SSブログ

Calyx / ハットフィールド&ザ・ノース 楽曲解説 [楽理]

 扨て、先日私はYouTubeの方で「Calyx」の譜例動画をアップしたのでありまして、折角の機会なので楽理的な解説をほんの数小節ではありますがあらためて述べておこうと思い、今回はカンタベリー・ミュージック界の雄ハットフィールド&ザ・ノースの名曲のひとつ「Calyx」を語る事に。
0D72EF49-8C73-43A9-BD81-17C9A4154E5A.jpeg



 実は過去に私は、商用着信メロディーを制作していた際にも「Calyx」について述べているブログ記事をアップした物ですが、その時の物というのは商用となる事で深部を語れぬ事が多く、販売サイトに於ける商品キャラクターとして私が「べらんめえ」的なキャラクターを演じていた事もあり、当時の文体や内容は相当違う事がお判りになるかと思いますが、当時のブログ記事では拍子の部分を声高に語っているだけなので今回あらためて深堀りしておこうと思った訳です。


 今回の譜例動画アップの際、小節構造の解釈をあらためた部分があるので、あらためてその辺りの解釈で矛盾が生じない様に今回語る訳ですが、過去の記事の方にもどのように変更を施したのかという注記を載せておきましたので混乱は招かないと思いますが、あらためて楽理的な側面にまで語るとなると此方もきちんと姿勢を正さねばならないので(笑)、音楽には真摯な姿勢で向き合いたい物でありますね。



 では「Calyx」の解説を始めようと思います。この曲の特徴的な部分として真っ先に取り上げなくてはいけない重要な点は「ムシカ・フィクタ」に依ってメロディーやそれに附随する和音が可変的に粉飾される為、一定の変化という物ではなく可変的な変化をするのが特徴です。ムシカ・フィクタに依る変化というのはどういう事かを喩えるとすると、ソラシドと唄われるところが或る箇所ではソ♯ラシドとなったり不定的な半音階可動的変化を起こす状況の事を示します。亦、その主旋律のムシカ・フィクタに依り附随する和音も適宜変えてしまう箇所もあるので注意が必要です。この辺りは特にムシカ・フィクタが登場する箇所にて後に詳述しますので念頭に置いていただきたいと思います。


 因みに原曲同様小節構造としては弱起で入っている事が明示されておりますが、反復記号は弱起小節の後続の小節線からではなく弱起小節から反復が始まっております。つまり、反復記号が「閉じる」小節では、明示されている拍子記号からは実際には弱起小節に用いられているパルス分が少なくなって反復するという状況になります。言葉だけでこの様に語ると難しいかもしれませんので後ほど詳述する事で視覚的にお判りいただけるかと思うのですが、弱起小節部の拍子は反復記号の「閉じる」小節での拍子記号を受け継いではいるものの、音符の歴時自体は全く同一の長さですので、譜例動画の弱起は5/4拍子表記で在り乍ら八分音符×1コ分のパルスの弱起で表示させているのです。

 とまあ、こうした状況ですのでいつもの様に弱起小節部は小節数としてカウントせず、1小節目は弱起小節後続の複縦線の小節である5/4拍子の本体を示した「B♭m9」からカウントさせていただく事にします。

 
 扨て漸く本題に入りますが、1小節目の5/4拍子での「B♭m9」では拍節構造を2:3という風に連桁を別けているのはお判りかと思いますが、その拍子構造2:3は左手のタイで結んだ音符やベースのパートでも維持させているのはお判りかと思います。ポリ・メトリックな構造を演出する場合、異なる拍節感が交錯するかの様にして連桁の括りを変える事もありますが、この箇所では完全に纏めた拍節感を演出する為にこうして書いております。

 その際4/5拍子での3拍目に纏められる事となる3拍目弱勢で生ずる「F♭音」という所に音楽的な大いなる含意がある物です。こうした半音の装飾が音楽的に意味がある、という意味ですね。

 F♭音というのは異名同音としてはE音という風に12等分平均律でのピアノの鍵盤上では物理的には同じ鍵盤を奏する訳ですが、この取扱いをE音ではなくF♭音と解釈する点が重要なのであります。

 ホ音が幹音であるのですが1拍目冒頭からは「B♭m9」の本位十一度音であるE♭音という「変イ」音からE音由来とする音は使われているのであります。冒頭ではE♭音を奏しておき乍ら過程ではE音にも見なしうる様なF♭音が生ずる理由は、F音が半音オルタレーションとして変位するというこうした動作が「ムシカ・フィクタ」であるからです。

 ジャズ/ポピュラー音楽的解釈からすれば、「B♭m9」というコードで本位十一度音を冒頭から奏する事で明らかにナチュラル・マイナー or ドリアンを充てても良さそうな所に、アヴェイラブル・モード・スケールからも埒外とする「F♭音」というのは、ある意味では「ブルー五度」という局所的な可動的変化と見なしうる事も可能でしょう。つまり、ブルー五度というのは概してこうしたムシカ・フィクタからの強調された物が体系化していった物でもあるという、近現代音楽の始原的な側面を確認する事が出来るかと思います。

