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サントリー・オールドCM「人間みな兄弟」にみるブルー五度 [楽理]

Cyrus Mosley


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 ブルースを語るに際し、先のブログ記事にも取り上げた「♭Ⅵ7」という部分転調を意味するドミナント7thコードを語った訳でもありますが、今回はあらためて老若男女広く人口に膾炙していると思われる曲を挙げたくなり、唐突乍らもYouTubeの方にてサントリー・オールドのCMで有名な「人間みな兄弟」を取り上げてみたのであります。




 通称「ダルマ」の名で親しまれるウィスキーの瓶の形状のそれは、ボトル・キープされる客の名を書き留めやすい理に適った物だった事でありましょう。私の幼少期などサントリーの「角」瓶を巧い事削って貯金箱にしたクチでございまして、角にタンマリと貯められた10円玉の数々は正月明けに郵便局に持って行くのが愉しみの一つでもあり、お年玉と併せての臨時収入を首を長くして待っていた物です。


 そういう時代を経てのサントリー・オールドのCM曲は、なんと言っても外国人男性の渋いスキャットがやたらとブルージィーでして、延々と酒を片手に耽溺に浸りたくなる様な声質に加え、深みのあるブルージィーな曲想に対しても味わい深く、誰もがその良いメロディーに心を奪われるのではないかと思える位の見事なマッチングであると思う訳です。嘗ては60秒尺位のCMだったと思うのですが、曲の良さがCMの尺の長さを感じさせない位でありました。


 曲の構造的にはCのブルース・マイナーなので調性の予見は甚だしい類であります。つまり主音と属音の位置が一時的な部分転調を生じても先行する調域での主音・属音の残り香が強い。その強い残り香の近傍で粉飾が起こる。これこそがブルースたる世界観ではありますが、それを甚だしく卑近と思えないのはメロディーの良さに尽きるのではないかと私は信じて已みません。

 その強固なメロディーに対して和音を類推すればするほど、メロディーに用いられる「ブルー五度」に附随する「粉飾」の動きこそが多くの楽器を想起する程に複雑化した和音が脳裡に浮かぶのではないかと思います。

 扨て、「粉飾」というのは「装飾」とは異なり概して叛く方のネガティヴな意味合いで使われるのであります。それに伴って悪意を伴うかもしれませんが、調性に遵守・正視するというスタンスこそが是とするのであれば、調性感に叛いている状況は悪ではなくともそれは装飾という言葉よりも粉飾の方が適切であろうと思います。調性を欺いている訳ですから。但し音楽の世界では、欺く事が「=悪」なのではなく、寧ろ欺いて巧妙に粉飾している世界観こそが美徳であるという事を念頭に置いていただき乍ら、そうした音楽に伴う言葉を私は深い思慮もなく用いているのではありませんのでご注意いただければ幸いです。


 今回譜例動画用に制作したデモの伴奏はシンプルな物であり、単なるギター1本と主旋律をアコースティック・ベースに弾かせているという物です。コード表記としては原曲のそれよりも複雑に変じさせておりますし、何よりそのコード表記とは裏腹に、オリジナルの様にシンプルな伴奏に仕立てている箇所もあります。つまりは、デモ演奏のそれとコード表記が異なっている点があるという訳です。デモの一部には原曲に準えたシンプルな伴奏でありつつも、コード表記は私が手を加えた表記となる部分もある事を示している訳です。

 私が採ったそのような意図には勿論理由があります。原曲にベースを加える際、まず間違いなく下行クリシェ・ラインを創出するであろうという見立てから、譜例動画のデモではコード表記に見られる様なベースのクリシェ・ラインは生じない物の、私の脳裡に起こる「欲求」を加味した表記として反映させているので少々注意が必要なので、その辺りはご容赦願いたいと思います。


