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「愛しのマキシン」を楽譜面にて比較する [スティーリー・ダン]

 昨秋シンコーミュージックからドナルド・フェイゲン『ナイトフライ』【ワイド版】があらためて刊行されたのは記憶に新しい所でありますが、私個人の見解を語る為にYouTubeには既に「Maxine(邦題:愛しのマキシン)」のイントロのピアノ譜をアップしているので、これを期に色々と語ってみようと思います。



 スティーリー・ダン(以下SD)関連で楽譜が重宝される理由というのは何と言っても、彼等(ベッカー&フェイゲン)の楽曲に対するコード・ワークの拘りの強さを堪能できる点にあり、そうした音楽的側面の敷居の高さの前には聴取者の多くは採譜や聴音が難しくなってしまい矗々(ついつい)嘆息してしまう物です。

 それに加え、本人達の監修以外でリリースされる多くの楽譜やコード表記の内容となると途端に信頼に値しない物が非常に多いが故に、彼らの関連作の楽譜リリースとなると注目を集める事になるという訳です。

 楽譜として販売されている物や雑誌の特集の記事に添えられるスコアの断片など、スティーリー・ダン(以下SD)の楽曲は材料に扱われる事は少なくないにも拘らず精度を欠いている物も非常に多いというのが実際です。私自身、YouTubeにアップしているヴォイシングの一部と今回のシンコーミュージック版のそれを比較すると、私の採譜のそれの方が違っていたのではないかとあらためて自分自身に疑念を抱いてしまう部分も発見する箇所があった物ですから、こういう機会にあらためて言い訳ついでに語っておきたくなったという訳です(笑)。

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 フェイゲンの1stソロ・アルバム『ナイトフライ』は、CD全体のアンサンブルやミックス具合のそれらは今猶お手本とされる程に位置付けされているアルバムでもある訳で、好き嫌い関係なく音響テストの様な場面でも必ず常備されるアルバムのひとつであるのは疑いのない所でありましょう。Macが導入される以前のSSL卓がスタジオを席巻する時代の頃からずっと、『ナイトフライ』はマスターピースであった訳であります。

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 デジタル黎明期というのは現今社会の様な方法論に乏しく、先例の顰に倣いつつ、ほんの僅かなクリッピングを恐れるがあまりにレベルを低く採る傾向が強かった物です。今でこそインター・サンプル・クリッピングを防ぐリミッターがありますが、CD黎明期の頃というのはゲインを稼ぎつつインター・サンプル・クリッピングも抑制してくれる様な機器は無かったかと思います。相当周到にクリッピングを抑えてゲインを稼いでCD-DAにプレス出来ていたCDアルバムとなると、EW&F『黙示録』とシャカタク『Night Birds』位しか存在し得なかったのではなかろうか!? と思える位であります。その後90年代に入り、レイ・ヘイデンがプロデュースしたクレモンティーヌの「男と女」は相当にゲインが稼がれており、ああしたゲインを稼いだ音が一時期はトレンドとなった訳ですから時代の変遷をこうして俯瞰できる自分も齢を重ねた物だと実感させられます。まあ、『黙示録』はジョージ・マッセンバーグのGML製品が使われている訳ですからそれを思えば、あらためて恐懼の念に堪えません。

 デジタルのクリッピングを恐れるがあまりにゲインを低く採ってしまった場合は、概して人間の聴覚が捉える楽音的な部分の中低域〜中興域の情報量も比例的に低下させてしまうので他の楽器との定位が非常に近い音像はあおりを受けてしまって平滑な音像として同一化してしまっている様になり、立体感が損なわれてしまう様に聴かれてしまう物も少なくなかったと言えるでしょう。そういう意味で一部の人々の間から《CDはレコード(アナログ)をまだまだ超えられない》と揶揄されていた訳でもあります。

 そうした問題があったからか、EBU R128が制定される様になってからのデジタルへの方法論が従来よりも遥かに高いレベルで整備される様になってからのリマスタリングというのは同じCD-DA盤としてファイナライズされても音の立体感の違いは雲泥の差にもなるのでありまして、時代を超えてあらためてCD用リマスタリングを施されるアルバム『ナイトフライ』を耳にすると、アルバムのそれが全面的にデジタル黎明期のデジタル・レコーディングであったにも拘らず、CD黎明期各パートの音量の採り方の巧緻さや定位の巧みさ、デジタルに埋没されないテクニックが凝縮されている事をあらためて痛感させてくれるエバーグリーンの存在であると私は信じて已みません。

 後年になってフェイゲンが公言する様に、『ナイトフライ』のそれは確かに当時のデジタル特有の音質キャラクターをネガティヴに捉えているのか、特に金物類(=ハイハットやシンバル類)に感じている様であります。フェイゲンのこうしたボヤキは『カマキリアド』の頃から延々と語られている物でもあるのですが、オープンリール・デッキにて上限で50kHz超をもアナログで再生してくれた当時の音を知っている方であればその情報量の豊かな音の凄さを現今のデジタル音声が凌駕している様には聴こえないかと思います。

 なにせ、そのオープンリールを半分の速度で再生してもサンプルレート48kHzのデジタル信号のそれよりも情報量を記録できた音を存分に耳していた人である訳ですから、CD-DA音質を易々と甘受するというのは六ヶ敷い事でありましょう。

 無論そうしたハイエンド機器の信号記録は確かに凄い物ではありますが、可聴帯域外の周波数を人間は直接聴いている訳ではないのも事実であります。

 とはいえ音声信号情報量の記録拡大は可聴帯域に随伴する高次倍音を豊かに捉えている事になる為、2kHz辺りを基本音とする音の4オクターヴ超にも相当する帯域を随伴させて記録可能なスペックのそれは矢張り素人耳であっても一度聴かされればあらためて凄いと感じる物です。

 換言するならば、基本音から数えて第8次倍音よりも上のそれを捉えきれないのであるならば、それは単にデジタル記録面で人間の知覚とは別の方面でスポイルされているだけで決して音色キャラクターの差異として記録されてはいないと思い込みたい素人考えすら否定しうる材料となって、素人耳には音質的に「こもって」聴いてしまう位の事実でもあるのです。1kHz辺りの基音が随伴させる高次倍音ですらも「色艶」を感ずるブライトな部分のそれを聞き分けられない事に等しくなってしまう訳ですから、フェイゲンのデジタルへの嘆息にも合点が行く所ではあるのです。

 故ロジャー・ニコルスがAD/DAコンバーターを製作して搭載した3MのMTR。エイリアス・ノイズの畳み込み(ロール・オフ)方法など、デジタル黎明期の当時ではその動作方法のイメージをなかなか掴めない物でしたが、後年になってカーティス・ローズ著『コンピュータ音楽』(東京電機大学出版局刊)や河合一著『デジタル・オーディオの基本と応用』(誠文堂新光社刊)を読んで漸く理解に及ぶ様になった私ですので、それまで四半世紀ほどの年月を費やし乍ら、無知が齎すメーカーやコラムニストのバズワードが己の欲求を不必要に増幅されて要らぬ出費を重ねてしまった事もあり反省頻りであります(笑)。


 なんやかんやで本題に入ろうと思いますが、今回あらためて刊行される事となった『ナイトフライ』【ワイド版】の譜面部分を前回刊行された『ドナルド・フェイゲン ナイトフライ』と比較すると、私が見落としていない限りは同一であり改訂とされている部分は無いようです。以前の版はレター・サイズに近しい変版でありましたが、今回の版は「ワイド版」と称するだけあって、菊倍判よりも一回り大きいサイズとなっており、譜面部分を計測してみたところ約6.7パーセント程拡大されている様です。


 私個人としては、アルバム『The Nightfly』を真っ先に楽譜を確認したい曲を挙げるとなれば「Maxine」なのでありますが、その理由はAメロのセクショナル・ハーモニーに依る多声コーラスおよび絶妙なジャズ・ヴォイシングのコード・ワークに加え、故マイケル・ブレッカーの四分音が入るソロ(記譜上では四分音は十二等分平均律にローカライズ)にあります。

 グレッグ・フィリンゲインズに依るフラッター・ペダルや先行和音を後続和音に引き摺る様に繋ぐレガッティモ・ペダルが顕著である所でありましょう。とはいえ、私が要求する様な詳密な部分までは表わされてはいないのがバンド・スコアとしての限界でありましょう。これについては後述します。


