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移調ですと!? 云うほど簡単ではありません [楽理]

 私はかなりの「原調」主義者であります。原理主義者という訳ではありませんけれどもね(笑)。まあなにせ、カラオケで唄うとなればピッチ・コントロールは手放せなくなる物です。勿論相対音感もきちんと身に付けてはいるので、曲がどのようにトランスポーズ(移調)しようとも追随して唄う事は出来るのですが、原調と異なるキーで唄うというのは最早別の曲の情感で唄っている感じとしてしか堪能できない様な感覚に陥るのであります。


 原調とは異なるシーンを甘受せざるを得ない時の私の脳裡には、

《于嗟、苦虫を噛み潰すとはこういう状況の事なのだ》
《飯食ってからアイスをデザートに食おうと思っていたらアイスかけ御膳とな!》
《カルピス20倍稀釈の気分ですぜ》
《禁煙席の筈なのに煙が伝って来るんですがね……》


とまあ、こうした状況に似た感じで聴かされている様な感覚と思っていただければ伝わるでしょうか。つまり、原調を堪能したいのに原調の善さを全く味わえない状況で、単に音形や歌詞が同一の別曲を堪能している感じにしかならないのであります。

 思えば90年代初頭、スティーリー・ダン初来日時に耳にした「Josie」の三半音下げトランスポーズには我が耳を疑った物ですし、あの素晴らしいイントロがこれほどまでに不思議な、ココアを期待していたら白湯が出て参りました! かの様な気分に陥ったのは云う迄もなく、「フェイゲン、能く唄えるよなあ。原調を悪魔に売り渡しちまったかよ!?」などと思ったりした物ですし、数年前のジノ・ヴァネリのセルフ・カヴァーで耳にした「Brother To Brother」も移調されており、歌い手達は自身の声の能力に合わせて平気で移調しますが、原調の善さよりも自分自身に甘えますかね!? などと心の中では大御所達を責めていた物です。

 とはいえ、凡ゆる状況で移調を「甘受」に留めるだけではなく、原調と同様に捉えられる相対音感の感覚を養うのも本当は必要な事なのだとあらためて認識させられた私なのでありましたが、加齢に伴い音調変化が訪れ、時と場合に依っては記憶していた調を半音低く感じてしまっていたりする様な事も増えたモンでして、齢五十も過ぎた人間がこれから如何様にして相対音感が強化される物かと半ば諦めかけている自分があったりする物ですが、だからといって平気で移調をすれば好いってモンじゃないんですよ、という姿勢は強ち誤りではなかったのだという例を今回は色々指し示したいと思っておりますので、こうした方面に興味のある方は是非とも目を通して遣っていただきたいと思わんばかり。


 バロック・ピッチなどとも能く云われたりする物ですが、概して現今社会のa=440Hzと比較すると半音ほども違うのでありますね。ベートーヴェンの頃でさえ今より六分音ほど低く、19世紀後半にフランスではa=433.4Hzに制定(18セント以上低い)された訳でもあります。別宮貞雄に依れば茲300年程で150セント程もピッチは高くなったと云われている訳ですから、現今社会にて「ロ長調」と感ずるそれが2世紀前位ではハ長調であった訳ですから驚くべき事です。


 時代の流れと共にピッチは上ずる物なのか!? というと実際にはそういう事ではありません。我々が「楽音」を音楽的に聴こうとする音域というのは、人間が声を発する音域もほぼ不変的な物なのでありまして、数十世紀後の未来にて人間の楽音を聴く帯域が1オクターヴも2オクターヴも高くなるという事はまずありえないでしょうし、ピッチとて将来そこまで上がったりはしないでありましょう(笑)。