 私の欲求に依るコード想起のそれと、原曲のそれとも実際には異なる部分が出て来るのは百も承知です。但し、原曲とてアコースティック・ギターが一応低声部を補足するものの、終始ベースを補ってタック・アンドレスの様なプレイを繰り広げている訳ではありませんし、ベースを強調しないヴォイシングに留まっているからこそ、サイラス・モズレーの唄う「ブルー五度」がより一層際立つのだと思います。無論、その顕著な「ブルー五度」というメロディーの線に対して、もっとアンサンブルが豊かな和声感として仕上げた場合、高い確率でベースは主音から下行半音クリシェを創出し、ブルー五度の部分はほぼ間違いなく最低限でも「A♭7/B♭」という「♭Ⅵ7/♭Ⅶ」の類になるであろうという私の見立てがある為、コード表記はその様にしております。原曲アレンジを踏襲するならばブルー五度の部分は単に「A♭7」で問題は無いのです。

 扨て、音組織の♭Ⅵ度上の和音にドミナント7thコードとして成立すると、それは同時に、和音構成音である7th音が根音から短七度音程を採る為、自ずと音組織のⅤ(=属音)は低められる為、便宜上「♭Ⅴ」という状況が発生します。茲で「♭Ⅴ」=ブルー五度が生じているという事は原調を固守した見立てであるが故の表記なのでありまして、以前にも語っている様に、原調のⅠ度とⅤ度が変じている状況は実質的には部分転調を起こしている時であるのです。とはいえブルース進行など、原調の余薫を強固に映じて粉飾させる遣り方というのもあるのでして、部分転調として態々見る事なく、一義的な解釈として調的社会を俯瞰しようとして見るシーンもあるという事を忘れてはいけませんが、実質的にはその時点(主音と属音を叛く事)で原調としての地位は失っていると見ても差支えない状況であるので、この辺りの解釈というのは凡ゆる側面から柔軟かつ多角的に分析できる様にしたい所だと思われます。西洋音楽にしてもクロマティシズムが巧妙化して行く事で激しい部分転調が横行するシーンが珍しくもなかったそれを部分転調とは見なさずに原調を固守した捉え方をする事もあります。特に藝大和声ではそうしたスタンスが顕著でありましょう。

 何故なら、こうした「♭Ⅵ7」という転調の実際は、私のブログではかねてから述べている事ですが、それは六度進行であり「六度転調」なのであります。六度進行というのは実際には起点となる音度から「Ⅲ|Ⅵ|♭Ⅲ|♭Ⅵ」という4種を見立てる事が出来る訳ですが、これらは結果的にはヴァリアント・コードのパラレル・コードという音脈から発生している体系であるのです。然し乍ら、その「六度転調」のひとつである♭Ⅵ度上の和音が「♭Ⅵ7」という風に、原調の「Ⅰ」を固守した見立てを強行するのは、偽終止を前提に入れていない(排除している)教育システムに則っているからであるからです。

 例えば、戸田邦雄が指摘している様に藝大和声では「Ⅴ→Ⅳ」進行を是認してはおりません。これについても私の過去記事をブログ内検索をかけていただければお判りかと思いますが、藝大和声が機能和声方面を慫慂する事の意味と、ブルースやジャズに於て「♭Ⅵ7」で属音が実際には叛かれている状況であるにも関わらず原調を固守するという一義的な考えには大きな違いがあります。況してや藝大和声の一義的とも謂えるそうした音楽的解釈の合理性を借りてまで、ブルースやジャズの側が「原調を固守」するスタンスを採るとすれば、それは何とも愚かなジャズ/ブルースの姿であろう事かと思います。少なくともジャズやブルースというのは局所的な転調の応酬として繰り広げられる世界観であるべきであって、そうした世界をよもや「原調を固守」する考えなど非常に莫迦げている解釈だと私は思います。

