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『関ジャム 完全燃SHOW』について [楽理]

 テレ朝系列で毎週日曜23時台に放送されている『関ジャム 完全燃SHOW』という番組は多くの放送回にて音楽の楽理的な側面を掘り下げているのが特徴的な所であり、そうした側面を音楽的素養の浅い視聴者が目にしても理解される様に作り上げる制作サイドの並々ならぬ努力には相当な労劬を伴うであろうと思い乍ら視聴している私であります。

 本番組の好ましい所は、ポピュラー音楽向けとなる視点を基準にして判り易く音楽と向き合おうとしている所にあり、登場するゲスト出演者はポピュラー音楽のみならずジャズ、西洋音楽界隈など幅広く呼んでいる点も忘れてはならない点であるでしょう。出演者も音楽面に細心の注意を払うべく状況を能く熟知している為か、視聴者目線としての敷居をできる限り低くしつつ「これだけは語っておかねばならない」という側面を判り易く懇切丁寧に解説して繰り広げている実に微笑ましいほどであります。

 こうした番組製作を行なえるからには番組制作への愛情は固より音楽への愛情があるからこそであろうと推察は容易なのでありますが、音楽を考察する時の最終的な基準が「ポピュラー音楽目線」でもある為に西洋音楽界隈から見立てる厳格な音楽的基準が存在する一方で、ポピュラー音楽界隈でお座なりにされ易かろう謂わば正統教育めいた専門用語を用いる事が小恥ずかしいかの様にして市民権を得られてはいない程度の共通理解の部分を語らざるを得ない状況など、どうしてもジャンル各様の性格が排除できずに出演者の我流のコメント(←多くの出演者はこれを極力排除する様な配慮は随所に見られる)や謬見が強行されているシーンが笑いのついでに偶に生じてしまう事もあり、観ている側は矗々(ついつい)ハラハラしてしまう事も屡々であります。


 なぜ私がハラハラするのか!? というと、私自身音楽には愛情を注いでいる一人ですので音楽愛を共有しようとして感情移入が知らず識らずの内に増幅している事に気付くのでありますが、その「気付かされる」場面というのは、概して番組内の出演者の発する言葉に臆断や謬見が伴っている時なのであります。磊落な姿勢にてそれを吃(くすり)と笑って遣り過ごすのも有りなのかもしれませんが、概してその手の見過ごせない言葉というのはポピュラー音楽界隈の人ばかりであるのも残念な所でありまして、能々私はリアルタイム視聴で容喙ツイートをしていたりもする物です。


 ついつい臆断や謬見を語ってしまうという人の特徴として例に挙げれば、音楽的に然程重要ではない冗談で済ませられる雰囲気に包まれている状況に於てついつい我流でしかない臆断を辷り込ませて言い切ってしまう様な寺川呼人タイプの人も居れば、自身の謬見をゴリ押しする様な蔦谷好位置タイプの人も居たりします。

 彼等とて言う事全てが謬見なのではなく、多くは音楽の魅力となる部分を面白おかしく丁寧に自分達の声で伝えようとしており決して悪気はないでありましょう。その悪気の無さゆえに音楽を眼前にした時の彼等の実直なスタンスを目にした時などは、彼等は決して悪人なのではなく音楽に対してひたむきな姿勢である所に彼等の為人(ひととなり)が能く伝わって来るので、人に依っては「大目に見てやればイイじゃないか」と言う人も少なくはないとは思います。

 とはいえ、何処から如何見ても間違いがあったりする様な時には私とてそれを与太話で済ませられなくはなるのです。何故なら音楽を愛する以上、音楽の「真実」となる側面に対してはどうしても厳しく向き合わざるを得ないからであります。音楽愛という感情移入をしていればしている程、その過ちに気付いた時に屈伏する訳にはいかないのであります。


 寺川呼人タイプとしたのは、彼の場合は原調を無視して平易な調へ移調させてコードを語るタイプであるからです。お調子者めいたキャラクターが禍してか、笑い話に花が咲いてしまうと口を辷らせて謬見をポロッと言う所があります。悪気は無いのは判るのですけれどもね。

 調性に厳然たる姿勢で臨んで原曲を分析するのであるならば、原調を基準に語るべきであろうと私は思うのですが、番組のスタンスからすれば「こういう基準で語る人も居りますよ」という事を見せ付けられているのだと感じ乍ら観ているのであります。移調されると私が全く判らなくなるという事では決してありません。移調されても判るのですが、原調を維持しない時というのは原調をより悪くしている様な解説にしか耳に届かないというのが実際です。


