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日野皓正の楽曲 [Newborn Swing] に見る調性プラン=Tonal Plot [楽理]

 今回の楽曲解説にて取り上げる曲は1983年に発売された日野皓正のアルバム『New York Times』に収録される「Newborn Swing」という曲でありまして、私にとってこの曲の位置付けというのは《死して猶天国に持って行きたい》楽曲のひとつである物なので個人的な思い入れは大変強い曲であります。とはいえ楽曲解説に於て単に私の主観だけを鏤めるだけでは本曲の凄さは伝わりにくいと思うので、数多ある楽曲の中でも何故こうした曲が普遍的で在り続けられるのか!? という側面を語る事が出来れば好い哉と思っております。
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 本曲の凄さはジャズに立脚しているにも拘らず、解り易いメロディーの強力な推進力に加えてそれに随伴する和音が実に巧みであろうという所に尽きるかと思います。

 仮に音楽的素養の低い方がこの曲を聴いたとしても、そのメロディーの推進力と唄心には心奪われる程ではなかろうか!? と私は信じて已まない所があるのですが、楽曲を調べれば調べる程高次で難しい物であるにも拘らず斯様な程に心に浸潤して来るメロディーの前には「嗟乎、名曲とはこういう曲の事を指すのだな」とあらためて痛感させて呉れる物であります。


 1983年をあらためて振り返ると、当時の私が遭遇したレコードで今猶名盤と称するに相応しいアルバムが前掲日野皓正の『New York Times』、マドンナの1st同名アルバム、渡辺香津美の『Mobo』、シャカタクの『Night Birds』と大村憲司の『外人天国』でありました。奇しくもこの年の秋はYMOが解散(散開)を表明した時期でもあった為、これらのアルバムは時期が重なる事もあり非常に能く覚えているのでもありますが、その中でも『New York Times』の重量盤レコード(マスター・サウンド・シリーズ)は針が擦り切れる程愛聴した物です。

 この頃の音楽というのは楽曲に随伴させる和音というアンサンブルよりも「リフ」で聴かせる事がトレンドの時期であった為、楽曲アンサンブルの和声構造的には「薄い」ハーモニーが多かった物で、そうした潮流をクロスオーバー方面も受けつつあった頃でもあります。そうした時代の変遷を目の当たりにしつつも、キックが四つ打ちであり乍らも嘗てのクロスオーバーを踏襲する新たなフュージョンとしてシャカタクの「ナイト・バーズ」がTDKのカセットテープ「AD-S(ADスプレンダー)」のTV-CM曲として採用されて放送されていたのも当時の事でもあったのも事実。シャカタクが広く受け入れられた理由は、70年代終盤に日本国内で巻き起こっていたクロスオーバー・ブームが起きた地盤があったが故の事でありましょう。ビル・シャープがピアノの他にプロフェット5を携えて弾いていた映像が、日本のお茶の間のプライム・タイム帯にTVで飛び込んで来たのも今や懐かしい想い出であります。




 クロスオーバーの「免疫」があった者ほどクロスオーバー&フュージョンという音楽ジャンルを寛容に捉えていたのでもありますし、よもや80年代の特徴的なアンサンブルでもある《和声感に乏しくパート毎(特にベース)のリフ形成が著しい》特徴的なアンサンブルがもてはやされていた中で、和声感の充実したアンサンブルを聴かせてくれる楽曲は実に好ましい物でありました。1984年になっても村松健のアルバム『Still Life Donuts』収録の「New York, Cloud 9」はフジテレビ系列『夜のヒットスタジオDX』のオープニングテーマ曲として「Night Flight」はフジテレビ系列の番宣CMにて用いられていた記憶があります。当時のフジテレビはその後もパラシュート(松原正樹)の「Hercules」を使ったり(ギター・キッズver)、T-スクェアやネルソン・コールを積極的に使用していた事を思えば、90年代初頭辺りまではフュージョン路線を好意的に採用していた放送局だった様に思えます。



 こうした日本国内でのクロスオーバー&フュージョンの地盤というのをあらためてお判りいただけたかと思いますが、なにせオートバイのCMが今猶解禁されていない日本(小型バイクは可)に於て、小型バイクのCMの先鞭として堂々とナベサダさん(渡辺貞夫)がヤマハのTOWNYのCMに起用されていたり、資生堂化粧品では草刈正雄と渡辺貞夫のW主演で起用されていた訳ですからあらためて「ジャズの顔」が浸透していた事が判ります。日野皓正も三宅一生とのコラボレーションで音楽のみならずファッション・リーダーの側面も担っており、コーセー化粧品のCMでタモリと共演していたのでありますから、あらためて日本のお茶の間でのジャズ界隈の顔というのは現今社会では比較にならない程広く認知されていた訳であります。


 日野皓正のアルバムのビッグ・ヒットというのはアルバム『シティ・コネクション』の成功を挙げなくてはならないと思いますが、当時はレンタル・レコード業(「貸しレコード」と称される)が生まれ始め、世間では賛美両論の声が挙がっていたのでありますが、日野皓正はライナー・ノーツにて堂々と「貸しレコード反対!」と宣言していた事も思い出されます。作品への対価および価値という側面を日野皓正自身はとても重視していたアーティストのひとりであったと記憶しております。無論、一般的には貸しレコード是認という立場を採る人々が多く、貸しレコード反対などと声を挙げようものなら批判の対象になりかねないアンタッチャブルな面もあったというのがYMOが流行し出した時の頃であったでしょうか。

 まあ、この頃の日本は高校生以上ならば誰もがクロスオーバー系統の音楽には挙って手を出していた物で、スタッフとかは誰もが知る存在でありましたし、私の当時のツレはベン・シドラン好きで彼女経由で私の方がアリスタ・オールスターズを教えてもらうという様な状況でありましたから推して知るべし。「イエロー・マジック」と呼べば多くの人は芳野藤丸の方のOne Line Bandの方を指し、YMO流行時でも「イエローマジック」と言おうものなら「細野晴臣じゃなくて、藤丸の方ね」なんていう遣り取りが友人・知人の間で飛び交っていた物です。