 扨て、私の周囲のある1人の者は、アルバム『The Nightfly』で真っ先に譜面を確認したいのは「I.G.Y.」の冒頭のシンセのアルペジエートと言います。

 成る程、確かにこのアルペジエートは能々耳を澄ますと機械同期のシークエンス・フレーズではなく、上行/下行が不完全な人力アルペジエートの様に聴こえます。左チャンネルに耳を澄ませば採譜は容易でありましょうが、残念乍らこのアルペジエート部分は単音程への還元位置のヴォイシングの略記で書かれているだけなので、アルペジエートのオクターヴ重複や下行時の不完全な部分は反映されておりません。こうした部分も改訂されてはいないので注意が必要な部分ではあります。


 とはいえ、SD関連となると最も重要な部分となるのは和声を捉えている点でありましょうから、こうした演奏部分の詳細な部分よりもコード表記のそれが重視される事でありましょう。

 ギター・パートが実際には複数あっても、楽譜(バンドスコア)の方では第1ギターの部分しか採譜をしていないのは明記されておりますし、ギタリストからすればコード表記やトップノートから類推するか自身できちんと採譜するかという事になるのは致し方ない点でありましょう。とはいえSD関連の楽譜という括りで論ずるとこの楽譜はとても親切に明記されている方なので、これ以上のクオリティを世俗音楽界隈で望むのは無理だと思います。

 基本的に採譜というのはその作業工数もさる事乍ら、表現方法としての記譜に求められるそれや、世俗音楽と西洋音楽との間では価格が全く異なるので(※クラシック音楽はポピュラー音楽の数十倍のコストが伴います)、それに準ずる形で記譜を求めるとなると数千円で販売する事は到底不可能でありますし、ポピュラー界隈においてこれだけ書かれているのは寧ろお得であると言えるでしょう。

 デジタル・オーディオが取扱いやすくなっている現今社会に於て「I.G.Y.」のアルペジエート部分というのはパンニングのパノラマ感が大きく振られている為、パノラマそのものを分離してしまえば却って採譜がしやすくなる物です。音声ファイルをスプリット・ステレオ(SDⅡなど)に変換して採譜すれば片耳で聴くよりもやりやすいと思います。なぜかというと人間の音の知覚にも左右の得手不得手となる特性があるので、パノラマ感が振られ過ぎてしまっている方はスプリット・ステレオにしたり左右のチャンネルを入れ替えて聴くのも有効な手段となります。


 「Maxine」を語る前にもうひとつだけ触れておきたい曲があります。それが「Green Flower Street」なのでして、本曲Aテーマ部の特徴的なコード「Am6」というのは2拍目は経過的に [gis・h・d] を生ずる経過和音が辷り込みますが、一応弱勢にあるのでコード表記は確かに「Am6」という解釈で良いと思います。それら経過和音まで本体に取り込んでしまおう物なら「Am△7(9、11、13)」という旋律的短音階の主和音の総和音としての副十三の和音と成してしまいます。



 処が、これとほぼ同様の終止和音の結句部分を語るとなると「Am6」という表記で済ませてしまってはいけません。

 なぜなら [d] 音である11th音がオミットされた状態での「Am△9(13)」が終止和音であるので注意が必要なのです。加えて惜しむらくは、終止和音の当該部分の採譜は最低音 [a] を採りきれておらず、譜面上では [a] が省略された状態で「Am6」としているのはいただけない所です。

 確かに原曲の終止和音の部分は最低音が弱いです。物理的にはa=110Hzのピッチ・ハイトです。この音をシンコーミュージックの楽譜は拾いきれていないのです。おそらく中央ハ音や、それよりも短六度低い [e] を「まぼろし」の様に聴いてしまうかもしれません。その [e] も実際には鳴っているのですが、アンサンブルとして一番低く聴いてしまいがちな音はおそらく中央ハ音でありましょう。

 私の語る事に懐疑的になられている方は、おそらくシンコー版の採譜者と同様に低音域の採譜を不得手としている方でありましょう。然し乍ら、これよりも低くなるオクターヴ域での完全八度音程は「Maxine」のピアノ・ヴォイシングに現われる一部の箇所ではきちんと採られていたりするので、オクターヴ補強が伴うと採譜がし易くなっていたりする様な癖を持つ方なのでありましょう。

 孰れにせよ原曲の当該箇所を己の耳で確認していただければ私の語っている事をあらためてお判りいただけるでしょうから、終止和音の当該部分を音声ファイルにコンバートしてサンプラーなりに取り込んでみて1オクターヴ高く再生してみれば聴き取りにくい最低音の存在は直ぐに判明する事が出来るでありましょう。

 その終止和音のヴォイシングは、YouTubeに譜例動画としてアップしておいたので確認してみて欲しいと思います。この譜例動画は原曲よりも『The New York Rock & Soul Revue』を踏襲して作った物ですのでご容赦下さい。原曲の実際は終止和音部分に於てベースは奏鳴されませんが、ローズが弱く弾いて補っているのであります。


 唯、私が「Green Flower Street」の終止和音を声高に語りたい部分は「Am△9(13)」での最低音の採譜の取りこぼしの事ではなく、終止和音のシンセ・ブラスとおぼしきグリッサンド部分なのですね。実はこのグリッサンドを私は常々「四分音」のグリッサンドとして聴いており、今回あらためて確認した所、矢張り微小音程である事を確認できました。

 私は度々微分音の話題を引き合いに出すせいか、懐疑的な人からすれば「なんでもかんでも微分音をこじつけて慫慂する様に語るんじゃない!」などと言い出しかねないでありましょうが、実際に四分音梯にてグリッサンドが施されている様に聴こえるのですから致し方ありません。

2020年10月27日追記

 Sygyt社のVoceVista Videoに「Green Flower Street」の終止和音部分を取り込んだ所、グリッサンドの最初の2音だけでも四分音による物だという事が判明しました。その後のグリッサンドも漸次四分音になっているのは言うまでもなく。

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 上に例示した画像のクロスビーム(=十字カーソル)部分のピッチ・ハイトは「B6」です。-5セントとなっておりますが、この音すらB6から逸れた音だと決め付ける必要はないでしょう。ここから四分音(50セント)下がるか否かは次の画像でお判りになります。

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 あらためてお判りの様に「B6」から-48セントを示しており、トラッキング基準で言えば相対差は43セントにしか過ぎませんが、この音程差は四分音のトラッキングがソフトの性格上で均されたものに過ぎず、以降も漸次四分音下向を繰り返している事は歴然です。遅れて他の指が更に高い音からグリッサンドを追行するのも画像からあらためてお判りになるかと思いますが、重要な事は四分音によるグリッサンドの事実であります。懐疑的な旁、お判りですね!?



 然し乍ら私とて、80年代前半に、どのようなシンセのセッティングで四分音梯を実現していたのかまでは判然としない為不安に陥るところはありました。実際に聴こえて来る四分音を前にしても、時代背景や機械類のそれらを勘案してみても私の見識の浅さが禍して不安を増幅させ、四分音という24等分平均律をどうやって実現していたのかという術など到底考えられないものです。そうした不明瞭な事実の前に己が敗衄し、本来の事実となる「聴こえている」知覚すら均されてしまいそうになる物ですが、それをどうにか堪えて恥を忍んで斯様に公言しているのであります。

 今回、己のヘッポコな聴力をあらためて確かめる上で当該部分をオーディオ化してスペクトラム分析してみたのでありますが、やはり微小音梯グリッサンドはそうしてあらためて確証を得た物であります。だからこそ「ピューン」とした感のポルタメントに近しいグリッサンドに聴こえるのであろうと確信したのでありますが、恐らくやパッチング可能なアナログ・シンセで電圧を制御しない事には四分音律(24等分平均律)を得るのは不可能なのではないかと思います(2オクターヴ排列の鍵盤数で電圧が倍加)。

 その他の方法で四分音梯を得られる方法があるのかもしれませんが、私自身いくら微分音に興味はあれど微分音をMac上で自身で再現する様になるのはMaxがこの世に現われて以降の話になるので、それよりも遥か昔の機器にて「n等分平均律」を実現するにはどういうパッチングにすれば良いのか皆目見当が付く訳もありません。フェイゲン等がどのような形で実現させていたのかは判りませんが、終止和音のグリッサンドが四分音梯があるのは疑いの無い事実ですので、その辺りはあらためて念頭に置いていただきたいと思います。

