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杉本拓著『楽譜と解説』を読んで [書評]

 私のブログは茲の処、音楽書関連書評の話題が続いているのでありますが、今回取り上げる音楽書〈杉本拓著『楽譜と解説』〉を取り上げたいが故の事だったのです。これまでの書評に関して私が述べていた脚注と出典の重要性やらシカゴ・スタイルが好みではないというそれも、今回取り上げる書籍の脚注の類が概ね愉しく読む事のできる物ではないかと思い、刊行順としては先行のそれらと前後してしまうのでありますが、敢えてこうして紹介したかった訳です。脚注のタイプとしては、章末毎に脚注を充てられる物ですので近年の音楽書で例えるならば、ヤニス・クセナキス著 野々村禎彦監訳 富永星訳『形式化された音楽』を挙げる事が出来ます。  

 あらためて本の脚注・訳注の重要さという物を思い知る事が出来るのが『形式化された音楽』でありましょうが、本文が巧くテーマが別けられていると、文章のコントラストはより一層明瞭になり深く理解が出来る物です。それにひきかえ、フィリップ・ボール著『音楽の科学』という物を振り返ると、その圧倒的な文章量とは裏腹にテーマ別けは不明瞭で散文化しており、読む事に骨の折れる類の一冊である事は疑いの無い所でありましょう。それでも杉本氏は『音楽の科学』に興味を抱いている事を跋文にて告白しておりますので、骨折りを厭わないという事も同時に謂わんとする物なのかもしれません。


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 音楽の学究的な側面を判り易く、且つ深く理解する為には矢張り良い脚注で書かれている物に遭遇する事も大切ですし、本に馴れる為には、どんなスタイルであっても対応できる程に読み手の側が偏向的にならない様に心掛けたい物ですが、それを念頭に置いても読みづらくしてしまう本というのは存在する物です。その上で本書『楽譜と解説』というのは、章末毎に力瘤が蓄えられ巧く纏められた文章となっており、理解が進むタイプの物ではないかと思うのです。


 殊に音楽を嗜む人というのは読書を苦手とする人は意外にも少なくありません。読譜と同様に横組みの本を読もう物なら、その弾みの付き過ぎた読み方に、音符と文章のそれとは丸っきり違う理解力の差に読み手本人が苛立ちを覚えて理解が進みにくくなってしまうでしょう。私自身、本をじっくりと読んで理解したい時は、縦組みの本で発話速度よりも稍遅い程度で読みたいと思う事頻りであります。

 無論、読書のそれには各人各様の読み方があるので私の読み方が絶対ではないのでありますが、本の読み方を余り知らない人の場合は本文を重視するあまりに脚注まで注意力を働かせずに理解を不十分にしてしまう人は意外にも多く、殊に音楽を優先する人というのは読書を不得意とする人も少なくはありませんから、糧とすべき重要な情報を読み落としてしまっている人も少なくはありません。私自身若い時分には、読書に於ける脚注への注力は耳に胼胝が出来る程慫慂され乍ら聞かされてはいた物の、己の探究心に乏しく、書籍から得られる知識を巧く利用できない時というのは誰もが経験する事でしょうし、ある程度はそうした苦労を味わって本に向き合わざるを得ない側面なのかもしれません。確かな知識を得る前には障壁がある物ですが、それを乗り越えた時には血となり肉となるのでありまして、いつしか読書の煩わしさという事も払拭できているのではないかと思います。


 扨て、本書はアヴァンギャルド方面のギタリストである杉本拓氏が書いているという事もあるので、そこに興味は尽きないのでありますが、予想以上に微分音関連、いわば純正音程方面に詳悉に書かれているのは驚きでありました。自身のこれまでの作品群と、その音楽的な語法を時系列に語っていき乍ら、徐々に純正音程方面について語られていくので、著者本人のレコメンドも相俟って、読者は新たな糧を得る物が多いのではないかと思います。また、先述した様に、章末毎の脚注が詳らかに語られており、出典となる参考文献に関するそれは、単なる箇条書きや紹介ではなく、著者本人がどれほどの影響を齎したかという事も踏まえて読者へ薦めている事もあって実に興味深く読む事が出来るのではないでしょうか。