 勿論、そうした激しい転調の煩わしさから回避できる様に、凡ゆる調性が転じていても、自身のインプロヴァイズする旋律が特定の旋法を固守して串刺しにしてしまおうという風に考えが及んでモード・ジャズが生ずるのを忘れてはいけませんし、モード・ジャズというのは単にモードを固守するだけではなく、多義的な調性からの共通音として見做す事が可能な和音進行時でも、ひとつのモードを串刺しにしてカウンター・ノートを発生させたりするという事も生ずるのが先鋭的なモード・ジャズの解釈でもある訳です。

 例えば2小節ずつEドリアン|Cドリアンという風なモード嵌当が適当と思しきコード進行が2コード進行としてリフが形成されている状況に於て、ソリストが各2小節で移旋する事なくDミクソリディアンを強行するという様な意味合いもあるという事です。

 これらの様な点を鑑みつつ、ブルース進行における原調の余薫と、部分転調の実際という両義性から楽曲を俯瞰する必要がある訳で、決して一義的に調性や機能和声社会に括られる狭い視野で見渡すべきではない所に注意を向ける必要があるのです。


 原曲に於けるブルー五度が生ずる箇所というのは移動ドで表わすならば冒頭メロディーはハ短調に於ける「ラ・ラ・ド・レ・ミ♭・レ・ド・ラ〜」の一節の「ミ♭」(=G♭)の箇所であるのはお判りかと思いますが、「G♭」という変化記号は通常、嬰種・変種の調号を取扱っていてもかなり縁遠い変化音であるので、ついついこれを近親性のある「F♯」という風に思い込んでしまう人も少なくありません。ましてやこのブルー五度を「F♯」と捉え、且つそのメロディーに充てるべきコードを次の様に類推した人を私は何十年も前から遭遇してきた物です。

F♯△7
F♯m△7
F♯dim△7

など。或いは、そのブルー五度をE♭音を根音とするマイナー・コードの3rd音と見做して次の様に

E♭m7
E♭m6

などと充てる様な人達にも遭遇して来た訳です。これらの洞察が甘いのは、ブルー五度のそれが根音からあまりに近い距離(音程)に置いているため、和声感覚が熟達していない人は概して根音に近い所の和音を類推してしまうという典型例でもあると謂えるでしょう。

 そのブルー五度=G♭音が充てられるべきコードはG♭音が少なくとも根音から短七度という7th音と採るコードであるべきであって、そうした状況を鑑みれば「A♭7」という状況が生ずる訳です。

 その上で、この曲に対してアンサンブルをもっと豊かに和音の装いを新たに類推するとなると、ベースは高い確率で下行クリシェのラインを創出する筈で、ブルー五度が生ずるかしょでは♭Ⅶ度ベース即ち「♭Ⅵ7/♭Ⅶ」という状況を生ずる事となるので、デモの演奏ではギター1本の伴奏でしかないのに私が敢えて分数コードを充てて表記をしているのは、バンド・アンサンブルになった時の重畳しい和音にしてもおかしくない様に生硬な響きを意図した物なのであります。


 という訳で譜例動画の解説とさせていただきますが、先述にあるブルー五度関連の話題も重複してしまうと思いますのでその辺りはご容赦を。

 本曲の譜面〈ふづら〉は視覚的には八分音符の連桁で平滑化してはおりますが、冒頭のリズム注釈にある様に実際はシャッフルとして奏する必要があるシャッフル表記です。ベースにメロディーを取らせているので音部記号は通常のヘ音記号よりも1オクターヴ高く ottava を示す音部記号を表記しております。

 処が通常のベースの譜面というのは実音よりも1オクターヴ高く記譜する物なので、今回ベースに主旋律を弾かせている音域をそのままベース譜にしまうと、譜例動画のそれを「ベース譜から1オクターヴ移高」と読んでしまうと楽譜が実音より低くなってしまいます。ですので、通常のベース譜とは異なる為、実音表記として実際の音高を示すためにオッターヴァを用いた私の意図を汲み取っていただければ幸いです。

 2小節のイントロ部分に於てギターの方に目を向けると、2小節目の3拍目拍頭では連桁の上部に白丸を附しておりますが、今回これは開放弦を意味する物として附しております。この開放弦が左手の運指のポジション・チェンジを助けるタイミングでもある為、それを明示しているのであります。

