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木石岳 著『やさしい現代音楽の作曲法』を読んで [書評]

 政治学、社会学、音楽学などの界隈では「近代・現代」というキーワードは頻繁に使われる物ではありますが、それらが表わす言葉が明確に統一が図られて呼ばれている物ではありません。研究分野それぞれに各様の別けられる年代はあるとは思いますが一義的な解釈という風にはなっていない物でありますし、それらをひっくるめて「近現代」などと呼ばれる事も珍しくはありません。

 また、最近では特に為政者に依る欺瞞政治・公文書改竄・奸計企図が跋扈する政権下でありますから、それこそ一般の書店では戦後史にまつわる本が結構なスペースを割いて陳列されている事など珍しくありません。そういう息苦しい世の中にあって果して「現代音楽」とやらはどういう風に現今社会を生き抜いて来ているのか!? という事をあらためて現今世代の視点で語られるであろうという期待感から、今回の記事は『はじめての〈脱〉音楽 やさしい現代音楽の作曲法』の書評とする事にした訳であります。
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 B5サイズでPP加工を施した外観はベルク年報のそれを思わせる様な感じでして、ベルク年報の2〜3倍位の頁数だと思っていただきたいのですが、今回のブログ記事は西洋音楽界隈よりも西洋音楽界隈の事をそれほど識らぬジャズ/ポピュラー音楽界隈の人たちに向けて判り易く書こうと企図しているのでベルク年報と喩えた所でどれくらい伝わるかは不明ではありますが、私が態々ベルク年報を挙げて喩えたのはそれなりの示唆があっての事なのでご容赦願いたい処であります。


 そもそも現代音楽を語るシーンというのは、読み手の一定以上の音楽的素養〈エクリチュール〉が求められる状況で語られる所がある為、素養が薄いと途端に敷居が高くなってしまう物なのです。こうした側面については本著でも著者が述べられておりますが、現今のこれまでの音楽的なルール〈先蹤〉を拝戴しつつも、それだけでは足りない音楽的語法を必要とするのが現代音楽の作者の語法だと思ってもらえれば良いでしょう。そうした音楽語法に少しでも敷居を低くして語るには充分過ぎる程、本書はそれまでの現代音楽関連図書には不足している様な事前知識や面白味を詳述しているので、通り一遍のジャズ/ポピュラー音楽界隈には一定以上の素養があり、高次な音楽方面へ目を向けようとしている人にはうってつけの資料となるのではないかと思います。

 いかんせん現代音楽関連は、作者がそれで飯の種にしようとしている以上版権は付きまといますし、それは著書の本体価格に反映されてしまう物で、概して一般的には手の届きにくい価格帯であり部数も多くは刷られないので直ぐに絶版となってしまうという事も著者は述べております。そういう状況にある現代音楽に於て、価格のかさむ様な事は避けて極力多くの譜例を割き乍ら、例示する為のオリジナルの譜例で巧緻に語られている為、本体価格は徹底的に安くなっている所に驚きを禁じ得ません。能くも茲までローカライズした物だと感服する事頻りであります。


