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時効警察のテーマに見る短増和音と和声的対位法のアイデア [楽理]

 2019年の正月を終えて飛び込んで来たビッグニュースのひとつに挙げる事の出来るのがドラマ『時効警察』が復活との報せ。

 警察ドラマを謳うも、血生臭い流血シーンも無ければ人命が失われる事も無いシュールでコミカルな警察の描写。だからといって血も涙もないという人情の欠片もないという訳ではなく、事件を俯瞰する事で淡々と分析されるそれにやたらとユルユルとして描写に挟まれる小ネタの配合が実に素晴らしいドラマだった訳でありますね。

 まあ、こんな感想など私が述べる必要なども無いほどに他のメディアでも書かれている感想に類する物でありましょうが、何れにしても譱い報せに心躍らせ乍らテーマ曲を振り返ってみると、なかなか興味深い事実が忍ばされている訳で、そうした興味深い所を緩々と語って参りましょうか。

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 という訳で早速「時効警察のテーマ」をYouTubeにアップしたのでありますが、このテーマ曲の不思議な側面を語る前に今一度、本記事のタイトルを振り返ってみる事にしましょう。




※譜例動画でのリズムトラックの5連符の意図はあくまで表記上の物であり、ニュー・ジャック・スウィングや5:2パルス構造の7連符シャッフルなどの剡いグルーヴを施したとしても、速いテンポがその深いハネを聴感上丸め込むので敢えてそれを5連符として表現しております。

 はて? 抑も「短増和音」とは何ぞ!?


 以前にも何度か載せた事のある諸井三郎の変化三和音がありますが、つまり「短増三和音」という物は短三和音の第5音を半音高く採った和音という事になるのであり、英名ではminor augmented triad とも呼ばれたりする物です。

短増三和音=マイナー・オーギュメンテッド・コード [augmented fifth minor chord] はシェーンベルク著 'Theory of Harmony' にて紹介されております。また、そこから生ずる同義音程和音としての用法も掲載されております。シェーンベルクの著書の日本語訳としての国内刊行物『和声法』『新版 和声法』『対位法入門』(音楽之友社)『音楽の様式と思想』(三一書房)『作曲法入門』(カワイ楽譜)とは異なり、同著の前半の部分のみ山根銀二の訳で「読者の為の飜訳」社 から『和声学 第一巻』として刊行されたものの、残念乍ら当該部分の訳としては未完となっているので参考まで。

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 とは言う物の一部の体系での、例えばパーシケッティの著書『20世紀の和声法』では短増三和音は取扱いをされていない物でした。増・減を採る音程幅が十二等分平均律の最小単位が半音となる以上、そうした増・減の音程幅は100セントを1単位(最小単位)として増減する事になります。

 通常ならば12等分平均律に均される社会ですからこうした変化の増減幅は100セントに丸め込まれますが、特に微分音社会としては最も触れやすい四分音体系を視野に入れた時の真なる「短増和音」というのは、今回とりあげる短増和音とは亦別の趣きを備えている物で是亦可能性のある物だという事を頭の片隅にでも置いていていただければ好いかと思います。

 すると、[c] を根音とする短増三和音の構成音は [c・es・gis] となる訳でありますが、第5音の [gis] を異名同音の [as] と読み替えれば途端に「A♭△」(=As dur)たる [c・es・as] という「A♭△」の第1転回形と同様となってしまうのでありますから、和音表記というのはその音楽の体系(=調性)に備わる「一義的」な意味が暗々裡に備わっている事を示す為の方便としてそうした略号が整備された訳ですから致し方ありません。

 この「一義的」という語句には私なりの示唆を込めた隠喩でもあるのですが、コード表記の一つの例として「C(またはC△)」という物があったとした場合、これはCメジャー・トライアドという長三和音に外ならないのでありますが、だからといってハ長調のトニック(主和音)限定の表記でもなんでもありません。場合に依ってはヘ長調のⅤである可能性もありその他にも多くの可能性を持つ長三和音のひとつに過ぎないのです。

 況してやそのシンプルな長三和音という姿の実際は属和音に偶々七度音が附与されていないだけの長三和音の姿であるかもしれません。必ずしも主和音や属和音や下属和音でもないという状況を鑑みれば、他にもありとあらゆる副次ドミナントの七度音が省かれただけの長和音の可能性もある訳ですから「C」というコードだけで他に楽譜上にて音部記号も示唆する物も無い状況において「C」を一義的にハ長調のトニックとする訳には行かないのであります。

 所謂「機能和声」という調性音楽に於て副次ドミナントなどの変化和音の使用が持て囃されて来た理由は、全音階的(ダイアトニック)な主旋律に対してそれに随伴させる音階外の音(ノン・ダイアトニック)を用いる事に依って、全音階的な世界の予見とは裏腹な音脈を呈示される事で得られる音楽的情感の深みを吟味できるからであります。

 全音階を7色の色鉛筆に喩えるとすると、その7色を用いるだけでは決して得られない音楽的な「色彩」の妙味がある為、元の7色に加えて他の色を随伴させて用い、音楽的色彩はそうして発展して来たのであります。そうした状況を今一度振り返れば、「C」という単純な長三和音とて遠隔調の調域では突拍子も無いほどの脈絡にも変貌を遂げる和音であるとも言えるのです。

 つまり、遠隔調にて幹音を随伴させる事や幹音の音組織で収まる調域で遠隔調由来の音を呼び込むという事は何れも半音階的要素を高めようとする装飾技法に依る物なのであります。とはいえ使い古された和音体系は聴取者の耳も馴れ、遠隔的な脈絡となる音の呼び込みには麻痺している側面もあり、和声体系とは異なる脈絡の呼び込みは、対位法に大いなるヒントがあるという事を示唆するのが今回の狙いです。



 処が「短増三和音」というのは、増五度の第5音を異名同音(=異度由来)に置換さえすればコード表記そのものが多義的な表象を有してしまいかねない物となるのであります。

 但し、こうした多義性を嫌ったであろうパーシケッティの狙いも私は理解できる物です。何故なら、コードの根音は少なくともその根音の側に隷属する様に主権的な力を及ばせて考える事がコード表記として重要である訳ですから、[c・es・gis] という和音構成音の第5音に主軸があるかの様にして [gis] が [as] に異名同音変換されて「A♭△」と同義にされてしまってはコード表記の体としては本末顛倒とされても致し方ない事です。況してやコードの表記として《その長三和音はトニック限定の為の表記》とする様な機能を限定する様な表記を避けられているのが常であります。

 コード表記の歴史を振り返れば、和音表記の略記号としてナポリの和音やドッペル・ドミナントや副次ドミナントの類が表わされ、一部の体系では「島岡和声」の様にして進化した物もあります。この表記は音度や機能が同時に明示されている物です。とはいえ「体系」として纏めあげる為には多義性を排除せねばならぬ側面がある訳ですからパーシケッティのそれにもあらためて理解に及びます。

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 扨て、極めて特殊な例のひとつとして《複調性を示唆する和音》として解釈したとしたらどうなるか!? という状況下で短増三和音を勘案した場合となると「短増三和音」という音楽的方便は突如その正当性を忌憚無く主調し得る結果を招く物です。

 そうは言うもののコード表記体系の側からすれば、コードに多義性を持たせる時には余程の注意すべき大前提を把持する者以外には易々と使わせる訳には行かないと思います。[c] を根音とする短増三和音を

《なにゆえ「A♭△」という両義性を持つ和音として理解を伴わせねばならぬのだ!?》

と批判され乍ら、決して一義的ではない多義的な状況を孕んだ表記を好んで用いるなど、体系をかき乱すだけに過ぎない様な物であると解釈する者が現れても当然です。


 そうした複雑な状況があるとは雖も、体系の中で駆逐された「短増三和音」というのも実は、特殊な状況を鑑みればこそ、その両義的な姿として表わさざるを得ない状況を指し示す体と為しているのだという風に理解におよんでいただきたい部分であるのです。

 常に和声的な状況を念頭に置く多くのジャズ/ポピュラー音楽ならば概してコード表記の体系に収まる解釈の下で曲は作られている物でありますが、それでも旧知のコード表記体系で表わす事が極めて困難なケースに遭遇するのも珍しくはありません。そうした体系を飛び越えた表記にせざるを得ない状況におよぶ音楽的シーンは和声的書法とは別の影響が齎していると考えるのもひとつの手段であります。

 そこで呼び起したいアイデアが対位法の発想なのであります。然し乍ら、既知のコード表記に括る事のできない音楽的状況が必ずしも対位法の手法が採られていると考えてしまうのは早計です。対位法という様式が確立される為の状況というのは相応のルールに則っている物であります。とはいえ、その対位法的アイデアが新たな和声体系のアイデアとなるのは疑いの無い所でもあります。


 そういう意味で今回とりあげる「時効警察のテーマ」というのは、対位法的発想に伴って解釈を拡大させる事の出来る形容し難い和声的状況が生ずる例として語る訳であります。

 扨て、ひとたび「時効警察のテーマ」を分析してみると、本曲の音楽的な特徴的な部分として取り上げられる事は《線的に豊かではあるが和声的には希薄である》という物であります。