 2019年2月24日放送での蔦谷好位置に依るキリンジの曲「エイリアンズ」のサビ部分のコード解説は実にお粗末な物でした。テレビで茲まで謬見を流してしまったのは音楽教育上好ましくないのではなかろうか!? と心配に陥った程でした。唯、製作側としても出演者の意を酌んだ事はなんとなく理解に及ぶのでありますが、今後あらためて関ジャムに蔦谷好位置が出演するのであれば、彼は今回の誤りを素直に認めて、それを笑い飛ばせる位に真実を直視する位の清々しさを以て対処をして欲しいと個人的には思います。彼の誤りとする部分は次の通りです。

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①……変記号6つに依る変種調号の変ホ短調と書かれるべき調号を変記号7つの変種調号である変ハ長調で分析
②……サビ冒頭のコードは「C♭M7」とすべき「BM7」として記したもの
③……サビ5小節目のコード「Fm7(11)」を「Fm7(♭9)」と語ったもの


 彼が何故誤ってしまったのか!? という点も私は概ね察しが付いております。そうした点も含めて「エイリアンズ」のサビ部分を語っていこうかと思います。


 扨て、「エイリアンズ」のサビ部分のコード進行は先日Twitterでもツイートしていたのですが、あらためて次に記しておこうかと思います。





【サビ前半8小節 Key=E♭m】

①……C♭△7──(♭Ⅵ△7)

②……B♭m7──(Ⅴm7) ※ムシカフィクタを採らぬ導音無しドミナントマイナー=偽終止的進行を標榜する。

③……〳(先行和音に同じ) ※②とコードは同様であるものの和声を稼ぐならばB♭フリジアンではなくB♭エオリアンに移旋も可能。

④ ……E♭m7──(Ⅰm7) ※サビ後半の当該箇所では上拍弱勢にて長九度音 [f] の附与が経過的に現われる。

⑤……Fm7(11)──(Ⅱm7) ※本曲の最も特徴的なコードでⅡ度調のFエオリアンへ移旋。サビ後半当該箇所では長九度音 [g] がハーモニーに加わる。

⑥……B♭7aug──(Ⅴ7aug)

⑦……E♭m7──(Ⅰm7)トニック・マイナーへと解決している物の同時に平行長調の「Ⅵm7」として転ずる。それは後続和音への副次ドミナント「Ⅰ7」へのさりげない示唆。

⑧……G♭7 ※(平行短調のiii7=副次ドミナント。平行長調でのⅠ7=副次ドミナント=島岡和声流に言えばⅣのⅤ7)

【サビ後半8小節】

⑨……C♭△7──(♭Ⅵ△7)

⑩……B♭m7──(Ⅴm7)

⑪……〳(先行和音に同じ)

⑫……E♭m7──(Ⅰm7)

⑬……Fm9(11)──(Ⅱm7)※オルガン風ポルタメントトリガーシンセ音が本コードに対してクロマティックな複後打音を伴って [g] に結ばれる際にハーモニーは「Fm9(11)」=「Fm11」を生ずる。

⑭……B♭7aug──(Ⅴ7aug)

⑮……E♭m7──(Ⅰm7)

⑯……〳(先行和音に同じ)


 扨て、サビ前半のコード進行はディグリー表記からお判りになる様に、「♭Ⅵ→Ⅴ」という進行であり、その「Ⅴ」の時には導音無しのドミナント・マイナーとして「v→i」への解決を標榜しておらぬ茫洋とする偽終止的進行の範疇に括られる旋法的な和声ですので、カデンツという終止感を明示化させる世界観とは対極を為す状況であり、そうして調性のさりげなさが垣間見える世界観となっている訳です。

 加えて、短調に於いてⅤ度のコードがムシカフィクタで導音を採らない状況というのはその時点で短調という性格は薄まり、実際としては平行長調或いは他の教会旋法のモード感が強く演出される事にもなる訳です。

 短調が短調としての強い性格を棄却する様な状況であるならば、短調の「Ⅴm」として為してしまう状況は、平行長調の「Ⅲm」と措定しても差支えない状況になっているのです。

 短調の感じが希釈化されているのはBメロからサビに結ばれる部分でもなんとなく平行長調の感じが両義的に見える様に演出されております。とはいえいつの間にか平行長調へ転じた世界観と形容するという解釈に到るよりも重要な理解としては、平行調同士の行き交いについては、どれほど厳格に分析しようとも平行短調と平行長調のどちらかであるという一義的に結び付ける事は不可能であり、そういう意味では多義的であるのです。

 そうした状況であるため、どれほど分析を進めても「恣意的」に平行短調 or 平行長調として抜粋して解釈する事は幾らでも可能であるという状況が常に平行調では起きているという事を念頭に置いてもらいたい訳です。

