井三郎の変化三和音を取り上げた事もあるので、その譜例の9番の三和音に対して重減七度が附与された物とも言えるでしょう。

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 尤も、12等分平均律での見立てを前提してしまうと次の譜例に見られる短過減三和音に重減七度が附与される「1」の例の実際は「2」の様な異名同音に置き換えられる状況を指し示す事に過ぎない様に解釈されてしまいかねませんが、12EDOでの減三度と24EDOでの減三度では物理的な音程が異なるのは明々白々である事は「3」の例を見ればお判りになる事でしょう。ですので譜例「3」では根音 [c] に対してEセスクイフラット(幹音より3単位四分音低)、Gフラット(幹音より2単位四分音低)、Bセミクイントフラット(幹音より5単位四分音低)この辺りは混同されぬ様お読みいただきたいと思います。

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 12EDOで調性(※半音階的全音階社会の範疇の調性格の意味であり無調の意味ではない)を標榜する音楽は通常ならばト短調での [des] はブルー五度でもある為ブルージィーに響く筈です。「支配音」とも称される属音が一時的に叛かれているとは雖も、後に導音が示される時に補強される属音が「支配音」として再び現われる事で本来具わる調性感が維持される体系。それがブルースの世界観のひとつとも言えるでしょう。

 元来ブルースで生ずるブルー五度は、属音より低められるその音程は半音よりも狭い微小音程的な可動的変化であったろうという事が知られております。それが12EDOでの半音階に均されて行ったという訳です。

 興味深い事に、本曲で一時的に叛かれる属音が12EDO対系での半音ではなく、3単位四分音=150セント低い [dest] を採るのが実に心憎い所です(※ [cit] の異名同音)。その「心憎さ」があらためて意味する物は、平時での「調的」な世界観から見た時に標榜する所の「属音」というⅤの位置が半音どころか150セント低められる状況である為、調的には叛かれる社会感を演出しようとしている事が如実に判る訳です。

 事もあろうに1小節目から「主音」が暈され(※テナー・シークエンスのパートで主音は在るも、同時に減八度とも呼べるセミオクターヴが併存)、2小節目では「属音」までも叛く。

 これらの状況を調的世界観に照らし合わせるならば抑もの調判定すら誤っているのではないか!? と思わせてしまいかねない判断になりかねません。いやはや、ブゾーニ流に考える(※ブゾーニは、調的な性格はあくまで長調と短調に限るというポジションを採っていた)であるならば、こういう状況下でも機能和声観を墨守して「調判定」を企図する事自体が愆ちであるとも言えるでしょう(笑)。

 然し乍ら本曲は、Aテーマに入れば即座に判る様にメロディーはト短調を標榜する節回しであるので、それが平時の調性感覚的にト短調として捉えられ乍ら、全く異なる音脈が併存しているという状況を体現する事にも繋がっているのであります。『坂本筹一・全仕事』でも確認される「iconic storage」の自筆譜は残念乍らメロディーの単旋律しか確認できない物なので、今回の譜例動画の様に微分音導入まで書かれている物ではありません。


 3小節目。Cセミフラット [cet] が有ります。つまり、ト短調の下属音までもが叛かれた事により、ト短調での主音・属音・下属音の主要な音が変じられている事になり、茲迄来ると最早調判定がト短調である事自体脅かされる訳でありますが、確かにこれらの音が変じている以上ト短調として調的に耳にする事は不可能でしょう。とはいえ直後に現われるAパターンでト短調に接続するというこの音脈では微分音を使っているが故の縁遠い世界観の演出ではあるものの、浮揚する中和感覚に伴って突飛な感覚を微分音で曖昧にしているとも考える事が可能でありましょう。

 短調の下属音が変じている事は、平行長調の上主音が変じている事でもあるので、平行長調の下属音と同様に短調の下属音が変じられたと解釈する必要はないでしょう。あくまでも両義的に捉えても損はないと思います。なにしろ、少なくとも長調・短調の世界観は叛かれている訳ですから(笑)。