 線の豊かさに比して和声感としてはそれほど重畳しい物ではないのです。その線の豊かさに随伴するコードも興味深く、メロディに対して対比的に現われているウォーキング・ベースのフレージングも実は複調的な示唆があったりする物です。とはいえこれらの線的要素の強さだけを抜粋して「対位法」と呼ぶ事は出来ません。「時効警察のテーマ」からギターとウーリッツァーのパートを割愛し、ベースとオクターヴ・ユニゾンのブラス・セクションを二声と捉え、更にこの二声部に対して新たな二声部をギターとウーリッツァーが示唆していた和声的状況から別の線を形成して少なくとも四声に拡張した上で対位法的書法のルールを纏わせれば、そこで初めて四声対位法が完成すると思います。

 本曲を対位法として構築させるには少なくとも四声以上は必要であり、対位法の様式としては未完成な華麗対位法と称した方が実際の状況を示している事になるのですが、善かれ悪しかれ和声的な側面だけでは本曲を語る事は限界があり和声体系を超越しているのは疑いの無い事実であります。それにて対位法の手法を併せて論じないと分析が出来ない状況であるので対位法的和声として括っているのであります。同時に、対位法の様式として原曲を判断するにしても不完全な状況である物の、本曲は非常に興味深い側面が見えて来るのであります。

 まず本曲の主旋律であるブラスのオクターヴ・ユニゾンは主音上で短調下中音(Ⅵ=つまり♭Ⅵ)を採って [as - g - fis - g] という短二度進行を採ります。これは短調(短旋法)を標榜しつつのジプシー調の節回しでありますが、冒頭の [as] は和声的にはアヴォイドな状況であり「倚音」を生んでいる状況であり短調主和音の第5音へ結ばれている前の強拍・強勢に置かれる和音外音となります。とはいえ茲ではそれを [as] と便宜的に呼びますが、別の視点からはこれを異名同音の [gis] としても解釈可能なのであります。そうして [gis] と呼んだ時が「短増和音」を示す状況となる訳です。これはまた後に詳述します。


 扨て、本曲のベースは一応主音から開始される物の、直後 [cis] を奏します。一部では、上行形であろうとも「♭Ⅱ」由来としての [des] で良いのではないか!? と判断する人もおられるかもしれませんが、このベースのフレージングは上行形は [cis] であり下行形が [des] であるべきです。しかも、このベースのフレージングは下属音 [f] を一旦の折り返し点として上行・下行を繰り返すのでありますが、対位法的手法で見るとフレージングとしては一旦、極点である五度を目指す様にして形成される物です。

 こうした線的な形成にて「五度を一旦の極点とみる」という方策で重要なのは、開始点が和音の根音でありつつ《一旦の極点》は三度和音の一旦の完全体である「完全和音」の極点=第5音であるが故に、線的な形成は一旦、五度の極点を目指して形成されようと構築される物なのです。

※対位法界隈にて呼ばれる「完全和音」という呼称は、和声法界隈での「完全和音」とは意味が異なります。後者での完全和音は、和音構成音が充ち満ち足りていて構成音の省略が無い状況の事を指しますが(対義語:不完全和音)、前者での完全和音というのは、声部同士が「完全音程」である状況を意味した物です。そこには完全八度 or 完全五度という音程である事が前提とされているのであり(※ユニゾンである完全一度も含)、完全音程ではあるものの完全四度は含まれません。



 その一旦の極点というのは必ずしも五音を隔てなくとも良いのでありまして、根音から上行で五度を目指すのも好し、下行で四度下にある五度音を目指すのも良いのであります。

 対位法的書法で見た場合、ベースのフレージングは属音から根音という「四度音程」間に導音を生じさせないフレージングであると見做す事も可能ではありますし、導音を生じさせていない(ムシカ・フィクタを採っていない)という状況が、そのパートの調性を「不確定」な状況として曖昧にしている状況であるとも考える事ができます。重要なのは [es - f] が全音である状況から、[f] に対して導音 [e] を採らない事に加えて [c] と [d] の間に増一度進行として [cis] を忍ばせている事が、Cフリジアンを示唆し乍ら直後にCエオリアンへ移旋したかの様な移旋を伴うフレーズとして見做す事が出来る訳です。

 況してやこの曲は短調である事が功を奏するので、過程では積極的に増音程を用いる事が可能な状況です。それは西洋音楽的な和声的にも対位法的にも照らしてみても、です。対位法の場合なら三声以上の華麗対位法という「方便」を付きまとわせるべきでありますが。

 Cフリジアンという音脈は、変イ長調(=A♭)が「トーナル・センター」となるべきです。私が積極的に「トーナル・センター」という言葉を茲で遣うのは深い意味がありますのでそれについては後ほど縷々述べる事になるかと思います。


 対位法というのは、各々の線的な旋律が「結果的」に調(=Key)を標榜している様に捉えられますが、実際には各旋法が持つ「調性」(=tonal)を伴う調的性格を利用していただけの事であります。

 というのも、長調・短調という調(Key)とて本来はイオニアとエオリアという tonal 側にあった旋法が格上げされた体系に過ぎないからであります。これらの様式を整備する事で tonal の中にある旋法は Key=調へと格上げされただけに過ぎないのです。ト音をフィナリスとするミクソリディアとてト音で終止する際には [fis] に可動的変化を起こしたので結果的にこうした長旋法類が長音階に集約してしまっただけの事にすぎないのであります。

 対位法という世界を語ると、そこには異なる「調的性格」(=異質の旋法的性格)が絡み合う事で複調がごく自然に生ずる事実など和声体系整備が為される以前から生じていた物であり、その後和声体系をも採り込んだ対位法が大バッハ以降確立される様になり、軈ては和声の好いとこ取りをする様にして多調を生じつつ、各旋法の性格すら曖昧に用いる様にして凡ゆる角度から「調的性格」を希薄にさせ乍ら、調的な「確定」が為されぬ様に巧妙に仕組まれて「無調」その後の十二音技法を生じた訳であります。

 その「確定」と呼ぶ部分には多くの示唆が含まれます。まず、後年の対位法は和声体系を巧緻に取り込み乍ら和声体系にも齟齬が生じない様に(協和性の意味で)姿を変容させて来ました。

 その上で線的には和音の根音と第5音という「完全和音」という体を巧みに用いた形として線的には一旦の極点を標榜する様にして仕組まれる事が是とされ、対位法に存在する「変応」は、和声体系には組み込む事が出来ない領域である為、「変応」と「複調性」を巧みに構築する事が対位法的手法が齎す最たるメリットになるのであり、そうした世界感を和声的世界観から俯瞰した時、既知の和声的枠組みでは語りきれない例として成立するのであります。

 対位法的手法が極めて巧緻に高められる様になると、一義的な意味での調的な性質を俯瞰する事は難しくなります。なにしろ主調はもとより属調も下属調も同主調もその他多くの六度調の性格を持つ旋律の断片がひとつに犇めき合っている様な状況では、ひとつの調性として解釈する事は不可能であると同時に、和声的枠組みから見ても往々にしてひとつの調性を暗々裡に備えている状況を飛び越している状況が多くなるので、ポリコードの見方で以て俯瞰しない限りは和声的世界観でも捉える事が難しくなって来ます。

 とはいえ対位法に於て重要な点は、先述の通り和声的社会には無い「変応」と「複調性」(※バイトーナルというポリコードの見方は、一義的に調性を捉える解釈ができぬ為に用いられる便宜的な方策に過ぎない)一義的な調を標榜するのは開始と終止部であるに過ぎず、過程では複調を生ずる様にして「転調」が起こっていたりしているのです。

 その「転調」は和声的な世界でのカデンツ(和声諸機能)を経由するという物ではなく「移旋」に伴う調的な音組織が変化しているという物です。和声的な示唆はなく線的な変化が起こるという物であります。

 その線を異なる声部同士で重なる時は勿論「和声的に」耳にする事はできますが、両者の線運びは和声が連続して連結し合う様な状況としてハーモニーが形成されるという物ではなく、異なる旋律が異なる音程で和声感を生じているという世界感である訳です。

 二声による厳格対位法ならば、各旋律の調的コンテクストが茫洋とする状況ならば、対旋律が属調を用いたりする必要もありません。

 その茫洋とする線運びとしては不充分である物の、結果的には終止にて調は確定する訳ですが、過程の線運びとしては、線の持つ「調的要素」を確定し乍ら各旋律で生ずる音程に留意すれば好いのであります。それがもっと自由度の高くなる三声以上の対位法にて、各旋律の調的要素が曖昧にし乍ら作品が構築されていってしまう事実というのは、線的な調の確定の前に見事な和声感が生じてしまうと形容した方が適切であるかもしれません。

 十二音技法が確立される以前のクロマティシズムというのはまさにこうした世界観で構築されたが故の事であり、線的要素をひもといても調的な確定は難しく、何某かの調性の断片という姿でしか繙けない様になって来ます。こうした状況の時、各旋律の調的な構造は未確定な訳でありますが、それを仄めかす何某かの示唆めいた性格はある訳です。

 こうした状況での旋法的性格を表現する際に初めて「トーナル・センター」という言葉を用いる事がありますが、この呼び方は特定のモーダルな曲の中心音(終止感を持つ物としての)という事よりも多声部から繙いてきた調性の断片に何某かの調性の重心を捉える時の見方の為に必要な言葉として用いられたのが起源なのでありまして、決してモーダルな曲のスケール・トニックでしかない中心音を呼ぶべき言葉とは異なる物なのです。これについても後ほど詳述します。