 そういう解釈に基づけば、サビの①と②は既に平行長調のKey=G♭であるのか!? とするのも早計です。なぜなら、平行短調=E♭mとして「Ⅴ」を叛いて「Ⅴm」となって偽終止進行を後続に採るという解釈にする方が曖昧模糊とする茫洋とする感じがより一層強まるので、平行長調に転じたというよりも平行長調を匂わせつつ偽終止的に平行短調を保持しているという解釈の方がベターであるかと思う訳です。

 そういう側面を勘案すると、サビ冒頭の「♭Ⅵ△7」というのはⅤ度由来で書かれるべきではありません。つまるところそれは「C♭△7 ≠ B△7」という事を意味するのです。

 
 処がシンコーミュージックなどから市販されているスコアのコード表記というのは「B△7」としてしまっているのだから質が悪いと言わざるを得ません。蔦谷好位置からすれば、方々に配慮して援用したであろうそうしたコード表記を倣って呈示したにも拘らず、それで蔦谷好位置自身が恥をかいてしまったとすれば彼自身とんだいい迷惑を被ったと責任を転嫁してしまえるでしょうし、悲しい哉、音楽的な誤謬を瑣末事として捉えてしまう両者の「事勿れ主義」というのは何れどこかの誰かに被害と迷惑を被ってしまうという事を露呈しているという、ポピュラー音楽には能くある負の側面をあらためて感じ取った私であります。

 なぜそれが莫迦げた表記なのかというと、この曲をイ短調へ移旋してみると直ぐに判ります。イ短調での「♭Ⅵ△7→Ⅴm」という進行は「F△7→Em7」という表記になる筈ですが、それをⅤ度由来の変化音として「E♯△7→Em7」という風に「♯Ⅴ」から「Ⅴ」への増一度進行を採ろうとするそれは、どれほどモーダルな状況であろうとも旋律は特定の主音があり、その上で和声が随伴すれば旋律はその和音の基本部分である極点の属音を標榜する物であり、属音に足を着けた暁にはそこから見える主音を目指すというのが音楽の線運びの実際であるにも拘らず、それを「♯Ⅴ」とするとは莫迦げているにも程があるという物です。


 本曲のサビ冒頭の「♭Ⅵ△7」で重要なのは、変ホ短調の属音を七度音として短調下中音から属音を見つめる事が重要な訳です。属音を直視せずに、最も横顔に近いであろう角度から属音を見つめているが故のハーモニーなのであります。それをあろうことか、属音である「Ⅴ」を「♭Ⅵ」から見つめる状況としてではなく「♯Ⅴ」という所から見つめろと言わんばかりの指示を出しているに等しい状況な訳ですから、これほど莫迦げた表記はなかろうかと思います。


 平時の音楽的状況に於て変種記号6つの変種調号の遭遇機会が稀であり、且つ「C♭」という表記に馴染みが薄いとしても、コード表記として簡便的な峻別の側が事実を捩じ曲げてしまう様であっては本末顛倒であります。仮にコード表記が「峻別」の為に最大限の効果を挙げなければならないとするならば、頻出する方の変化音ばかりが功を奏して、遭遇機会の少ない表記は常に割を食う事になりかねません。

 またコード表記というのは簡便的に済まされる知覚面での峻別が優先される為だけにあるのではなく優先されるべきは、そのヴォイシング状況がどうあれメロディーに随伴するハーモニーを端的に表わす程度の「共通認識」を優先させて然るべき表記である筈で、その「共通理解」に基づいて生ずる「簡便的な表記」となる状況は単に目に留まっているだけに過ぎないのであり、優先されるべきは簡便的に済まされる峻別よりも「共通理解」である訳ですから、コード表記そのものでコード判別を急ぐ為の峻別の側面を優先させようとするのは実に愚かな解釈であると私は思うのです。


 そういう意味では蔦谷好位置自身も被害者のひとりとも言えるのです。これは、ポピュラー音楽体系がお座なりにしてしまっている事の被害である訳でして、ジャズ/ポピュラー音楽の世俗音楽界隈は概してこうした被害をいつかは巡り巡って己の被害へとなってしまうという事でもあると思う訳です。彼自身、音楽面に於て何も悪気は抱えておらず、音楽への愛という或る曲への思いを力説しているにも拘らず、その力説する毎に謬見が生じてしまうのは実に滑稽でしかなく、観ているこちらが赤面してしまうかの様な気分にさせられてしまう物であります。

 市販の楽譜やネットを回ってみてもそうした誤った表記が瀰漫してしまっている事を是正する事から始めるよりも、その流儀に倣った方が理解はスムーズであろうとしたが故の要らぬ配慮だったのかもしれません。