 3小節目から10小節目は御覧の様にリピート記号を附しております。3小節目では2拍ずつコードが変わる様にコード表記を充てておりますが、「Cm」と「Cm/B」という風にしております。原曲のシンプルな伴奏に倣うのであれば後続の「Cm/B」は無視しても構わないのであります。

 4小節目1・2拍は「A♭7(13)/B♭」という物。上声部の「♭Ⅵ7」の7th音が音組織に於て「♭Ⅴ」となるのでブルー五度となるのは先述した通りです。13th音は和声的に結構必要な音となると思ったので私は敢えて附しておきました。同一箇所のギター・パートでは1拍目の弱勢にて、下向矢印とアラビア数字「1」を附しておりますが、これらが意味するのは右手のタッピングでありまして、「1」は右手親指の指番号を意味しております。つまり、このギター・パートは冒頭からピックではなく指弾きでの演奏を想定しているので、そうした演奏の流れで15フレットを右手の親指を用いて押弦して呉れ給えよ、という意味なのであります。また、この右手のタッピングが左手の運指やポジション・チェンジを助けるタイミングとなるので明示しているのであります。

 4小節目3・4拍目のコードは「Am7(♭5)」。これについては短調系統の世界観にて必要な「多義的」解釈としてのひとつを述べておく必要があります。本曲はCのブルース・マイナーでありますが、音組織から見たⅠ・Ⅳ・Ⅴ度の和音はドミナントを除けばⅠ・Ⅳ度は短和音を維持しているので、より短調の世界に近い物と謂えるでしょう。然し乍ら♮Ⅵ度に現われるハーフ・ディミニッシュというのはノン・ダイアトニック・コードである為、このコードに嵌当させるに相応しいモード想起をすれば自ずと原調より移旋(モード・チェンジ)を視野に入れなくては対応できなく(=音を外す)なります。

 加えて、ハーフ・ディミニッシュというコードは、リラティヴに且つ全音階的下方三度として採った時にドミナント・コードを見付けやすい物ですが、先にも語っている様に短調の世界では機能代理を全音階的下方三度ではなく全音階的上方三度で採る事が是とされるので、機能同一を視野に入れるのであるならば短調の全音階的下方三度はカウンター・パラレル・コードという体となる為棄却すべき側面なのであります。つまり、Am7(♭5)というのは同義音程和音としてCm6として見る事も可能なのであります。これら2つの違いはベースがA音であるかC音であるかの違いにしか過ぎない様に思えるかもしれませんが、基底の和音(=トライアド)で見るとAdimトライアドとCmトライアドという風に、減三和音と短三和音という風にコード種そのものは丸っきり異なる物なのです。

 この様に、和音構成音が同じであろうと基底和音を見れば全く別の和音種を異度に生じてしまう和音を「同義音程和音」なのであり、例としてはC6とAm7も本来ならエンハーモニック和音として呼ぶべきではなく同義音程和音として語るべきなのです。エンハーモニック和音として呼ぶべきなのは概ね減七および増和音の類型種の転回やオルタード・テンションを纏いつつ、オルタード・ドミナント系統のコードで一部の構成音が省略される事で、異度に於ける「同種」の和音として多義的に生じている状況が本来のエンハーモニック和音なのであります。

 短調の音組織に於てハーフ・ディミニッシュが生ずるのはⅡ度上の和音であります。ノン・ダイアトニックとして生じた和音が原調とは属調の調域で生ずる物であり、局所的乍ら属調の調域を拝借しているという風にも見做す事が出来る訳です。こういうコード進行の過程にてインプロヴァイズする際は属調のモードへ移旋すれば問題は無いのであります。