 
 扨て、本題の「Newborn Swing」についての解説に入るとしますが、本記事タイトルの「調性プラン」という語句に興味を抱いた方は少なくないかと思います。音楽的な意味にて用いられる「調性プラン」というのは、楽曲における転調・移旋などを含めて俯瞰した時に用いられる物です。英語圏ですと「Tonal plot」という風に呼ばれる事が多いのでありますが、楽曲が単一の調性で徹頭徹尾遵守されている様な状況下での調性プランというのは、機能和声的に明確に進行していれば差し障りが無いのでありますが、転調や移旋を数多く含む様な状況の場合は近親調ばかりではなく遠隔調も視野に入る様になり、楽曲の「旅」に多くのメリハリが生ずる事になります。聴き手は逐次音楽的変化を堪能する訳ですから、調性が移ろう情景変化も耳にされる事になります。

 こうした状況変化を巧みに用いる事で、音楽的な着地点を自然な感じに聴かせようとするのが調性プランのひとつの役割であるとも言えるでしょう。勿論中には唐突な転調を含む事もありましょうが、全く別の曲を続けて聴かされる事と、転調やテンポ変更が目紛しい1曲を聴かされたとしても、多くの人はそれらを別個の曲と単一の曲の区別は付けられるかと思います。単一の曲としての仕上げとして調性プランという言葉が充てられると思っていただいて差し支えないでありましょう。

 嘗て「名アルバム」と称されるレコードの多くは、収録される楽曲のそれらが関係調・近親調に根差した収録が多かったと言われた物です。そうした方がアルバム特有のキャラクターとしての統一性を図る事もあったでしょうし、元を辿ればソナタ形式の在り方をヒントにした物でありましょう。


 ジャズの場合は調性など逐次転ずるのは当然ですので、調性プランというのは野暮な言葉かもしれません。但し、その楽曲がジャズを標榜しようとも「Newborn Swing」の様に実際には多彩な情景変化を伴ってはいても、メロディーの線運びは唐突ではなく、特定の調性を標榜するかの様に振舞う線の強さは誰もが観ずる事が出来るでありましょうし、そこにジャズならではの調性プランが見えて来るのでありますから、日野皓正の凄さをあらためて思い知らされるのであります。


 基本的に「Newborn Swing」はニ短調(Key=Dm)と三全音調域の同主調である変イ長調(Key=A♭)を1組として、それらのネガティヴ・ハーモニーつまり同主調領域を通じての和音進行が繰り広げられているという風に考えると解り易いと思います。

 三全音忒いの調域となるとジャズ界隈では「裏」と呼ばれる物でありますが、ニ短調と変イ長調をメビウスの輪の様にして繋ぎ止めている様な状況と形容すれば更に解り易いでしょうか。しかも「ニ短調」の部分は概してピカルディーの3度にして同主調の借用であるモーダル・インターチェンジの音脈を多く用いる事で、実際にはニ短調をニ長調で嘯いており、それを変イ長調へ紡いでいるという状況を垣間見る事が出来る訳です。

 ジャズからすれば三全音調域であろうとも「同族」と考えられる状況でありまして、この「裏表」を一義的な世界として聴かせてしまうかの様な強固な牽引力を伴わせたメロディーに依って恰も転調すら起こしていないかの様な「自然な」感じで聴かせようとされている物なのであります。


 よもや日本人がこうした曲をさりげなく作ってしまえる所にあらためて日野皓正の凄さを感じる訳ですが、ギターのルー・ボルピーが敢えてギター・ソロに於ても原曲のメロディーをほぼ踏襲して聴かせるのは、インプロヴァイズを執ってのソロ・フレーズを鏤めるよりも、原曲のイメージを損なわぬ様にして敢えてソロを堪えているのはやはり、原曲の良さへの配慮なのでありましょう。

 無論、ケニー・カークランドは日野皓正が拵える「迂回進行」の意図を更に深く読んでおり、難しいアプローチであろうとも巧いことインプロヴァイズを施してソロ・フレーズを奏しておりますが、この「迂回進行」というのはジャズでは真骨頂でもあるので説明をしておく事にしましょう。

 例えば、あるフレーズに対し「ひとつのコード」で済まされる様な状況、且つそれがひとつのコードであっても原調の見通しの聴く様な状況があったとしましょう。「ミソシ↓ド〜♪」というフレーズに対して「C」というコードが充てられていた時にハ長調の見渡しが利く、という状況に近しい物だと考えていただければ解り易いのですが、「迂回進行」というのは茲に新たにツーファイブ進行またはその三全音代理(トライトーン・サブスティテューション)進行を忍ばせる物であります。

 ですので「ミソシ↓ド〜♪」というフレーズに対して非常に短い音価で「C→Dm9→G7aug→C」を充てたりする様な物ですし、「ミソシ↓ド〜♪」に対して「C→A♭△7→D♭7→C」を充てたとしても、これも迂回進行によるリハーモナイズである訳です。

 更には元に想起された「C→Dm9→G7aug」での「Dm9」を副次ドミナント化「D9」にして更にそのネガティヴ・ハーモニーである「C→《C9→Baug/C♯》→C」を充てる様にして「ミソシ↓」というフレーズに対するハーモニーを巧妙に装飾させる事も出来る訳です。

 極言すれば、「ド」という音以外の旋律に対してツーファイブ進行を無理矢理にでも充てるという事も選択肢に入れる事が可能である訳です。更に逆を言えば、「ド」という音以外の旋律に対して♯11th音を伴った属十三即ちC調で言えば「G7(9、♯11、13)」を充てるのも可能という状況になる訳で、ジャズというのはこうした旋律線へのコード進行の細分化および、単一のコード=「属十三 or 副十三」を選択する様になり、軈ては移旋が視野に入ると和音よりも「モード対非・属和音」を充てる様にしてモード・ジャズが形成される様になっていく訳でもあります。