 また、蔦谷好位置は変種記号7つの変種調号で譜例を示していた事を思うと、短調下中音上の和音=♭Ⅵ度上の長和音を変ハ長調のトニック・メジャーとして耳にしてしまっているのではないか!? とも私は思った訳ですね。何故かと言うと本曲サビの前半8小節の8小節目は平行長調のⅠ度の和音が副次ドミナント化して「Ⅰ7」へと変化するのでありますが(TUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」のサビの下属和音に進む前の副次ドミナントと同様)、これを「Ⅰ7」としてではなく「Ⅴ7」として聴いてしまっている可能性が高いと私は感じた訳です。



 彼がこの様に感じてしまうのは決して有り得ない事ではなかろうとも思います。何故ならサビ冒頭2小節は平行短調のドミナントを叛いている為「Ⅴ」が確定的ではありません。その確定的ではない所で平行短調の「Ⅴ」であった筈の姿が平行長調の「Ⅲm」に聴こえる可能性も高い訳です。

 加えてその平行短調での「Ⅴm」の後にドミナント・マイナーとしてもう1小節和音は同じく続き、その次にはⅡ度調の主和音=Fm7(11)が介在するのですから機能和声的な耳で聴いてしまえば、その後の副次ドミナントが副次ではない主のドミナント7thコードとして耳にしてしまう可能性は充分に考えられる訳です。そうして後続に現われる副次ドミナントで生ずる下方五度進行こそが「正位」たるドミナント・モーションとして耳に捉えられる可能性は決して有り得なくはないという訳です。しかも蔦谷好位置はサビ冒頭からもう一度サビの8小節を繰り返す時のそれを、平行長調側の世界観とする明澄度の高い世界観の方を優先させて解釈しているが故に「変種調号7つ」で採ってしまったのではなかろうかと私は推察するのであります。

 彼の決定的な誤りは「Fm7(♭9)」と形容してしまったコードであり本曲の最も特徴的なⅡ度調の主和音を借用する箇所です。本来なら短調のⅡ度上の和音はハーフ・ディミニッシュが生ずる筈ですが、本曲ではハーフ・ディミニッシュではなく「Fm7(11)」を奏している訳です。しかも当該小節の和音外音では「des」という逸音が生じている訳ですから、この旋律の動きから判る様に「Fm7(11)」でFエオリアンを採っている事と同様の「♭6th音」が逸音として現われている訳です。

 ジャズ系統の心得がある人だとマイナー・コード上ではついついドリアンを優先してしまう事が多いものですが、メロディーが♭6thを呈示する訳ですから、茲でドリアンを想定してしまう事は避けなくてはならない要因となります。加えてこの逸音の地位は、後続への和音進行方向と同一の方向へ膨らんで(=異度へ進行)逸行するという物で、これは西洋音楽的にはカンビアータと呼ばれる和音外音のひとつです。


 サビ後半8小節の当該箇所では、オルガン風の音でポルタメントを聴かせたシンセがクロマティックで複後打音を採って [g] 音の白玉へ結ばれる状況で生ずるハーモニーは「Fm9(11)」である為、メロディーが「Fm9(11)」上で [des] を唄うと、[g・des] で生ずるトライトーンが、ドミナント7th和音ではないのに含まれる状況が非常に短調感を強めて来るので、特にジャズ・ピアノではトニック・マイナー上の装飾としてドリアンを採らずに長九度・短六度で高速アルペジオを奏するプレイで能く聴かれる音脈でもあります。♮9thをわざと♭6thから充てて強調させるというのがポイントであり、トニック・コード上から見えるドミナント感をも演出するのに能く使われる技法です。ジャズ・ピアニストの田中祐士がこのプレイを繰り広げていた時はとても感銘を受けた物でした。

 然し乍ら蔦谷好位置は、主調=変ホ短調の余薫を脳裡に強く残しているのか [ges] の音に執着している状況であろう事が推察できるのであります。故にサビ前半部では「Fm7(11)」で原曲は九度音を空虚にして不完全和音として響かせている為、この空虚な「幻の」九度に主調の余薫を作用させてしまい「Fm7(♭9)」というコードを強弁するに至ったのでありましょう。しかも彼の場合は、原曲では実際に使われていないコードであるのに、誤って判断してしまって導出したコードがコード表記体系としては非常にレア・ケースとなる「Fm7(♭9)」という奇異なコードの方を紹介したいとばかりに口角泡を飛ばす様にして語るという側面が強く出てしまい、原曲の実際はどうあれ特殊なコードの方の説明をしたまま、原曲には無い音を附与してしまった所は猛省を促したい部分です。