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 尚、3〜4小節目にかけて [Synth 1b] のパートは付点四分音符の歴時に依るシングル・タップ・ディレイが附される為、カノン状態で聴かれる事になります。その際3小節目では最高音のCセミフラットの後に [a] が付点四分音符遅れて再び奏鳴される事で「狭めの三度」=サブマイナー3rdである250セントの跳躍ラインとして旋律的に聴こえる様になります。それは4小節目でも同様でBセミフラットとA♭との250セントがそうした旋律線に聴こえる様にディレイが施されているのです。譜例動画の投稿ではディレイが巧く働いていないのを2度も誤って投稿してしまいましたが、あらためて原曲になるべく忠実な形で微分音の線的誇張として聴こえる部分を反映したつもりです。


 5小節目からAパターンが開始されますが、テナー・シークエンスのパートは更に1つ増えて、1小節毎に左右の定位を変えて来ます。シンセ・ベースのパートはLFOが動かない静的な状態でコム・フィルターが施されたベース音となっている訳です。一番厄介なのはこれらの「低い」音域を扱っているパートでありましょう。実はこれらのパートは微分音として用いられるのです。採譜をとても難しくしてくれる実に厄介なパート達です。

 とはいえ6小節目ではシンセ・パッドの音は四分音体系よりも更に狭い微小音程が鳴っています。Gセミフラットに2本のスラッシュが入った様な変種微分音記号は2単位六分音低いという事を示している物です。つまり [ges] より33セント高いという事です。同様に7小節目でもシンセ・パッドのパートに於てセミシャープとは異なる十字形の嬰種微分音記号を附しておりますが、これは [a] より33セント高いという事を示している物です。

 殆どのケースでは24EDOなのですが、所々六分音と八分音相当のイントネーション的な揺れがあるという所も追って説明して行く事になりますのでご注意を。

 四分音よりも細かい微小音程の触れ幅は24EDOを標榜しつつのイントネーションを付けた意図があっての事だと私は思っております。ですので、所々24EDOでは収まらない微分音があっても実際には四分音体系を標榜している物であろうと私は解釈しております。更に言えば、12EDO社会での「短調」の世界観と24EDOの複調という風にも考える事ができるのではなかろうかと解釈しております。

 茲でAパターンに於ける最初の4小節(5〜8小節)のメロディーを振り返ってみる事にしましょう。6小節目で短調下中音「♭Ⅵ」である [es] に行く所が「短調」たる世界観を強く押し出そうとしているのが判ります。その上でベースも三度下行して「♭Ⅵ」へ進行しているのですが、テナー・シークエンスも [es] へ進行する事で声部重複は甚だ著しい状況です。そこで三度が空虚な状況で五度相当の音を微小音程で変じているという事があらためて判ります。

 加えて8小節目では、主音上のテナー・シークエンスは [f] に加え [a] よりも1単位六分音高い音として変じて来ているので、短調上中音を上ずらせるという事は、平行長調の導音(七度)を上ずらせるという事でもある訳です。これにて、イントロで「暈されて」いた主音の減八度は主音よりも僅かに低い下ぶれという事との乙張りでもあろうと解釈が可能となります。

 主音を規準に主音より50セント下に振れさせつつ導音からは33セント上ずらせるという風にもなる訳ですが、上下に等しく振れ幅を採っていないという所もフラクタルな要素として持たせているのではなかろうかと思います。


 9小節目でシンセ・ベースが揺れ始めます。つまり、導音よりも50セント高いクォーター・トーナル7thを用いて来ます。9〜12小節間で同様の旋律を採る訳ですが、これが他のパートとの12EDO音脈とでの狭間で非常に採譜を難しくしている所でありまして、何度も迷妄に陥りそうになった位です。12EDOの情感に心が持って行かれそうになるのが厄介なのです。

 このベースの「音形」を1拍目の根音から音程構造を見てみると残りの4音は相対音度で

《根音→完全八度→短三度→減九度→短二度》

という音程構造になっている訳です。

 シンセ・ベースの音形だけを見れば5〜8小節での音形そのものは変わらず、3〜4拍目の3音を変応させているだけなので、或る意味ではこのパートを定旋律として曲解する事も可能となるでしょう。その定旋律を先行4小節から1単位四分音低いだけの「移高」&「変応」はどういう風にして生じさせるのか!? というと、音程構造は次の様に

《根音→完全八度→短三度→短六度→短二度》

4音目が九度から六度へ変応しているという構造があらためて判る物です。この変応を除けば音形こそは同じであるので、音形を「移高」させて用いているという訳です。無論、総ての音を移高させるだけでは作者は納得がいかないからこそ変応させる訳でありますが、先行する音形が [g] から始まったいた所を鑑みれば9〜12小節では [fist] から入るので、簡単に見れば50セント低く移高されていると見る事が可能なのです。