 更に喩えるならば、「ソ」という音を常に掛留させておくとします。ソリストがg音を常に奏鳴させていると思えば好いでしょう。その音に対してコードがツーファイブワン進行を形成させていればカデンツは形成され、単なる1音のメロディーに対して和声的粉飾が巧妙に利用する事になった調性プランが完結した状況であるとも言える訳です。謂わばジャズというのは、局所的に見ればこうした方策があらゆる調域を転じて行なわれている物なのでもあるので、それを逐次確認できれば、小難しいコード進行であろうと「原形」が見えて来るという事の裏返しでもある訳です。



 先の様な例を踏まえた上で「Newborn Swing」の構造をあらためて対照させてみる事にしましょう。譜例動画の1小節目および2小節目のコードは「A♭△9→A△7(♯11)」という物で3〜4小節目はこれらと同様という進行になっております。

 先述の通り、この曲は「Key=A♭, Key=Dm」をメビウスの輪状態にしている訳ですので「A♭△9」は主和音である「Ⅰ度」と捉えて欲しいのであります。直後の「A△7(♯11)」はフリジアン・スーパートニックとして捉えて欲しいのですが実質的にはナポリタン=「♭Ⅱ度」という風に捉えるのが相応しい解釈でありましょう。

(※フリジアン・スーパートニックとは聞き慣れない言葉でありましょう.西洋音楽界隈で呼ばれるフリジアン・スーパートニックとは異なる意味があるので述べておく事にします.短調の楽曲に於て能くある手法のひとつに、局所的にフリジアン・モードに移旋し、それを原調と比較すると「♭Ⅱ度」を聞かせる事があります.西洋音楽界隈での機能和声ではサブドミナントの取り扱いというのは偽終止的進行を標榜しない限りドミナントの前に置かれる機能に過ぎないので「プレドミナント」という位置付けをされております.即ち機能和声に則るならばサブドミナントはドミナントに進む為の物という意味なのであります.フェリックス・ザルツァー(サルザーとも)は自著『Structural Hearing』に於てフリジアン・スーパートニック即ちフリギア上のⅡ度を取り上げますが、飽く迄も茲ではプレドミナントの位置付けで語っております.換言すればその「♭Ⅱ」は「Ⅴ」に行く為の物として取り扱われているのである事に注意が必要です.ギリシャ時代にはフリギアは「ドリス」とも呼ばれた物でありますが、これが独自の変化を遂げてアラブ、中東、ペルシャ地域では異なる様式として用いられたり、スペインなどではアンダルシア進行としてスパニッシュ・モードが生じた様に、フリギアのムシカ・フィクタは「Ⅰ」の時の短和音の第3音が「♮III」へと可動的変化を取る事が最も多かったのでこうした変化がスパニッシュ・モードという多様な変化を辿ったのであります.こうした進行は機能和声ではなく擬終止的進行の世界観の側にある物なので「♭Ⅱ」は「Ⅰ」を目指します.西洋音楽界隈でのナポリの六の和音というのは後続に「Ⅴ」に進む為の物なのですが、フリジアン・スーパートニックの「♭Ⅱ」は必ずしも「Ⅴ」に行く為の語句として私は用いていないのであらためてご注意ください.)

 ♭Ⅱ度をフリジアン・スーパートニックとして見なさざるを得ない移旋を伴っているという状況は、その時点でのモード・チェンジ先のⅠ度は、元のⅠ度=A♭の長三度下=Eに移る事になる為、この二全音調域の和音進行はコルトレーン・チェンジと同様のイディオムでもある訳です。


 5小節目「Dm7(♭5)→G7(♭13)」を見れば直ぐにそれが短調のツーファイブ、Key=Cmでの借用であるという事が判ります。つまり、元のA♭のキーから二全音下=Eに転じたそれと等距離=equidistant である基軸となるA♭からの二全音上=Cの同主短調であるCmを音脈としているのも見逃せない事実であります。

 仮にA♭から二全音上の「C」に着地するだけであるならば等距離にある和声音脈を使用している事になりますが、それを同主短調というモーダル・インターチェンジを視野に入れるそれは結果的にはネガティヴ・ハーモニーと同様の音脈を用いる事になる訳です。私が過去に「Key Breeze」という本曲と同アルバム収録の楽曲の解説にてネガティヴ・ハーモニー側のコードを併記したのは、日野皓正のこうした楽曲構造への深い洞察を必要とする為に用いた意図があったのであります。



 ジェルジ・リゲティなどは平均律の等距離の近傍となる等音程で微分音音程を視野に入れたクアジ・エクィディスタント(quasi-equidistant)という音脈も用いて来ますが、ジャズ界隈ではリップスラーを除けば容易く微分音を扱える状況ではない為、平均律での等音程を用いる事が視野に入る訳でありますが、コルトレーンのコルトレーン・チェンジ然り、その着地点でもネガティヴ側である短旋法系統の音脈を辿るという日野皓正のジャズ・イディオムの前に、ジャズを学ぶ者は咀嚼と反芻を重ねて学ばねばならない部分ではなかろうかと思う事頻りです。


 6〜8小節目に於ける一連のコード進行「F♯7(♭13)→F7(♭5, ♯9)→B♭m7→A7(♯9)」は、Key=A♭での「♮Ⅲ7(♭13)→♭Ⅲ7(♭5, ♯9)→Ⅱm7→♭Ⅱ7(♯9)」と解釈して、ひとつのキーからの「Ⅲ→Ⅵ→Ⅱ→Ⅴ→Ⅰ」からの三全音代理進行である「Ⅲ→♭Ⅲ→Ⅱ→♭Ⅱ」という断片からの変化和音に依る進行として見做しうる事が可能ですのでインプロヴァイズ時にこうした単一の調性を想起していれば、テンポが速く且つ頻々たるコード・チェンジの楽曲の前ではソロを執り易いかと思います。