 本という物は、本文そのものは重要ではありますが、脚注はそれと随伴する重要性があります。ですので、概して文字の大きさが小さく表わされている脚注の多くを読み飛ばしそうになる気持ちも判らなくはないですが、本書は特に脚注が財産となる事は間違いないと思うので、決して読み飛ばさない様にして欲しい所であります。


 「純正音程」とは、純正律も範疇に入る物の純正音程はもっと広い整数比の音程をカヴァーします。即ち、音律の体系の一つである「純正律」では扱わぬ整数比の音程も「純正比」として取扱うので幅広いカヴァーとなる訳です。因みに、「純正律」と「純正調」というのも、本来はこういう方面を別々に語る物であるので注意をされたい処です。どちらも同じ意味で語る人も少なくありませんが、「純正調」というのは、音律の体系の一つの「純正律」とは異なる純正比を取扱っている体系の事を広く述べる時に指し示す語句という訳です。本書ではそこまで厳密に分類している訳ではないものの、純正律から語り、その後多くの「純正比」を語る事で、それが「純正音程」を指し示している事は自ずと理解できる筈でしょう。


 115頁辺りの1:3の振動比というのは本文では触れていない物の、2:3の振動比よりも1:3の振動比の方がうなりが少ないというオイラーが証明した現象と同じ事を述べているのは興味深い所です。通常、隣接し合う整数比というのは「絶対的」な程に安定的な音程比とも呼ばれるので「1〜4」という振動数で生ずる音程比で生ずる隣接し合う音程比は「絶対的」な地位を得ており、これらは「完全音程」と通常呼ばれている物であります。著者は音楽を独学で学んだとの事ですが、過程で紹介される出典の数々は確かな物ばかりですので、これらに関する著者の感想や手引きは大いに参考になる事でありましょう。


 また、160頁の章末脚注 [注4] は、私がこれまでブログでも語っている様に、上方自然倍音列に下属音相当の音は「完全音程」として現われないという事と同様の事であります。M・マイヤーはその自説の為に、第21次倍音という近傍値を「ファ」相当にしている例もありますが、これは本書で述べられてないとしても本書では援用する必要の無い事ですのでそれは瑣末な事でありましょう。近い内に私のブログでM・マイヤー、テオドール・リップスおよびリップス/マイヤーの法則については語る予定でもあるので、その時、私は本書も含めてあらためて紹介したいと思います。


 尚、本書が語っている所の重要な側面のひとつに、日常的に「平均律」を用いている事で異名同音ですら本来は僅かに異なる音程比であるという事を純正音程を視野に入れると判るという事を詳らかにしております。嘗てヒンデミットが自著『作曲の手引』にて、三全音 [5:7] と [7:10] は違うという事を詳らかにしていた事と同様に、本書ではヒンデミットの名を挙げる事はなくとも、凡ゆる音程にてそうした「僅かな差」という物の重要性を説いている事が判ります。


 弦振動という物の実際は、ナット─ブリッジ間を a─b とした場合、弦を弾くポイントを [p] と考える事が出来ます。扨て、弦を弾こうとする直前というのは [a-p-b] という風にして実際は「三角形」を形成しているのであります。この三角形が突如「放たれる」と、この弦振動は静止状態に回復をしようとして行き乍ら、その「三角形」は回復をしようと「半周期」を経ると、当初の弦が放たれる直前の対称形を採る様にして振動を繰り返し、そうして「1周期」が初めて「音」となっているのでありますが、三角形が結果的に「平行四辺形」の形を採って振動しているのであります。決して円運動ではないのであります。