 YouTubeデモの方は、そのシンセ・ブラスのトップ・ノートが打ち込みだとどうしてもオモチャの様になってしまうので、左にパンを振って、より中央近傍のアンサンブルの対比として現われる様に施しております。シンセ・ブラスのトップ・ノートも弱めになる為、原曲の終止和音部の様なハイトーンの感じではなく、中央近傍のアンサンブルが前面に現われる事で1オクターヴ低く聴こえてしまう様な観を受けるとは思いますが、原曲はYouTubeに上げた譜例デモのベース音を無くせば譜例動画通りの状況が原曲のアンサンブルを示しているのであり、それを重要視した上でデモのクオリティにミソを付けられてしまうのは的を得ない批判でありますのでその辺りはご容赦願いたいと思います。最も重要な事は、楽譜通りに甘受してしまう事の危険性を呈示している事であるので、その辺りの事が読み取れず、デモのクオリティや楽譜とは反する表記に対してご自身で確認される事なく批判される様な事は避けていただきたいと思います。早速「ダメ出し」を受けてはおりますけれどもね。その手の輩は本意とする部分を読み取れていないのでありましょう。


 扨てグレッグ・フィリンゲインズの「Maxine」の話題に移る前にもう少し語るべき事があります。YouTubeに私が採譜した「Maxine」の譜例動画をアップしてから本記事投了まで1年ほど経ちますが、今あらためて譜例動画を振り返り乍らバンドスコアの採譜と比較すると私の採譜のそれはあらためた方が良かったであろうと思う箇所が1、2箇所あるのは否めません。その辺りに関しては私がバンドスコアに屈伏せざるを得ない部分であるので、それらは追って説明する事にします。

 先述した様に「Maxine」の魅力は、グレッグ・フィリンゲインズに依るピアノのプレイに占めるウェイトが大きかろうと思います。そしてAテーマの特徴的なセクショナル・ハーモニーやマイケル・ブレッカーの四分音を絡めたソロ。これらに尽きるかと思います。

 グレッグ・フィリンゲインズの魅力的なプレイとなっているのは、フラッター・ペダルとレガッティモ・ペダルというサステイン・ペダルのペダリングに尽きるかと思います。ですので冒頭でも触りとして述べていたのでありますが、フラッター・ペダルというのは曲の拍節感に合わせてハーフ・ペダルを足で刻む物と考えていただければ宜しいかと思いますが、ジャズ/ポピュラー音楽のみならず西洋音楽界に於てもハーフ・ペダルまで記号化されている事は少ない物であります。

 とはいえ、ピアノという楽器の音色をある程度熟知していて、その特長的な音を響かせようとする場合ハーフ・ペダルというのは量感や音色の側面に於て非常に重要な役割となる事は自明な事なのでありますが、悲しい哉ジャズ界隈のピアノというのは、ハーフ・ペダルを重用する様なシーンにお目にかかる事は少ない物です。

 というのもジャズの多くのケースというのは、その重畳しい高次なハーモニー形成の為にピアノが大きなウェイトを占めているのは疑いの無い所であり、ハーモニー形成という、ジャズ・ハーモニーを司っている「コード」に準則する為には、先行音の残響が後続和音に及ぶかの様に引き摺る余韻は、後続和音を単に濁らせてしまう事になりかねず、多くのジャズ・ピアニストというのはソロ演奏ならいざ知らず、平時の演奏に於ては後続和音を的確に鳴らす為に運指を簡素化させる単なる掛留化させる為のペダリングになっているという事に異論を唱える方は極めて少ない事でありましょう。

 勿論、和声の発展というのは先行和音の残響が貢献して来た歴史があるので、重畳しい高次な和音間を連結する状況であって、先行和音が後続和音の頭に僅かに余薫が残る「綺麗な溷濁」の世界感という物を知るピアニストも多く存在する事も確かです。然し乍らジャズ・フィールドの多くは、こうした「綺麗な溷濁」という状況を生むレガッティモ・ペダルに代表される様なペダリングという物を聴く機会は非常に少なくなるのが実際であると断言できます。

 私自身、YouTubeにアップして来た譜例動画で、無味乾燥な打ち込みで表現しているピアノ演奏の物とか多数ありますが、それは私が目的とする所が異なる為必ずしも総ての鍵盤演奏にて全方位的に理想的な演奏を繰り広げようと企図している物ではありません。というのも、良い曲というのは和声構築というアンサンブル状況が原曲と合致しているならば、どんなにチープな打ち込みであろうと原曲の素晴らしい状況を「和声的に」再現してくれる物であると信じて已まない部分があるので、目先の音色キャラクターで耳の判断が左右されてしまう様な方というのは器楽的経験が乏しい方に多い判断基準であると思うので、私はそういう側面を一切気にせず、敢えてチープな打ち込みでデモを作ろうと企図している所があります。それでも尚、良い曲というのはアンサンブル状況さえ掴んだハーモニー形成として再現できればどんなにチープな音でも原曲が蘇って来ると信じています。これは商用着信音を作っていた時から実感している事でありますし、嘗ての着メロブームをご存知の方であれば、曲の魅力とは原曲の持つハーモニーや線運びが総てなのだとあらためて感じていただける事でありましょう。


 ハーフ・ペダルあるいは1/4ペダル、3/4ペダルなど細かいペダリングの技法がピアノの世界にはあります。ジョーゼフ・バノウェツ著『ピアノ・ペダルの技法』やシュナーベル著『増補版 ペダルの現代技法』などは今猶私がお手本とする教本でもあります。まるで私が口角泡を飛ばすかの様に斯様にペダリングに関する書籍などを紹介しているという事が、その重要性をあらためて理解していただければ幸いなのでありますが、グレッグ・フィリンゲインズの演奏のそれは紛れも無くペダリングを駆使した演奏である、ジャズ・ヴォイシングを施したプレイとしてはかなり珍しい物であると言えるのです。

 加えて、その「珍しい部類」とするのはレガッティモ・ペダルが顕著です。つまり、先行音を後続音に引き摺る類の物です。レガッティモ・ペダルの妙味にあまりピンと来ない方からすれば、

《前後の和音が全く無関係な響きを混ぜる様にして響かせるのは怪しからん!》

という風に思われるかもしれません。私自身、若い時分はそう思っておりました。然し乍ら、重畳しい和声感に慣れて来ると、レガッティモ・ペダルによる「美しい溷濁」の妙味は、味覚の苦みを堪能するかの様な部類に属する物に等しい感覚に思えるものでありまして、高次な和声間ほど意外にも功を奏する事が多いのであります。これは不思議な物です。

 私が先行音の溷濁に依る「余薫」をレガッティモ・ペダルの発想として感じる事が出来る様になったきっかけとなったのはストラヴィンスキーと坂本龍一の影響に依る物でした。

 ストラヴィンスキーのそれというのは別段、先行和音を引き摺る掛留和音としての「余薫」とは無関係であるのですが、「春の祭典」第1部の大地礼賛における「乙女達の踊り」の特徴的なあの和音。下が「E△」(E dur)で上が [g・b・des・es] という属七とのバイトーナル・コードです。



いわばペレアス和音にも似る、下声部から見た♮Ⅶ度上にある長和音(または属七和音)の響きを私が先に体得していた事もあり、後の坂本龍一の楽曲にアレンジされる響きにそれと似たバイトーナル・コードの雰囲気を感じ取ったの事を「きっかけ」と表現したのであります。


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 その曲というのが坂本龍一&ザ・カクトウギ・セッションのアルバム『Summer Nerves』収録の細野晴臣作曲の「Neuronian Network」であります。余談ではありますが本アルバムは当初はアナログ時代から廉価シリーズとしてプレスされており、その後のCDもソニーに能くあった薄型プラケースの「CD選書」シリーズで発売されておりました。然し乍ら、品番「MHCL30130」では通常の包装として再リマスタリングが施され、音像・音質ともに以前のCDマスタリングよりも格段に質が向上しておりますのでお薦めします。また、ライナーノーツに於ても坂本龍一本人に依る告白として「アブドゥーラ・ザ・”ブッシャー”は渡辺香津美の変名」である事が明言されておりますので、こうした所にあらためて確信が持てる出典としても役立てる事が出来るかと思います。