 加えて本曲は、三全音忒いの調域を視野に入れたクロマティシズムを発揮させている構造ですので、先のコード進行がKey=A♭と見なすと雖も、同時にKey=Dに於ける「Ⅲ→♭Ⅲ→Ⅱ→♭Ⅱ」と見做してアプローチを採る事も可能でありますので、あらためて念頭に置いておきたい側面であります。

 扨て、8小節目での後発のコード「E♭7(♭9)」を先のコード進行に加えていないのは、先行和音「A7(♯9)」をKey=A♭での「♭Ⅱ」と見るも、それが後続の新たな調性へ転義する着地点としても想起する為であります。つまり、「A7(♯9)」は先行する調での「♭Ⅱ」として見做しうるも、新たな調性 Key=Dの「Ⅴ度」でもある三全音代理として転義する訳です。そこで後発の「E♭7(♭9)」は Key=Dの「♭Ⅱ」として次の小節へ「解決」しようとする物なのであります。


 そうして9小節目でのAパターンが始まる訳ですが、コードをひとたび確認すると「D△7」である事が判ります。とはいえ、本曲を俯瞰してみた時にあらためて確認すると、この「D△」は「Dm」のピカルディーの3度として響かせている情感だと読み取った方がより深く堪能できるかと思います。

 10小節目ではサブトニック(=♭Ⅶ度)としての「C△7(♯11)」に転じます。テンション・ノートが示す様に茲では「Cリディアン」が適切であるのは疑いの余地はありませんが、トニック・メジャーからは機能和声的にもどんな和音へ進行しても自由でありますが、同種の和音としてサブトニックへ進行する場合、♭Ⅶ度上へ転調したかの様にしてサブトニックをアイオニアンで採る事はよっぽどではない限りは遭遇しない物です。サブトニックの長和音をリディアンで受ける方が調性的にはより自然であるからです。ではなぜ、Dアイオニアン→Cアイオニアンという下主音側への転調とするよりもDアイオニアン→Cリディアンと採る方が調性的に自然に聴こえるのか!? という事を語る事にしますが、これは基底和音から作られるペンタコルドの創出の宿命的な構造に立脚しているからであります。

 では、それらのペンタコルド構造をハ長調のⅠ度からサブトニックの♭Ⅶ度という風に移高して考えてみましょう。

 ハ長調の主和音として「C△7」があると想定した時、この和音の基底和音=Cメジャー・トライアドが指し示すペンタコルドは [ド - レ - ミ - ファ - ソ] の5音列であります。

 そうした音組織を匂わせている所でカデンツとしてサブドミナントとドミナントを経由せずに、ノンダイアトニック組織であるサブトニック=♭Ⅶ度上の和音が生じた場合、調性的な関連性として「B♭△」というコードは [ファ - ソ - ラ - シ♭ - ド - レ] というペンタコルドを伴わせる事になります。

 ハ長調という社会的枠組みではサブトニック側に「B♭△」というコードがダイアトニック・コードとして現われる事はありませんが、借用あるいは部分転調的にノン・ダイアトニック・コードとして生ずる例は多々有ります。そうした状況に於てハ長調から見た時の「B♭△」というコードの整合性を図る状況というのは、出来る限り、音組織の形が「ゆがめられない」事が望ましく、調的因果関係(整合性)のバランスが取り易くなる物です。それというのも、「調」という性格は、主音から属音への5音列=ペンタコルドに加え、属音を共有する様にして属音からオクターヴ上の主音への4音列=テトラコルドが組み合わさっているという状況が調を形成しているのでありまして、副次ドミナントが作用する時というのは、端切れとなるテトラコルドをペンタコルドに拡張して「8音目」を材料音として結果的に近親的な調を持ち込んでいるに過ぎないのであります。こうした状況を勘案すれば、ハ長調という原調から「B♭△」というノン・ダイアトニック・コードが生じた状況で最も整合性が取れる状況は、ヘ長調のペンタコルドが視野に加わった時であるので、こうした関連性を見抜く事が出来る訳です。

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 異なる調域のペンタコルドを組み合わせた時にB♭アイオニアンを想定しまうと、より遠い調的関連性となる「E♭」を生じてしまう事となります。つまりそれは、調的因果関係から創出された2組のペンタコルドでは現われない音として「E♭」を生じてしまっている事となるので、調的関係としては縁遠い脈絡となる訳です。調的関連性として「より近い」のは「E」として保持される、すなわちサブトニック=♭Ⅶ度からの旋法は「♭Ⅶリディアン」の方が調的関連性では近い事となり「より自然」に耳に響く訳です。

 これにてトニック直後のサブトニックでの同種和音がアイオニアンを採らずにサブトニックでのリディアンを採る方がより自然であるという因果関係はお判りいただけたと思いますが、11小節目で現われるコード進行「Em7(♭5)→A7(♯9)」という短調のツーファイブを見ればあらためて「Dm」を想起した上でえ12小節目「D△7」でのモーダル・インターチェンジというピカルディーの3度を齎した響きだという事があらためてお判りいただけるかと思います。

 これらのコード進行はいわば、10小節目での「C△7(♯11)」は「目くらまし」的な意味で調性を一旦斜に構えさせるも、その後の12小節目の「D△7」で「結句」させるのは結果的に9小節目と12小節目は同義であり、過程の小節で生じているコルネットのフレーズはDメジャー上にてフラット・サブメディアント=♭6th=変ロ音(移調譜ではC♮と表記)を介在させて、そのフラット・サブメディアントの為に迂回進行を用いているという事もあらためてお判りいただけるかと思います。ポップス系統ならば茲まで和声を充てずに極力少ないコード進行になるのでありましょうが、こうした迂回進行を態々採る所にジャズの真骨頂が現われている事を実感できると思います。