 アーサー・イーグルフィールド・ハル著『近代和声の説明と応用』を一読すれば、短和音上にて完全五度音を有し乍ら♯11th音を纏う11thコードなど珍しくもない為、仮にハルのこうした和音に依拠する解釈をしたとしたら、なぜ冒頭は「E♭音」という本位十一度音から入って来たのか!? という矛盾も生ずる事になります。「B♭m9」というコードに対して11度音であるべき音が本位十一度だったり増十一度であったりという茫洋とする世界観を演出しているのが、この「Calyx」での冒頭のムシカ・フィクタという事になるのです。この1小節だけでもこれ位の文章量を語れる訳ですから、音楽的な意味はとても重い価値があるという事をあらためて知ってもらいたいのであります。


 2小節目は9/8拍子。付点四分音符×1を1拍とする書き方ですので、この不均等拍子は八分音符のパルスは9つであろうとも拍子は3拍子を意味した物です。9/8拍子という採り方は必ずしもこうした採り方でもなく「4/4+1/8」という感じの物もプログレ界隈などでも多く見受けられますし一義的解釈をする必要は無いのですが、この部分は通常の9/8拍子の採り方です。特別な拍節感を採る様なストラクチャーでしたら私が必ず明記しますので、その辺りを踏まえて首肯していただければ幸いです。

 茲でのコードは「A7(9、13)」です。もしもこの和音に♯11th音が含まれていた場合、それを「G△7aug(on A)」形態の拔萃として生ずるメロディック・マイナー・モードの「♭Ⅲaug/Ⅳ」の型を類推してしまうかもしれませんが、在りもしない♯11音を根拠に「♭Ⅲaug/Ⅳ」と判断してしまうのはいけません。茲は「A7(9、13)」というコード表記であるべきで尚且つ基底和音の「A7」の5th音であるE音が省略されているという状況にまつわる理由をきちんと知っておかなくてはなりません。ドミナント7thコードのテンションを利用するに際して5th音は省略可能だから、というのは理由になりません(嗤)。

 トライアドという状況での基底和音と七度音を附与する四和音のドミナント7thコードという基底和音という2種類の基底和音という呼び方を私は能くしますが、トライアドの基底和音というのは近代和声的な意味合いからすれば色々な「変化三和音」をも視野に入れる事が出来るのですが、その中でも「普遍和音」という意味合いをあらためて知っていて欲しいと思います。普遍和音とはメジャー・トライアドとマイナー・トライアドしか無い、という意味なのでありまして、それ以外のトライアドは「変化三和音」なのであるという事をあらためて知っていてもらいたい所なのです。

 何故かと言うと「普遍和音」は、完全協和音程と不完全協和音程に依って作られる物だからです。つまり「完全五度」があり、長・短の三度音程で形成されているのが「普遍和音」であるのです。

 では空虚な三度、つまり長三度 or 短三度 というどちらかの三度というのは2音しか無い状況ですが、これは某しかの普遍和音の不完全な形として見るので、これは「複合音」と呼ぶ物なのです。

 普遍和音から三度音を省略してしまわれた複合音は「空虚五度」の状況であります。他方、五度を省略して空虚な三度である複合音の状態というのは、複音程にテンションとして生ずる時の慣例という風にして5th音が省略されている訳ですが、五度音が省略されようとも、基に生ずる三度音程から生ずる差音が五度音を補完してくれるという音響科学の発達によって裏打ちされた手法であるからです。

 和声の歴史は、三度音程の累積に依って七度・九度・十一度・十三度音という風に累積を繰り返してきたのですが、元々は属和音の特権的な物であり属和音の体系がこうした方面を整備していき、その後属和音以外の副三和音でも七度・九度・十一度・十三度音という附与が為される様になって、複音程で生ずるテンション・ノートの奏鳴の為に基底部の五度音を省略するというのは、そうした属和音体系で培った和声体系の顰に倣った流儀であると同時に、科学的にも裏打ちされた省略である訳です。

 ですので [a・cis・g・h・fis] という5つの音からは、ベース音がA音を奏していて「五度音を省略している」状況である事が峻別出来る以上、これはドミナント7thコードに属する和音で5th音が省略されている状況であるという事があらためて判るのです。