 この50セントの音程差。半音のさらに半分という微小音程ではあるものの、それほど狭い音程だと雖もこれまで別のパートで生じていた「イントネーション」の変化的な微小音程としての微分音の取扱いとは少々異なるアプローチだと考える必要があるでしょう。

 50セントというのは確かに狭い音程差ではあるものの、この音に行く「脈絡」という所から先ず分析する必要があります。本曲はト短調という「ごく普通の」短調の調性を用い乍ら24EDOの世界を併存させていると解釈する事が可能です。四分音体系の第一人者であるアロイス・ハーバの世界観を勘案すると、十二等分平均律で見られる五度圏とは異なる「不完全五度」という650セント毎に近親調の関係を構築させる体系を視野に入れた音脈を導出させている事がお判りになるかと思います。

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 近親調のひとつとして視野に入れる事のできる属調と下属調という関係は、原調から上方に700セントに属調、原調から下方に700セントに下属調という風に存在しますが、これを転回位置に還元すると原調から上方に500セントに下属調、原調から上方に700セントに属調が存在するというのは明白です。

 こうした近親調の関係のひとつの下属調に対して650セント上方にある直近の調域を「短五度」の調域とでも呼びましょうか。つまり、下属調の調域関係(500セント)から短五度の調域(650セント)の近親関係を経る事で1150セントの調域の関係を生むのですから、あるモチーフが50セント下に移高して来たかの様な近親関係というのはこうした関係性から見出せる物なので、決して脈絡としては縁遠い物ではないのです。

 シンセ・ベースのパートを「定旋律」として見立てた場合、属音を用いているものの(※対位法に於て定旋律が属音を採る時、対旋律は属調の音組織を用いる事が可能。それと同時に新たな声部が下属調らの近親関係の調域を互いに呼び込む事も可能)、増二度の陰影分割である減七度の跳躍が見られる事になります。これは属音への「導音」として私は解釈している訳ですが、「♯Ⅳ」として現われるこの「人工導音」をジプシー音階系統の断片として見乍ら下属音=C♮を包含する下属調調域でのジプシー系統の旋法を同時に見出した場合、こうした音脈を導出する事も決して不可能ではないと思います。

 12等分平均律(12EDO)に慣れ親しむ人からすれば、導音─主音(100セント)よりも狭い50セントの所にある音を主音に靡く事なく使うだろうか!? という疑問を抱く人が居られるとは思います。

 そうした疑問に加えて、その非常に狭い音程そのものが私の採譜ミスなのではないか!? と懐疑的になる人も居られるかと思います。私の耳がヘッポコであるという批判は甘んじて受けますが、懐疑的になられる前にご自身で原曲と比較していただければ僅かな音程差が現実に生じているのを確認できるのでお試しください。その上で、そうした主音に靡いてもおかしくはなかろうという音の位置を音脈として使う為の根拠となる前提知識が私にはあるのでそれを呈示しておこうと思います。

 日本人なら誰もが知るであろう都節音階。これは今でこそ、古代ギリシャ時代のドリス旋法その後の西洋音楽体系でのフリギアの断片としても知られるでありましょうが、江戸時代の『律原発揮』での中根元圭の著述に依れば、都節音階の第2音いわばフリギアのⅡに相当する音の実際は中心音(フィナリス)に50セント寄っていた事が伝えられておりますが、これは悲しい哉一般的に広く知られている物ではありません。西洋音楽が日本に入って来てそれと共に解釈が変えられてしまい、聴取する側の耳も変わっていったとも言われております。

 扨て、主音よりも僅かに50セント高い音の存在が都節音階であった様に、我々は西洋音楽の音組織を用いているものの、西洋音楽とて下属音の存在を措定したまま使っているのもあまり知られてはおりません。上方倍音列に現れぬ純正音程。なにも私は、任意の音が在れば同時に下部共鳴を起こすのだ!と嘗てのフーゴー・リーマンの様に吹聴しようとは思っておりません。そのリーマンをどれだけ嗤笑しようとも、下方倍音列と同様の音脈は欲求として生ずる物なのです。

 民俗文化というのは何も和声的共鳴だけを頼りにして音を生んだだけではなく、音程(等音程など)を固守しようとして作り出した文化もあるのです。アフリカ然りガムラン然り。