 13小節目では、先行の「D△7」というⅠ度から半音下への平行和音となっている様に見えますが、この「D♭△9(13)」も矢張り、D♭リディアンを想起するのが適切なモード判定となります。即ち、D♭リディアンを想起した時はA♭メジャーの調域である事があらためてお判りになる事でありましょう。こうして三全音忒いの調域を巧みに辷り込ませてごく自然に聴かせているのですから畏れ入るばかりです。

 14小節目では今度は半音上がって「D7(♭9)」を生じさせます。等距離にある和音を変化和音へと装飾を施しているのは明らかでありますが、この和音の「実体」として、その三全音代理の「A♭7(♭9)」を想起する事で、これが Key=A♭での「Ⅰ7」の副次ドミナントの三全音代理である事があらためてお判りいただける事でしょう。

 15小節目では先行からそのまま下方五度進行させて「Gm7(♭5)」という風にハーフディミニッシュへ進行させて、その後続和音となる「C某し」の和音進行を暗々裡に期待させる訳です。

 然し乍ら16小節目では期待を「好い意味」で裏切って「C某し」の和音へ下方五度進行を採る筈であったコードを三全音代理をさせた上で「F♯7(♯11、13)」を生じさせているのですから非常に能く計算された調性プランである事があらためて理解できます。

 そして17小節目では先行和音が「♭Ⅱ」として機能させる様にして「F△7」へと着地するのであります。この時、「原調」としての Key=Dから見るとセスクイトーン(1全音半)進行として短三度上の調域へ転じている状態でもある訳です。

 こうして「F△7」を新たなⅠ度として着地した事を勘案して18小節目「E♭△9(♯11)」を見れば、あらためてこれが「サブトニック」へ進んでいる物と同様の解釈で済ませられる事がお判りになる事でありましょう。

 リディアンを存分に感じさせる和音から半音下のマイナー・コードに進行する場合、それは概して「Ⅳ△7→Ⅲm7」として耳に響く物であります。ですので「Ⅲm7」として聴こえる和音に長九度音を充てるのは不適切である為、フリジアンを想起するのが適切なのでドリアンを充てる為のマイナー7thコードと読んでしまうと迷妄に陥りかねません。つまり19小節目での「Dm7」は、コードそのものは原調の同位和音(=同主調の同度)「Dm」であるものの、少々取扱いが異なるのであります。

 20小節目で「D♭△9(13)」が現われますが、これはFをⅠ度として見た時のフラット・サブメディアント、即ち「♭Ⅵ度」として見做すべき物です。斯様に想起しているならばF音から見た時の「Ⅴ度」を一旦の着地点として調的には進行しそうな物でもありますが、本曲が非凡である所が次の小節以降でも顕著に表わされます。


 21小節目ではF音から見た「Ⅴ度」を期待させてもよさそうな筈なのに、♭Ⅵ度を副次ドミナントとして変化させる訳ですが、それを七度ベースとして用いると結果的に「♭Ⅵ△/♭Ⅴ」という構造が生ずる訳です。「Ⅴ度」を期待させ乍らもそこには行かずに「♭Ⅵ7」として変化させつつそれを七度ベースにするというのはなかなか凝った進行であります。

 しかも、措定されて生じている上声部「D♭△」は三全音代理として「同義的」に後続での22小節目中拍では「G△」を生じさせ、下声部では [ces - b] というクリシェを強行させて、バイトーナルな風味となる「G△/B♭」という、実に見事な「不協和」を生じさせて22〜23小節目での「A△9」という風に一旦解決として着地させる訳ですから、あまりに非凡な進行に言葉を失ってしまいかねない程美しいと思います。

 茲は私の主観ではありますが、原調の属調である「A△9」が一旦の極点を見て、残り香となる原調および原調の三全音調域という物を追懐させて転調を生じさせれば、より自然に「坂を転がっていく」かの様に調性プランは進んで行くのだろうな、という見立てを立てる事も出来る訳です。


 25小節目での「Bm7(♭5)」は、明らかにAマイナーのⅡ度を想起させる物です。それは先行小節での「A△9」のネガティヴ側(同主調)のハーモニーでもある訳です。但し、25小節目では同主調の音脈を示唆する物の、短調という確固たる姿としてまでは確定していない状況なのです。

 そこで26小節目ではハ長調とイ短調(Key=C|Am)での平行調同士での属七のポリコード「G7/E7」を生ずる訳ですが、これは他でもなく、下声部を主体として見立てるとオルタード・テンションとして「♭9、♯9」が併存する状況の同義音程和音でもあります。同度由来のオルタード・テンションが生ずるのは、調的な意味で許容されない側面がありますが、多義的解釈を要する(特に複調など)を視野に入れている状況ならばこういう表記も有りですし、少なくとも「♮11・♯11」や「♭13・♮13」という併存よりは遥かに看過出来る物ですし。余談ではありますがアルバン・ベルクのヴォツェックでも「♭9・♯9」併存は出て来る物です(ヴォツェックはもっと多様です)。

 こうした同度由来として書かざるを得ないオルタード・テンション(※九度相当の)が併存する時は概して、平行調同士の属七が併存している状況だと思っていただいても差支えない事でありましょう。そうした「不協和の度」を綺麗な程に増して粉飾されたコードは、27小節目で「Am7」という風に一旦の結句を見ている訳ですから、能く考えられた進行だという事があらためて理解できると思います。


 28小節目ではツーファイブ進行として歩を進める様にして「D7(♭9、♭13)」へと進みます。先行の「Am7」を短調の「Ⅰ度」として一旦の解決を見るならば「D7(♭9、♭13)」は下属和音=Ⅳ度の和音の副次ドミナント化なのでありますが、「D7(♭9、♭13)」が生じた時点でG調の「Ⅴ度」という風に転義します。更に後続へ下方五度進行を重ねます。そうして29小節目では「Gm9」を生じさせ、この「Gm9」が一旦の「Ⅰ度」として新たに見なされる事になるという訳です。