 トーナル・センターというジャズ界隈などで言うドリアン・モードの中心音=スケール・トニック=フィナリスをトーナル・センターと呼ぼうとも、その「トーナル・センター」とは、一義的なモーダル状況の中心音を指し示す語句ではなく、線的要素が持っていた未確定の調性の断片の事を指すのが本来の「トーナル・センター」であるので、あらためてこの辺りは注意をされたいと思います。過去にもトーナル・センターとフィナリスというタイトルでブログ記事にした事があるので、その辺りに興味のある方は今一度読んでいただければと思います。

 和声的社会であろうと対位法的社会であろうとも、短調の世界というのは長調の厳格な仕来りよりも遥かに自由度は高い物です。特に増音程・減音程の取扱いとなると、その自由度の高さは長調のそれとは雲泥の差と言えるでしょう。

 
 扨て、今一度「時効警察のテーマ」を振り返る事としましょう。オクターヴ・ユニゾンで奏でられる特徴的な [as - g - fis - g] という短二度進行のそれは短調(=短旋法)の類がジプシー調へと変応させられた物として耳に届きます。

 個人的な主観の前で判断すると、この旋律は青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」の伴奏部のオマージュなのではないかと思う所もあるものの、ジプシー調(=Cハンガリアン・マイナー)が持つ「♯Ⅳ」が、属音と短調下中音(=Ⅴと♭Ⅵ)との半音音程を形成する事でこうした節運びになる訳でありますが、対位法的に勘案するとなると、ひとつの声部が短二度進行を採っているという事はそれと向き合う他の声部はこの線に対して跳躍進行を採った方がより良い選択となる筈です。

 但し、線運びとして対位法のアイデアを持ち込む事が由とされるのはこうした部分ではなく、ベース・パートを今一度分析した時に興味深い側面が浮かび上がる所にあります。


 ベースのフレージングは上行形で主音から [c - cis - d - es - f] と増一度進行が先に生じてその後に短二度進行を採って「下属音」を一旦の極点として下行形 [f - es - d - des - c] として折り返すウォーキング・ベースのフレージングとなっております。この際、上行形の [cis] と下行形での [des] はどちらも同じ派生音として示した方が混乱を招きにくいのではなかろうか!? と思われる方もおられるでしょうが、上行形での音階外の [cis] は決して譲れないのであります。これを [des] として解釈するのは早計であります。

 このベースのフレーズが一旦の極点を属音(ハ短調のⅤ)を極点として見ないフレージングを行なっている所が実に調性的には茫洋とする複調感を示唆しており、ややもすればヘ短調(=Fm)という調域での《Ⅴ─Ⅰ》というテトラコルドの様にも映る訳です。

 厳密な意味での対位法としてこのフレーズをヘ短調の調域として成立させる為には、過程でのフレージングとしてヘ短調の導音としてムシカ・フィクタを採る必要性が生ずるので、そうした場合は上行形での [es] は [e] を採るべきでありましょうが、このベースのパートこそが「定旋律」として判断した時、対位法の原則として《定旋律が属音を採っている時は対旋律が属調を採る》という状況を好意的に解釈した上で、定旋律が可動的変化(ムシカ・フィクタ)を採らずにヘ短調を導音無しのエオリア調として調的には明示せずに旋法的にフレージングさせつつ主音を奏でた直後の上行形では、それこそ「Fフリジアン」をも仄めかしてしまうかの様に増一度音程を辷り込ませる物の、その直後に更に増一度進行を辷り込ませて「♮Ⅱ」という短調上主音を示すという事は、1拍毎に移旋を仄めかしている様な状況としても映るのであります。

 厳密な対位法としてはこれらの状況にて「対位法」としての様式を確定させるのは不充分です。とはいえ対位法様式でそれを完結させようとするのが狙いではありません。狙いとするのは、和声的世界観から見て早々に倚音を招いている「音楽的強弁」が成立している状況を和声的に好意的に解釈するにはどういう音楽的な背景が関与しているのか!? という事を読み解く事が主眼であります。

 主旋律の冒頭 [as] は、主調となるハ短調から見ればれっきとした短調下中音に過ぎません。然し乍らハ短調という風に「一義的」に捉える事をせずに、ハ短調が単に他の調域と混ざっている様な状況であるとした場合、[as] が和声的には倚音として成立してしまう状況は、対位法のアイデアによって平然と整合性を持って正当化されると言いたいのです。

斯様な前提を踏まえた上で先ずは「短増三和音」という物を順に語って行くとしましょう。


 短増三和音は増五度音を持つという解釈を採るべきでありますが実例としては多くありませんし、それと同義とする解釈で済ませる例を導かざるを得ないのが難点でもあります。そうした解釈にて取り上げざるを得ないのが、スティーリー・ダンのアルバム『彩』収録の「Deacon Blues」のイントロを挙げる事が出来るでしょう。







 その顕著なコード進行は、前掲の通り「C△7→Bm7(♯5)→B♭△7→Am7(♯5)」という4つのコード進行形が更に長二度移高して「D△7→C♯m7(♯5)→C△7→Bm7(♯5)」という風に、メジャー7thコードから異度の短増和音への短二度下行となる「特定のモチーフ」の移高を伴わせた「変形」にて構築されている事が判ります。この変形は一連の反復を移高させている物であり、音楽的には「フィギュレーション」と呼ばれる技法のひとつに括られる物でもあります。

 これらのコード進行を用いる本曲が非常に特徴的な響きとなっている部分は、モチーフとしての原形を成す2コード・パターンに於ける先行するコード=メジャー7thコードの長七度音を内声に響かせ、それを後続の短増和音の短七度音として長二度下行進行する響きが絶妙な点にあります。トップノートが同度進行として掛留を保持し乍ら、それに対して斜行となっており、その斜行となる長二度下行に対してベースが短二度下行進行となっているのも絶妙な動きであると言えます。

 その2コード・モチーフの先行和音のメジャー7thのひとつである「C△7」を例に取って説明しますが、コード表記という側面から見れば「C△7」は如何様に転回しようとも「C△7」であります。とはいえ、その中で最も異質な響きとなるのは第3転回形としての、低い音から数えた時の [h・c・e・g] という物でありましょう。

 剡い短二度を持っている事は勿論、他にも短音程である短六度を有し、それを支えているのは完全五度の「補充音程」に過ぎない完全四度という状況です。処が、これほどまでに剡い響きを利用する用例なども勿論存在する物でありまして、何でもかんでも響きを疏外させない様な状況が音楽にとって譱い状況であると考えるのはあまりに浅はかな愚考であります。

 YMOのテクノポリスのイントロとて、C△7の第3転回形(二四六の和音)という物は、その [h] が同主調のト短調のピカルディーの3度としての余薫を纏わせての同主調(ト長調)下属和音の偽終止進行と見做しうる状況でもある訳で、メジャー7thコードの長七度音が外声ではなく内声にある時というのは、真正な使い方(=トップ・ノートに在る時)よりも深い示唆がある物なのです。



 ディーコン・ブルースのイントロでの内声にある [h] が後続の [a] へ進行する動きが顕著に響くのでありますが、短増和音のヴォイシングはベースを除けば実質、完全四度堆積 [a・d・g] となっている為、これが更に音楽的な「苦味」を演出するのです。トップノート [g] が短増和音の「増五度」として聴いて欲しい所なのですね。短増和音としての体を強行するのであればその場合 [fisis] =(F♯♯)という重嬰へ音で表記すべきなのでありますが、四度和音を方便にし乍ら短増和音としての体裁を保つ様に語る方が一般のコード表記体系の側面から照らし合わせるのがスムーズだと思うのでこうして分析するのであります。

 
 和音構成音の一部──概して第5音──を変化させて用いるのはドミナント・コードや副次ドミナント・コードにて頻繁に用いられ発展を遂げて来た訳でありますが、ドミナント・コードの基底部分(=根音・第3・5音)は長三和音である為、長三和音に附与される変化音(オルタレーション)としてジャズを中心にオルタード・テンションという音脈として用いられる様になったのは最早周知の事実と言えるでしょう。

 他方、長和音からの変化音としてではなく短和音由来からの変化和音というのは存在するのか!? というと実質的には減三和音は短和音(マイナー・コード)の第5音を半音減じた物とも理解されます。

 また、硬減三和音というのは実質的には長三和音の第5音を半音低く減じた物と理解されますが、ジプシー調に於けるⅡ度上の和音は、短調のⅡ度上の和音=減三和音の第3音が半音高く採られた音と解釈される物であるので、短和音を基としてオルタレーションを生ずる変化和音が存在しないという風に短絡的に解釈してしまっては愚の骨頂であります。

 短和音由来の変化和音に遭遇する機会が極めて少ないのが現実とは雖も、事実を歪曲してしまってはいけないのです。こうした例を鑑みればあらためて「短増三和音」というマイナー・オーギュメンテッドというコードが、コード体系の方便の為だけに存在するのではなく、短三和音の第5音が半音高く採られる解釈にあらためてその正当性を受け入れなければならないと思います。