 5小節目のコードは「Fm9」なので純然たるダイアトニック・コードとして成立します。先行コード「Am7(♭5)」にて調域がスルリと変化させる様に着地させるのが乙となります。また、茲から6小節目までのメロディー・パートはオクターヴ高く移高させる必要があるので、加線を多く採らずに8va(オッターヴァ)記号を充てております。ギター・パートは2拍目のストレッチは少々手こずるかもしれません。なにせ人差し指1フレットのセーハで小指が5フレットとせざるを得ないのですが、どうしても短二度音程が欲しい為、直前の開放弦を巧みに用いて難なく押弦出来る様にして欲しいと思います。


 6小節目では前の小節から複前打音付きの属音が掛留によるビブラート指定となっておりまして、この属音に対する背景の伴奏というのは「G7alt」表記なので多義的な解釈が出来てしまいますが、♯9thと♭13thのオルタレーションをまぶせば良いのでありまして、♯9thとM3rdとの半音およびP5thと♭13thとの半音の可動的変化を忍ばせれば良いのであります。これらを逐一局所的にオルタード・テンションの変化毎にコード表記を充ててしまうと表記の上で厄介になる為、多くの場合はこうした可動的変化を伴う物の基底和音は変わらずして起こるドミナント7thコードでのオルタレーションに於ては「○7alt」として一即多にする傾向があります。

 又、ドナルド・フェイゲンのソロ・アルバム「Maxine」のイントロに於てもオルタード・テンションの「♯9th→♭9th」という可動的変化に於て逐次和音表記を充てない様なシーンもあります。次の譜例での弱起(アウフタクト)を除いた大譜表高音部(上段)6小節目2拍目のトップ・ノートが [f - es] と動く箇所がオルタード・テンションの「♯9th→♭9th」という顕著な例であります。



 先のトップ・ノートがF音である時のコードは「D7(♯9、♭13)」ですが、このコードからトップ・ノートはE♭音へ進行する為、当該拍の弱勢部では非常に短い局所的な歴時ではあるものの和声的には「D7(♭9、♭13)」と変じているのであります。こうした異なるオルタード9th間に起こる「重増一度進行」というのは「Maxine」以外でも非常に能く遭遇する類の用法であり、「Maxine」の場合は偶々歴時が短いので、こうした重増一度進行でのそれぞれの部分に和音嵌当として充てる事はないでしょうが、これが例えば4/4拍子での2拍ずつで重増一度進行としていた時などでは、シーンによってはそれを瑣末事とは捉えずにひとつの「alt」表記とも済ませずに和音表記を充てる様なシーンも勿論ある訳です。




 唯、alt表記というのは表記の煩わしさを逃れる為に採られている物であり、音符がきちんと記譜されている状況であるならばそうした「alt」がどの音をオルタレーションしているのか!? という事を読み取れる筈でありますが、殊にジャズ/ポピュラー音楽シーンというのはコード表記だけで状況を示す事も多々ある為、こうした状況で「alt」と表記してしまうのは少々不親切であろうと私個人としては思います。「alt」表記が多義的である為、一義的な解釈を採る事の出来ない人達が覆轍を踏む可能性が非常に高いのであると私は思います。無論、「alt表記したとしても原曲聴けばどの部分がオルタレーションしているかどうか位判るだろ!」という採譜者や編集者の意図も亦同時に感じ取れてしまうので、alt表記を一義的に甘受してはいけない読み手の側にも責任はあるのですが。

 扨て、話を戻して「G7alt」の原曲の方でのオルタード・テンションは、G7の3・5度音 [h・d] を1フレット下行&上行を繰り返して [b・cis] をも奏しているので、結果的には「♯9、♯11」でのオルタレーションを奏しているので、その辺りも参考まで。

 ※念のために付記しておきますが、YouTubeの「Maxine」譜例動画の弱起を除いた1小節目「Fm add9」部分の松葉記号は漸弱(ディミヌエンド)となってしまっておりますがこれは誤りでして、正しくは漸強(クレッシェンド)であります。Illustratorでの編集時、180°回転させてしまった様です。