 酷い状況となると、[c・g・b・d・fis] という状況に於て、基底部 [c・g] の間に、在りもしない3度音を類推した空虚五度の状況と見なしつつそれを「C7(9、♯11)」などと強弁したりする莫迦者が居りますが、空虚五度という、それこそ現今のパワー・コードに耳慣れた者が在りもしない三度音程を勝手に類推してしまい、呼び込まなくても良い筈のドミナント7thコードのテンションの形を引っ張ってしまうという愚かなシーンなど、山下達郎の「土曜日の恋人」のコード進行では今猶謬見を能く見掛ける物ですね。そういう莫迦な連中は決して「Gm△7/C」という風に聴いておらず、コード表記の体系が安直に類推し得る状況を根拠にして曲解してしまう見事なまでの愚かなシーンをあらためて炙り出してその危険性を詳らかに論ずる為にも良い機会だと思い、こうして書いている訳です。

 
 扨て、2小節目に話を戻しますが「A7(9、13)」の3拍目での主旋律の [h - b] というスラーで繋げたフレーズ部分は、背景のコードが本位九度(長九度)であるにも拘らず「B♭音」という半音変位を起こすのは完全にアウトサイドなカウンター・ノートではないのか!? と疑問を抱く方が居られるかもしれません。これも亦ムシカ・フィクタに括られる物ではあるものの、このB♭音は能く在るドミナント7thコードのオルタード・テンションでの♭9thとして見ない方が賢明であると思います。無論その最大の理由は、背景のコードが長九度を奏しているからでありますが、私は今回「♭9th」として見られても致し方ない表記を敢えてしておりますが、これは「増八度」=「増十五度」の音脈として見なした方が良いのではないかとも思っております。


 3小節目の「F♯m△7」は、正確には「F♯m△7/B」というマイナー・メジャー7thのⅣ度ベースの型です。近年では(とはいえそれも30年程経ちますが)山下達郎が「土曜日の恋人」にて用いている印象的な分数コードです。その上声部のコードでの長七度音が「E♯音」となるので、平時はこうした嬰種変化を見掛ける事は少ないでしょうから、喚起力だけを見ても充分に目立っている箇所であります(笑)。とはいえ、その様な普段見掛けぬ様な音を伴うマイナー・メジャー7thコードの響きは、先行和音とは弱進行であるにも拘らず自然に聴こえてしまうのは、非機能和声的な世界観を繰り広げているからでありましょう。つまり、こうした弱進行の連続した世界観はある意味では目紛しい転調のコラージュとして見る事も可能なのであります。ですから2小節目の3拍目での [h - b] というラインの流れに於て [b] を [ais] という増音程を見做すと、通常なら増音程は更に上行の順次進行を採ろうとしますが、弱進行という世界観であるが故に逆行を許容出来てしまうという風に見做す事が出来る訳です。そんな「逆行」を敢えて正当化させる意味でも [h - b] という風に明記しているのでもある訳です。

 3小節目4拍目での主旋律の完全四度の跳躍音程の連桁は、Finaleでの連桁の最大傾斜角を23°に設定した為に勾配がきつく表れているのはご容赦を。


 4小節目は拍子が5/4拍子に変化し、茲では拍節構造を3:2という拍子構造に捉えて記譜しております。コードは「D♭△7(13)」という風にしており、メジャー7thコードに13th音を附与して欲しいという事であります。


 5小節目の箇所は非常に重要な箇所ですので、ひとまず重要な点である2つの要点を挙げておく事にします。1つ目は、私が過去に「Calyx」について語ったブログ記事との相違点となる諸点を今回改めて述べるという事。2つ目は、この曲のムシカ・フィクタという側面が非常に能く表れている箇所である為、その件を屢述するという事で事であります。

 まず一つ目の過去のブログとの相違点というのは、私は当初この5小節目を2小節に別けて考えておりました。加えて過去の解釈では「7/16+3/8拍子」という2小節で解釈していたのであります。但し能々小節音符の歴時を合計して対照し合うと、過去の解釈のそれの方が16分音符×1コ分のパルスだけ多いという事になってしまいます。当時この様に解釈した理由は、原曲に於て少しだけリズムの躓き感があって歴時を長く採る様に切迫した感が備わっているからなのです。それに伴い、後続の小節ももう一回同様に「7/16+3/8」拍子を繰り返す事になる為、当時はその様に解釈したのです。

 とはいえ今回はこうして拍子をあらためて、後続に残った今回の6〜7小節目での「7/16+3/8」拍子までも改める必要は無いので、その辺りは混同されぬ様にご理解されたいと思う事頻りです。

 加えて、5小節目のもう一つの懸案となる点というのが、この曲のムシカ・フィクタたる特徴が大いに表れているという点ですね。これについて詳述します。



 原曲というのはムシカ・フィクタがこの箇所のみならず色々と鏤められております。こうした可動的な半音階的変化というのは本来のオーセンティックな旋律の姿という物を見えにくくしてしまうのでありまして、半音階的粉飾が常に同じ箇所で繰り返されていたりすれば、その曲の特徴的なムシカ・フィクタは常に同箇所で現われるタイプの曲と判断できるのですが、本曲「Calyx」の様に半音階的粉飾というムシカ・フィクタが不定的に生ずるという状況では、旋律の原型がどうであるべきなのか!? と推測するのは甚だ難しい事でもあります。加えて、作者がこうした不定的なムシカ・フィクタを採用しているという事は、原型を重んずるよりも可変的動作の方を重視しているからであるのは明白です。