 変化和音が長和音を元にするだけの特権ではないという事を好意的に解釈するならば、ヘ短調およびFハンガリアン・マイナー・スケールを視野に入れた時、短旋法種の独特なⅢ度=「♭Ⅲ」を「♮Ⅲ」に変じつつ、「♮Ⅱ」を「♯Ⅱ」という風にして短旋法をまるで歪曲するかの様に変じた時には「Fハンガリアン・メジャー」という音階を生みます。

 この特殊な音階の第5音= [c] をモードのフィナリスから生ずる和音は [c・es・gis] を生ずるので、短増和音およびヘ短調の音脈を呼び込むという事は斯様な音脈の音組織の一部が可動的なオルタレーションを採る「変応」が起り得る事になる為、決して短増和音として突飛で突然変異的な和音ではないのであります。それは次の譜例からもお判りでありましょう。

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 オーギュメンテッド・トライアド(=増三和音)の各構成音のいずれもが根音を採る事によって異度由来の同種のコードとして振舞える物もあれば、「C6」と「Am7」という風に構成音自体は転回還元位置では同一であるにも拘らず異度にある別種のコードとして置換し得る同義音程和音という存在もあります。そういう意味では短増三和音というのは、短増三和音の第5音=増五度を異度由来である異名同音=短六度として読み替えると同時に、異度由来の別種のコードとしての同義音程和音としても映るのは致し方ない事でありましょう。

 然し乍ら、オーギュメンテッド・コードの構成音のいずれをも根音に採るのが同一であろうと、ひいては同一の構成音を持ち乍らも別種のコードとなる同義音程和音と認識されようとも、コード表記として充てる根音の存在をあらためて注視すれば、その根音の真の意味と、含意となる音楽的な重みと深みをあらためて理解する事になるでありましょう。この辺りの判断がどっちつかずのままにしておくと、その後色んな状況で曖昧な解釈のまま実行してしまう事になるので、こうした判断はきっちりと作者は分別しておく必要があるかと思います。


 こうした状況をあらためて鑑みれば「Bm7(♯5)」は決して「G add9(on B)」ではない訳です。短増和音に遭遇する事が殆ど無い状況を念頭に置けば、後者の「G add9(on B)」という状況が見た目にもポピュラーであり、多くのシーンで混乱は生じにくいとは思います。寧ろ短増和音の方を用いてしまう方が混乱を招きかねないのが現状でありましょう。然し乍ら、先の「Deacon Blues」での短増和音の増五度が後続のメジャー7thコードの長七度音に接続(進行)している事を鑑みれば、矢張り茲は短増和音を認めるべきでありましょう。

 唯、同義音程和音として見せて呉れる「別の姿」というのは、別の調域をも見せてくれているという暗喩でもある訳です。その暗喩とやらの私の意図は次の通りであり、それが冒頭の「時効警察のテーマ」に投影可能な事になるのです。


 冒頭で述べた様に、「時効警察のテーマ」の主旋律は倚音である [as] から開始されますが、これを好意的に和音構成音として解釈すると、ウーリッツァーが奏でる「Cm」に対して「♭6th」が生ずる訳ですから、短増和音の表記を嫌ってマイナー・コードに♭6th音が附与されるタイプの表記として解釈可能でもあり、或いは「A♭△7(on C)」という状況を見る事も可能ではあります。

 とはいえ偶数小節ではギターが明示的に「Cm6」を印象づける [es・a] を奏でる物ですから、先行小節とこの偶数小節部分をワン・コードとして俯瞰してしまうと和声的には [g・as・a] という風に、半音でぶつかり合っている和声的状況を生じてしまう為、これをどうにかこうにか1つのコード表記として収斂させるのは無理があるというものでしょう。


 仮に、対位法的な発想に基づいてウォーキング・ベースのフレーズを定旋律として措き、その定旋律の属調を対旋律として生ずるのが主旋律であるとするならば、対位法的アイデアによる五度/四度関係に依る関係調同士での複調を生じている状態だと解釈が可能である訳です。

 つまり、単一の調性で見ると「倚音」として映る [as] は、対位法的発想に依って複調として見立てる事が可能であり、ベースの側を「ヘ短調」として主体を立てると、その属調である「ハ短調」が随伴しているという状況になるという訳で、[as] の登場は不可思議な音脈ではないのです。

 但し、二声対位法の場合だと [as] は [f] から見た三度音に相当する事になる為、厳格対位法による1対1の二声対位法では悪い例となってしまうので、対位法という様式で確立させようとするならば少なくとも三声以上の対位法書法で作るべきであると述べていたのはこういう理由に依る物だからです。


 ジャズ/ポピュラー音楽界隈の人々は概して和声的な方面は多くの知識を備えているものですが対位法となるとそれとは裏腹にチンプンカンプンとする人は決して少なくありません。対位法に対して曖昧な知識を有している人にあらためて次の様な要点を挙げておきますが、「定旋律」とは主従関係として「主体」側に在る先に用意される主体的な旋律の事であります。定旋律は終止直前には主調の上主音に線を運ぶのが決まりです。

 その定旋律に対して随伴させる旋律を「対旋律」と呼びます。定旋律も対旋律も、線的要素として重要なのは五度音程を一旦の極点として見るのであります。なぜかというと、ある線運びで特定の音が和声的に見た時それが「和音の根音」に相当する物だとした場合、この和声的成分の第5音が匂わせる場所が線的要素の一旦の極点を示唆しているからであります。

 定旋律が属音を目指さずに茫洋とした(モーダルな)線運びをしている状況があるとしたら、対旋律は属調を示唆しても構わないのであります。勿論、別の調域を示唆するのであるならば定旋律に対して還元位置(転回位置)で三度の関係を採るのが譱い手段であるのですが、対位法に於ける「定旋律」「対旋律」の主従関係がお判りいただければ幸いです。

 例えば、ギターとベースがそれぞれ1パートずつ且つ両パートはそれぞれが単音のみを弾くという限定的な状況があったとします。対位法の概念からすればベースとギターいずれもが定旋律と対旋律になり得ます。主従関係としてはベースは常に定旋律である必要はなく、ギターの旋律に伴った対旋律という状況にもなり得る訳です。対位法様式に於て、それらの主従関係が明確になるのが終止直前の音に現われるという事になるだけの話です。

 このように、対位法のアイデアから得られる事で重要な、旋律の主従関係という観点は非常に重要な物であるのです。例えばアンサンブル全体は何某かの「モード」を想起し、そのモードの「全音階的」に掠め取って集めて来た音を和音にしているフリーなアンサンブルがあるとしましょう。Dドリアンにて和声的に先行和音が [f・g・c] で後続和音が [d・g・c] の2コードでフリーな状況であるとしましょう。

 それらを「定旋律」だと思えば、対旋律とするベース・ラインはどうすべきか!? という事を考えれば、Dドリアンでの属音 [a] の呈示が無い状況の定旋律に対する対旋律としてのベースは、Dドリアンのトーナリティーを持つハ長調の属調となる調域=ト長調の音脈を奏しても譱いのです。

 それは結果的にはDドリアンの属音= [a] をフィナリスとするAドリアンを弾いている事になりますし、Aドリアンが移旋してAエオリアンを弾いた場合、定旋律と対旋律は同じ調域を奏している状況と為しているに過ぎない訳です。複調というのは、そうした定旋律と対旋律に於ける関係調から発展した考えに依ってアプローチを多彩に拡大できる訳でもあり、こうした発想は和声的な世界観からは見付ける事の出来ない脈絡である事でしょう。

 加えて、対位法的なアイデアの中に重要な物として減八度や増八度を生んでも譱い状況があり、これが元の全音階的音組織からは得られる事の出来ないクロマティシズムの為の音脈となるのであります。ですので、ジャズのウォーキング・ベースにてアウトサイドな音が生じているのは何故なのか!? というのは対位法的アイデアが無ければ先ず解明する事はできないと思うので重要な事なのです。


 加えて、減八度や増八度が赦されてしまう状況に加えて、三全音対斜が許容される「音楽的方便」も対位法には実際に多数存在します。和声的な体系であろうが対位法的な体系であろうが三全音の対斜は避けられるべき物として扱われますが、実際には方便だらけです(笑)。だからと言って原則を知らずに好き勝手にフレージングしてしまえば好いという物ではなく、基本を知った上でジャズに昇華できるとなれば音楽的素養はぐんと高まる訳です。

 一応、定旋律や対旋律に関しては後述しますが、「時効警察のテーマ」冒頭に現われる倚音は、複調の橋渡しともなり、その倚音 [as] はハ長調という主調の短調下中音(iv in c moll)であり乍らも、定旋律をベースにする事で主従関係を変える事に依りハ短調はヘ長調の属調という従属関係となり、ハ短調の [as] はヘ短調の短調上中音(iii in f moll)という風に多義的になりつつ、そこに和声的な解釈として新たに [c] を根音とする短増和音 [c・es・gis] という風にして [as] を [gis] という風にして異名同音にて読み替える解釈とすると、和声的解釈を導入した側のモードは [a] を由来とする幹音および派生音を伴わせる事が可能になる為、ギターが偶数小節にて [es・a] を弾く事の整合性は、斯様な対位法的見渡しと和声的見渡しとの混淆に依る複調性を視野に入れる事で保つ事が可能になる訳です。