 主音の僅か50セント上方に異度由来の音度として存在する様に、主音の50セント下方に等しい音程差が鏡像関係として現れるのは何ら不思議な事でもないのです。なぜなら、下属音の存在は主音の上方五度にある五度音程=ドミナントが1つ目の相貌から得たように、主音の下方五度にある2つ目の相貌から得ているシュステーマ・テレイオン(大完全音列)がギリシャ時代から始まった事を忘れてしまってはいけないのです。音組織は2つの相貌から得られたのですから、鏡像音程を辿る事は何もおかしな事ではなく、そうしなければ下属音は得られないという事を忘れてはいけないのです。

 故に、通常の12等分平均律での導音と主音よりも狭い所に生ずる音を主音に靡く事なく使う事など有り得ないと断罪してしまうのは避けてほしいと思います。





 そういう風に捉えると、9〜12小節目でシンセ・パッドのパートが [c] を含む和音を奏でている整合性という物をあらためて理解する事が可能となる訳です。

 総ての状況(小節)に於て微分音が生じている訳ではない物の、コード表記を充てる事が困難である事があらためてお判りになるでありましょうし、12EDOと24EDOの双方の社会をひとつのコード体系で俯瞰する事が却って足枷となってしまう為、コード表記を敢えて避けているのであります。更に附言すると、この9〜12小節間はトニックへなかなか進もうとしない迂回進行を繰り広げている所もあらためて理解してほしい部分でもあります。

 13小節目では「♭Ⅵ」に進行する事になるのですが、問題は次の14小節目でありましょう。ベースは「♮Ⅵ」へ進行しつつ24EDOの音脈へと誇張しつつ、ウワモノとなる部分では1単位八分音(25セント)の「ズレ」を生じて和声的にイントネーションを変化させて来ているのです。因みに八分音の記号それぞれは、通常の変化記号・本位記号の上下に附される矢印が25セントの誇張を示す物となるので四分音の表記よりも却って判り易いかもしれません。

 15小節目では12EDOに戻ったかと思いきやシンセパッドは [b] よりも1単位八分音高い音を使っているので決して「E♭9」というコードではないのです。あくまでも「E♭9」に酷似する近傍の和音という事になり、「E♭9」という長属九の第5音 [b] が僅かに25セント高いオルタレーションという風に捉える事が出来る和音となります。

 ドミナント・コード上でこうしたオルタレーションを採られているのは何ら問題の無い事であります。音楽社会の実際では、我々が単に「調和した音」だと思い込んでいる音でも、実際には細かなイントネーション(微小音程)を含んでいる音など真砂の数ほど存在する物です。

 例えば、嘗て一世を風靡したトレヴァー・ホーンが一躍有名にしたフェアライトCMIのオーケストラ・ヒットの音というのも、1音で済ませられるスタッブという風に誰もが理解している事でありましょうが、ストラヴィンスキーの火の鳥からサンプリングされたと謂われるあの音を探ると、ヴァイオリンは長三度下からポルタメントし、更にはミニマル・ディエシス(≒27.66セント)ほど上ずっている音なのです。つまり、「C」音というオケヒットを標榜してヒンヒン鳴らしても実際には、アンサンブルに含まれるヴァイオリンが 長三度下方の [as] からポルタメントして [c] よりも27.66セント高い方に突き出る様にして奏でられているというのが実際なのであります。我々はこうして、コンマや1単位八分音よりも高い音を微分音としては捉えていない事も屡々なのです。



 斯様にして微小音程を、平時に能くある様なイントネーションの重し付けとして甘受する時と、本曲の様に耳を研ぎ澄ませて聽かねばならないという異なる捉え方があるという事をあらためて認識していただきたい所でもあります。


 扨て、本曲の瞠目すべき点は17小節目以降のBパターンに顕著に現われる微分音でありましょう。譜例上段に示した「Generator」と称したパートは、発電機のモーターの様なうなりを上げるかの様に奏鳴されております。譜例にて sesquitone portamento と示している様にこれは1小節毎に150セントずつリニアに上行しており、18全音=1オクターヴ半に亘ってポルタメントが続くという物です。1オクターヴ半、すなわち1オクターヴ+三全音という事でもありまして、sesquioctave とも併記しているのはそういう意味であります。完全にリニアなポルタメントでなければ破線スラーで書いても良かったのではないかと思います。