 それに加えて、旋律に随伴するエレピの和音というのはムシカ・フィクタが生ずる箇所では適宜和音種そのものが変わる箇所もあり、これも楽曲の不定性に拍車をかけているという訳です。

 古い体系を遡れば、ムシカ・フィクタというのは楽譜にすら明記されなかった物です。そこからどの様にして半音階的可動的変化があったのか!? という事を後世の人間が読み取るという事は、そこにまつわる楽理的深部や音楽社会部分などの周辺の状況を隈無く読み取って類推しなくてはならないのであります。

 喩えるならば、楽譜上では単にエオリアとして臨時記号など附される事なく書かれている楽譜であるのに、歴史的背景を鑑みれば第6音はドリアで採るムシカ・フィクタを読み取る必要性が生じ、更には楽譜では何も臨時記号という派生音を生じていないにも拘らず、第6音と第7音も半音高く採るべき、状況としてはメロディック・マイナーの上行形を見る様なシーンなど珍しくも無いのがムシカ・フィクタの側面です。「グリーンスリーヴス」とてムシカ・フィクタが横行する状況で生まれている曲であるが故に、エオリアで解釈してしまう物もあれば、ドリアと導音の可変的な動作=ムシカ・フィクタを採るという2つの解釈が生じてしまっている訳です。勿論、このドリア系統で採る方が原型であったとしても、それを敢えて「エオリア」で採るという選択も是亦ムシカ・フィクタと呼ぶので注意が必要ですし、こうした可動的な変化は偶々短調に多いだけの事であって、ムシカ・フィクタは短調の場合のみを指す音楽用語でも無いのでその辺りも注意が必要であります。特に、ジャズ/ポピュラー音楽界隈の人達からすればお座なりにしやすい側面でもあるのですが、ムシカ・フィクタを深く知ると、減八度/増八度を生ずる可動的変化がコードから想起し得るアヴェイラブル・モード・スケールからは埒外となる音が生じたとしても、その「ムシカ・フィクタ」と解釈し得るアウトサイドなカウンター・ノートたる動きだという事を自身に念押しするかの様に明確に理解する事が出来る筈なので、決してスポイルせずに理解して欲しい側面でもあります。

 という訳で5小節目の主旋律の最初の音を確認してもらう事にしましょう。見馴れぬ「変種」っぽい記号ですが、これは1単位四分音下げる微分変種記号のひとつです。幹音から1単位四分音を下げるという事は「D音より50セント低い」という事を示す物です。



 実は当初の譜例動画アップでは、この微分音記号が反映されぬ [d - c] という風に主旋律が進行する方のデモと譜例をアップしてしまっていておりました。その理由は、私がこの当該箇所のムシカ・フィクタを説明するに当たり主旋律が

[d - c]
[det - c]
[des - c]

と動く夫々のデモを作っていたのですが、iPhoneに一度入れてからiPhoneでアップロードをしていた事が災いして、iPhoneの動画があるiOS標準のディレクトリである「ビデオ」ではファイル・ネームで確認ができない事もありまして、そこに私の確認が疎かな事も手伝ってしまい不本意である方のデモをアップしてしまった訳です。しかもその3種類の譜例動画は総じて10小節目で現われる装飾音符の臨時記号の誤りがあったので、それを直すことばかりに執心してしまい、肝心の微分音を表わす部分に耳を傾けて確認していない事となり、修正が遅れてしまったというのが私の言い訳であります(嗤)。


 扨て「det」というドイツ語読み音名は、以前にも私がアップした事がある四分音表記の物ですが、これは1〜2年前にSNSにてドイツの某大学でのローカルな読みとは全く異なり、ゲオルギー・リムスキー゠コルサコフが用いた表記でありまして、現在ではパウル・ザッハー財団がこの資料を保存しているという物であるので、私が単に物珍しさだけを理由にレコメンドする必要も無い様な嘘八百を並べ立てている訳ではないので、その辺りもあらためてご容赦下さい。

2BFC7BE1-27EF-4221-A3DF-EA8281915054-3e4aa.jpeg


 扨て、この微分音の「det」とした音というのは、ハットフィールド&ザ・ノースのアウトテイク集のアルバム『Hattitude』に収録されるエレピで奏する「Calyx」では12EDOに均されて弾かれている演奏ですので、フレーズに微分音は表れず [des - c] と弾かれている事があらためてお判りになるかと思います。