 茲300年程の間にピッチが上がる傾向に拍車をかけていたのは疑いも無く管楽器の発達と、弦の張力を支える工業的な技術の向上(土台が強固な支えとなる事で高次倍音の減衰が抑制され、倍音が豊富に彩られる様になる)でもあるでしょう。特に管楽器が齎した影響力は図り知れず、管楽器の隆盛は各国の軍隊とも共にあった訳ですから、茲数世紀の間の人間社会の中でどのような国家間紛争が起きていたかを鑑みれば、自ずと管楽器の隆盛と軍隊を律する事の重要さはあらためてお判りになるであろうと思います。気温の変化でピッチが相当変化する管楽器をコントロールするにあたり、更にはコンサート・ピッチそのものが上がる事で明澄感を高める事もできるとなれば、ピッチが上昇志向に拍車をかけるのは明白でありましょう。

 市民が民主主義を贏ち得るまでは、宗教の戒律を規範とし税を納め勤労する事が是とされた訳であり、国家の繁栄の為には他国の領土や主権の簒奪と資源の獲得という、植民地の獲得が自国に豊かさを齎すと根強く考えられていた訳ですから、そこに隷属する形で楽音も牽引されていったのは明らかです。とはいえ現在でもどうにかこうにか各国は手を取り合い乍らも実際には「自国の利益」の為の外交が紳士的に行なわれているのが実際でありますし、「食の植民地化」を私がまざまざと感じたのが私の小学校時代の給食メニューです。小学校の6年間、米が出て来た事は一回とて有りませんでした。小麦です。それと牛乳(笑)。

 
 まあそんな話は扨置き、ピッチの高まりは管楽器の発達と軍楽隊の隆盛に伴っていた事もあったのでありますが、科学の黎明期にある所に加え、人々の移動や情報伝達も遅かった当時の時代背景を鑑みれば、幾ら隣国同士とは雖も、統一規格を整備する事は至難の業であったと思います。即ちそこには交通整備や伝達手段の網羅と伝達速度に加え、一般市民に伝播するメディアの発達が無ければ難しかったであろうという事です。

 教会に行けばオルガンは常備されていたでありましょう。そのオルガンとて場所に依ってピッチは様々だったのでありますから、当時の楽員は今よりも相対音感を要求されたのではなかろうかとも思います。



 これらの列挙して来た「ピッチの低かった時代」とは別に、今度は聴覚的な側面で見たトランスポーズ(移調)の実際を確認する事にしてみましょう。
 

 率直に言って、人間の耳というのは低音域になればなるほど協和的な音程ですらも不協和感を強めて聴いて行く様になります。これはある意味では、オクターヴ=完全八度を低音域へ移高(移調)させれば、自ずと濁って聴こえて行く様になってしまうという意味です。

 オクターヴという「大胆に開離した澄んだ」音程と雖も、低域になると如実に「不協和」的に聴いてしまう様になるのです。中央ハ音付近での人間の不協和感は緩い物ですが、帯域が1オクターヴ下がると短三度音程は相当混濁する様に聞こえます。もっと低くすれば更に不協和感は増し、通常の音域で共和的に聴いていた音程ですらも低音域では不協和音程として聴く事になります。

 楽器の音は低域に行くに従って倍音は豊かに含有する物ですが、確かに倍音が犇めき合う事で「より狭い音程」が混濁する事はあります。倍音が潤沢で無ければ低音域での明澄度は稼ぐ事はできますが、実際には、どんなに倍音を削ぎ落としても複合音としてのそれは、開離した協和度の高い音程ですらも聴覚の臨界帯域というのは倍音を削いでも無意味な状況であるのです。

 ピアノでの低音域でのpp以下の、つまり倍音を抑え乍ら弱く弾かれる音のハーモニーの下支えの綺麗さと言ったら見事な物でありますが、臨界帯域幅というのはこういう事とは亦異なる物なのです。だからといって常に協和的であれ、という事でもないのですが、聴覚とはそういう物なのです。ロー・インターバル・リミットというのは臨界帯域を逆算して、そのレンジよりも下で当該音程を弾いてしまうと不協和度が聽覚面から増大してしまいますよ、という物なのです。とはいえ人間は倍音を巧みにコントロールし乍らロー・インターバル・リミットも無視できる様にしているのが実際でありましょう。