 況してやサビ後半の当該箇所を聴けば「Fm9(11)」としてシンセの音が聴こえているのであり想定している原調の余薫 [ges] と確実に半音で [g] とぶつかる訳ですから、「Fm7(♭9)」という解釈が間違いである事に気付く筈なのですが、先入観と奇異なコードのそれを紹介したいという重いばかりが増幅してしまって、脳内で響いている音も完全に捩じ曲げて語ってしまったのでありましょう。

 彼が今後関ジャムに出演する様な時は、先の「Fm7(♭9)」という解釈は誤りであったという事を語った上で音楽愛を語って欲しいと思わんばかりです。彼とて悪意を以て語っているのではなく、人としての信頼があるからこそあのようにして語る場を得られているのでしょうから、彼の人の善さの前に周囲が容喙する事も心苦しかったという側面があるのかもしれません。彼の陽気な部分や音楽を心底愛して已まないという事は重々伝わるので、誤りを認めた上で今後も音楽分析に磨きをかけて欲しいと私は祈っております。

 致命的なミスを犯したとしても、それを取り戻せる位の人間的な愛はあるでしょう。しかし音楽が好きであれば幾らでも真実を捩じ曲げて好いという訳ではないので、音楽に対して真摯に取り組んでいる方ならミスを認める事も容易であろうかと思います。滅多に遭遇する事のない奇異なコードを紹介したいがあまりに脳内の音が変質してしまったのでありましょう。権威を振りかざす事でその地位こそが為事になっている様な人ならミスすら認めないかもしれませんが、潔い清々しい彼の明るいキャラクターを再び観てみたい物です。


 扨て、マイナー7thコードに短九度が附与されるコードというのは、非常に狭い世界ではありますが存在します。とはいえ「エイリアンズ」では使われておりませんので、その辺りは誤解なきようご理解願いたいと思います。加えて、最近のコード表記体系としてとて整備されているリック・ビアト氏の『THE BEATO BOOK 2.0』に於ても中音の九度に相当するコード表記は載せられておりませんので、これを便宜的に是とする体系は現状ではマーク・レヴィンと西洋音楽の一部の取扱いにならざるを得ず、コード・サフィックス表記となれば中音の九度としての体系はまだまだ未整備と理解した方が良さそうです。

 前述の「中音の九度」と呼ばれるコードをハ長調を基準にみた時の和音構成音は[ホ・ト・ロ・ニ・ヘ] = [e・g・h・d・f] という音になります。ジャズ界隈でも広く承認されている訳ではありませんが、前述のマーク・レヴィンがこのコードの事を「フリジアン・コード」という語句を充てております。とはいえ最低音を根音に採るコード・サフィックを充てるのではなく「Ⅴ7/Ⅲ」というコードで表わすポジションを採っております。

 マーク・レヴィン流の「フリジアン・コード」は私のブログでも何度か例示した事がありますが、それらの実例はチック・コリアがチック・コリア・エレクトリック・バンドの2ndアルバム『Light Years』収録の「Flamingo」にて同様のコードを用いている物を取り上げているので、ブログ内検索にて「チック・コリア flamingo」と遣れば当該ブログ記事を数件検索して来れるので、ご興味のある方はお読みください。

 中音の九度を採る短和音という和音の存在が実質的に未整備なのは、その和音構成音が内在させてしまう [第5音─第9音=減五度] と [根音─第9音=短二度] のそれらの不協和音程がドミナント的機能を誘発するからでありましょう。即ちこれは属和音の断片を見付けてしまう事になりかねぬ体系として括られる可能性を孕んでいるからである事は明白であります。

 加えて、中音の九度を第一転回形にして [g] を最低音にしてしまえば途端に「G7(13)」と同じ状況を生んでしまう為、「ホ音をバスにして見るト音を根音とする属七」を見る特殊な状況というのは、導音を生まない様にして短属九の第3音が半音下がっている状況とも見るべきでもあろう事を思えば、益々それが機能和声進行を回避する偽終止的進行を誘発する状況だと考えた方が差支えない事であろうと思います。


 関ジャムに於ける「エイリアンズ」については茲で措くとして、今度は私が「エイリアンズ」を拡大解釈したサビ部分について語っておこうかと思います。YouTubeの方ではサビ部分の簡潔な譜例動画をアップしておりますので、それを参考にしてもらい乍ら、本曲の特徴的な部分と私の解釈部分というのを織り交ぜ乍ら楽理的側面を語って行こうと思います。




エイリアンズ(原曲)



 譜例動画を耳にしてもらえれば直ぐにお判りになる事でありますが、原曲は殆どの箇所でオクターヴ・ユニゾンでメロディーが歌われているのに対して私のデモはセクショナル・ハーモニーで書いております。セクショナル・ハーモニーの利点というのは各音符が和音で埋められていようとも各声部が並進行を採る事により声部の独立性は希薄になる事で、主旋律に対して常にハーモニーを随伴させた重々しさを得る事になります。