 処が、フィル・ミラー&フレッド・ベイカーのアルバム『Double Up』に収録される「Calyx」の方でのカヴァーで奏される当該箇所のフレーズはやはりクォーター・チョーキングで微小音程を弾いているのでありますね。寧ろdet音よりも僅かに高くd音にほど近いのですが、d音よりも1単位六分音≒33セント低い音で奏されているのがあらためて判ります。



 原曲の「Calyx」では、当該箇所3度目のフレーズの所で [cis - his] と弾いておりますが、この派生音から判る様に異名同音で記さなければならない理由は、このフレーズに随伴させるバッキングの和音がコード種そのものを変えて粉飾しているからであります。



 茲でのコードは「C♯dim」であるので、それに伴ってフレーズは根音に倣って12EDOに「遵守」する事になります。とはいえ、この3度目の事実と「Hattitude」でのそれを根拠に、総じて「Calyx」の同様の箇所が12EDOの理解の下での [des - c] というフレーズであるべきだ、とするスタンスを採るのであれば、なにゆえフィル・ミラーはその後のセルフ・カヴァーで微小音程のチョーキングを忍ばせるのか!? という矛盾を生ずる事にもなりますし、何より原曲は始原的な姿でもあり、その1回目となる「first sight」たるシーンにてボーカルは明確に四分音を唄っている事すら矛盾しかねません。ボーカルそのものが柔和に唄っている物だから、ついつい12EDOにそぐわない「音痴」な音として受け止めてしまっては是亦早計なのではないかと思う訳です。



 何より、当該箇所での和音は「Cm7(11)」に対して「det」音を附与している状況なのです。これをもし「des=D♭音」と強弁するのであるならば、聴き手は無理矢理にでもこの音を「上中音の九度=mediant 9th」として聴かなければならない事になってしまうのです。

 上中音の九度というのは、長音階のⅢ度上にて全音階的に生ずる短九度音程の事でありまして、それは自ずと上中音の半音上=下属音を指している事になります。古い音楽理論書でも「中音の九度」と呼ばれる事もありますし、コードとしてはアヴォイド・ノートとして知られている物の、古くから和声的にも導入されている物でありまして、例えばマーク・レヴィンはこのメディアント・ナインスを「Ⅴ7/Ⅲ」と解釈して「フリジアン・コード」と自著『ザ・ジャズ・ピアノ・ブック』にて称しておりますし、私も過去のブログ記事にて、チック・コリア・エレクトリック・バンドの2ndアルバム『Light Years』収録の「Flamingo」に出て来る同様の「フリジアン・コード」と呼ばれるメディアント・ナインスについて例示して語りましたし、何よりフランツ・リストのS.55『不毛のオッサ(枯れたる骨)』に生ずるフリジアン・トータル(=上中音を根音にした全音階の総和音)を響かせておりますし、これも同様に私の過去のブログを検索していただければお判りになるかと思いますが、一般的なコード体系に於てアヴォイド・ノートとされる取扱いというのも、実際はこういう特殊な例が沢山あるのだという事をあらためて知っていただいた上で、メディアント・ナインスの響きとも異なる「Calyx」の中立音程をあらためて吟味していただきたい訳であります。


 原曲の当該箇所3度目の部分にて背景の和音を「C♯dim」に変えて来るという事実こそが、ムシカ・フィクタという不定性のあるフレージングに随伴させるコードとして可変的に捉えているという事が改めてお判りいただけるかと思います。何故なら、「Cm7(11)」というコードと「C♯dim」を比較させても、そこにはコモン・トーン(=共通音)が生じていないのですから、全く別種のコードを適宜充てているのがお判りいただけるでしょう。勿論バンドのレコーディング時やリハーサル時には「○○回目のコードは○○」とか、ムシカ・フィクタをどのように変えるかという程度の打ち合わせはしているかと思いますし、仮にその打ち合わせをせずとも、ギターの弾くフレーズに対して不定的に和音を変えて奏するという許容範囲内で粉飾をしていたであろう事は容易に推察に及びます。


 兎にも角にも、原曲「Calyx」を最初に耳にして、1回目のその微分音「det」が生ずるボーカルを「first sight」として耳にしつつ、その聴取者が微分音に理解のある人であればある人ほど、この音は決して「メディアント・ナインス」として受け止める事は看過出来ない筈なのです。全くの別物となる響きなのであります。また、私の方も単に微分音に少々理解があるからといって、本来なら音程の誇張として済ませられる様なシーンを当てこすりするかの様に「こんなの見付けました!」とばかりに慫慂して説明している訳でもありません。それならば、作曲者である故フィル・ミラーはセルフ・カヴァーに於て細心の注意を払って「des」音を弾いたでありましょう。然し実際はそれを暈して「det」音の近傍でクォーター・チョーキングをしている事自体が、フィル・ミラーは既知のコード体系にて微小音程の線的粉飾を纏わせたかったのであろう、という推察に及ぶのであります。そうすると、原曲のボーカルも単に音程を少し外して誇張して唄っているのではなく、微分音を意識しているが故の「det」音なのであるという風に考えが及ぶのであります。