 なにしろ音質向上は単にゲイン向上だけではなく、特に「Sweet Illusion」の各楽器の輪郭の立体感の向上に尽きると思います。旧盤だと、似た定位に位置するパートの中庸の音量辺りだと、異なるパート同士でも平面的に張り付いてしまった様な感じで埋没してしまい採譜しにくい所が多いのですが、新マスタリングだと渡辺香津美のソロでのヴォコーダー(ローランドのフォルマント・フィルター)を用いたシンセの分離が極めて良く、特にパーカス類も非常に良く分離されているので他のアンサンブルを邪魔をせず、渡辺香津美のギター・ソロ直前のオベーション・アダマスと思しきワイド・ストレッチ・フィンガリングのアルペジオ部分の際立ちなど、筆舌に尽くし難いほど素晴らしい分離感ですので、耳にするなら断然新マスタリングだと断言できます。

 扨て「Neuronian Network」は、NHK-FMの伝説の番組「クロスオーバー・イレブン」に於ても不定期乍ら頻繁に流れる曲でもあった事が懐かしいのでありますが、譱い意味で睡眠を心地良く誘う様なゆったりとした曲調と、浮遊感が有り乍らも調性のコントラストが見事に演出されているモデラート調の感じであるからこそ、深夜にうってつけの曲として重宝されていたのでありましょう。

 本曲に現われる最初のブリッジで注目すべき点は、原調=ハ長調からさりげなくリディア調へと移旋してのCリディアン・モードでの主和音がリディアン・トータル「C△7(9、♯11、13)」として先行和音を響かせ、この先行和音としてのハーモニーが直後の後続和音へ掛留和音として後続和音「E♭add9」へと浸潤する事に依り「綺麗な溷濁」が生ずる事になります。この掛留和音こそが、ピアノのレガッティモ・ペダルの発想に見られる掛留のそれによって高次なハーモニーを生む状況に酷似する為、YouTubeの譜例動画では当該部分をピックアップしているのです。



 譜例動画部分は、本曲CDタイム1:26〜辺りからの部分でありますが、このブリッジ部分についてはYouTube動画の方でも詳しく述べておりますが、それについて此方でも述べる事にします。

 先行和音「C△7(9、♯11、13)」はリディア調の主和音を根音とする副十三和音となるリディアン・トータルになります。つまりト長調の調域の全音階組織を持つその調域のⅣ度上の和音であるという意味です。結果的にはCリディアンのフィナリスを根音とする副十三和音は全音階的に13度音を持つ七声の和音となるのでありますが、全音階的構造から総和音を形成するのであれば、副十三和音はその実、属十三和音の転回形に他ありません。

 結果的に副十三和音は、その全音階的音組織から生ずる属音上の総和音=属十三和音の根音を他の音度に違えただけの転回と成してしまうのは飽くまで「機能和声的」に解釈した時の事なのであり、旋法的かつディセプティヴ(偽終止進行)的に属音を叛く様な見方で音楽様式を進める方式を基にした時は、その副十三和音という構成音自体に三全音を包含してしまう属十三和音の転回としての在り方とは別の取扱いが生ずるのであります。

 その取扱いとは、音響的=自然倍音列に合致した和音構成音が属十三和音の排列を並び替えた排列として聴かせる物になる訳です。結果的には属和音の包含としつつも、属音を根音に置くという状況を叛いて暈滃する状況と言える訳です。

 そうして「C△7(9、♯11、13)」という副十三和音は、ト長調の調域のⅤ7=「D7」を包含しているのでありますが、この第1転回形 [fis・a・c・d] のドロップ2としたヴォイシングを下から [c・fis・a・d] という断片をシンセ・パッドに奏鳴させ、この「余薫」を後続和音「E♭add9」に引き摺る訳です。

 するとその余薫は後続和音に浸潤する事となり、「E♭add9」上で「D7」の馥(かおりかんばしい)音として一瞬耳に響くのであります。この「綺麗な溷濁」はまさしくレガッティモ・ペダルと同様の状況であり、楽器パートは異なる物の、和声的に俯瞰した時に「掛留和音」としての体を形成している事になる訳であります。これは偶然の産物でも荒っぽいミックスでもなんでもない計算ずくの賜物であると言えるでしょう。

 こうした複調性を醸し出すバイトーナル・コードを耳にして真っ先に思い浮かべるのが、先の「春の祭典」の「乙女達の踊り」の部分に見られる半音忒いの和音構造であったり、YMOおよび坂本龍一関連作品に詳しい方であれば、高橋ユキヒロのソロ・アルバム『Saravah!』収録の「Elastic Dummy」のイントロのコードを真っ先に思い浮かべる事でありましょう。

 そもそも「E♭add9」上で「D7」が鳴ると、実際には「春の祭典」よりも重畳しい和音構造となります。それでも、これがさりげなく聴こえる所があらためて凄いのであり、耳を澄ませば澄ますほど、その和声感の素晴らしさを堪能する事ができ、音楽の深みとして耽溺に浸る事が出来る訳であります。

 譜例動画に附言しておきたい事がもうひとつ。レガート・シンセでポルタメントで鳴らしているパートの下声部が声部交差して表わされており、しかもディミヌエンドしつつ注釈には「delay 四分音符×1」としておりますが、これは下声部に四分音符のシングル・タップ・ディレイを掛けろという意味ではなく、上声部の先行フレーズが1拍遅れのカノン状態で四分音符のシングル・タップ・ディレイとして下声部が鳴り、1拍半でそのディレイ(カノン部)のフレーズが止む状況を指しているので、下声部にディレイを掛けよという意味ではありませんので、その辺りはご注意下さい。ディレイとしてカノンの断片が現われるから声部交差しているのだよ、と。そういう意味なのです。



 ジャズ・アンサンブルのハーモニー形成に於てピアノが主権を握る様になるのは必然であったのかもしれません。ひとりの奏者が奏でる鍵盤の数こそが和声そのものであれば、これほど融通の利くアンサンブルは他に置き換える事が出来ない程であると容易に推察に及びます。他方、ホーン&ブラス・セクション・アンサンブルに目を向ければ、編成数に依ってはピアノと同等またはそれを凌駕するダイナミズムも得られるでありましょうが、ひとつひとつの音が悲しい哉一人の奏者に依る物なので、緻密に、そして高次に設計されたハーモニーを形成させる際の自由度の低さはピアノに到底及ばないでありましょうし、豊富な和声感をピアノひとつで得られる事がどれほど容易であるかは火を見るより明らかでもあります。

 ホーン&ブラス・アンサンブルの各奏者に目を向けると、中にはソリストとしても十分に客を集められるその後の「巨人」と称される人物を擁する物の、前述の様に、予定調和となる部分以外では計算された高次で複雑なハーモニーを形成させるのは至難の業でありましょう。至って当然の事ではありますが、各々が自自由奔放にインプロヴァイズをする中で適宜計算され尽くされたハーモニー形成など不可能に等しいからであります。

 加えてギターという物も和声感の形成には助力する物の、ギター特有のヴォイシングを好意的に受け止めるとなると、その自由奔放なヴォイシングに伴いギター以外のパートで重複する音が生じたりする物でもあります。ギターという楽器は異なる弦で同じ音高を得られる「異弦同音」が多数生ずるのが特徴ですので、ギター特有のヴォイシングやコード・フォームの自由度の高さというのは特筆すべき側面があります。

 そうした状況を鑑みると、一方ではギターだけを特別視する様なハーモニー形成は厄介なアンサンブルを生じてしまう事になりかねないので、アレンジの実際では最低限でもギター・パートのトップ・ノートが指定されていたり、場合に依ってはプレイヤーの独自判断が許されずにヴォイシングが指定されている事もままある訳であります。そうした事を思えば矢張りピアノがジャズ・フィールドに於て最も統御されたハーモニー形成を行ない易い楽器であり、そうしてハーモニー形成の覇権を握って行く様になったという意味なのであります。