 こうした「曲解」は単なる理論的な側面を並べただけの音楽的方便にしか思えないかもしれませんが、先の [as] という音が現れるという現実を、ひとつの調性で見た時の音楽的状況が和声的世界観として見ている状況であれば「倚音」という事実は変わらないにしても、そうした少し特殊な状況を曲解する事で成立している状況を分析する事は詭弁でも何でもない事実なのでありまして、それを音楽的な意味できちんと説明付けようとすると対位法様式としては不充分な状況であるにせよ、和声的な側面だけでは到底説明し得ない対位法的アイデアを必要とするのであります。

 簡単に言えば、線的な強さが和声的状況を許容するという状況が「時効警察のテーマ」である訳ですが、ある音楽的な状況を和声的に照らす事がジャズの殆どのケースであるとして、それを対位法的な角度から照らすと和声的解釈からは見出す事のできない部分が見えて来るという意味がお判りいただけたかと思います。

 ジャズとして捉える必要の無い曲に聴こえるかもしれませんが、こういう曲にこそ和声的な側面だけでは語れない妙味が隠されていたりする物です。こうした線的な牽引力を持たせて和声的成分に揺さぶりをかけているジャズの稀代の名曲のひとつに「チュニジアの夜」を挙げる事が出来るかと思います。あの曲もジャズであり乍ら、対位法的な分析を可能とする物でもあると言えます。




 加えてYMOの「東風」のサビ部分も、対位法的に和音が揺さぶられ、その和音の変化音を逐次拾うと一義的なコード表記を難しくしてしまうという典型例のひとつとして数えられる物であります。

※私感ではありますが、この当該部分にブルックナーとベートーヴェンの影響を感じます。





 声部の主従関係として必ずしも下声部に従属するのではなく上声部が主権を把持している状況もある訳で、そうして互いに主従関係を入れ替える事が可能な定旋律と対旋律という関係をあらためて勘案すれば、コード表記が持つ、特にオンコードでの「on 某し」というコード表記の主従関係は、基のコード・サフィックス側に主権がある様には見えても本来は「定旋律」の様にしてベース側が主権を担う様にして、コード・サフィックス側が示唆するアヴェイラブル・モードやモード・スケールに従属しない(する必要のない)動きをするのが本来の「on 〜」という表記であるべきという大前提を通俗的な社会はあらためて肝に命ずる必要があるかと思います。

 しかし、それがいつしか分数コードの多義的な表記として扱われたり、或いは、コード表記の本体となるコード・サフィックスにて括弧付きのテンション・ノートで表わされている時の括弧が重なる事を印刷上の視覚的な重複を避ける為の物だとかetc……いつしか「on 〜」という部分はコード・サフィックスが示唆するアヴェイラブル・モード・スケールに隷従すべきかの様に解釈されてしまう様にもなってしまったのであります。

 そうしたコード表記が通俗的な音楽にも浸透する様になり、ダイアトニック的進行にほんの少しの揺さぶりをかけた程度の変化音に収まるそれらの音楽の側が本来なら多様な動きをも示す筈の「on 〜」表記が単にダイアトニックな音組織に収まる非和声音をベースにしているだけと思われる様に変化してしまったのも原因であり、皮肉にもコード表記という簡便性が齎した負の側面であるとも言えるでしょう。

 オンコードや分数コードに関してはあらためて当該記事内容を参照していただければ幸いです。今回の定旋律・対旋律の主従関係の説明に依り、あらためて理解される事もあろうかと思います。

 定旋律・対旋律に於ける主従関係。こうした関係にて生ずる上声部と下声部を相互に「移置」しても成立可能となる状況は二重対位法(転回対位法)とも呼ばれます。そういう意味ではジャズの中でも、ジャズ理論の中からはなかなか見えて来ない対位法的要素が本当は隠されている訳です。無論、厳格な意味で対位法様式に括るという訳にはいかないのは当然の事でありますが。


 扨て、茲からは対位法について少々語っておこうかと思いますが、対位法を厳格に学ぼうとした場合、その時代背景を考慮に入れてではないと却って理解を難しくさせてしまいます。多くの場合は和声的な見聞を視野に入れて構築されたパレストリーナ様式の対位法で学ぶのが譱いと思いますが、対位法の世界はその後18・19世紀を経て軈ては十二音技法を生んだというのも頭の片隅には措いておいて欲しいと思います。時代を重ねて多様に変化を遂げた様式とでも思っていただければ譱いかと思います。

 対位法の最大の醍醐味は冒頭でも触れた様に、複調を示唆する音脈に遭遇可能な所にあります。和声的な体系の音脈からだと遭遇しない様な音に出会うという事が特徴的なのでありますが、現在アルテスパブリッシングから刊行されている『ケルビーニ 対位法とフーガ講座』の冒頭からも原著の通りに例示され、そこには

「2つの調の併発によって不協和音程が生まれる。したがって連続5度は禁止とされる」(12頁)

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これを読むと、私が評した対位法の最大の醍醐味である「複調」とやらは早々に棄却されるに相応しい誤った理解であるかの様に感じ取られかねず、それこそ複調を起こす状況こそは尻込みしてしまうかの様な忌避すべき状況なのではないかと思われてしまいかねないでしょう。

 然し乍ら今一度文章を注意深く読んで欲しいのが、禁止されている事は「連続五度」に過ぎず、決して複調を禁止とはしていないという点であります。勿論連続五度が認められる例外的な状況に加えて、定旋律が属音を目指さない時の対旋律が属調を採る事を是認する事の可能性などを視野に入れれば、複調まで尻込みする必要はないという事がお判りになる事でしょう。


 原著では下記の第1種 1対1による二声対位法の譜例が示されておりますが、終止線が表わしている様に、大譜表で示されている譜例の上と下は繋がっている物でして、アルテスパブリッシング版では19頁に於て混同しないように続けて18小節の長さで示されている深い配慮に拍手を送りたい所です。

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 今回、この二声対位法の譜例をオルガンを用いた上で注釈付きの譜例動画にしてみたので、あらためて確認してもらう事にしますが、原著の方で9小節毎に別けて譜例を載せた理由は、おそらく曲中に現われる「五度」音程を一旦の音楽的段落の意味を示しているからでありましょう。つまり、定旋律となる下声部はハ長調でありつつも1〜9小節間では属音 [g] を明示しない旋律となっており、10小節目で対旋律と「五度」を形成させる事で多義性を持つ事になる訳です。つまり、対旋律は定旋律が属音を呈示しない事に依り属調へ移旋しても構わないため対旋律の [d] は属調=ト長調の属音としての呈示としても見做される訳ですが、ト長調の主音の呈示よりも先にト長調の属音が呈示されてしまうのはいただけません。そこでこの両声部は曲中では本来ならば回避されるべき完全音程=五度を形成して一旦の段落を見て、その方便として定旋律が11小節目でCリディアン(ト長調の調域)である [fis] を奏でるという訳です。



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 定旋律が属調(=ト長調)へ転じた以上、定旋律がその後目指すべき極点は [d] です。然し乍ら13〜14小節目での同度進行の先行となる13小節目では対旋律が [d] を用い且つ完全音程の五度を形成した為、新たな段落としての意味を持つ事となり対旋律は結果的に静謐な対応のままハ長調へと移旋し、目指すべき極点は [d] ではなく極点となる [g] であるべきですが、終止を迎えるので終止直前の「上主音」を目指す事になり、曲は終止する訳です。


 実は、定旋律の終止直前が上主音を採らねばならないという原則は他の本を読まねば判らない事でしょう。対位法というのは和声学のそれよりも多くの著書から学び取らねばならない程であり、とてもではありませんが一冊の著書で完結できる代物ではありません。対位法を学ぶにあたって他のお薦めできる本というと、マストとなるのはニコローシ著 幣原映智訳『古典純粋対位法』ノエル・ギャロン、マルセル・ビッチュ共著 矢代秋雄訳『対位法』および長谷川良夫著『対位法』あたりになるでしょう。


 譜例中では2つの対斜=減五度対斜・増四度対斜(いずれも三全音対斜)が生じておりますが、これが何故措定されるのか!? というのも対位法の持つ音楽的方便でもあります。12〜13小節で生ずる減五度対斜はハ調リディアに移旋した事に依る物です。ト長調の調域の導音である [fis] は導音としての役割を採っていない以上、茲は旋法的に解釈される訳です。ですから精確にはト長「調」という性格(コンテクスト)が現われていない旋法的な性格と解釈するのが適切である訳です。とはいえ対位法というのは実際には和声体系の様にカデンツを経由して世界観を形成する状況と異なり、旋法的性格を集めている世界観なので、各声部を分析した場合は実際には旋法的性格が集まっている状況であると理解する方が適切なのであります。

 対位法の場合はその声部の音組織が「ドレミファソラシド」(※旋律ではないので注意)として括られる状況であったとしても、これをハ長調と決定付けるのは早計でありまして、ト音に中心音が備わる「ト調ミクソリディア」の場合も往々にしてあるので注意が必要なのです。

 つまり、ト長調調域を前提とし、その性格を存分に発揮するのであるならば [fis - g] という旋律の流れが有って然るべきですが、「導音」(ムシカ・フィクタ含)として発揮されない進行があったとすればそれは旋法的状況である訳ですから、中心音として [g] の重力があろうとそれはト長調ではありませんし、音組織はハ長調と全く同一であっても全く異なる性格を生じている状況が対位法には往々にして現われるという事を述べているのです。

