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『シュトックハウゼンのすべて』を読んで [書評]

 2019年2月末、アルテスパブリッシングから松平敬著『シュトックハウゼンのすべて』が刊行されたのは記憶に新しい所であり、待ちに待った音楽書の発売に胸を躍らせ、シュトックハウゼンの全作品が網羅されるそれを拝読、否、拝戴させていただいたのでありますが、それにしても素晴らしい本が刊行された物だなと感服する事頻りであります。作品毎に断章を取って読む事が出来る様に纏められているので貴重な音楽資料が新たにひとつ加わったという印象であります。読んでいて茲迄知的好奇心を揺さぶってくれる緻密な内容に加え、詳らかな脚注、図版・譜例などの圧倒的な情報量の前に、能くもまあこの価格で発売する事が出来たものだと驚かされるばかりで、著者をはじめとする出版関係者の並々ならぬ努力と労劬が垣間見える物であります。どんな言葉で言い表わそうとも卑近な言葉にしてしまうのでないかという恐懼の念に堪えぬ、まさに筆舌に尽くし難いとはこういう書籍の事を道うのだろうとあらためて痛感させて呉れる物です。

 外観はソフトカバーの装丁で、少し薄めの栞が付いております。カラーページもあるのは驚きでした。線数も細やかで図版・譜例など一切のストレスも無く確認する事ができる物です。マット感のあるソフトカバー装丁であるため手にも馴染みやすく、黒とゴールドを基調とするカバーの場合の多くは触れた途端に指紋が附着してしまう様な印刷物が多い中で本書はそうした所にもかなり配慮されているのか、指紋も一切付く事はない装丁である所にはあらためて好感が湧くものです。

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 シュトックハウゼン関連書となると私の場合はこれまで次の様な著作物に胸を躍らせていた物です。

エルハルト・カルコシュカ著 入野義朗訳『現代音楽の記譜』
ヴァルター・ヴァルター著 佐野光司訳『20世紀の作曲』
清水穣訳『シュトックハウゼン音楽論集』
プリーベルク著 入野義朗訳『電気技術時代の音楽』
松平頼暁著『現代音楽のパサージュ 20.5世紀の音楽 [増補版]』
ハワード・リサッティ著『New Music Vocabulary』

 前掲図書、音楽人ならば誰もが認める名著であります。これらを手にしていれば『シュトックハウゼンのすべて』を買わずとも充分な知識は得られるのではなかろうか!? と思われる方も居られるかもしれませんが実際は全くの逆です。これらの音楽書を以てしてもシュトックハウゼン関連の情報はこれほど迄に少なかったのかとあらためて驚かされる事に気付く筈です。なにより情報量は圧倒的であるので得られる物は推して知るべしです。また、これほどまでに豊富な情報量を360頁ほどに纏め上げたのは相当なる労劬が感じ取れる物です。読み手は作品別・年代別にアクセスしやすく、況してやこの圧倒的情報量ですから第一の底本にも成り得る資料となるでしょう。


 音楽家とは各人それぞれが独自の音楽的書法や記譜法を持つ物ですが、シュトックハウゼンの場合は際立っているのは言う迄もありません。シュトックハウゼン自身が有する死生観や、科学という文明のフィルターを通して音楽を俯瞰する事で視覚的にも聴覚的にも先鋭化される、誰もが体現した事の無い様な状況をシュトックハウゼンに見るというのは誰もが首肯し得る特徴的な側面であろうかと思います。

 特に先端科学を利用する場合となると大半の人々はその最前線を知らないのですから、そうした部分を知らされる時の驚きと、文明が持つ神秘的で形而上学的であるそれには圧倒的な昂奮が心に宿る物でして、そうした形容し難い事物のそれは受け手が勝手に増幅しているイメージとは全く異なる、作者の意図がそのまま直截に作用している事をあらためて痛感させて呉れるのがシュトックハウゼンの魅力であろうかと思います。

 人間の聴覚フィルタが持つ臨界帯域や下限帯域、加えて結合差音。こうして100Hzと80Hzの周波数の差分の20Hzは下限可聴帯域に作用し、これらの周波数の構造が『習作Ⅱ』のそれとして形成されている訳でもあります。また、音程比「1:5」を任意の周波数の繰り返し点でもあり(BPスケールでの音程比「1:3」をトリターヴと呼ぶのであれば差詰め「1:5」の音程比はクインターヴとも呼べる事でしょう)、これを25等分する音律をあの様な視覚的な楽譜で用いた事を思えば、シュトックハウゼンの音楽は今後数世紀を経ても新しさを失う事はありませんし、この作品をこうして取り上げるだけでも読み手の知的好奇心をくすぐって呉れるでありましょうから、シュトックハウゼンの全作品が網羅されている本書がどういう物であるのかという事は言わずもがなでありましょう。


 ケルン派が見せた科学と音楽が核融合反応したかの様なそれを私は当時、前掲書『電気技術時代の音楽』を読んで理解していた物でした。プリーベルク著とは雖も、入野義朗の圧倒的な編註のそれにて漸く本文の謂わんとする所が判る物であり、特許番号まで記されているそれには瞠目させられた想い出がある物です。編註の凄さとはこういう事なのだと味わった一冊であった訳ですが、松平敬本人の脚注も随所に亘って見事な物であり、本文と併せて力説したい部分をあらためて感じ取る事が出来る物で、著者の息づかいすら聴こえて来る様な脚注に読み応えは十二分に備わっております。

 数ヶ月前にはアルテスパブリッシングから刊行されマーク・ブレンド著 ヲノサトル訳『未来の〈サウンド〉が聞こえる』も決して無関係ではなく、プリーベルクの『電気技術時代の音楽』にも通ずる所がある関連書とすべき物で、同社がどういう志向を具備して松平敬氏の本著へと刊行を結び付けていたのかという流れもあらためて感ずる事が出来、そうした思慮深さに読み手の私はあらためて深甚なる感謝の念に堪えないほどに理解を得られる事の感謝を感じ取っております。

 前掲書では松平頼暁の名も挙げたので、ブログをお読みになられている一部の方は、松平敬氏を前に「もしや!?」と思われる方も居られるとは思うのですが、松平敬氏は松平頼則、松平頼暁の親類ではないようです(これも驚きですが)。血縁関係などの情報に関しては私は頓着してはおりませんので、読み手が勝手にイメージを増幅させる必要も無い程に、音楽への知的好奇心を理解へと実を結んで呉れる圧倒的な「智」の前に「血」は要らぬでありましょう。いやはや『シュトックハウゼンのすべて』大変面白かったです。