 ターゲットとなるリード音が中心となって他の音を単に随伴させている状況となる為、逐次生ずる旋律線でのハーモニーが平行和音として逐一耳に届く訳ではなく、特定のコードを背景に重畳しい声部の連なりが列を成して動く時の和音構成音と経過音が漸次変化させている所が最たる特徴なのであります。メロディーの動きに随伴するハーモニーなので、背景に別の楽器が「コード」を奏していても、そのコードの和音外音となる音が経過的に線を重々しく随伴させている事が特徴的なのであり、それらの「音群」は特定の調性の音組織の中で、単に「調的な角度」を変えて曲を眺めている状況に近いとも言えます。

 この音楽的な「角度」の違いに依ってトニックを直視しているのか、サブドミナントを代理的に横から見つめているのか、ドミナントを直視しているのかという様々な角度に加え、セクショナル・ハーモニーの声部を更に増やす事で和音は更に重畳しくなる事で、ドミナントの向こうに見えるサブドミナントや、サブドミナントの向こうに見えるトニックやら、高次なハーモニーを纏わせ乍ら旋律を重々しく彩る事が可能となる訳です。線に随伴する重々しいセクショナル・ハーモニーは常に主とするコードのハーモニーを示唆しており、その主となるハーモニーをコードの支配下の間に横に揺さぶっているという風にも言えるでしょう。

 その際に生ずる、コードから見た和音外音が概して旋律が引き摺っている経過音である箇所にもハーモニーが充てられているというのがセクショナル・ハーモニーの大いなる特徴であると言えます。

 セクショナル・ハーモニーの例としては少なくなりますが、並進行として繰り広げるセクショナル・ハーモニーの過程にて突如反進行を織り交ぜると、その時点で反進行を採った声部がより際立ち、音の重さが軽くなって突如和声的な重みから解放される事で音階外の音へ進行したがる様な、思考の側が音階外の音を欲する様な状況も生まれたりします。


 今一度「エイリアンズ」のサビ冒頭の①のコード「C♭△7」の部分を確認してもらいますが、1〜3拍目は普通に「C♭△7」のセクショナル・ハーモニーを3度堆積として充てているのはお判りかと思いますが、トップノートが原曲のメロディーである為、それをリードにしている訳で、これが当該小節4拍目でリードが3度下行する際に、一番下を譜例の様に [as] を採らずに和音構成音にする方がセクショナル・ハーモニーはより安定します。つまり [b] 或いは乖離させて [ges] へと並進行させるのが安定的なセクショナル・ハーモニーを得るのですが、私はそうはしておりません。「C♭△7」を13th側からも投影させたかったからです。

 
 サビ2小節目の「B♭m7」に於ては別段変わった事はしておりませんが、4拍目は下3声部のみ二度下方へ斜行させているのが特徴と言えるでしょう。2〜4拍目にかけての同度進行の連続に揺さぶりをかけたが故の選択です。

 サビ3小節目でもコードそのものは「B♭m7」が続きますが、私は茲で移旋をさせております。原曲では茲で移旋を示唆する音は用いられていないものの私は茲で「B♭エオリアン」を想起したハーモニーを形成させている為、[c] =「C♮」を附与している事がお判りかと思います。ハーモニーとしては「B♭m9」となる訳ですが、そもそも本来は、キーがE♭m(=変ホ短調)である事を勘案すれば「B♭」はⅤ度という音度である為、E♭ドリアン・モードを想起しない限りは「短属九」という、「B♭7(♭9)」がダイアトニック・コードとなる筈なのです。

 然し乍ら御覧の様に、このⅤ度上の和音は導音化せずにドミナント・マイナーである為、九度音を付与しようとすると本来ならアヴォイドになる訳ですので自然と「B♭フリジアン」という風に変ホ短調の性格が弱まり、その平行長調である変ト長調の色彩が強く出て来る訳であるという事が特徴的となる訳ですが、このコードが2小節続くという事を逆手に採り後続となる3小節目の「B♭m7」に♮9th音を附与する事でさりげなく移旋を伴わせるというのが私の魂胆である訳です。

 そうする事で2小節目でのB♭フリジアンから3小節目のB♭エオリアンへの移旋を示唆するのは3小節目4拍目のメロディーが唄う [ges] である訳ですので、B♭エオリアンの属調として更なる移旋≒部分転調というべき借用和音が5小節目での「Fm7(11)」の登場の前準備として移ろわせているのであります。