 これまでの国内に於ける現代音楽関連刊行物を語る上で著名な所を挙げるとすると次の通り。

松平頼則著『近代和声学』
船山隆『ストラヴィンスキー 20世紀音楽の鏡像』
パウル・ヒンデミット著 佐藤浩訳『作曲家の世界』
エルハルト・カルコシュカ著 入野義朗訳『現代音楽の記譜』
ヴァルター・ギーゼラー著 佐野光司訳『20世紀の作曲』
プリーベルク著 入野義朗訳『電気技術時代の音楽』
オリヴィエ・アラン著 水富正之・二宮正之訳『和声の歴史』
フェルッチオ・ブゾーニ著 二見孝平訳『新音樂美論』
松平頼暁著『現代音楽のパサージュ 20・5世紀の音楽(増補版)』
松平頼暁著『音楽=振動する建築』
デヴィッド・エドモンド゠スミス著 松平頼暁訳『ベリオ 現代音楽の航海者』
柴田南雄著『音楽の骸骨のはなし』
E. ソーズマン著『20世紀の音楽』
クシェネーク著 宗像敬訳『十二音技法に基づく 対位法の研究』
R. スミス゠プリンドル著 吉崎清富訳『新しい音楽 ─1945年以降の前衛』
ポール・グリフィス著 石田一志・佐藤みどり共訳『現代音楽 1945年以後の前衛』
ポール・グリフィス著 石田一志訳『現代音楽小史 ドビュッシーからブーレーズまで』
デイヴィッド・コープ著 石田一志・三橋圭介・瀬尾志穂訳『現代音楽キーワード事典』
ジャン゠イヴ・ボスール著 栗原詩子訳『現代音楽を読み解く88のキーワード 12音技法からミクスト作品まで』
溝部國光著『正しい音階 音楽音響学』
リチャード・バンガー著 近藤譲/ホアキン・M・ベニテズ共訳『ウェル・プリペアド・ピアノ』
ウィム・メルテン著 細川周平訳『アメリカン ミニマル・ミュージック』
ジョン・R・ピアース著 村上陽一郎訳『音楽の科学』
南弘明著『十二音による対位法』
マイケル・ナイマン著 椎名亮輔訳『実験音楽 ケージとその後』
カールハインツ・シュトックハウゼン著 清水穣訳『シュトックハウゼン音楽論集』
アレン・フォート著『無調音楽の構造』
神月朋子著 森あかね訳『ジェルジ・リゲティ論』
ヤニス・クセナキス著 高橋悠治訳 『音楽と建築』
ヤニス・クセナキス著『形式化された音楽』


 これら前掲図書に目を通せば現代音楽の魅力がざっくりと掴む事が出来るでありましょうが、いかんせん現代音楽という最前線を邁進する音楽が「本」として上梓される時というのは悲哀な物で、その時点ではかなりの年月を経てしまって先鋭的な側面をかなり遅れて知らされるという悲哀なる側面もあるのです。こうした悲哀な状況を極力避けるには、原著となる洋書を隈無くチェックしたりする訳ですが、海外での刊行物というのも矢張りタイムラグの様な側面はある為、本当の意味で最先端を知ろうとするならば、学会の研究会および発表会や論文に目を通さざるを得なくなるというのが正直な所です。

 加えて、前掲の図書に所謂新ウイーン楽派(シェーンベルク、アントン・ヴェーベルン、アルバン・ベルク)たちの著書を掲載していないのは私なりの理由があるのですが、結論から言えばそれらがあまりにも無粋である程に瀰漫している体系でありまして、彼等以外の十二音技法を幾つか載せていたという訳であります。

 それというのも、十二音技法ではその構造の徹底的な対称的・鏡像形であるトローペと呼ばれる音列をヨーゼフ・マティアス・ハウアーがシェーンベルクよりも前に体系化を提唱していたのでありまして、殊にブゾーニの三分音(六分音)と共にハウアーの異質な世界をシェーンベルクは知りつつも、それらに対して無碍なる態度を表わして結果的には自説に都合の良い形で十二音技法を整備したという側面があったのです。そうした状況を知る事なく十二音技法ばかりを知るというのは危険であろうと私は思いましたので、こうして敢えて他とは回避させて語っているのであります。

 また、前述の様な悲哀なる側面を皮相的にではなく広く知る為には、国内刊行物の「書籍」ばかりでなく「論文」の方にアクセスしないと全体をうまくリンクできないと思える程に重要な論文の存在があるため、書籍という一括りでレコメンドしきれないという思いから、この様に別にして私は語っているのであります。武田明倫による1969年の武蔵野音楽大学研究紀要やヨーゼフ・マティアス・ハウアー関連では木村直弘氏の関連論文を探るのはマストでありまして、これらを読まずして十二音技法を読む事は皮相的理解に終わりかねず注意を要するのでありますが、木石岳氏の纏め方というのはこれらを俯瞰してまとめあげているので隅々まで行き届いた例示となっている所が素晴らしいと思います。