 7〜8小節目では原曲と異なり、クリシェ・ラインに対してリハーモナイズをさせているのでありますが、最も重視してほしい箇所は7小節目でのコード「B△7(♯11)」上での4拍目弱勢にて「A」音を発する所です。コード構成音からすれば「B△7(♯11)」の長七度音が「A♯」音であるのですが、そこから剥離してクリシェ・ラインとして短七度音が生ずるカウンター・ノートの創出です。これはクロマティシズムを追究したウォーキング・ベースを遣る人ならこういう音脈の使い方はお判りでありましょうが、スティーリー・ダンの「Black Cow」でのトム・スコットのブラス・アレンジなども参考になると思います。「I can't cry anymore〜」直前のパターン(2:10〜2:15)ですね。



 こうした和音構成音やモード・スケールからも逸脱するカウンター・ノートの導出についてどういう方策を採って良いのか!? と苦悩する人は少なくありません。何れこうしたカウンター・ノート導出については詳密に語る事があるとは思いますが、こうした導出は何もクロマティシズムの追究という限定的なシーンでの物ではなく、「全音階」の世界でも充分に感じ取る事が出来る「不協和」の成分なのです。

 例えば、ハ長調において「ドミソ」という和音構成音を持つコード(トニック)があるとしましょう。この和音に附随する線(=メロディー)という物は和音構成音以外の和音外音をも奏でている事は珍しくありません。ドミソだけの線ならば、それは分散和音(アルペジオ)に過ぎません。

 こうしたシーンにて鋭敏になって欲しいのは、「ドミソ」というコード上で「レやファ」の線が生じた時、これらの音は一時的乍らも「不協和」な状況を作り出している訳です。これらの和音外音は「磁場」に対して「反発」している力だと思って下さい。その反発があるからこそ磁場のある方=和音構成音へと吸着しようとする訳です。クロマティシズムの世界に於てもこれは同様でして、和音構成音とモード・スケールという磁場とは異なる所に音が生じようとも、今度はその「反発」からどこに「吸着」しようとするのか!? という事を耳で感じ取れば良いのです。その「吸着力」というのはクロマティシズムを追究していけば、上や下のどちらでも良いという等音程という吸着力で楽音が奏されると思っていただければより一層クロマティシズムという物を解釈しやすくなる事でしょう。

「B△7(♯11)」で生じた「A」音は、その磁場の反発性に依り、反発力の傾向としてはA♯から剥離して来た下向性を伴っております。つまり、この反発力はその後続に対して「A♭(G♯)」および全音音程ならば「G」音へ帰着しようとする性質を伴っているという音になる訳です。このカウンター・ノートは結果的には後続8小節目での「G♭△9(♯11)/B♭」の9th音=A♭音へ帰着するという結果になるのですが、ギター・パートを見れば [a - as] という半音の動きは無く、帰着すべきA♭音は1オクターヴ上のA♭音へ行っているという状況です(しかも2拍目で漸く出現)。西洋音楽ならばこういう声部の動きというのは憚られますが、ギター・ヴォイシングの方便でもあり、ジャズ・ピアノでもこうした動きはありますし、ジャズでもピアノ以外でもこうした動きは能くある物です。半音音程の隣接音が直近であるにも関わらずオクターヴ上に跳躍(=leap)を採るのは珍しい物ではありませんし、西洋音楽界隈での「綺麗な声部進行」ばかりを是認してしまってこうした例に尻込みする様ではいけません。


 例えば次のジョン・パティトゥッチの1stソロ・アルバム収録の「The View」のYouTube動画00:10〜00:19での当該箇所に於ては、コード進行が「Em11(♭5)→A7(♭13)」という流れに於いて、シンセ・リードは [b - d - cis - ↑his] という風に、A7上の♯9th音であるB♯音は先行音C♯よりもオクターヴ移高して奏されているのは明白でありますが、こうした例などジャズの世界では全く珍しくありません。つまり、カウンター・ノートが発生し、その帰着するのは隣接する和音構成音かモード・スケールの音に直近の音程が望ましくはあるものの、オクターヴ高い相貌でその方便とする様な声部進行など決して珍しくはないのです。特にギター・ヴォイシングは多いですし、ジャズ界隈ではギターばかりの事ではないのであります。