 処が、ジャズ・ピアノという側面だけを凝視してみると、奏者が統御するハーモニーのレベルは非常に高次な物となるのは裏腹に、ペダル奏法を巧緻に採り入れている奏者は意外にも少ないのが実際であります。実質的にはハーモニー形成の実権を握ってい乍ら奏者自身はハーモニー形成に「無頓着」なプレイヤーが実に多いのも実際であります。

 今回は長音ペダル(サステイン・ペダル)のみに注力しますが、何しろジャズ界隈ではペダル操作の技法は、繰り返しますが「ほぼ」無頓着と言って差し支えないでしょう。

 ジャズは凡ゆる箇所で生硬且つ複雑な響きが多いので、先行和音のハーモニーが後続和音を疏外させてしまうかの様な残響を極力避ける人が多い物です。なぜなら、長音ペダルに依って思う存分先行和音の響きを「残響」として後続和音にまで及ぶ様に長く響かせると途端に溷濁の度が強くなり過ぎてしまう物です。とはいえ先にも述べた様に「綺麗な溷濁」という例はあるというのもあらためて理解した上で読み進めていただければ幸いです。

 音響的な溷濁を避ける為にコード・チェンジとなる連結時に直前の音をペダルで「切って」後続和音を奏するのが平時の状況でありますが、それは決して「響き」の溷濁を避けるばかりが狙いなのではなく、「運指」の自由度を高める為に後続の音の為に余裕を持った運指の為の手の配置をする事も長音ペダルの重要な技であるのは言う迄もなく、演奏目的としてはこの後者のペダル技術の方を先に体得する必要があるかと思います。

 高度な演奏を要求される様な状況であれば、ゆとりを持った長音ペダル操作は勿論、なるべくなら先行和音が後続和音へ溷濁を来してしまう事を避けようとする物でありましょう。ややもすれば、平時のペダリングが煩わしくなる事を回避する為に、コード・チェンジ以外の箇所では殆どペダリングが行なわれない様な状況も決して珍しくは無い事でありましょう。

 加えて、ジャズ方面のピアノ演奏表現に乏しい人の多くは、左手で和声を稼ぎ、右手はフレーズの為に運指が「準備」をしている術が西洋音楽界隈からのレッスンとして身に付いてしまっていて、その癖がなかなか離れずに右手で和声を補いつつ左手は7度音程や10度音程が下支えしているというジャズ・ヴォイシングを発揮できずに、左手だけで和声を稼いでしまおうとする方も結構多いので、この辺りはあらためて注意を要する状況であると言えるでしょう。和声感を補うのは何も右手だけではなく、補いきれない和声感を左手のウォーキング・ベースが補う事もあるので、分散和音に頼る事のないウォーキング・ベースの為の音程跳躍を身に付けていないとジャズ・ヴォイシングは難しいでありましょう。

 
 扨て、一旦「ハーフ・ペダル」に依るピアノの音色の量感を体得した者からすると、平時ではペダルを全く踏まずにコード・チェンジのみ長音ペダルを踏むそれが実に無味乾燥な演奏に聴こえてしまう物でありましょう。絶妙なバランスで配合された「リバーブ」を演出する事なく、時にはその「リバーブ」は音量の増減としてもふくよかに聴かせる事が出来る物なので、ジャズの多くの演奏には苦虫を噛み潰す様にして耳にしている人も居られるかと思います。

 MIDI機器およびDAW環境に慣れ親しんでいる方々からすれば、ピアノに於ける実際のハーフ・ペダルを味わえるのは非常に少ない状況である事は謂うまでもありません。何よりサステイン・ペダル用のMIDIコントロール・チェンジに与えられているのは0〜127の可変的な連続変化ではなく「ラッチ」タイプである物である為、実質的には「ON/OFF」のメッセージしか遣り取りが出来ない為、ハーフ・ペダリングが可能な音源では異なるMIDIコントロール・チェンジ番号を用いたり、或いは将来的にはOSCを用いたりしない限りは実際のピアノ演奏に伴うペダリングというのはそれに伴う音源のサンプリングも含めて、まだまだ改善の余地は多いと思います。

 こうした案件を鑑みると、通常のサステイン・ペダルのON/OFFという状況しか選択出来ない様な演奏というのは、ハーフ・ペダルを多用する人からすれば、リバーブのかかり過ぎた残響を常に強いられ、それを忌避すると無味乾燥なペダル・オフの音しか得られない状況しか得られない事になります。

 非常に高次な和声観という物は概して先行和音の「掛留」が齎したのも和声の歴史であった事を鑑みれば、実は先行和音の音が後続和音に及ぶという状況を忌避するばかりが良策ではないのであります。とはいえ、多くの状況ではコード・チェンジの度に先行和音の残響を引き摺る様なレガッティモ・ペダルは支障を来すのも事実ではありましょう。そういう意味でもあらためて先の「Neuronian Network」の掛留和音という高次な音響的な和声がああいうキャッチーな音楽に忍ばされているという事は驚きでもあります。

 セロニアス・モンクやジョー・サンプルの演奏に長音ペダルは不要ではないのか!? と思える所がある一方で、リチャード・ティーの様な演奏には長音ペダルは不可欠であろうと思います。

 私が感ずるジャズ/クロスオーバー界隈にてハーフ・ペダルが顕著なピアニストに挙げる事のできるのは、スタンリー・カウエル、ラムゼイ・ルイス、グレッグ・フィリンゲインズ等であります。今回はグレッグ・フィリンゲインズを挙げない訳には行かないのでドナルド・フェイゲンの「Maxine」を取扱う訳であります。

 「Maxine」のイントロを奏する際、ジャズを知る多くのピアニストの多くは原曲の持つ魅力的なペダリングのそれよりも、生硬な響きを持った和音を極力後続和音には響かせぬ様にして長音ペダルを後続和音の直前でリリースして残響を切る事に躍起になる人が多いかと思います。無論、長音ペダルを踏んでいる最中は、次の運指の為に、打鍵した鍵盤はすぐさま離鍵されている事でもあるかと思います。実は、ピアノというのは打鍵後そのまま押下し長音ペダルを踏み続けると、弾き続けられる鍵盤の音の響きは更に彩りを増し、音域や打鍵の強弱具合に依っては自然倍音をも響かせる事が可能であります。

 自然倍音(=上方倍音列)というのは低音域ほど潤沢であるのですが、強く打鍵すれば倍音がより強調されはする物の、溷濁度も増して特定の倍音が強調されづらい物です。

 概して第3倍音(=基音より完全十二度高位にある音)は、低域の鍵盤をメゾピアノ以下で奏した上で鍵盤を離鍵せずに押下したまま長音ペダルを踏んでおくと、より際立つかと思います。勿論ピアノの個体差に依ってかなり変わって来る物でありますし、特にピアノというのはその打弦位置というのは第7〜9次倍音が強調されぬ様にハンマーが叩かれる様にして設計されている物であり、第3倍音が共鳴し易い第6・12次倍音などが一緒に共鳴してしまうと、鋭さが耳につき易くもなり、却ってその倍音を殺そうと無意識に弱く弾こうとするでしょうから、そのピアノの個体差に依る倍音成分に依っては第3次倍音の際立たせ方というのは一義的な方法ではいかないかもしれません。

 例えばヒンデミットのクラリネットソナタ第3楽章の次の部分を挙げると、次のデモは、譜例動画のグレー部分だけを再生している物です。処が、実際の演奏を反映している筈の記譜とは裏腹に、この譜例用デモのそれは譜例動画の下部に示されるオシア小節が示している赤色の菱形符頭は内部奏法や特殊奏法として得ようとはしていないハーモニクス=上方倍音列第3次倍音の [es] 音が聴こえるかと思います。これは実際にこの鍵盤を打鍵しているのではなく倍音を聴いているのです。

※頭初は、ここで得られるハーモニクスを「フラジオレット」としてしまっておりましたが、ピアノという楽器の打鍵構造は特定の範囲の倍音列を積極的に奏鳴されぬ様に設計されている状況に加え、他の弦楽器属で用いられる名称や古楽器にある名称などの混乱を避ける為もあり、積極的な倍音操作ではない状況下で用いるのは不適切であると判断しあらためました。フラジオレットという呼称が色々な特殊奏法・内部奏法にも適用できるものだと勝手に思い込んでしまっていた私の無理解に依る物で混乱を招いてしまいあらためてお詫びします(2019年2月22日)。