 無論、この様に音源の形になっていない「Calyx」の演奏はこれまでも多数あった事でしょう。再現の難しい四分音をこなすよりも簡便的に [des - c] と採った演奏もあるのかもしれません。とはいえ、その簡便的な演奏の方を選択していたとしても、それも亦「ムシカ・フィクタ」に括られる様態である訳です。しかも、det音だったりdes音だったりする様な状況も四分音的ムシカ・フィクタであるとも呼べる訳であります。こうした事を踏まえた上で「Calyx」を事実通りに傾聴していただければ、私が敢えて「det」音を用いてエレピを奏している意図があらためてお判りになるかと思います。


 ムシカ・フィクタという状況をして、「Calyx」のフレーズはどちらが正しいのか!? という一義的な答を見出す事は困難を極めるにしても、掘り下げれば「より近い」側面が見えて来るという物です。作曲者は既に故人となっている以上本来の意図という事すらも判らない状況になってしまったものの、そこに歎息するのではなく、遺された事実から多くの事実を読み取る事が重要な訳ですから、12EDOの範疇だけで解釈する事が万事平和的解決とばかりに判断してしまっては愚の骨頂かと思う訳です。

 一方では、本来なら一義的な答しか許さぬ様な状況であるにも拘らず、「人の考えは人それぞれだから」という風に詭弁を弄して、恰も答は多義的であるとばかりに強弁する輩が音楽の世界にも存在する事は否定できません。こういう人達の詭弁・強弁というのは、そうした人の自己正当化と保身の為に用いられる逃げ言葉ですが、「逃げ」の様に捉えられてしまっては彼等も徒労に終るので、どうにか体を保つ方策を考えた上で詭弁・強弁の作を選択するという訳です。原曲「Calyx」を手許の楽器と一緒に弾けば、それが微小音程である事は如実に判るのですから、答は自明とも謂えるでありましょう。

 また、多くの「エビデンス(嗤)」という「傍証」をこれほど迄に例示しても、承服したくない相手には屈伏したくないという心理を働かせてしまう様な偏屈者も居る訳ですよ。何が許さないのか、事実を詳らかにしてもすっかり当人の自尊心を汚しただとか、そうした屈伏し得る事実など目もくれず、勉学に勤しんだ事に依る自身への価値付けが己の思いとは裏腹に無価値な取扱いを受けた時に、こういう莫迦は事実に屈伏する事なく己のプライドの為に闘うのでありますから心底莫迦と謂えるでしょう。こういう莫迦は、自身の蓄財がオーディオや音楽ライブラリにへと変化して、それに見合う耳や器楽的能力などを持たずに物的価値の土俵で音楽という大海にて勝負を挑む様な愚か者であります。この手の連中が机の上だけで音楽理論を学ぼうが何の役にも立つ訳ではなく、音楽的アンテナがそもそもヘッポコな為、こうした楽理的側面にて拾って来れる事は皆無に等しい事でありましょう。こうした連中は自身の粉飾には長けているので、言葉巧みな佞巧には気をつけて選別しなければならないと忠告しておく事にしましょう。

 少なくとも原曲「Calyx」からは [det - c] という150セントという音程であるsesquisemitoneの実際を耳にする事が出来るのですから、この事実だけはねじ曲げる事はできないでしょう。殊更にこれをも承服できぬ状況を推測するならば、12EDOにしか耳馴れていない為に脳が勝手に補正してしまった、という位にしか口に出来ぬのではないかと思います。脳が補正をしたとしても、それは主観がねじ曲げてしまった証でもあるので、その様な言い訳をした途端に、その当人の音楽的な聴取能力は主観で如何様にも変化してしまう事を同時に露呈してしまう事になるのですけれどもね。

【2019年8月2日追記】

 YouTubeのコメント欄に於てオリジナル・アルバム・テイク「Calyx」の譜例動画5小節目のコード「Cm7(11)」上でのDセミフラット [det] 音に懐疑的なコメントが付いているのに気付いたので、あらためて追記しておこうかと思います。




 当該部分は、オリジナル・アルバム以降で聴かれる他のテイクでは [d] 音として聴かれますが、オリジナルの方はあらためて [det] であるという事を述べておきます。疑念を持つ方も少なくないでしょうし、何より「音痴」な感じで微分音を聴いてしまうよりも、聴き慣れた12等分平均律(半音階)で耳にしたいという個人的な欲求も相俟って楽曲への思いを増幅させている方もおられるでしょうから、微分音使用という状況を承服しかねるという立場を採る方もおられるとは思います。とはいえ、微分音の実例として例証を挙げざるを得ないので、今回あらためて次の画像で当該部分を拔萃してスキャンしておきました。