 30小節目で「A7aug」が生ずるのも「Gm9」から見れば副次ドミナント化した「Ⅱ7aug」とも解釈可能なのでありますが、副次ドミナント化した時点でやはりこれも「Ⅴ度」として転義し、後続の「Dm11」で31〜32小節で一旦の結句を見る事になります。

 扨て、31〜32小節目でのコードは「Dm11」としている物の、実際には31小節目の強拍・強勢に於て [h音:ロ音] が加わる事を見逃してはなりません。それならば和声的には立派な「Dm13=Dm7(9、11、13)」という副十三和音でもありハ長調域の総和音でもあるのですが、敢えて注意喚起に加え、コード表記とは別に五線譜からの深い洞察を要するという意味でもコード表記を「Dm11」にとどめて譜例上にて付加音=h音を擁する様にした訳です。私の底意地の悪さを指摘されるかもしれませんが、この聞き逃してはならない大いなる示唆を私のこうした恣意的な表現で何事も無かったかの様に看過してはなりません。そういう意味では聴取、視覚、文語的な意味の理解など、単に物事を平然と準えているだけでは読み取れない重大な意図を敢えてこうして表現したのであります。


 機能和声の枠組みで「総和音」という物を見れば、トニックもドミナントもサブドミナントも総取りした物となってしまう為、閉塞した状況と見做される物ですし、不協和音この上ない状況ですから主体としては属音を基底に置くのが相応しい取扱いになる訳です。

 処が、非機能和声あるいは旋法的(非チャーチ・モード)和声の枠組みで鑑みれば、長音階の総合となる総和音となる音組織以外=つまり和音外音は半音階の他の5音を充填する前の状況であると解釈するならば、その「全音階の総合=総和音」は決して半音階の総和音ではない訳ですから、半音階組織へと浸潤する為にある「断片」が偶々全音階の総合としての型であると理解してほしいのです。即ち、全音階という組織の入れ子には水の溜まる場所はもう無いのですが、半音階という入れ子にはまだ水が溜まる余地がある訳でして、半音階組織への浸潤=クロマティシズムへの欲求の起こりという物を総和音では結句させる事なく更に見せようとするのは、Key=Dmの他に三全音調域の存在を仄めかしているが故の事でもありましょう。私はそういう風に本曲を理解しております。


 そうして33〜36小節目ではイントロと同様のコード進行が形成されており、直前の「Dm」からスルリと「A♭」へ転調している事がお判りになるかと思います。三全音忒いの調域への「転調」ではあるものの、本曲が巧妙に三全音調域を同等に取扱ってクロマティシズムを形成しているのがあらためてお判りいただけるかと思います。


 37〜40小節目に於けるコード進行「E♭9→D7(♭9、♭13)→D♭9(♯11)」は、41小節目の「C△9」をⅠ度として捉えて帰着する為の「♭Ⅲ→Ⅱ→♭Ⅱ」という進行であると見做しうる物であり、三全音代理として還元される前段階として想起すると「♮Ⅵ→Ⅱ→Ⅴ」が想起されるのですが、これらの音度は後続のCをⅠ度と捉える為の指針であり、36小節目の後でC調へと二全音調域の転調となっている訳であります。そこではA♭が「Ⅰ度」であった為であります。


 そうして41〜44小節目では「C△9→D♭△7(♯11)×2」という風に、「D♭△7(♯11)」はCから見た「♭Ⅱ度」と解釈すべき物であり、パターンDとなる45小節目では、先行にて「♭Ⅱ△7(♯11)」として生じたリラティヴなカウンター・パラレル・コード(=下方三度下の代理和音)として「B♭m7」を生じているのでありまして、本来なら「♭Ⅶ度」で生じたマイナー7thコードと解釈してしまいそうですが「B♭m7」は新たな長調(=D♭)の下中和音=Ⅵ度として転義している所に注意が必要です。

 その、長調Ⅵ度の和音が短調Ⅵ度(=♭Ⅵ度である所に注意)という風に同位和音を結ぶので、結果的に「B♭m7→A△9」という風にして、46小節目での譜例動画内では表記漏れをしている「A△9」へと進む訳です。コード表記の音度としては異度由来になるも、実際には長調での♮Ⅵ度から同主短調の♭Ⅵ度への進行という風になっているのであり、その後はセスクイトーンのパラレル・モーションという風にして47〜49小節目で「D△7(♯11)→F△7→A♭△7」と進行させており、最後の「F♯△9」は、Key=Dから見た二全音上行を採る調域へ転じさせた物であり、Key=A♭から見た時の「全音下」の調域でもある訳です。ジャイアント・ステップスならぬノーマル・ステップ(全音)とジャイアント・ステップ(二全音)を併せ持たせて一旦の帰結を見せているという訳です。


 私の制作したデモでは茲までですが、本曲は現在1000円というとても手に入れ易い価格で再発されておりますので、そちらでじっくりと確認いただければ、私のデモにはない後続の新たなパターンにて曲の展開および調性プランをあらためて堪能する事が出来ると思うので是非ご確認いただきたい所であります。新たなパターンも分析のしやすい平易なコード進行でKey=A♭へ解決して行く展開ですので解り易いかと思います。
 


 折角なので、本曲に於ける他の特徴的なベース・パートの方も語っておく事にしましょう。本曲ではトム・バーニーがラグタイム風のウォーキング・ベースに加えてダブル・クロマティック・フレーズも織り交ぜていたりするのですが、ダブル・クロマティック・アプローチは明らかにジャズ系統のウォーキング・ベースの採り方なので非常に参考になるのではないかと思うので併せて語っておく事にします。