 聽覚面の実際というのはオクターヴとて低音域ではそういう状況なので、完全五度音程ならもっと不協和度が増すのです。長三度音程は更に混濁する事になります。これは音響心理学方面では前述の様に臨界帯域として知られる物で、人間はどの帯域も同じ様にして協和感を得ているのではないという事を示す物であります。


 極言すれば、ハ長調の曲の総てのバートをそっくりそのまま完全五度音程低く「移高」させ、結果的にヘ長調へ移調させた楽曲の情感という物が変わってしまうのは臨界帯域を勘案すれば当然とも言える訳です。

 人間の平時の声域辺りに分布する様な楽音の帯域であっても、緩やかではありますが臨界帯域に依る協和感は低域に推移するほど僅かに変わるのであります。ですから、シンセサイザーなどでトランスポーズをして、ヴォイシングの位置関係は変わらぬのに相対的な音高だけが変わっても、全く同一の情感とは言えないのであります。こうした側面を照らし合わせると、相対音感で以て移調に対応せざるを得ないという事が必ずしも、同一の情感の協和感ではないという事の補強材料になるとも言えるのであります。


 また、E. J. デントが1944年に英国音楽学会にて発表したのをはじめ、その後のジークムント・レヴァリー&エルンスト・レヴィは 'Tone: A Study in Musical Acoustics' に於て次の様な例を以てピアノ演奏を聴いた時、前後関係に依って低く聴いたり高く聴いたりするという例を示しております。

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 譜例動画1小節目にて現われる [as] は後続の [g] に対して低く聴こえると思います。他方、2小節目にて [as] の提示はあれど、後続の [gis] が現われると [gis] は高く聴こえ [a] に帰着している様に聴こえます。




 つまり、[as] は [gis] よりも音響心理面で低く聴こえる事になり、相対的には [as - a] の距離は [gis - a] よりも広く聴かれてしまう事になるのです。デモはピアノなので物理的な音高は全く変わらないにも拘らず、ヴォイシングに伴う前後関係に依ってこれほどまで印象を変えてしまうのであります。物理的に音高の変化が無いにも拘らず心理面で高低の差異感を生んでしまうという所が大きなポイントです。

 これらの大きな違いは「差音」にあります。1小節目の大譜表の低音部と高音部間に跨がる音程同士で形成される差音を採ってみると、最低音よりも差音が低く形成されるのが多いのと比して、2小節目ではオクターヴ重複が15度と拡大される事により、差音の多くは内声に群がる様にして形成されるのです。差音が最低音よりも更に下方に飛び越えて形成される事で「重み」が晦さを演出するという訳です。

 ヘルムホルツ以降、ヒンデミットも差音を研究して自説の理論に導入しておりますが、実体の無い差音に根拠があろうとは、よもや物理的な存在しか認めない人からすれば嘸しオカルトめいた物として捉えてしまいかねないでしょうが、調弦(チューニング)を経験した人であれば誰しもが「うなり」をオカルトだのとは言わない事でしょう。うなりという振動が可聴帯域に入れば「音」に変容する訳ですから、差音とて可聴帯域内にあるうなりと同じなのであるので、それを思えばオカルト扱いに出来ない筈です。

 
 ニューグローヴ世界音楽事典(日本語版)第13巻581頁にて、東川清一がこの件に関して本文執筆を担当しておりますが、索引項目は【半音】です。十二等分平均律のピアノですらも、半音音程が違って聴こえてしまうというそれを思えば、異名同音とて音高をおいそれと同一と出来ないのであり、況してや移調がそれほど単純に聴こえる訳ではないという事をあらためて物語るのであります。それでも、単なる「移高」という状況で生じた「移調」を原調と同じ情感で聴く事が出来るという方は、他の要因にて自身の器楽的欲求を「同一として聽かねばならない」という負荷を与えての練武の末に起きた情感であると私は信じて已みません。

 音楽をどのようにして傾聴するか!? という事に一義的な答などありません。但し、単なる移高に伴う移調が本当の意味で聴覚および脳知覚という感覚レベルにて「リニア」に変移するだけで音楽的な性格を同一視してしまうそれは甚だ異なる物であると私は声を大にして言いたいという、そういうボヤキでございます、ハイ。