 そういう意味では、対位法というのは旋律の過程に於て調的に明確な状況が時代を重ねれば重ねるほどに巧緻になり茫洋とする世界観に変容を遂げていくのでもあります。勿論、作品中には調性を明示化させたり曖昧にしたり、或いは対位法的書法を避けて和声的に変容したりと、1楽章の中でも多様に様式を変えて変化させているのも珍しくはないのですから、徹頭徹尾対位法的書法あるいは和声的書法で書かれていると錯誤してしまってはいけない部分でもあります。


 或る強固な線を、和声的成分として解釈したいにも拘らず、その線を和音構成音として組み込もうと企図しても既知の和声体系に含む事が難しい状況に遭遇する事は、ある程度和音体系を熟知した方ならば実感されている事でありましょう。例えば、[b](変ロ音)という強固な単旋律があるにも拘らず、背景にあるコードが「C△7」という [c・e・g・h] という様な状況に遭遇した時、どう聴いてもC音を根音とする和音に従属している線として聴こえるにも拘らず、コード表記の体系から見ると埒外としてしまう音との遭遇というべきシーンです。

 単に、和声的にこうした状況として成立してしまっている状況であればコード表記を確定させるのは非常に難しい事でしょう。然し乍らその [b] という音が [ais] として響かされる様な線運び或いはそれを匂わせる [dis・fis] という他の成分が旋律的・和声的成分として加わった場合、こうした状況は紛れも無く「C△7の長七度音上に生ずるB△7」として解釈を拡大させる事が可能となります。

 こうした縁遠い音とて、脈絡が希薄ではなく筋道があって呈示されれば字義とは裏腹に密接な音脈が見えて来る物であります。無論、ジャズやボサノヴァなど高次な和声を伴わせる楽曲や突如脈絡が希薄な音脈をマイルス・デイヴィスの様に用いる場合は、聴き手が一定以上の音脈を見付け出す音楽的素養を要求される様な場合もあります。

 マイルスはモード・ジャズの開拓者と呼ばれますが、モード・ジャズの幕開けとなった時からマイルスは複調つまりポリ・モードを視野に半音忒いの調域となるモードをスーパーインポーズしていた事まではあれほど楽理に五月蝿いジャズ界隈とて考究が甘いまま伝わっている部分があったりする物です。つまり、単一のモードだけでアプローチを採るという誤謬ですね。


 数年前にもブログで話題に出したマイケル・フランクスのアルバム『Time Together』収録の「Summer in New York」に現われる半音忒いのポリコード=「B△/C△」上での [ais] のメロディを聴けば、それが唐突に現われる脈であるにせよ和音構成音の一部が省略されぬ「完全和音」の体でヴォイシングされている為、しっかりと耳にする事ができます。





 同様に、ジョージ・デュークのMPS期のアルバム『Faces in Reflection』収録の「Faces in Reflection No. 1」は「(4+5)/8拍子」の美しい曲ですが、この曲にも半音忒いのポリコードである「D△/E♭△」が次の当該箇所で聴く事が出来ます。




 線的な呈示としての脈絡は希薄でありますが、シンセの採る線は和音に随伴するだけの様な白玉ではなく、それなりにしっかりと強い線でフレージングされているので、泊まり木に羽を休めたかと思いきや随伴する和音がとてつもなく高次に響かせるという訳ですね。こういうさりげなさは和声に傾聴すればするほどあらためて凄みを実感できるかと思います。


 こうした曲の線的要素を勘案すると、局所的に何らかのアヴェイラブル・モードに収まる音使いをしているという風に捉える事は可能ではありますが、逐次移旋する調域の「主音─属音」という五度の関係を明示しているのではなく、移旋と判断する根拠は音階外の和声感に頼らざるを得ず旋律部分から調的要素を確定するのは無理となる不確定要素の多い線運びとなっているのは明白であります。

※復調を視野に入れない音楽的状況に於ける旋律形成としての旋律構造は決して和音構成音の分散和音にとどまらない構造を成しており、それらの和音構成音に括られない音は概して和音外音・非和声音と呼ばれる物です。

 そうした状況を踏まえた上で、和音構成音に括られない「逸音」が生ずる旋律を「カンビアータ」と呼ぶのでありますが、単一の調性として形成されている全音階音組織に当てはまっているという事はジャズ/ポピュラー音楽界隈から見ればそれは単にアヴェイラブル・モード・スケールに収まる音を経過的に生じた和音外音と呼べるでありましょうが(=決してアヴォイド ・ノートでもない)、全音階組織でもない音階外の音が現れる状況を加味した場合そうしたカンビアータが生じている状況は複調をも視野に入れた上で勘案せねばならない物であると言えます。




 実は西洋音楽の対位法というのも、十二音技法が成立する以前の「無調」時代でもこうした茫洋とする曖昧な線が幾重にも絡まった状況というのは登場していた訳です。無論、断片をどのように抜粋しても調性判断ができないという状況ではなく、調的に曖昧な線もあったという訳です。


 そういう時代を経てシェーンベルクは十二音技法を確立して「調的中心」を無くす世界観を標榜するのでありましたが、これの「対」となる「調的中心」として捉える旋法的な音社会に於てもモーダルとしての中心音を指すという意味で、シェーンベルクは「tonal centre」という語句を自著 'Structural Functions of Harmony' p.167 に於ては次の様に書いているのです。

<In some of them, Fantasies and Rhapsodies for instance, a tonal centre may be absent in spite of the establishment of certain regions, because in its tonality the harmony is moduratory or even roving>


 私は以前にも「トーナル・センター」という言葉が旋法音楽に於ける中心音の同義として使われている事への懸念からジャズ/ポピュラー音楽界隈に於て「トーナル・センター」という言葉が平然と用いられる現実を批判した事がありましたが、そもそもが「旋法性」を標榜するだけの世界観であるならばフィナリスやファイナリティーという語句でも充分な訳です。本来ならトーナル・センターというのは、そのモーダルな線的要素で構築された状況にあっても調性が確定されぬままにどこかの音を措定のための道標となる物であるべきなのです。


 私が「トーナル・センター」という言葉を知ったのはジャズ/ポピュラー音楽界隈が先にあったのは事実ですが、まあ80年代初めにはごく普通に用いられていた言葉でありましょう。勿論、当時からその言葉の使用に違和感を抱いておりましたが、この「トーナル・センター」という言葉が彌漫する様になった影響を与えたのではなかろうかと知る事になったのが、シェーンベルク著 上田昭訳『和声法』に出会ったのがきっかけでした。それは『和声法』旧版の方を先に遭遇できたという意味です。というのも、その後同著は『新版 和声法 和声の構造的諸機能』という風に改題および内容も一新され外観も内容も大幅に変わるのでありますが、こうした改訂に伴い「トーナル・センター」という部分もかなり変化しているのであります。

 同著旧版での「Tonal center」という語句は187頁にて「調的中心」という風に括弧つきで表されている物ですが、ジャズ・フィールドの人間がついつい見落としてしまいがちなのは、この章で語られている「揺れ動く和声」にて語られるフーガの旋法的な部分であり、そこで断章取義を生じてしまう危険性があるので最大限の注意を払う必要があるのです。

 同様にして、懸案の「トーナル・センター」を語る当該箇所を『新版 和声法 和声の構造的諸機能』では221頁に於て次の様な文章に改訂されます。

《トナリティ内の和声が転調的であったり、さらには揺れ動いていたりすることが原因で、調的中心が欠如していたりする》


 フーガの技法および対位法に於ける変応を能く理解している者が、この新版での当該部分を読めば「トナリティ」と「調的中心」という言葉の意味の違いは非常に注意深く理解できるのでありましょうが、「トーナル・センター」という言葉が消えたのは大いに好感が持てる所であります。訳者としても紛らわしいと感じていたのかもしれません。

 
 対位法の部分でも書いた様に、特定の声部は調的な要素の線運びとして「主音─属音」という極点を重要視して旋律を形成しようとします。然し乍らこの線の形成が曖昧(茫洋)な状況の場合、他の旋律は複調を生じても良い状況を生ずるので、複数の声部をひとつの調性あるいはモードの性格で俯瞰する事は難しくなって来る訳です。こうした現実を生ずるので上田昭の訳文でもその後「トーナル・センター」が変化を帯びている含意は対位法を理解して初めて理解できると言っても過言ではないでしょう。


 シェーンベルクが先の「トーナル・センター」を述べるに際して、和声的な揺らぎ=調性的には曖昧模糊とする世界観に於て特にフーガでの例を引き合いに出して語っている所にあらためて注意を払わなくてはなりません。

 なぜなら、フーガあるいはその小規模なフガートやフゲッタなども和声的世界を標榜する物ではなく対位法からの応用となる多声的な主唱・応唱(わかりやすい例が輪唱)として生ずる世界観であるからです。

 場合によっては先行するドミナント上でトニックを聞いていたり、ドミナント上でサブドミナントを同時に耳にしたり、或いは和声的に見た時には偽終止として聴こえる状況なども生ずる訳です。

 そうしたフーガの部分を「和声的」に耳にした時には、一般的な和声体系を超えたハーモニーや機能和声としてのカデンツの世界観が蹂躙される状況としてのハーモニーを聴く事に等しい状況である為そうした状況に「調性」を一義的に求めるのは莫迦げているとも言えるのであります。