Calyx_D-semiflat.jpg


 前掲の画像はIRCAMが提供するソフト The Snail を用いて当該部分をスキャンさせた物で、時計文字盤に喩えた1〜2時付近で緑で囲った音は [det] つまりD音とD♭音との中間にある事を見事に証明してくれております。The Snail では内周部ほど音が低い事を示しているので、6周目に相当する所での [det] が基本音、7周目の [det] はその基本音に随伴する第二次倍音という事が読み取れる訳です。

 同様にして8時半相当にあるA♭音とA音との中間に相当する8周目の [at] は第三次倍音となる部分音がスキャンされている事を示している物であります。

 これらを勘案すると、ついつい「D音」として聴いてしまいたくなる方は12EDO(半音階)的に脳が補正をしてしまって聴いてしまっているという事が考えられるのであります。無論、24EDOを再現するのは非常に困難を極めるのでもあり、他で聴かれる「Calyx」の当該箇所が [d] で奏される事を引き合いにして、本来なら「Calyx」の当該箇所は [d] で奏されるべきだ! と強弁するのは早計であると思われます。

 更に附言しておきますが、5小節目の6/8拍子の2拍目となる最初の [g- a] 2音にはスタッカートが附与され、その後スラーを纏った16分音符の5・6つ目となる(小節の頭から数えて八分音符のパルス6つ目の弱勢位置)のa音には、スラーとスタッカートが併記されており、ジャズ/ポピュラー音楽界隈の人からすると馴染みが薄いかもしれませんが、これはメゾ・スタッカートを意味する表記である為、スタッカートよりは長めの歴時を採る様にする表記でもあるので注意してほしい所です。メゾスタッカートそのものを示す装飾記号もありますが、スラーが付されている様な状況ではこちらの表記を選ぶ事の方がスムーズに読む事が出来るので、この様な表記を選択しております。

 扨て、本題に戻って「Calyx」の6小節目の語る事にしましょう。7/16拍子は3:3:2の拍節構造で採っております。ベースは最後の7拍を休符にしておりますが、これはローズの両手が複後打音的に奏される32分音符のフレーズを強調する休符である事は明々白々のアプローチであります。


 7小節目の3/8拍子ではローズの両手は逆付点を重視する事になりますが、やさぐれた感じで弾くとよりその逆付点の「しゃらくせえ」的な粗野な感じが出て来るとも思います(笑)。


 8小節目の3/4拍子。茲の各拍でのコードの推移は骨が折れた物です。音響的にもかなり厳しい高次な音であります。何より最初の「B△7add4(on D♯)」というのはメジャー7thコードの3度ベースであるのですが、なにせ「add4」ですからね。長三度と短二度上となるアヴォイド・ノートを臆面も無く附与させているコードなのですから、体得は難儀する響きでありましょう。

 況してやドミナント7thコード系統のadd4というのは一般的ではありますが、メジャー7thコードを母体にadd4という本位十一度を纏わせる曲というのは極めて珍しい例でもありまして、私もパッと思いつくのはジェントル・ジャイアントのアルバム『The Power and The Glory』収録の「No God's A Man」や、少し前に土曜日朝の旅番組『旅サラダ』でかかっていたDAISHI DANCE feat. 麻衣が唄う「Beautiful This Earth」位でしょう。長七度の無いメジャー・コードでのadd4というならば、つい最近も取り上げたので記憶に新しいかと思いますがスティーリー・ダンの4thアルバム『うそつきケイティ』収録の「Rose Darling」位でありましょう。


 9小節目も3/4拍子は継続し、コードは「Fm7」。フレージングに重し付けを施した5連符で表記した所は、実際にも若干粗野な感じが表れているので、この様に記譜した方が伝わり易いだろうと思い用いた次第です。


 10小節目も3/4拍子。3拍目の歴時は付点16分音符を用いた「3:3:2」構造。つまりは「付点16分音符+付点16分音符+16分音符」という拍節構造に対して装飾音符を纏う事となる訳であります。加えて茲での3拍目で生ずる装飾音符での最後の「b音=B♭音」を、当初の譜例動画投稿時に「h音」という風に本位記号を充ててしまっていた誤りに気が付き動画を修正したという訳です。その際、微分音が実際に施されているデモとは違う音源でアップしていたという二重のミスが招いた当初の投稿時の失敗だったという訳です。

 私の記譜の流儀では、装飾音符に臨時記号を使った時の同一小節内の実音部の同音にも敢えて臨時記号を充てるという手法を採ります。つまり、先行する装飾音がB♭という風に臨時記号を充てていたとしましょう。同一小節内ならば、装飾音符以外にもその臨時記号は機能する筈ですが、私は注意喚起の意味を込めて、同一小節内の後続の実音に同度が生じても再度臨時記号を充てるという手法を採るのです。こうした手法は私以外にも多くの場面で見る事があるかと思います。ですので、先の10小節目3拍目の「B♭音」の装飾音と実音のそれぞれは、そうして臨時記号が充てられているという事が確認できるかと思います。