 現代音楽を知るという意味で前掲の図書は紛れも無く参考になるのではありますが、初学者からすれば、これらの総てに目を通しても、総ての新たな知識と附随する疑問がリンクし合う様に強固な知識の糧とするのは難しいかもしれません。本質が見えにくい程に手の届きにくい体系の理解の難しさや敷居の高さは、読み手に対して一定以上の音楽的素養を求められているが故の事であり、こうした難しさのある側面を本書の木石岳は「編纂」するかの様にまとめ挙げ、それらの不明瞭な部分を咀嚼してまとめて語っているので、とても読み易く出来ているであろうと思います。否、寧ろ前掲図書の数々に目を通したとしても、決して容易には得られない知識を纏めているのが『やさしい現代音楽の作曲法』である事は間違いありません。

 況してや、十二音技法関連の図書など、近年では、石田一志著『シェーンベルクの旅路』や昨年逝去された故田代櫂氏の著書『アルバン・ベルク 地獄のアリア』が「新しい」関連書となるのでしょうが、過去から今までの十二音技法関連図書を眺めたとしても本書『やさしい現代音楽の作曲法』の様にまとめられ精確な知識を得る事はとても難しいでありましょう。それほど木石岳氏は懇切丁寧にまとめていると思いますし、ジャズ方面とは異なる半音階の表現方法という物に対して多くのヒントにも成り得る例示の数々には感服頻りであります。本来なら多くの「異端な楽譜」の版権料で価格が高騰してしまいそうな所を極力抑えつつ、独自の譜例でそれらの技法をあらためて例示する事で価格を抑えるという配慮が滲み出ており、こうしたローカライズをよくも実現できたと思わんばかりです。これが本体価格2200円+税 で入手できるのですから、驚きと同時に是非とも手に取って書架を飾っていただきたいと思えるほど読み手に対する著者の思慮を感じ取っていただきたいと冀うばかりであります。


 扨て、本書の表題にもある「作曲法」という言葉は、それを実現する為の方法論である為謂わばそれは「メソッド」であります。西洋音楽という物は、それを如何なる地域に居場所を変えても、普遍的に存在する楽器で再現する事の方法論が蓄積された方法論が多くの体系としての方法論が整備されているのでありまして、再現の為の方法論が「=理論」なのであります。こうした音楽的なテーマの疑問を川島素晴氏は、そのテーマの取り上げ方に多くの示唆を伴わせて本書の対談でも語っております。

 翻って、ひとたび現代音楽という物を俯瞰して見るとそれは、先蹤を拝戴しつつも、それを大きく飛び越えて旧来の方法論だけでは実現し得ない手法に依って構築される物が現代音楽の大いなる側面であると私自身考えるのである所であります。そうした方法論の範疇を超えた音楽であるならば「メソッド」とは何ぞや!? という事が巻末の川島素晴氏との対談でも議論が交わされているのは非常に興味深い事ですし、こうした掘り下げは、音楽を俯瞰する上でも重要な事です。また、読み手にとっても非常に興味深い取り上げ方になっているのではないかと思いますし、何より全体的に平易な文章で語られている所がとても良いのではないかと思います。尚、監修を務める川島素晴氏は現代音楽に縁遠い方々でもご存知の方はおられるのではないかと思いますが、近年では『タモリ倶楽部』に出演され、番組内にてシュトックハウゼンのクラスター・グリッサンドを解説していたりしたのが2年前の事でしたでしょうか。YouTubeにも動画があるようですので篤と御覧じろと言いたい所です。




 異化はカタボリズム、同化はアナボリズム。これら両面を「代謝」と捉えるのがメタボリズム。唐突に医学用語を並べましたが、こうした用語は音楽にも通ずる所があります。

 話が前後するものの、本文中には「伝統の異化」という言葉が出て来ます。これは私が先述した様に「先蹤拝戴」に似た側面があります。

 例えば、機能和声を遵守するならばそれは紛れも無く先蹤拝戴であり、厳格な方法論の実践なのでありますが、先蹤という伝統を利用しつつ「代謝」させる事で「異化」させる事で新たな結果を生むという事が「伝統の異化」という事はあらためてお判りいただけるかと思います。それは決して、自説の根拠を得ようとするがあまりに手前勝手な解釈で繰り広げられる「断章取義」とは全く異なるという点は強調しておきたい所なのであります。記譜法ひとつ取ってしても、現今では廃れてしまった舊來の仕来りを利用する事も可能なのでありまして、この様な例は音楽の世界だけでも多くの遭遇がある物です。