 余談ではありますが、高橋幸宏に提供されるソロ・アルバム『ニウロマンティック』に収録の「Curtains」は、当該コーラス部(=サビという意味)をモチーフとして書かれた物ではなかろうかと推察するのでありまして、拍頭を背いた伴奏が非常に本曲と酷似しているように思えます。




 そうして1800セントの行き着く先は29小節目の拍頭なのではなく28小節目4拍目の深遠となる訳ですので、私はFinaleで最も歴時の短い4096分音符を用いたのです。茲まで細かい歴時の音符を用いる事もないだろうと思われるかもしれませんが、なにせ機械の技術と人間の叡智の詰まった技であるのならば、現今社会で広く使われるDAWアプリケーションのひとつであるLogic Proの1ティックの近傍にあれば充分に意図が伝わるであろうという思いで4096分音符を深遠に用いたのであります。尚、余談ではありますが4096分音符は四分音符=1/1024となるので、1/960よりも細かい状況であると謂えます。

 このモーターの様な効果音は、よくぞ四分音体系にして作った物だとあらためて感服する事頻りです。シンセサイザー黎明期の時代から多くの環境音などを採譜して来たであろう、そうした経験と確かな知識がこうした音を作り上げる事が出来るのでしょう。それにしても素晴らしい効果音だと思います。このモーター音を模した音は [b・cet・esos(※これのみG.A.ベーレンス゠ゼネガルデンの呼称)・g] から始まりますが、振動比としては [b] を64とした時、[64:70:83:102] という風になる訳です。一見すると割り切れない数として映る振動数も、BPスケール(=Bohren-Pierce scale)で見られる様な完全十二度を [3:5:7] の振動比を用いて分割する様にして [3・5・7] の素数を用いる事で、

64=(8^2)
70=7*5*2
83=(7*(7+5))-1
102=(7*5*3)-3

という因果関係を持っている事もあらためて判ります。「64」という振動数が純正なる振動数だとした場合、他の脈絡が希薄かのような振動数も実はそれほど遠くない因果関係という風になる訳です。BPスケールは完全十二度=トリターヴとして呼びますが、ラミ・シャヒン氏は [1:3] の振動比をオーバートーナル5thと呼んでおりますので参考まで。

 念の為に付言しておくと、Bパターンの短二度下行進行が続く二分音符に依る主旋律は、イントロで最高音として用いられた全音符4小節の逆行と反行の音形でもあるので、その辺りも一応念頭に置いていただきたいと思います。

 尚、私は今回の譜例動画のBパターンに於て、シンセ8のパートとして最下段で書かれている様に、八分音組織である音脈を用いております。最初の音はDセミフラットより25セント高い事を示しておりますが、[des] よりも3単位八分音高い事になります。これはアナログシンセの揺れ具合を大きく採っただけの事で、原曲で明示的にこのような「デチューン」が現われている訳ではない、私個人の感覚の装飾でしかないので、このパートだけは無視していただいても構いません。それでもデモがおかしく聴こえるとは私個人は思ってはおりません。

 ※後年、坂本龍一は日本生命の販促用非売品12インチEPに収録される「夜のガスパール」で四分音・六分音は固より八分音も使用しております

 29小節目は、ピンクノイズが短七度の音程幅でフィルターが開閉されるのをベタ塗りのクラスターを示す様にして書かれております。フィルターの開閉は付点四分音符の歴時で以て奏さされる様にして四分音符を充てているという訳です。ライナー・ヴェヒンガーに依るリゲティの「アルティキュラツィオーン」の超主要総譜の様な図形楽譜を書いてみたいとは思いましたが、各種ノイズ(ホワイト、ピンク、ブラウンetc.)のフィルター開閉を五線譜上で巧く表わせる方法となると浅学な私は他に方策を知らない為このような記譜となってしまいました。

 
 この様に、アルバム『B-2 UNIT』B面先頭の曲として飾っていた本曲に対して微分音という12EDO体系を遥かに超越した音社会がどれほど周到に忍ばされていたか!? という側面を知る事に助力出来ればと思い本記事を書いた訳ですが、本曲は、同アルバム2曲目「riot in Lagos」の耳馴らしの為でもあったのかもしれません。いずれ「riot in Lagos」の微分音の方も詳密に語る予定ですのでお待ち下さい。