 
 ウォーキング・ベースについては他のブログ記事でも語った事なので敢えて重複は避けますが、基本的にジャズでのウォーキング・ベースという物は、アヴェイラブル・モード・スケールおよび和音構成音以外の音脈も用います。それは、強烈なアヴォイド・ノートを推進力(反発力)という風にして用いるからであります。ジャズという半音階的フレーズが横行する世界では頻発する物の、ジャズに縁遠い方は逆に「不協和の推進力」が意味する物は判りにくいかと思うので、機能和声的社会に於ける「不協和の推進力」という一例を挙げる事にしましょう。

 まず「ドミソ」という構成音というコードがあったとします。これは「C△」であります。換言すれば「ドミソ」という音以外は和音外音なのであります。とはいえ半音階から「ドミソ」の3音を拔萃した状況という風に通常は捉える事はしません。全音階の「ドレミファソラシ」という音組織を用いて、そこからの拔萃となる和音が偶々「ドミソ」という構成音になるのが「C△」というコードなのであります。この和音に対して、和音構成音と同じ音をメロディーに用いた場合、常に和音に準則しているので不協和な状況は起こしておりません。寧ろ「分散和音」に過ぎない音選びをしているだけに過ぎない状況であるとも同時に言える事なのです。

 和音に対して折角の線運び=メロディー選択をするのであるならば、和音構成音ばかりではない和音外音が線的に生ずるのは至って当然ではありますが、和音外音が生ずる部分をミクロ的に見ればその瞬間は「不協和」が生じている事になる訳です。「ドミソ」という和音構成音として成立している「C△」というコード上で「ド - レ - ミ」というメロディーを奏した場合、「レ」の部分をミクロ的に見れば不協和が生じている訳です。

 が、しかし。この「レ」は和音外音である為「不協和」という反発力を音楽の神様から授かったのであります。この反発力は次なる和音構成音へ「より吸着し易く」する為の推進力として作用しているのであります。


 こうした事を鑑みればジャズのダブル・クロマティックというのは、通常の足運びでは期待する所に現われてくれない飛び石の様な物で、それこそ階段の段飛ばしの様に足を運ぼうとしたら着地しようとした所に汚穢があり、それを更に避ける様に足を伸ばすかの様な推進力に似た物であると思っていただければ助かります。

 ジャズと雖も大半は、和音構成音および想起するアヴェイラブル・モード・スケールに則っております。とはいえそれだけに準則してしまうとコード進行が目紛しいだけの展開を聴かされているだけに過ぎず、更なるクロマティシズムを演出するには、アヴェイラブル・モード・スケールという大半は7音で充たされている「期待し得る音」以外に半音階を「充填」する必要性が生ずる訳です。ヘプタトニックのままだと単に期待し得る調性感に準則するだけですから面白味に欠ける(ジャズ的には)のでありますから、半音階という音組織を俯瞰して、半音階からの音脈を「充填」させるというのがジャズの真骨頂なのであります。この「充填」が最も能く現われるのがジャズではベース・パートであるのです。ですからアヴェイラブル・モード・スケールでもない和音構成音でもない音が頻繁に使われるのであります。

 そうしたクロマティックな音脈を推進力で使えるか否か!? というのがジャズのベース・パートに求められるセンスなのでありまして、こうした方策を知らない人は閉塞してしまう訳です。不協和を推進力として使える様にフレージングするのがジャズに於けるウォーキング・ベースの醍醐味なのであります。こうした充填法は、世に出ている「解り易い所」で市販されている類のウォーキング・ベースでは一切語られておりません。というよりほぼアテにならないのが正直な所です。

 ジャズのウォーキング・ベースという物がそういう大前提の下で行なわれている事を鑑みれば、後続和音に対して上行/下行導音、スケール・ワイズ・ステップ順次進行、三全音進行、等音程進行などを充てていれば、それらが必ずしもアヴェイラブル・モードや和音構成音に準則する訳ではなくなる為、多様な跳躍という風になる訳であります。

 こうした特徴的な状況を踏まえてあらためてトム・バーニーのウォーキング・ベース・フレーズの特徴的な部分を語る事にしましょう。10小節目の中拍では「C△7(♯11)」のコードにて長三度音に対する下行導音=F♮を充てているのが特徴的であります。この状況は [fis] が [g] に転回位置にて半音で同居する事を是認している状況であり、この音程の逆方向に投影する様にして [fis] が [f] を形成する事で新たなる半音が凝集する事で、更なる推進力(反発力)が生ずる事になります。能く私はこういう状況を「剥離」すると表現しますが、剥離する特異点は [fis] と [f] の間の物理的には音が存在しない微小音程=微分音の部分に基準点があるとも考えられ、その特異点を音として用いた場合の特異点はまた別の場所に生ずる訳でして、フレットレス・ベースで微分音も視野に入れる様な状況であるならば、こういう特異点を実際に微分音として活用しても好い状況にもなります。

 トム・バーニーはこの曲ではフレッテッドですので、特徴的な音として「C△7(♯11)」上で [f] を奏する事が特徴的になっているだけの事なのであります。特異点として [f] と [fis] に存在する場所を仮に物理的な音として [fit] と呼ぶとしたら、上方に [fit - fis - g] という音程差と等しい音程を下方に [fet - f - e] と作ろうとして剥離する斥力を生んでいると考えてもらえれば解り易いかと思います。

 18小節目での4拍目では「E♭△9(♯11)」というコードであるにも拘らず、後続和音「Dm7」の為の上行導音を採る為に [cis] を生じており、E♭から見た増六度を生じている現実を目の当たりにする事になります。長六度=C音を中拍で用いているのは先行の小節に於て長和音に対して用いていた形でもあるのですが、6th音=13th音を選択していた事が既に「勝利」とも言えるアプローチでありましょう。

 22小節目の [h] は実際にはオクターヴ上昇して来た [ces] と表わすのが精確であります。唯、私の個人的な志向を語らせていただければ、[ces] と弾いた後に後続和音での [b] を弾く直前で前打音(=装飾音)として微分音としての装飾を充てたい状況なのです。つまり [b] よりも僅かに高く [h] よりも僅かに低い音を仮に [het] とするならば、オクターヴ上昇して [ces] を弾いた後、[b] の装飾音として [het] を弾くという欲求が表わされているとお考えいただければ幸いです。一応譜例は原曲を踏襲する事にはなっております。