 それらを介在するトニック・マイナー「E♭m7」としてサビ4小節目にて現われる訳ですが、茲を重々しく聴かせない様にする為に、さりげなく主和音を遣り過ごす意図でセクショナル・ハーモニーは乖離させて4度堆積型を採っている訳です。茲で若干、和声的な重みが軽くなった所で、後続の「Fm7(11)」の登場で乙張り感をより強調させようとしているのです。


 扨て、サビ5小節目のコード「Fm7(11)」ですが、私のアレンジしたセクショナル・ハーモニーで採ったそれは「Fm9(11)」=「Fm11」として解釈しております。先述の様に原曲ではサビ後半部分で「Fm9(11)」として九度音をシンセが奏鳴させるのでありますが、私は区別なく「Fm11」を採っております。

 そこで注意をしたいのが、先行和音である4小節目「E♭m7」とは同種の和音が長二度進行という状況である為、各コードが内含している長三度音程が長二度平行に動けば、自ずと「4半音+2半音」という風に音程が跳躍する事になる為「6半音」を得る事になり、結果的に三全音対斜を呼び込んでしまう状況を孕んでいる訳です。

 とはいえ和音進行としてはカデンツを明確に示唆しているのではない訳です。終止感を前面に出すのであるならば、ドミナント・マイナーではなくドミナント7thとして「B♭7」として変化した上でドミナント・モーションを経て「E♭m7」へ進行した筈なのですから、ドミナント7thとして導音化せずに「E♭m7」というコードに「おめおめ」進んでいるだけの状況に対して三全音対斜に目を瞑っても良いのかもしれません。それら2つの和音間で三全音を示唆したのであるならば、それが結果的に更なる後続へのドミナントとして調的な標柱となれば亦それも良いのかもしれません。

 これが「標柱」となるのは、先行する「E♭m7」が内含する [ges - b] での長三度音程と後続の「Fm7(11)」が内含する [as - c] での長三度のそれぞれの [ges・c] で三全音対斜となる訳で、これらの三全音が [des・f] に行きたがれば「標柱」は「変ニ長調」という住所を明記するかの様に三全音対斜が示唆する訳です。

 そうすると「変ニ長調」の平行短調側にある「B♭m」として予想される調的な香りを伴う訳ですが、「Fm7(11)」の後続は「B♭7aug」として副次ドミナントとして変化する訳ですから茲で更に和音進行に弾みがつけられている状況へと進む訳です。

 三全音対斜の示唆がそうした調的要素を喚起する(=属和音ではない副和音の前後で三全音の対斜を生じさせているという事は、バスが属音以外の音で三全音を前後の和音で行き交う状況)という事を意味します。

 極言すれば「レ」や「ド」の何れかをバスに採り乍らメロディーを「シドレミファソラシ」または「ファソラシドレミファ」を延々繰り返している状況に近しく、メロディーが執拗にその音形を繰り返せば後続にトニック感を欲するもバスだけが属音を取らないドミナント感を執拗に演出するようになりかねない状況となり、モーダルであり続けたいとするのであればメロディーの動きは静謐なる茫洋とした不確定的な状況を演出する方が得策となるので三全音対斜というのは前後の和音で結果的に調性の向く方角を示唆しやすいという事を意味するようになるのです。

 加えて前後の和音が同種和音あるいは普遍和音同士(=長・短和音の何れか)で平行進行を採る状況は、内在する音程にそれぞれ完全五度があれば自ずと連続五度を見る事になります。連続五度を防ぐにはヴォイシングそのものを五度音程を採らずに四度に転回するか、或いは七の和音や九の和音を用いているならば和音の第5音を省略した上で回避する策がありますが、対位法的に解釈した上で増一度を介在させる事で完全五度を避けるという方法も見付ける事ができます。

 私がサビ4小節目の4拍目で [d・ges・ces] という経過和音を加えているのは「E♭m9」に拡張させた和音と後続の「Fm11」として拡張させた2つの和音間に備わる連続五度を対位法的解釈で呼び込み挟んでいる訳です。この介在は [d] 音など横のつながりが希薄な所に置かれておりますが、飽くまでも対位法的アイデアを持ち込む事で「E♭m9」から想定されるアヴェイラブル・ノートとは全く異なる音脈を呼び込んで世界観を変えたいという私の狙いで介在されている経過和音なのであります。

 完全五度を避ける為に介在させる増一度の呼び込みは [des - d] [b - ces] なのであり、それらに対して [ges] は後続 [g] への人工導音なのであります。