 音楽を一義的に捉える事のできない状況に於て、十二音技法とは異なる半音階的全音階の世界観となるハーモニーの一部を抜粋して何某かの調的な根源性を求めて「とりあえず」という姿勢として調的な中心音としての音を措定するのを tonal centre と読んでいるだけの事であり、モーダルな音楽やモード・ジャズの旋法的なそれの中心音をトーナル・センターと呼んでしまう事こそが問題を孕んでいる訳です。ですので私は、ファイナリティーやフィナリスが適切であると以前から述べている訳です。

 加えて近年の著書を例示すると、シュテファン・ケルシュ著『音楽と脳科学』(北大路書房刊)26頁では、原文の 'different tonal centers' は単に「異なる2つの主音」と訳されており、これはtonal center という語句の訳であるものの、本文の括弧付き割注での訳注に見られる「主音によらない長調と短調の2つの特性〜」という訳文は訳者の苦悩が窺われます。

 原文の方では長調・短調の限定する事なく旋法的視野を見据えた上での「tonal centers」であるのは明白である物の、こうした旋法性の「中心音」がテトラコルドやトライコルドに於ける「核音」という語句を充てるのが正当であるのか、それともフィナリスを充てるのが妥当であるのか、それとも中心音をそのまま充てれば良いのかという苦悩をあらためて確認する物であるのです。最も妥当なのは「中心音」であれば譱いのでしょうが、長調・短調のそれを中心音としてしまうのは語弊が生じますが、「主音」としてしまうと調が限定され、長調・短調以外の旋法が視野に入らなくなってしまいます。

 加えて、中村知佳子氏による広島大学大学院教育学研究科音楽文化教育学研究紀要論文
矢代秋雄作品における<完璧さ>の諸相〜ピアノソナタの分析結果から〜
にも見られる通り茲でも「トーナル・センター」という言葉はその実、定義が曖昧な言葉として語られており、矢代秋雄の「中心音」について語る言葉を援用しているので、トーナル・センターという言葉を平然と用いるのは危険が伴うという事があらためてお判りいただける事でしょう。

 ジャズが通俗的な音楽だからと決めつけて、あれほどまでにジャズ理論体系が整備されている音楽が本来の意味を成していない曖昧な語句の使用を許す様ではあってはならないと思うのであります。況してや西洋音楽の旧い歴史まで視野に入れると「中心音」という言葉のそれは center tone という風に tonal centre とは又異なる方面の語句として他にも psalm tone や recite tone という風に括られる方面を語る事になってしまう為「中心音」という言葉とて本当なら最新の注意を払って語るべきなのであります。

 ケルシュの『音楽と脳科学』は極めて優れた良著であるものの、悲しい哉日本語訳の27頁にある図3.5の図版での平行調と同主調を充ててしまっているのは互いに逆であり(図を読めば直ぐにそれが誤りと判るが)、原文の「parallel」「relative」が訳者にとって混乱を来しているのは明白であり、これが先の様な卯建の上がらない訳文となってしまっているのではないかと思われるのですが、抑もがこの辺りの日本語嵌当自体が適切ではない所にも拍車をかけてしまっているのであろうと思うのであります。

 次の原文のPDFでの36頁(本文ノンブルp.27)でのFigure3.3の図版に示される「Parallel」と「Relative」とを日本語訳と比較してもらえれば、日本語訳の図版のそれが誤りである事があらためてお判りになる事でしょう。


 グレゴリアン・モードの範疇でフリギアというモードを見れば、フリギアの場合の極点となるドミナントはⅤ度の位置にはなくⅥ度相当に置かれます。つまり、グレゴリアン・モードでのEフリギアのドミナントは [c] という事になります。なぜⅤに置かれないかというと、Ⅴを生じた時にそれに随伴する和声的成分となる [d] は フィナリス [e] の為に導音というムシカ・フィクタを採る必要が生じかねず [dis] とならざるを得ない状況を招きますが、グレゴリアン・モードはフリギアの上行導音を赦さなかったのです。ですからフリギアは下行導音 [f - e] として作用する旋法として墨守される事となった訳です。

 処が時代を変えて短調に於て増二度進行の使用が認められると短調はジプシー調に変貌を遂げる状況も生じました。その際、短調から見たⅡ度がジプシー調のⅡ度に置き換わった場合、イ短調のⅡ度の和音 [h・d・f] という減三和音はAハンガリアン・マイナーのⅡ度と変化した時 [h・dis・f] という硬減三和音に置き換わる事になる訳です。

 これは、硬減三和音が長三和音の第5音が半音低められた物とは異なる変化和音であり、減三和音の第3音が半音高められて生じた硬減三和音である訳であります。こういう状況を鑑みれば、変化和音とは長和音から生ずる物ばかりでなく、短和音や減和音からも変化音が生ずる例があるという事をあらためて確認する例となり、短増和音を生ずる事自体何ら問題の無い状況となる訳です。

 短調と対位法と和声体系が夫々多様化する事に伴ってジプシー調たるハンガリアン・マイナー・スケールの体系は生じた訳ですが、F.リストのそれとバルトークのそれとでは中心音の採り方が異なるのは有名な話です。現今社会に於てハンガリアン・マイナー・スケールとして用いられるそれは「Ⅰ・Ⅱ・♭Ⅲ・♯Ⅳ・Ⅴ・♭Ⅵ・♮Ⅶ」という物であり、リストはこのハンガリアン・マイナー・スケールの第5音をモードとして用いていたのであります。つまり、ハンガリアン・マイナーの第5音を中心音とする捉え方として曲を構成したのであります。

※ダブル・ハーモニック・スケールは [Ⅰ・♭Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴ・♭Ⅵ・Ⅶ] という音組織で構成されている音階であり、これはF.リストが用いたハンガリーの音階の原型でもあります。この音組織の第4音から開始されるモード・スケールが能く知られる所のハンガリアン・マイナー・スケールであり、バルトークの場合はそのモードを中心音とした訳です。リストとバルトークとの間でこれらの中心音(フィナリス)の採り方が変わるのは音楽の系譜と時代の変遷が成した物でありましょう。

 ダブル・ハーモニック・スケールの最たる醍醐味は、その音組織の音程構造が上下に対称構造を生じている鏡像関係にあるので、パーシケッティは自著『20世紀の和声法』に於てその投影構造から作曲技法のアイデアとして載せているのであります。

 音楽の世界に於て新しい事が常に良いという訳でもなく、旧い物から新たなるアイデアとして昇華する事は珍しくもありません。ただ、ハンガリアン・マイナー・スケールの使われ方というのは、体系を纏め上げる歴史的側面から見ればダブルハーモニックとしての見立て方の方が古いのでありまして、その後の「新しさ」という意味で私は表現している物に過ぎません。

近年ではリック・ビアトが自著『The Beato Book 2.0』p.19にてダブル・ハーモニック・スケールを「ダブル・ハーモニック・メジャー」として紹介しております。これは歴史的背景と、Ⅲ度から生ずるモード・スケール=「ウルトラフリジアン」としてフリジアンがオルタレーションしている事も含め、各音度から生ずるモード・スケールへのモード・スケール名の語句嵌当が見事に成されている物であり、旧来からの「ダブル・ハーモニック」規準の見立てが新たなるモードへの開拓と共に、ハンガリアン・マイナー基準からだとウルトラフリジアンがⅥ度に追いやられてしまう事のそれを避けての再整備・再構築の意図が感じ取れるので非常に好い体系整備であると私は考えます。




 ジプシー調の起こりに密接な関係となるのが実はアンダルシア進行に括られる事になるフリギアのオルタレーションであると言えるでしょう。所謂スパニッシュ・モードとして知られる8音音階は、フリギアのⅠをピカルディー終止の様にして同主調の音脈を採り込み乍ら「♭Ⅱ度」となるフリジアン・スーパートニックを根音とする長和音は、フィナリスとなる「Ⅰ」を見乍ら奏する事で「♭Ⅱ△」というメジャー・コード上の長七度音として聴く事の出来る偽終止感を備えている事に加え、「♭Ⅲ度」上で生ずる長和音も生ずるので、スパニッシュ・モードでは「Ⅰ・♭Ⅱ・♭Ⅲ」度上で夫々長和音を得る事になり、この平行和音と共に「♭Ⅱ→Ⅰ」という、原形となるフリギア終止としての下行導音形の情感も残して発展した訳であります。


 嘗てエドモン・コステールは自著『和声の変貌』の28頁に於て、ケクランがブリュノーの「夢」のアンダルシア進行となる特徴的な部分のそれを複調的な分析している言葉を引用しつつも、ケクランの言葉を援用するのではなく、当該部分から遠く離れた章となる149頁にて「ハンガリーでよく使われる〈中略〉C Des E F G As Hを例にとり〜」という風にハンガリアン・マイナー・スケールのⅤ度を中心音に見立てる前時代のリスト風の見立てを立てている所からもお判りの様に、コステールのアンダルシア進行およびハンガリアン・マイナー・スケール、フリギア調やナポリタン・マイナー関連への分析が及んでいない所があらためてブリュノーの「夢」への分析が甘く、ケクランの言葉を援用するかのように見せかけておき乍ら自説を都合よく忍ばせる断章取義の癖があらためて能く判る部分でもある為、コステールの言葉は心底信用するに足りないのが露わになっているのが判ります。