 楽譜とは嘗て、音高だけが優先されて記譜された物です。しかも、臨時記号という物は音楽的素養を有した者が読めば、どこに臨時的変化(=ムシカ・フィクタ)が生ずるのはお判りでありましょうから、こちらが態々記譜するまでもないでしょう、とばかりに書かれている物だったのですから、読み手には或る一定以上の素養が求められるのは至極当然な訳です。音高だけが書かれているという事は歴時は示されていなかった訳です。


 あらためてセリー音楽。それは十二音技法とも呼ばれますし、本書ではピッチ・クラスから入り、その調性や協和性を「消し去る」方法論を、専門書などでは見る事の出来ない平易な文章で詳らかに説明が書かれているので、初学者でも音楽の興味さえ失わなければ決してへこたれる事などなく読む事が出来る物でしょう。

 そのセリー音楽という作品の時間軸を、もし「圧縮」してしまったら、音が規則的に上下に配置される「紋様」の様になるというのは坂本龍一が述べた事でもあります。他方、調性音楽を極めて長い音価で引き延ばした場合の調性の喪失感を企図したのが松平頼暁。すると、楽譜の歴時とは一体どういう意味を持つのか!? という事をあらためて考えさせてくれるのでありまして、況してや楽譜を読む事で、これまで音楽を嗜んで来た読譜の経験が視覚的な惰性と思考の惰性を生じてしまうならば、そうした固定観念の要素すら排除して演奏しない限り、某しかの音楽的な重力から逃れる事は出来ないのではないか!? と考える人もいる訳です。ジョン・レノンとオノ・ヨーコは、奏者の目の前に楽譜を投げて(ベートーヴェンの)、見えた所だけを弾かせるという手法を採った事もあるのでありまして、誰もが知る様なビートルズの名曲の姿ばかりがジョン・レノンではないのであります。凡ゆる周波数帯域に等しく音が分布しているホワイト・ノイズから適宜間引く用法である湯浅譲二の「イコン」やら音楽的興味が尽きる事はありません。

 前掲の図書でも捉えにくい方面を挙げるとすれば、直線平均律法=Linear temperament になるでしょう。螺旋音律でもある為、オクターヴを繰り返さない体系で、概して音と音との距離=音程が恣意的にオクターヴで合致しない様に等音程で累積される物であり、cents equal temperament=CET とも界隈では表わされる物です。こうした直線平均律法に依る音律を駆使したのはケルン派と呼ばれる所の一人マイヤー゠エップラーの助力に依るシュトックハウゼンの『習作 (Studie)』は典型的な例となるでしょうし、こうした側面を本書で読み取るとするならば、スペクトル音楽からサウンドスケープ辺りが、こうした側面を包括的に語っている事となりましょう。とはいえ細部まで知ろうとするとこうした側面までは遉に詳密には語られてはいない物の、決して省かれている訳ではないので、読み手のある程度の素養の下で判断せざるを得ない局面も少ない乍らもある訳ですが、その役割を本書に求めるのは酷な事でありましょう。

 本書で最も評価すべき点というのは、その表題にて《やさしい現代音楽》としつつも、実際にはその平易さと実直さが、現代音楽の側が意図せずして具備してしまいかねない「虚勢を張る」側面を削ぎ落として語られる点でありまして、読み手がついつい主観で誇張してしまいそうな「虚勢」の部分を統御して語られる所は見過ごす事のできない実に配慮された読み手への「やさしさ」でありましょう。