 但し、この第3次倍音を巧く聴こえさせる為に注意する点がひとつあります。それは、当該鍵盤の打鍵をメゾピアノ [mp] 以下に抑制する事です。それ以上で打鍵してしまうと、他の高次倍音が際立ち過ぎて第3次倍音を音色キャラクターの中へと埋没させてしまうだけになり、際立たなくなるからです。ピアノは低音になればなるほど倍音が潤沢になるので、それらを「器楽的に」綺麗に響かせるには弱く弾くという事が肝腎となる場面が生じて来ます。勿論、ピアノの個体差に依る要因も考えられるので総てのシーンに於て当てはまるという訳でもありませんが、本曲の当該部分は、音域も考慮した上で概して弱く弾いた方が今回のハーモニクスは得やすくなるのです。





 本来の記譜は上部の大譜表の低音部が示す通り、[as] しか弾かれておらず、これが正当な物です。然し乍ら、この曲の、この拍節構造に相応しいハーフ・ペダリングをオシア小節最下部に示すハーフ・ペダル記号の様にしてペダリングを行なうと、4拍目の [as] を弾いた時のペダル操作に伴って第3次倍音が浮き立つ様に聴こえるのです。ペダル操作を行なわずに譜面通りに奏せば、倍音は聴かれないのでありますが、いくら楽譜に明示されていないペダリングやハーモニクスだとしても、それを作者ヒンデミットへの冒涜とするのは無理筋でありましょうし、この倍音が現われる事の方が自然であると解釈するのが正当な解釈であると思われます。打ち込みのデモですらこうして倍音が現われるのですから、多くの実際の演奏を次の動画の当該箇所でお聴きになられると良いでしょう。つまり、この倍音が聴こえない演奏はペダリングが疎かであり、ペダルオフが早いという事になります。










※ハーモニクスを聴かせないペダリングの演奏例







 とはいえ、比較的低めの音域である程度弱めに弾く事で第3次倍音というのは認識しやすい物でもあるので、音色のコントロールという点でも見過ごせない側面がピアノにはあるのです。これが顕著に現われるのはピアノの打鍵の部分ではなく長音ペダルの制御で現われ易い側面であるのです。第3次倍音が顕著に現われるという事は、[do・mi] という2音をペダリングと併せて弾くと各音夫々の完全十二度上方に [sol・ti] が附与される状況を容易に見越す事が出来、そうした状況は言い換えれば「意図せぬ」和声的成分として聴かれる事実の示唆でもありましょう。


 ジャズという世界でのハーモニー成分は概してコード表記で表わされるべき世界観でもあるでしょう。コード表記やモード・スケールの指定に依る予定調和以外はインプロヴァイズが主たる世界である為、よもや想定外の倍音成分が「新たな」和声的状況を形成してしまう様な状況に遭遇した時など奏者側からすれば細心の注意を払って忌避している事でありましょう。然し乍ら、凡ゆる倍音成分が潤沢となっている楽音というのは奏者の側が意図しておらぬ様な状況とは裏腹に、倍音成分が意図したコード表記とは異なるハーモニーを形成している事実も亦真砂の数ほどある物です。その倍音成分は概して、音価が短い為に聴き流している事が殆どであり音響成分として溶け込んでいる為に聴き手が無頓着となっているケースも多々ある訳です。

 ジャズ方面でそうした「想定外」のハーモニーに遭遇する様な状況を回避する手段としては、意図しないハーモニー成分に細心の注意を払うよりも寧ろ、ピアノによる「長大な」長音ペダルの忌避の方である事でしょう。即ち、先行和音のハーモニーを引き摺る様な残響成分として後続和音に浸潤する様なペダリングは極力避けられる傾向にあるのがジャズ・ハーモニーでもある訳です。

 そういう意味でも前掲のグレッグ・フィリンゲインズのプレイに依る「Maxine」のイントロのペダリングは、多くのジャズ・ピアノ演奏に於けるジャズ・ハーモニーを形成する為に典型的な先行音を引き摺らないペダリングとは趣きを全く異にする長音ペダル操作なのであり、西洋音楽系統に見られる様な、先行和音を引き摺る様なペダリングを確認する事が出来る好例な訳です。

 話題がだいぶ遠回りしてしまいましたが、「Maxine」のイントロのグレッグ・フィリンゲインズに依るピアノのペダリングは先述の通り「綺麗な溷濁」が表われる、ジャズ・ピアノでは珍しい程のペダリングを駆使しているのであります。グレッグ・フィリンゲインズのプレイというのはジャズ界隈ではそれほどまでに稀に見る類の例と言えます。

 私がYouTubeにて譜例動画をアップしているイントロを確認してもらうと歴然ですが、弱起となる不完全小節は16分音符の前打音 [ces] は「♭Ⅴ度」という解釈=ブルー五度であるのです。この前打音を16分音符に依る装飾音符としているのは、原曲の実際の音価が非常に短いそれを表わす意図があります。その前打音=ブルー五度が直後の正位位置(せいいいち) [c] に戻り八分音符が弱起部分の拍はこれで不完全小節を充たす訳です。

 そうして直後の1小節目。本曲は6/8拍子である為、拍子構造は

《八分音符×3つのパルスの前半を1拍目+残りの後半八分音符3つのパルスを2拍目》

とカウントすべきであります。処が、



御覧の通り本曲はヘミオラを採って入ります。四分音符×3拍の構造としてカウントせざるを得ない為この1小節目の八分音符5〜6音目の部分を「3拍目」と呼ばせていただきますが、この「3拍目」の上下に二声の反進行を見ればお判りの様に、特に下声部の側は和音外音である減八度→短七度= [fes - es] と線を運んでおり、特に減八度の [fes] は非常に剡い不協和感が現われて然るべきであるのに、本曲オリジナルのプレイはあからさまに長音ペダルを踏んで来るのであります。


 余談ではありますがヘミオラとは 「2:3」の拍節感を採る事であります。言葉で言い表わすならば、例えば「美空ひばり」という名前の拍節感を想起していただくとすると、その言葉に小節線あるいはメトリック構造など明示しておらずとも、日本語を知る人ならば平滑なリズムで読み上げたとしても「ミソラ ヒバリ」という風に、知らず識らずの内に拍節構造を苗字と名前に分けた「2拍」のストラクチャーを映じて読んで(認識して)いる事でありましょう。

 然し乍らそれを「ミソ ラヒ バリ」という風に「3拍」構造として認識してみたら違和を抱くと思います。どんなに平滑なリズムでこれら6文字というシラブルを読み上げても「ミソ ラヒ バリ」というストラクチャーを明示されてから読み上げると、どこかしらその拍節構造の違和を生ずるかと思います。アクセントや僅かなピッチの違いから音韻としての「揺さぶり」が生ずるのは明白です。

 音楽的なヘミオラというのは、斯様な拍節構造となる「2:3構造の読み替え」という物なのでありますが、私の譜例動画の様に態々ヘミオラを明示している楽譜というのは少ない物ですので、多くの場合、6/8拍子のメトリック・ストラクチャーであるにも拘らず譜面上では3拍に別けられていたり、或いはその逆のケースとして3/4拍子という拍子記号であるにも拘らず、連桁が八分音符×3音の連桁1組が2セットとなっている拍節構造を見掛けたりする事があるかもしれません。そういう時はヘミオラであるか楽譜の書き方が間違えているかの何れかでありますが、ヘミオラというのは楽譜には明示されていない事が多いのでメトリック・ストラクチャーを判別し乍ら認識する必要がある物なのです。ジャズ・ピアノであるならばビル・エヴァンスの演奏からヘミオラを学ばねばいけないと思える程であります。


 本題に戻りますが、寧ろそれよりも先行の1小節目・1〜2拍目の方がハーフ・ペダルなのであります。この様な和音構成音に吸着されない強勢にある和音外音 [fes] は倚音であり、[fes] の後の [es] は、「Fm add9」という不完全和音の7th音と見做す事は出来る物の和音構成音としての成分では無いので [es] は経過音として取扱われる事になります。

 加えてこの1小節目の譜例で述べておきたい事は、1小節目上拍(ヘミオラでの3拍目)で生じている松葉記号=ディミヌエンドはクレッシェンドが正しい物であり、譜例動画は誤りであります。これは私がIllustratorでの編集で画像を180°間違えてしまった物であります(笑)。