 処が、弦が振動しようとしている動きは、弦の中心がその振動の理想的な振動を得る為のポイントなのでありますが、弦は物理的な大きさを伴う物ですから、弦の中心よりも外側にある弦の形状にて振動を「強いられる」のでありまして、思弁的な弦振動のそれと物体の運動の現実としての弦振動は異なる側面がある物です。こうした側面を問題点として挙げられる事は実際には殆ど無いのが現実なのでありますが、本書では124頁の脚注にて「インハーモニシティ」という側面を語っている事はとても親切だと思われます。遉ギタリストたる重要な視点を忘れてはいないという事を思い知らされるのであります。


 そういえば先日、SYZYGYSの冷水ひとみさんがTwitterにて、ご自身の糧とする微分音関連の音楽書を3冊挙げておられました。それらの3冊は次の通り。

小方厚著『音律と音階の科学』
藤枝守著『響きの考古学』
Harry Partch 'Genesis Of A Music'

 これらの書籍をレコメンドとするツイートには、SYZYGYSのライヴに小方厚氏が来られていた事も含めて語られていたのでありましたが、同時に『音律と音階の科学』の新装版が刊行される(2018年5月16日予定)という事も知る事が出来た物でした。奇しくもこれらの著書の紹介は本書『楽譜と解説』にて杉本氏が援用する著書と重なる事もあって、あらためてこれらの音楽書の強い影響力とその知識の確かさを思い知るばかりであります。


 話題を戻しますが、意外にも純正音程方面の話題は多岐に亙って論述が進んでいて、そうした「新たな」音楽体系を判り易く語っている処に、読み手の興味が尽きる事が無いのではないかと思います。ハリー・パーチの「1本足の花嫁」について私自身もブログで語った事がありますが、所謂「協和度」の強度を「半オクターヴ」で折り返して図示すると、そうした形状に見える事から名付けられている物であり、これは前掲の 'Genesis Of A Music' にてアクセス可能な物でありますし、跋文にはルー・ハリソンの名は出て来ますし、国内でも柿沼敏江/藤枝守訳『ルー・ハリソンのワールド・ミュージック入門』も実に判り易い名著のひとつに挙げる事ができる物です。


 私が感ずる微分音の世界の魅力とは、平均律とは異なるイントネーションとして聴くというよりも、半音階よりも狭い音程が齎す新たな音楽観に依って生ずる、12等分平均律のそれとは異質の音程が生ずる側面の方が、より強い魅力となっている物です。24等分平均律から7音を抜粋して人工的なヘプタトニックを用いても別段構わないのでありまして、より細かな純正音程にて生ずる43平均律というのは「不等分音律」でもあるので、不等分 or 等分平均律という前提を以てして本書を読まれると、更に理解が深まるであろうと思います。12等分平均律では得られぬ体系の魅力に取り憑かれて欲しいと思わんばかりです。


 前回、前々回に続いて今回も書評とさせていただいた拙筆ブログ記事ですが、特に前回のブログ記事中で取り上げた現代音楽関連となる国内刊行物は、今回の『楽譜と解説』を読み解くにあたり必読書となる物ですので、あらためて注目していただきたいと思わんばかりです。加えて、私から強くお薦めしたい音律関連の国内資料は次の通りですので、併せて参考にしていただければ幸いです。


伊藤完夫著『田中正平と純正調』
溝部國光著『正しい音階 音楽音響学』
ジョン・メッフェン著 奥田恵二訳『調律法入門』
柿沼敏江/藤枝守訳『ルー・ハリソンのワールド・ミュージック入門』
ヨハン・フィリップ・キルンベルガー著 東川清一訳『純正作曲の技法』
S・K・ヘニンガー・Jr. 著 山田耕士・吉村正和・正岡和恵・西垣学 訳『天球の音楽』
山本建郎訳『アリストクセノス/プトレマイオス 古代音楽論集』
ピーター・ペジック著 竹田円訳『近代科学の形成と音楽』
ヘルマン・ゴチェフスキ著 'Is Japanese music more consonant than Western music? An Application of Leonhard Euler's music theory'(お茶の水音楽論集特別号 徳丸吉彦先生古稀記念論文集)