 これまで見た事のない方法論やらは概してそれだけで「虚勢」を張る事が出来てしまう物でもあり、図形楽譜にしてもそうした側面はあります。無論、そうした虚勢を張りたいばかりに未知なる方法論を用いている訳では無いでしょうが、人間というのは、アクセスする事の難しい側面には神的および形而上学的な力を宿して思考する事が能くある物で、未知ばかりか無知も作用してしまうと思考に対して本来必要のない主観が増幅されてしまう物ですが、本書の実直で平易な文体に於ける現代音楽の捉え方という物は、そうした不必要なまでに具備されてしまいそうな虚勢の部分を一切排除して読めてしまう程に音楽に向き合っている為、これが読み手の解りやすさに繋がっているという事を強調しておきたいと思います。

 
 私が本書の存在を知ったのは、奇しくも「AudioSculpt」のツイートを偶々見掛けたのがキッカケでありました。7年程前に、私のブログ記事にて AudioSculpt の名前をサラッと語った事があった物でしたが、それからある程度の時を経てあらためてMacの環境もかなり変化を遂げている様な状況下において AudioSculpt は固より、OpenMusic について詳密に語られる本書は資料としても貴重ではないであろうか、という思いもあって私はこうして書評とさせていただいた訳であります。

 因みに OpenMusic は付録という扱いで詳密に語られており、こちらの執筆は秋山大知氏に依る物です。嘗て私はMax/MSPや OpenMusic は導入していなかったので、酒井健治氏がNHKの番組内にて OpenMusic を用いた映像が出て来た時にも私はそれが判別できずに、ご本人に OpenMusic を用いている事と、微分音フォント取扱いに於て OpenMusic からフォントを抜き取る事を教えていただいた事もあった位でして、私自身が音楽研究関連ツールに関しての道理に罔い者でもあり実にお恥ずかしい限りなのでありますが、高次な音響的な解析など非常に役立つ事の多い関連ソフトウェアですので、こうした道具の手ほどきが詳密に語られているのはあらためて重要だと思います。況してや、この敷居の低さで斯うした内容ですので素晴らしいと思います。


 最後に、私はどのような分野の書籍でも、脚注と出典を重視します(皆そうだと思いますが)。脚注の場合、私はシカゴ・スタイルを忌避するタイプです。シカゴ・スタイルに於ける脚注というのは、巻末にひとまとめにしてあるタイプがそうでして、唯単に箇条書きとなっているだけであるならば、文中の注釈とリンクする事が出来ずに読む作業が寸断されてしまう弊害があるのです。注釈を附した同一頁の欄外に脚注があるのが望ましく、そうしたスタイルは非常に読み手に配慮されているスタイルだと信じて已みません。シカゴ・スタイルのそれはキュレーションの権化とも呼べる様な悪しき側面があると思います。本文とは無関係に、剽窃が無い様に辷り込ませているだけの出典程度の脚注という遣り方も存在するので、私はこうした遣り方は好きではないのです。

 無論、脚注への分別と出典内容を見極める「骨折り」は読者に不可欠だろう、とばかりに慫慂する姿勢を貫く著者も勿論存在する訳でありまして、「そこまではオレの仕事じゃねえ!」とばかりのスタイルで脚注・出典の箇条書き(要はシカゴ・スタイル)というのも存在する所で、読み手の私もそれを糧として鼻息粗く探ってみたりなど、負けじと読み漁る事も少なくはありません(笑)。エドモン・コステール著『和声の変貌』などは、本文も臆断に満ちているわ、脚注・出典も読みづらいわ(シカゴ・スタイルの走り)で別の意味で骨が折れたものでしたが、ああいう悪本には遭遇したくは無い物です。

 脚注・出典は本の財産です。但し、奇しくも2018年初春に刊行されたバルトルド・クイケン著『楽譜から音楽へ』の序文では、研究書などの類ではないので脚注などを避けた、という風に謙る様な本に対して私は悪罵の声を挙げる様な事はしません。本に依っては、そういう物もあるのだと思っていただき乍ら、ある分野の考究に於て脚注・出典は財産なのであるという事を述べておきたいと思います。『やさしい現代音楽の作曲法』その本文の敷居の低さのみならず、脚注の思慮深さにも目を配ってみて下さい。より重みのある「糧」を手にする事が出来る事でありましょう。