※リズムには脈膊・呼吸が大きく関わっており、拍節構造に於いては呼吸の吐く時の呼気を強拍と捉え、それを=「下拍」(テーシス)と扱い、その対称として弱拍と捉える吸気=「上拍」(アルシス)と呼びます。


 譜例動画の総てのペダル記号は「踏む/離す」の二義的な物としてしか示しておりませんが、西洋音楽界隈でも細かなペダル記号が充てられていないのはごく普通の事でありまして、特にハーフ・ペダルというのは示される事が少ない物ですからペダル操作すら行なわない事が通例の様に思われるかもしれませんが、ある程度豊かなピアノの音を得ようと心得ている方であれば、曲の拍節構造に伴って呼吸をする様にハーフ・ペダル操作を行なう物なのであります。それを勘案した上で「Maxine」での譜例動画のペダル操作の指示と本曲を知っている事で同時に理解に及ぶ事は、ジャズ的プレイであればペダルを無視してしまいそうな箇所をやや踏み込み、そして本来ならリリースしてしまいそうな所を強く踏み込むという、ジャズではそれこそ無縁の様な状況がジレンマにすら思えるのであり、その注力がより一層原曲への理解を高めようとしてペダル操作を軽んじない為の注意喚起として私は充てているのであります。

 ですので、1小節目の原曲と対照させると、ヘミオラ1&2拍目(=八分音符のパルス1〜4音)はハーフ・ペダル(3/4ペダルと言っても良い)を用い乍らヘミオラ3拍目にフルでペダルを踏み込むのが原曲の実際のペダリングなのであります。
 
 1小節目の大譜表低音部で表わされる左手の反進行で現われる [fes] は、「Fm add9」とは完全に埒外とする和音外音なのでありますが対位法的なフレージングの導出ならばこういう順次進行は有り得る物です。平時ならば和音をより溷濁させてしまう音であるにも拘らず、この音を添加させて残響を強く得るというのは相当な修練(特に西洋音楽の後記ロマン派など)を積んでいなければなかなか身に付かない技ではないかと思います。

 
 18世紀の中盤以降にピアノに長音ペダルに相当する装置が付けられ、本格的に長音ペダルが付くピアノの普及は19世紀になる頃であります。今でこそピアノの長音ペダル記号など珍しくはない物の、ハーフ・ペダルまで指定されている様な楽譜というのはそうそうお目にかからない物だと思います。

 西洋音楽界隈の作品に依っては長音ペダルが搭載されていなかった時代の楽曲を現今社会のピアノで練習しているという状況もある訳ですからそれも当然です。西洋音楽界の歴史というのは概して1685年や楽聖ベートーヴェンの誕生年=1770年前後を基準にすると解り易いのでありますが、長音ペダルを膝でコントロールする様にしてダンパーを外す機構として登場したのは1765年頃と謂われておりますので参考にしていただければ幸いです。長音ペダルの原形としては実際には1840年代から有った様でもありますがいずれにしても、長音ペダルが汎く普及する様になるというのはそれよりも後になるのは謂うまでもありません。こうしたペダルの背景を勘案し乍ら、よもやジャズ・ピアノ演奏に於て茲までペダル記号を附しているのは、それほどまでにペダリングに注力してもらいたいという意図の表われであるからです。


 2小節目「B♭m9」部分。先行小節の小節線直前にペダル・オフが振られておりますが、現実的にはレガッティモ・ペダルで奏しても問題は無いでしょう。何故なら1〜2小節目は然程ジャズ・ヴォイシングという状況とは異なり、二声の反進行が顕著となるシンプルな線の動きなので、そこに音階外(ノン・ダイアトニック)の [fes] が彩りを与えて「小難しさ」を演出しているのであり、プレイ面で見ればジャズ的な入り方ではありません。寧ろ、そのシンプルな二声の動きでレガッティモ・ペダルはより活きる状況となるでありましょう。左手は複音程となる [b - des] の短十度の跳躍をあらためて確認する事ができますが、この左手10度は「Maxine」に於ては頻発する跳躍ですので、非常に示唆めいたプレイとなります。


 3小節目「E♭7(13)」としておりますが、バンドスコアの方では長属九に13th音が附与された表記としている理由はおそらく、ヘミオラ・カウントでの中拍の [f] 音を重視しているからでありましょう。コード表記の側面から「短属九」の形で弾かないで欲しいという意図が表われているのですが、この譜面の線運びに於て短属九のコードを充てようとする愚か者は居ないでありましょう。寧ろ、コード表記からは長属九であるという意図を隠した上で、譜面上の [f] を重視させる方が注意喚起としては功を奏するのではないかと思い、私の譜例動画では♮9th音をコード表記には附与しておりません。加えて、ヘミオラはこの3小節目までで、次の小節からはハチロク(=6/8拍子)となります。


 4小節目下拍「D♭△7」。茲での左手はバンドスコアの方が正確であります。私の場合は [as・des・f・c] という風に [5・R・M3・M7] という10度音程に亘るヴォインシングでありますが、この辺りは私の好みを反映した物ですのでご容赦下さい。但し、左手10度を [1・5・10] という風に採る時は、最低音の [des] を弱目に弾いた方が倍音成分が綺麗に響く筈ですので、その辺りを注意して弾かれる方が良いでしょう。

 加えて私は、この当該部上拍にて後打音の装飾音符的に32分5連符を充てておりますが、こう採る方がバンドスコアのそれよりも「速い装飾音符」として聴かれる事かと思います。そして後続の上拍での「D♭7 omit5」ですが、バンドスコアではオミット表記は為されておりません。然し乍ら、茲で5th音を省く勇気というのが実に素晴らしい選択であると同時に [es] へ線的に結ぶという事はそれを「長属九」という事を同時に示しているので、完全五度音と長九度との5度音程の重複を避けているのでしょう。


 5小節目「A♭△7」。茲は特に述べる事はありませんが、上拍拍頭の [g] のスタッカートの部分は素朴に弾かれた方がメリハリが出ると思います。


 6小節目下拍での「Am7(♭5)」ですが、このハーフ・ディミニッシュは明らかに短調域のⅡ度上の和音を醸し出すコードであります。つまりト短調(Key=Gm)という解釈であり、上拍に進行するという訳です。

 そうして6小節目上拍での最初の和音「D7(♯9、♭13)」ですが、私の譜例動画には表記ミスがあります。大譜表高音部の [ais] は [b] であるべきで、譜例では [ais] と [b] が異名同音なのに併存してしまっている状況がミスであるのです。高位にある [b] は [c] に移置【いち】されるべきであります。また、私はこの当該箇所の低音部を左手七度で採っておりますが、バンドスコアの方はオクターヴとしており、楽譜部分のヴォイシングはバンドスコアの方が正確となっております。次に後続の「D7(♭9、♭13)」と態々2つのコードとして表記しておりますが、殆どの表記ルールではこれら二つのオルタード・テンションのコードはひとつの「alt表記」にまとめられる事でありましょう。大半は「D7alt」として丸め込まれる表記になるかと思います。

 バンドスコアでは驚くべき事に、後続の「D7(♭9、♭13)」の表記しか充てていない事に違和を覚える私なのでありますが、少なくとも茲は簡略的な解釈として「D7alt」であり、先行の「♯9th」は外せないと思います。その上で、平時ならばこれらのオルタード感を演出するオルタード・テンション・ノートの順次進行というのは、その進行のテンポを遅めてみたり或いは音価を長く採った場合は確実に、私が採用した2つのコード表記として別けるそれとして機能するので、私は敢えてこれらのオルタード・テンション・ノートのそれにコードを態々充てているのであります。


 すると、7小節目の「G△9」に行く前に私は調号を暗示した表記にしておりますので、それが「ト短調」の調号である事は確認出来るかと思います。処がコードは「G△9」なので、同主調へのモーダル・インターチェンジとなる訳ですが、同時に、「ピカルディーの3度」という事を明示しているのです。そういう示唆に基づく「ト短調の主和音を長和音で嘯く」という事を調号とコード表記のそれらで示しているのですが、コード表記ばかりを優先してしまって、調号のそれと相反する様なそれらを単に直喩的に解釈してしまうと、《コイツ、調号の充て方間違ってんじゃねえか!?》と懐疑の目を向けられかねないであろうと思うのでありますが、短調を嘯いている状況である事の示唆の前には甚麼(どう)しても譲れない解釈なのであります。無論、バンドスコアでは調号変化はなく原調保持のままで書かれているのが実際でありますが、私としてはこの調号変化(転調)はどうしても譲れないのであり、こうした私の我が儘を念頭に置いていただければ幸いです。