 こうした例を基に「G♭△9(♯11)/B♭」での9th音=A♭音は2拍目に登場している以上、コード表記の構成音として附随させる必要はないのではないか!? と思えるかもしれませんが、先行音のカウンター・ノートに対しての「余薫」は構成音としての方便を成立させる程に重要な存在となる為、実像としては2拍目という弱拍に現われようとも、偶々その伴奏でA♭音が出現したのが2拍目なのであり、他の同様のシーンでは「G♭△9(♯11)/B♭」という9th音を強固に響かせるヴォイシングが適切と判断しての事なのです。まあリハーモナイズに過ぎないので私がどう弄ろうと、オリジナルを重視する方からすれば参考にならないかもしれませんが、こうした肚積りでコード表記に配慮しているのだという事が伝われば幸いです。

 そうしてハーフ・ディミニッシュト9th=Am9(♭5)を経由し、9小節目のG7のギター・パートは17度音程に依るたった2音のヴォイシングで嘸し貧弱に聴こえてしまうかもしれませんが、直後に内声を埋めていく様にして内声をオルタード・テンションで「粉飾」する為の空隙なのでありまして、私なら17度音程での最低音はかなり強く弾いて華奢な1弦の響きとたった2音のそれを淋漓たる音として響かせる事でしょう。無論、直後の内声が補ってくれる訳ではありますが。そうして8小節目でトニック・マイナーに解決するという訳です。


 今回こうして「人間みな兄弟」に於けるブルース進行を例示した理由は、そうした状況の多くは完全音程である主音と属音がオルタレーションされる状況を示す事にあります。ブルースとなれば音組織の七度音は導音ではなく下主音を想定する物です。その上で主音が半音下行の音脈が出現する時は、余薫(=調整の残り香)として期待される主音と下主音との間に、「新たな音」としての闖入が生ずる訳です。ここで闖入される音は背景の和音又は線の運びによって立ち居振る舞いは変わります。ひとつはⅤ度のドミナント7thコードとして下主音が導音へと可動的変化を起こす物として。もう一つは主音から派生(剥離)する「減八度」としての音脈であります。この後者は音組織の上での導音の立場では決してありません。

 加えて、ノン・ダイアトニック・コードとして現れるドミナント7thコードの構成音が原調のⅠやⅤ度を叛いて(=概して半音下行オルタレーション)いる時や、ダイアトニック・コードとして現れるメジャー7thコードの長七度音から半音下行としてクリシェ・ラインを生む状況(※今回例示した「人間みな兄弟」での用例)やらも例示した理由は、前回でも語っている様に、ドミナント・ビバップ・スケールにて生ずる第8音(=導音相当)は、原調と下属調という2つの「相貌」を見た時、それはひとつの複調の事例でもあり、そうした五度のキー・エリア同士での渾淆する状況ではこの第8音をアヴォイドとは見做せなくなるのでもあります。機能和声的に見ればドミナント・ビバップ・スケールの第8音は下主音の短二度上に位置する物でもありアヴォイドとして不協和に響きますが、両義的な側面がこうしたアヴォイド=不協和の源泉という振る舞いを薄めてしまう所も注意が必要なのであります。

 15度音程で「閉じる」和声体系を遵守するだけで良いのであれば、こうした拡張された方に目を向ける必要はないのでありますが、こうした状況がクロマティシズムの追求と共に閉塞した状況を多くの人は感じ取っている事でありましょう。そうした方面の音脈の手がかりとなるのは意外にも、原調の残り香を強く醸しながら変容するブルースの世界にヒントは多くあるという事を私は述べたかったのでありまして、こうした意図が少しでも伝われば之幸いです。