 24小節目では中拍で5th音= [e] に対する下行導音 [f] が経過的に挿入されている所が注目すべき点であります。先行の [fis] から [fis - f - e] という風に採る訳ですが、普通にアヴェイラブル・モード・スケールを想定するならば [fis] は弾いても [f] を弾く事は避けられてしまう物です。然し、メジャー9thコード上でもクロマティシズムを追求するという強い情念を抱いていれば、[fis] と [e] の間を半音階の音脈を用いて「充填」させようとするのは決して誤りではありません。半音階を「充填」する事で強い「不協和」を新たに生むという事は、少なくとも「より弱い不協和」への推進力の為であるという事をあらためて知っていただきたい訳であります。「より弱い不協和」の前に「強い協和」となる5th音 [e] があっただけの事でして、ダブル・クロマティック・アプローチというのは「より弱い不協和」への推進力の為に用いられているという前提をあらためて知っておいて欲しい所であります。


 26小節目での中拍では後続のAm7に対する下行導音 [b] が現われていますが、茲での和音は先述のコード進行本編でも語った長・短平行調の属七のポリコードである訳ですが、基底部(下声部)の属七の三全音でもあり、和声側のオルタード・テンションを巧く「縫い付けて」いる配慮の利いた音でもあります。

 28小節目中拍でも「D7(♭9、♭13)」に対する三全音として後続の下行導音を採る様にして [as] を生じさせているのも同様のアプローチであります。


 32小節目からのダブル・クロマティックの連結は、後続の「A♭△9」への長い連結である訳ですが、Dm11(Dm13)の7th音から剥離させて行くのが絶妙な音の選択であります。Dm13として見た場合、これはドリアン・トータルである訳ですからD音を中心とした時の全音階的な音程構造は上にも下にも対称構造となっている訳であります。これと同様に「A♭ドリアン」も対称構造になる訳でありまして、奇しくもピアノの鍵盤の物理的構造の対称形の中心はDとA♭(G♯)の2箇所にあるのも興味深い所ではあるのですが、全音階としての対称形はDにあり半音階の対称形となるとA♭になる訳です。

 つまり、DとA♭はどちらも対称構造の「同族」へ紡ごうとするので、ここがメビウスの輪を繋ぎ止める部分でもある訳でありますが、お判りの通りDから後続のA♭は「Dm13」と「A♭△9」というコードが併存する為の物ではなく「進行」しなくてはならない状況です。ベースが [c - h - b - a] とダブル・クロマティックを下行形でアプローチを執っている事は [e - f - ges - g] と上行形で執る事と同様でもあります。

 バリー・ハリスやビバップ・ドミナント・スケールを語った時には「減八度」の話題を出しましたが、ベースが減八度を充填する事なく、短七度からダブル・クロマティックを選択するのは非凡でもありますし、それと同様の「極点」=A♭を目指す上行のダブル・クロマティック形 [e - f - ges - g] は、マイナー・コード上にて減四度を生ずる音脈でもある所はあらためて述べておきたい所です。この部分は本曲とは無関係な音脈ではありますが、結果的にはこうした側面をも照らすアプローチであるという事を語っておきたい訳です。


 最も声高に語っておきたいのは40小節目の部分でありましょうか。譜例動画ではベースが [ges - g - g] と表わされておりますが、これは記譜ミスで、[ges - ges - f] が正しい物です(デモ音楽の方は譜例とは異なり正しく奏されています)。

 ですので、譜例動画の表記通りではなく正しい音の方で掛留として続く「D♭9(♯11)」というコード上にてベース音は下方五度進行を目指すかの様に [ges] を奏します。しかも背景のコードは♯11th音を纏っているのですから、そこに本位十一度=♮11thを充填する意図は、その先の増十一度音 [g] への強力な反発力を得ようと企図した物でありましょう。結果的にこの [f] は後続「C△9」の下行五度進行の為の足掛かりとしている訳ですから絶妙な音の選択でもあります。

 私はこの箇所での本位十一度音をとても高く評価しているので、エレピのパートに実は [fes] を2拍目で忍ばせております。原曲では1:37秒付近で同様のエレピのインタープレイが現われるのですが、原曲の方の実際の2拍目は下から [des・f・as] というアヴェイラブル・ノートを準え、譜例動画の3拍目強勢部は八分休符になるのが原曲の実際です。但し私は、原曲のケニー・カークランドのインタープレイに更に華を添える様に、どうしてもトム・バーニーの採るアプローチを拝戴して応用させたかったので [fes] を忍ばせたのであります。

 なぜなら [fes] は和音構成音やアヴェイラブル・ノートから鑑みると全くの埒外な音ではあるのですが、ベースが「D♭9(♯11)」というコード内にて [ges] を採るというそれを私は「D♭9(♯11)」と併存するD♭の増六度上/減三度下に附随する「B△(♯11)」の陰という仮想的な和音を見据えており、これがトム・バーニーの [ges] を強化する音脈であると考えたからなのです。故に、3拍目強勢に [f] を充たしつつ更にその直後に [g] と連結させる事で、[g] に対する下接刺繍音としての装飾音としても響くのであります。そうする事でより一層クロマティシズムの色が [g - ges - f - g] という風にして強化されると考えたからであります。

※こうした「虚像」というべき新たな音脈を想定した上で採る同様のアプローチは、ブラッド・メルドーにも同様のアプローチがある物です。

 以降、譜例動画でのベース・アプローチは特段触れる箇所はなく平易に収束しておりますが、私の記譜ミスに目をつぶっていただければウォーキング・ベースのアプローチの妙味をあらためて実感していただける事かと思います。