 11小節目も3/4拍子は継続し、コードは「Gm9」。特に変わった所は無いですが、ローズの左手パートが下行形の順次進行を [g - f - es] とフレージングする際、短六度相当のE♭音を後続の5/8拍子拍頭のD音の下行導音としているのは注目すべき点で、決してドリアンを誘引しない方が功を奏する状況であると考えるべき箇所でありましょう。


 12小節目の5/8拍子は、記譜上では八分音符のパルスは4コ分しかありません。それは、冒頭の弱起小節が八分音符×1コのパルスを消費してのリピート区間の辻褄を合わせたが故の表記だからです。こうした流儀も私以外の所でも見掛ける事があるでしょう。ジャズ/ポピュラー界隈では少ないのかもしれませんが。その少なさ故に、私の採る選択が過誤と取られてしまうのは誠に遺憾なのでありまして、あらためて傍証を固めて謬見に屈する事の無い様に挑みたい物です。

 ジャズ/ポピュラー音楽界隈の装飾音の採り方というのは前打音/後打音の区別は無く、殆どのケースに於て装飾音符は後打音として奏される事でありましょう。後打音というのはその音が置かれる拍が強拍(中拍含)/弱拍にて呼び名は変わる物で、弱拍に置かれる音に附される装飾音を後打音と呼ぶのが通例であります。バロック期の頃まで遡り、遠く離れて示される付点のそれが近現代では「半付点」という解釈になったりと、温故知新にて音楽の装飾が新たな息吹を伴って解釈されるシーンは少なくないのですが、12小節目の3拍目に於て最初に附される「B♭音」の「短前打音」は実質的には3拍目の弱拍の為なので後打音なのであります。無論、その後の16分音符に依るスラッシュのない「長前打音」も、後打音という解釈になります。

 シーケンサーのグリッド的に考えてもらえれば前打音と後打音というのは判り易いのですが、グリッドの完全なる基準点となる所謂「ド頭」から見た場合、前打音の本来の演奏は前打音がド頭に在り、その直後に速い歴時で実音が奏されるのが本当の前打音の解釈なのです。1拍の分解能を960で採った場合、「1|1|000」に装飾音符があり「1|1|120」近傍にあるのが前打音なのです。これよりも遅く発音されればそれは「長前打音」的になるという訳です。然しジャズの場合は、同様の譜例を「0|4|840〜900」の近傍に装飾音を配して「1|1|000」の実音を弾く事でしょう。装飾音符ひとつを取っても、ジャズ/ポピュラー音楽界隈と西洋音楽とでは解釈が異なるという点も、特にジャズ/ポピュラー界隈の人達ほど知っておいてもらいたいと思う事頻りであります。


 扨て、こうしてあらためてコード体系を俯瞰してみると、今回話題に上ったメディアント・ナインスやadd4の類というのは、基底にある和音構成音に対して短二度の音程を形成してしまうアヴォイド・ノートを持つ物となってしまうのに、実際にはこうして使われているという現実をあらためて直視していただきたい訳であります。バークリーの流儀に沿っただけのコード体系に準える事がどれだけ矮小な世界観を齎してしまうのか、という事も同時にお判りいただけるかと思います。但し、異端であれば良いという訳でもありません。異端さに裏打ちされる美しい響きという物を理解する必要がありますし、その響きの体得も無いままに思弁的に体系を暗記しようとしても無理があります。響きとして体得しない限りは心に宿る事がありませんし、心の片隅に辛う而て残る薄っすらとした遠い思弁的な記憶を頼りに逐次思い出すだけの微かな響きとやらは、換言すれば平時は忘却としてしまっているのでしょうから、こうした状況を継続させてしまうのではなく打破して、異端な響きを体得しつつ、機能和声的な世界観とは異なる和声感を身につける事が重要なのではないかと私は信じて已みません。

 尚、今回「ムシカ・フィクタ」について多くを語る事になりましたが、この音楽用語をいざGoogleにて検索すると多くの上位検索語となる物は信頼度の低い野良用語がヒットしてしまっており歎息してしまうのでありますが、例えば多くの謬見である「ムジカ某し」という読み方。確かに音楽用語はイタリア文化拝戴という背景から伊語が多く用いられたりするものです。とはいえムシカ・フィクタという濁音ではない清音の方は、それよりも遥か昔の先蹤拝戴を示すラテン語なのでありまして、たかだか中世の一時期のひとつの国の隆盛を誇った文化のそれとは違った重みも背景も備わっている語句である為、「musica ficta」の発音はラテン語由来の清音で読むべき物であるので「ムシカ・フィクタ」と清音で書いているという事もあらためて念頭に置いてほしい所であります。