 8小節目「F♯m7(♭5)」での調号を無調号に変化させている理由は、Aドリアンとしてのドリア調における「F♯m7(♭5)」への移旋(モード・チェンジ)を示唆しているからであります。直後の「F13(♯11)」というのは、先行和音「F♯m7(♭5)」から下方五度進行をする筈の「B7何某」のトライトーン・サブスティテューション(三全音代理)の「F13(♯11)」なのであり、実際には先行和音部分のAドリアンからホ短調(Key=Em)の「♭Ⅱ」として転義しているのです。

 転調を厳密に分類すれば、小節途中で転調をする物は中間転調または経過的転調と呼ぶ所があります。ただこれらの中間転調というのは、経過的な転調が遠隔的な調を利用して起こる音楽的粉飾として起こっている物を呼んだりする物です。楽譜編集ソフトであるFinaleでは、ちょっとした工夫をすれば小節途中での調号変化を表わしたりする事もできますが、その編集の煩わしさの為に私が小節途中の転調を省略しているのではなく、経過的な中間転調というのは実際には特定の調のカデンツとして各和音機能を網羅するのではなく部分的に用い乍ら「転義」という風にして前後の共通音を利用した多義的解釈に依って起こる局所的な例なのでありまして、その「転義」が作用している状況に態々調号を与えていないだけの事であるのでご注意下さい。

 そうして9小節目はAテーマ冒頭部分となる訳ですが、ホ短調のトニック・マイナーである「Em何某」に終止するのではなくEドリアンの♮Ⅵ度としての「C♯m7(♭5)」への偽終止という事を示しているので調号は御覧の通り嬰種調号のホ短調を示しているのであります。


 とまあ、こうしてグレッグ・フィリンゲインズの「Maxine」でのレガッティモ・ペダルの妙味を語った訳ですが、先行音が後続音に浸潤する事で、グワッと波が襲いかかって来る様な量感を感じ取っていただければそれだけで感慨無量なのであります。嘗て私がアップしたマハヴィシュヌ・オーケストラの「Miles Beyond」にて事細かにペダル記号を配しているのは、私自身が原曲のローズでのペダリングよりもピアノでのペダリングをイメージしている物なので、その辺りはあらためてご理解していただければ意図がさらに伝わるかなと思います。孰れにせよ原曲の演奏を反映した物とは異なる解釈なのでありますが、その辺りの差異はご自分の好みという匙加減にて吟味していただければと思います。




 2018年のクリスマス前に、YouTubeにて「ザ・クリスマス・ソング」のジャズ・ピアノ・アレンジをアップした狙いは、ペダリングを明示したかった訳であります。ペダル・オフの位置はかなり精確に表わしているので、視覚的なそればかりでなく、歴時としてどのようなタイミングでペダルを切れば良いのか!? という意図はこの曲のアレンジで伝わるかと思います。




 あらためて振り返ると、スティーリー・ダン関連作の楽譜となると、彼等の秀逸な楽曲がどれだけ丁寧かつ詳細に書かれているか!? という部分が求められるのでありますが、多くの場合はギター・スコアやピアノ・スコアとしてデフォルメされてしまった「なんちゃってアレンジ」にコード表記が附随する様な物が多いのであり、器楽的な方面から深く分析したい方々の興味を殺いでしまっている所はありますし、採譜する側も本腰を入れて編集するというスタンスがそれほど見られないのは、ジャズ/ポピュラー音楽界隈での採譜の報酬が西洋音楽界隈と比して極めて低い所が充実した採譜を見る事が出来ない一因になっているかと思います。

 況してや出版会社からすれば、発行部数に対して版権会社に権料を払う訳ですから採譜の工数と版権料、そして製本コストと見込める販売数を考慮すると、決してそれに見合う楽譜というのはなかなか作れないであろうと思います。そういう意味で、楽譜に詰められている情報というのは相応の価値と重みがある物なのだと私は信じて已みません。


 ドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』のスコアがこれまで流通した歴史をあらためて振り返ると、Cherry Lane Musicの創業者であるミルトン・オーカン(Milton Okun)の編集に依り同社から刊行されていた事があり、これは日本国内では輸入楽譜としてシンコーミュージックが取扱っていた経緯があります(並行輸入もあった模様)。値段は確か4〜5千円位で売られていたかと記憶しております。輸入価格としてのシールが裏表紙に貼ってあった物ですが、私はそれを剥がした事もあり当時の正確な販売価格までは判らなくなってしまいました。唯、このミルトン・オーカン編集の物は、ピアノ・パートにアレンジを施した上でギター・ヴォイシングの指板図とコード・ネームが附されているだけの楽譜であり、決してバンドスコアではないのであります。今では結構な高価格で取引されている様ですが、鍵盤パートを含めてもその実際の演奏を再現したプレイにはほど遠く、「Maxine」のイントロなど、原曲のそれとは異なる(※大枠は掴めるかもしれません)物なので、精度を求める人には不向きと言えるでしょう。

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 楽譜というのはCDやレコードの録音物と比して版権状況が能く変化して煽りを受ける事が往々にしてあります。「The Nightfly」が輸入楽譜として流通している当時非常に良く売れた楽譜がジョージ・ウィンストンの「Autumn」だったと伝え聞いた事があります。日本ではYMOでも有名なアルファ・レコードがウィンダム・ヒル・レーベルの販売権を持っていたと記憶しておりますが、当時のフジテレビのCMではかなりのヘビー・ローテーションで掛かっていた強烈な記憶も同時にあります。この頃はバブルの影響下にて「オシャレなピアノ曲」とやらがやたらと礼賛された時であり、サティの「ジムノペディ(※第1番に限る)」ジョージ・ウィンストンのアルバム『オータム』収録の「Longing / Love」リスト「愛の夢 第3番」を用意してクリスマスの為にホテルのスイート・ルームを予約して「性夜」を過ごすというのは定番フォーマットになっていたのではないか!? という位広く瀰漫していた曲たちだと思われるのでありますが、そんな時期に突如《ジョージ・ウィンストンの「オータム」の楽譜が販売できなくなる!》という伝聞が実しやかに囁かれた物であります。










 楽譜というのは発行部数に依って版権料を支払うのでありますが、発行部数の多さに比して権料の面でモメたとか、作者が楽譜の流通を認めなくなったのだと色んな噂が飛び交ったものです。真相は判りかねますが、楽譜というのは重版出来となる可能性は書籍よりも遥かに確率が低いので、気になるアーティストの楽譜を見掛けた時は買った方が得策と言えるでしょう。特に、作者が楽譜の価値と重みを熟知しているタイプの人ほどおいそれと楽譜を流通させなくなる傾向が強いので、ジャズ/ポピュラー音楽界隈は特にこうしたあおりを受け易いので注意が必要です。

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 その後満を持してシンコーミュージックから国内刊行物としてのバンドスコア『ドナルド・フェイゲン ナイトフライ』の初版が1993年に刊行されたという訳です。ニューヨーク・ロック&ソウル・レビュー以後、フェイゲンの『Kamakiriad』やSDの初来日と湧いていた頃に時のアナクロニカル・ブームという事もありSDの再認識という事もあっての発刊となった訳であり、状況を鑑みてもかなり重宝されたのではないかと思います。

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 本当なら『The Nightfly』の各曲を詳密に語りたい所でもあるのですが、あまりに尨大な物となってしまうのでその辺りは今回は避けたのでありますが、私の心情としては語りたい気持ちが山々ではあります。唯、あらためて和声が発展した背景には、残響と掛留が作用したのでありまして、それはジャズ・ハーモニーに於ても例外ではないのだという事をあらためて認識してほしいが故の事でこうして語る事になった訳です。今回あらためて【ワイド版】が刊行となったのですから、流通している間に手に取って音楽を吟味してもらいたい所です。