 コステールのこうした自家撞着は嘗ての私のブログ記事でも断罪しておりますし、ヒンデミットの優位二声部に見られる「近親音」への洞察の甘さに対する批判も他の記事で私は繰り広げておりますので、この機会に興味のある方はあらためて目を通していただければ幸いです。

 エドモン・コステール著『和声の変貌』に書かれる和音の親和性表というのは、それを端的に確認する上では能く纏められている物の、これはコステールの独自の発想でも何でもありません。この手の親和性的数値はオイラーやルソーも纏め上げておりました。それをコステールが編纂した様な体系に過ぎないという事をあらためて念頭に置いていただければ『和声の変貌』とやらがどの程度の書であるのかは推して知るべしです。


 斯様なフリギアの発展に伴うアンダルシア進行は、その音組織の構造の断片を抜粋するとテトラコルドとして、グレゴリアン・モードの時代では禁止されていたフリギアの上行導音を採るそれが形成される事に等しくなります。この導音化されたフリギアは一部にて知られるナポリタン・マイナーの事でもあります。それが次の図の「1」に見られる譜例となります。

Gypsy_HarmonicMinor1.jpg


 例示したEナポリタン・マイナーから「Ⅴ・Ⅵ・Ⅶ・Ⅰ」度というテトラコルドを今一度念頭に置いて下さい。そこで今度は次のAハーモニック・マイナーを確認してもらう事にしましょう。

Gypsy_HarmonicMinor2.jpg



Aハーモニック・マイナーはご存知の通り、Aナチュラル・マイナーから第7音が上行導音を採る導音欲求(Leittonbedurfnis)が起こる事で「Ⅵ度」とは同時に増二度を形成するのですが、短調での増二度は禁止されている訳ではないので、Ⅵ度も「♭Ⅵ」から「♮Ⅵ」へ変じる必要はないのです。


 西洋音楽の旧い体系が増二度を避けたのは乞丐の人々達の様な、つまりジプシー臭さを持たせたくなかったが故に避けていたのでありますが、音楽の多様化と共に増二度は受け入れられる様になった訳です。教育の側面から言えば増二度を忌避するのは、正しいオルタレーションであるムシカ・フィクタの術と対斜を排除する様にして「調」を重要視して誨える必要があるからです。多義的に響かせてしまっては原点が崩れかねないので厳格に取扱っているだけの事であり、教育の場面ではなかなか見られない現実が実際にはあるのだという風に思っていただければ好いかと思います。

 いずれにしても、こうした状況を甘受したくない立場を採る人があるとすればその方はこうした音楽観を知る必要の無い段階にある人に過ぎないと思っていただければ、こうした点を覚える事で自身の音楽的感覚が穢れる事はないと思うので、自身の好みの範囲で私のブログに向き合っていただければ結構です。

 扨て、譜例「1」「2」で示したテトラコルドを互いに集めて折衷を採った後にはどうなるか!? というと、次の「3」の音階を生じます。これがAハンガリアン・マイナー・スケールです。

Gypsy_HarmonicMinor3.jpg


 実際には短旋法のひとつに括られる非チャーチ・モードの「ジプシー調」として活用されるので、先の2組のテトラコルドの組合せは結果的に「Ⅰ─Ⅴ」のペンタコルドと、Ⅴを共有するコンジャクトの形で「Ⅴ─Ⅰ」テトラコルドを生ずる物として成立する訳であります。

 また、あらためて附言しておきますが「調性」とは2組のテトラコルドの組合せで生じているというよりも、Ⅰ─Ⅴのペンタコルドと、Ⅴをコンジャンクトさせてのもうひとつの補充関係にある4音のテトラコルドで以て初めて形成されるのでありまして、テトラコルド同士の組合せというのは実は「旋法性」という性格=コンテクストを判断している事になるので、その辺りは注意をして欲しいと思います。調性=tonal の上位に「調」があり、tonal というコンテクストの中でムシカ・フィクタという可動的変化を採らないのが、その下位となる旋法=modal という解釈になるので注意して下さい。tonal 社会での各教会旋法は適宜ムシカ・フィクタを採る世界観であり、変化音を生じさせずにモードの音組織を墨守する取扱いが modal である訳です。

 ジャズというのは「Key」を叛いているのです。それが偶々 tonal を随伴させます。モード・ジャズというのは modal を強行する世界観なのであります。但し、モード・ジャズにはポリ・モードをマイルスは実際に初期の頃から実践していたという事だけはあらためて附言しておきましょう。


 扨て本題に戻り、ハンガリアン・マイナーがどのようなテトラコルドから得られたか!? という事があらためてお判りになったのではないかと思います。ナポリタン・マイナーとハーモニック・マイナーからの折衷として出来た段階であらためて確認しておきたいのは、それらが関係調の調域として四度/五度圏の調域を用いていた事をあらためて注視して欲しい部分であります。つまり、主従関係は扨置き、定旋律・対旋律との関係にて短旋法の類を操作すれば、こうした線的要素は生まれて然るべきとなる音楽的な必然であったと言える訳です。

 しかも、グレゴリアン・モードを取扱う時代のフリギアは、Ⅴをドミナントと採れずⅥ度をドミナントに措定する訳です。それを教育の場で厳格なまでに教えられたからといって、その後の西洋音楽の変容を知らないままにして原点の部分だけの知識を煦めているだけでは高次な音楽的ステージを語る事はできない訳です。その辺りはきちんと自覚していただきたい所です。処が、フリギアの上行導音というムシカ・フィクタとは別にナポリタン・マイナーという別のモードを打ち立てると途端に音楽的な強弁が成立してしまうのですから音楽とやらは一体何を墨守し、何に向おうとするのか!? という事をあらためて顧みれば、変容の方を重視するのは最早明々白々な訳であります。


 Aハーモニック・マイナーの第5音をモードとする別名Eハーモニック・マイナー完全五度下スケールですが、これとてスコーピオンズのウリ・ジョン・ロートやその後のイングヴェイ・マルムスティーンの十八番であるフリジアン・ドミナントである訳で、つまりは、ハーモニック・マイナーのⅤ度を中心音(フィナリス)として延々と弾くという例のアレの事です。スコーピオンズの「カロンの渡し守」などは典型的な好例です。こうした中心音は果して「トーナル・センター」であるのか(笑)。そう思い起こしていただければ幸いです。

Gypsy_HarmonicMinor4.jpg





 ハーモニック・マイナーという性格の中心はその主音にある訳ですから、トーナルとするにはハーモニック・マイナーという風に主音をわざと遠ざけてハーモニック・マイナーの情感に負けじと演出される他の音度を中心音とするモーダルな状況でなくては成立しえません。そのモーダルな状況を「トーナル」という性格の方で呼ぶには少々語弊が生ずるのではないでしょうか。そういう意味でファイナリティーやフィナリスをあらためて嵌当する方が適切ではなかろうか、とあらためて思う訳であります。


 加えて、グレゴリアン・モードがフリギアのドミナントとしてⅤ度を避けてⅥ度に採っていた事を思えば、ナポリタン・マイナー・モードを取り扱う様になった現今社会では、フリギアの上行導音化をさせているのと変わりないのでありますから、ハーモニック・マイナー・モードでのフリジアン・ドミナントの中心音の取り方というそれが時代を経て「別のコンテクスト」という風にして敷衍される様になったのですから実に興味深い所でもあります。


 ハ長調の音組織とGミクソリディアンは同じ音組織の配列構造ではありますが、Gミクソリディアンとするからには [g] が中心音となる長旋法類のひとつとして見做す必要がある訳ですから、どちらかと言えばト長調の第7音が半音下がったのがGミクソリディアンとして解釈すべきである訳です。

 これら二つの「トーナリティー」は夫々、ハ長調の側は勿論ハ長調である訳ですが、Gミクソリディアンのトーナリティーと言われればそれはKey=Cにあるべきではなくト調ミクソリディアである訳ですね。トーナリティーで済ませば、その調性格の根源がどこにあるかが明確になるものの、それを「トーナル・センター」としてしまうと迷妄に陥りかねないという言いたい訳です。どういう事を表現しようとしているのか位は私とて重々承知の上でこうして語っている訳ですけれどもね(笑)。


 シェーンベルクが表現したかったトーナル・センターというのは、各声部における旋法的な重力を単に無調の対比構造として明示化したかっただけの事であります。それがよもや、十二音技法から「恣意的」に各旋法の断片として解釈されてしまうとしたら、十二音技法が「調性音楽」からの断片を巧妙に配列を並び替えただけの詭弁になりかねない訳であり、それが詭弁とならない様に仕立てるには、協和的な配列構造をトコトン潰さなくてはならなかった訳です。

 ですから一応は「十二音技法」が成立した訳であり、そこには旋法的断片として恣意的に捉えられない為の物であるので「トーナル・センター」が十二音技法からは見える事はない、と好意的に解釈するのが十二音技法に過ぎない訳です。トーナル・センターという呼称は対位法的な多声部に忍ばされる時の曖昧模糊としたシーンに於て措定の為に判断せざるを得ない状況で用いるべき言葉であると私は考え使い分けているのであります。

 今回あらためて、時効警察から対位法に及び、トーナル・センターまで述べる事が出来たのは新年早々の嬉しいニュースがあったに他有りません。少なくとも音楽的な誤謬はトコトン排除していきたい物です。