 この人工導音が偶々「E♭m9」としてのアヴェイラブル・モードでの音脈として作用し乍ら、[d] というのは全くの埒外の音階外の音であるにも拘らず対位法的発想で整合性を保とうとしている音なのです。この [d] はエレピの伴奏に対する導音として機能させれば、綺麗な進行になる訳ですが、この [d] をセクショナル・ハーモニーが内声として使う [es] に結ばれる様にして喚起させているのであります。


 そうしてサビ5小節目の「Fm7(11)」としていますが、デモの実際は「Fm9(11)」です。9th音を奏しているのはローズでありますが、その特徴的な付加音= [g] をなかなかセクショナル・ハーモニーの方では聴かせず4拍目の弱勢にて経過和音的に生じさせる所で漸く [g] を附加して和声的な響きを蹂躙しているかの様でもあります。9th音をハナから聴かせない様にしているのは、同度進行が継続している所で9th音を附与して同度進行を続けてしまうと厚みの感覚に鈍磨してしまい効果が薄れてしまうのを避ける意図があっての事なのです。

 セクショナル・ハーモニーに使おうとする音を九の和音或いは十一の和音を想定して9thや11thを用いる得るからといっても、冒頭から同度進行に上音を随伴させずに、上音はバックの伴奏に委ねつつ特徴的なテンション・ノートは後ほど呈示するというのもセクショナル・ハーモニーでは能くある事なので、このような方策が映えるかと思います。七の和音や6thを付加させる程度でしたらこうした蹂躙は特に遣らなくとも好いとは思いますが。


 そうして移勢(=シンコペーション)で6小節目の「B♭7aug」に進みますが、こういう変化和音でセクショナル・ハーモニーを用いるのは真骨頂と言える状況でありましょう。

 その後、また移勢を採って7小節目の「E♭m7」に結句するのですが、サビ前半では茲を平行長調の「Ⅵ」の様に聴かせて明澄感を出しつつ、サビ後半ではトニック・マイナーたる「曖さ」を演出しているというのが原曲であります。私のデモはサビ前半の8小節しか作っておりませんので明澄感が演出されたままデモは終えてしまいますが、8小節目での「G♭7」は平行長調としての「Ⅰ7」=西洋音楽では「Ⅳ度のⅤ」と呼ばれる副次ドミナントに進行して、一旦また「C♭」へ進もうとする訳です。

 
 余談ではありますが「Ⅴ度のⅤ」という物をドッペルドミナント=ダブル・ドミナント=ドミナントのドミナント、と呼ばれている事からお判りになるように、本来のドミナントから上方に「ドミナント=5度音程」を採った所=「Ⅱ」が属和音化する=「Ⅱ7」それが「Ⅴ度のⅤ」と呼ばれる所以なのであります。同様に「Ⅳ度のⅤ」というのは、本来のドミナントから見た四度上方=「Ⅰ」が副次ドミナント化する、という意味になるのです。島岡和声特有の和音記号というのは、これらが顕著に表わされている事を示すのであります。無論、副次ドミナントはこれらだけではなく他にも多数あるので、この辺りの事は和声学の初歩的な事なので今回私は詳しくは語りませんが、ジャズ/ポピュラー音楽界隈の知識しかない人ですと意外にも遭遇しない知識かとも思うので、一応副次ドミナントがどういう物なのかという触りだけを語っておきました。

 あらためて本曲を振り返ると、過程ではドミナント・モーションが現われるも、曲全体を俯瞰すれば短調であり乍ら短調の世界観には執着しないモーダルな雰囲気を装いつつ平行長調ふうな雰囲気をも漂わせて「軽やかな短調」のイメージを構築しようとしているのが顕著であろうかと思います。特にトニックを直視しようとしない感じというのはお判りいただけるかと思います。曲の一番最後のギターの終止音も、あれは平行長調の主音ではなく平行短調の短調上中音として聴かせようとしている所に短調を冷淡に聴こえさせようとはせずに、温もりのある輻射を感じさせる狙いがあっての終止音であると思います。主音(短調での)を直視しようとはしない。茲に本曲の特徴が凝縮されている様に思います。

 特に本曲をひとたび耳にすると矗々イメージしてしまうのが、ジェイムス・テイラーの「You've Got A Friend」です。



 あの曲も短調を主眼に起きつつも平行長調側を敢えて演出して、悲しさを直視させない様な聴かせ方をしている曲であろうかと思います。また、そうしたイメージを更に膨らませて長・短の響きを垂直レベルで同列に混淆とさせている様に投影し得るのがジョー・ママの「Have You Ever Been To Pittsburgh」でありましょうか。



 これらのイメージを投影させて調性感を更に希釈化させようとすると私が思い浮かべるのが、ドリームスの「Just Be Ourselves」です。




 これらの曲調を参考にし乍ら、調性を直視しようとはしないそぶりを感じ取っていただければ幸いです。