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トーナル・センターとフィナリス [楽理]

 楽理的な側面を学ぶに際して、殊にジャズ/ポピュラー音楽界隈に於ては概して「横文字」が付きものであり、その横文字に対応する日本語が無いとばかりに近視眼的な発想で断罪されてしまいがちです。

 日本国内に於ても西洋音楽を模倣して来た歴史は決して短くはないのであります。然し乍ら西洋の本流に比べれば非常に浅い歴史の中で、能くも茲迄体系を築き上げて来たと思わせるのは、先人の多大なる功績と努力と共に整備された叡智と体系に、後人が特段の労苦を伴わずして恩恵を蒙る事が出来るからであります。


 翻って、ジャズ/ポピュラー音楽体系という物は商業的な成功の事実を背景にしてはいても実際には非常に歴史の浅い体系であり、界隈の我流とも呼べる断章取義的発想から奇しくも西洋音楽界隈と同様の道に辿り着く事もあって学び手はこうした我流を知らず識らずの内に妄信してしまいがちでもあります。

 広島大学大学院教育学研究科 生涯活動教育学専攻音楽文化教育学専修 中村知佳子氏の論文『矢代秋雄作品における<完璧さ>の諸相 ─《ピアノソナタ》の分析結果から─』に於いて、当該PDFの35ページで、シャイエ著『音楽分析』p.149での「中心音」という概念がストラヴィンスキーから用いられたと述べるにとどまる、という風に援用されており、重ねて矢代秋雄の言を援用しております。

 矢代の言葉の意味は、「トーナル・センターであろうが中心音であろうが”中心音”という物がどんな音楽にも1つはある」という意味で矢代が語っているだけに過ぎず、矢代本人が「トーナル・センター」という語句を認めた訳ではないという事はあらためて理解しておく必要があろうかと思います。

 個人的には、シェーンベルクの『和声法』で用いられた 'tonal centre' が西洋音楽を超えて広くジャズ・フィールドにも影響を及ぼした事で、「当意即妙」な言葉のそれがシェーンベルクの影響力も相俟って広く彌漫したというのが実際であろうかと思います。そのシェーンベルクとて『和声法』での一文では完全には明文化してはいないのですが。

 唯、そうした当意即妙な語句がヨーゼフ・シリンガー、ニコラス・スロニムスキー等を経てバークリー・メソッドへと醸成される様になれば、「フィナリス」というそれよりも「トーナル・センター」とやらを用いた方が20世紀のトレンドを言い表していたとは感じます。その程度の事に過ぎません。

 コードに於ても上方/下方三度に備わる代理関係の和音でも、かねてより「パラレル/カウンター・パラレル」と呼ばれているのに、上下の五度音程の中庸に位置する「中音」がオルタレーション(半音変位)する事も包含する「クロマティック・メディアント」と称される様に変化するのもジャズ/ポピュラー界隈での特徴的な語句嵌当ではあります。

 クロマティック・メディアントの語句そのものは良い充て方とは思いますが、トーナル・センターに関しては私は是認しない方針であります。


 ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスに心酔する人達、或いはジミ・ヘンドリックス、ジミー・ペイジ等を信奉する様な人達に対してJ・G・アルブレヒツベルガーを忘るるべからずと容喙した所で、それに耳を傾ける人に遭遇するような事などほぼ皆無でありましょう。

 恐らくその手の人達からすれば、自身の見聞の埒外にある事物・人物など「糞食らえ!」というポジションを採る事が少なくないでしょうし、新たな事を学ぶ労苦を徹底的に排除しようとする偏見と嫌悪感に裏打ちされた自己愛に依る物でしかない憐憫の眼差しを向けるに相応しい人達である事は云う迄もありません。


 器楽的素養を深める人達にですら先の様なポジションを採る様な人が増大してしまえば、それらの周囲に瀰漫する人々に半可通が多く「輩出」されてしまうのは至極当然とも云えるでしょう。

 加えてそれらの半可通は、自身の楽理的素養が浅いにも拘らず、主観に即応する感覚的・直感的表現を駆使する事には長けている者が少なくない為、学ぶ事を忌避して来た者が有する偏向的な主観を持ち合わせた感覚的・直感的な表現というのは時として別な意味で見事でもあり、往々にして謬見・偏見に裏打ちされた詭弁と詐術の側面を垣間見せる事も屡々です。


 扨て本題に戻りましょう。今回の記事タイトルにある「トーナル・センター」と「フィナリス」。これらについて今回は詳述する事にしますが、私が [tonal center] という語句を知る事になったのは結構後年の事で、80年代末か90年代初頭にかけての事だったと思います。

 その情報源となったのはリットーミュージックから発売されていた渡辺香津美の教則ビデオ(VHS)「Guitar Performance」に付録として挿入されていた簡易的な譜例に書かれている物でした。それが、渡辺香津美を代表する名曲のひとつ「Unicorn」の譜例に書かれている [tonal center = D] という情報でした。

「成る程、確かに調性格はD音を短旋法に採る音組織だものなあ」

と私は深く酒肴した物でした。何故かというと、「Unicorn」という楽曲はアンダルシア進行の変形に括られて相応しいコード進行なのでありましてコード進行は次の様になり、フィナリスはA音にあります。





《G♯7 -> A7 -> C7 -> B♭△7(♯11)-> Am7 -> Gm7》

 というコード進行で、冒頭のG♯7は後続和音の経過和音に過ぎない働きなのですが、A音をフィナリスとするフリジアン変形のスパニッシュ構造に括られるアンダルシア進行の変形である事が読み取れます。

 アンダルシア進行とは厳密には「ⅠからⅤ」または「ⅣからⅠ」のいずれか《四度先》を順次和音進行としてスケールワイズ・ステップを経る和音進行の事を指します。

 そのスケールワイズ・ステップを解体して「Ⅴ・♭Ⅶ・♭Ⅵ・Ⅴ・Ⅳ」と経ている様な物です。アンダルシア進行から生じたスパニッシュ・モードの更なる変形と形容した方が「Unicorn」の場合にはより慮った表現と言えるでしょう。

 とはいえ、これらのコード進行をもう少し深く洞察すると、後続和音に「Am7」が現われるので、A音を中心音(=フィナリス)と採る時に形成される和音の第3音がオルタレーションしない「原形」を垣間見せる事になる為、フリジアン・ドミナント的振る舞いを見せるのであります。

 フリギア終止からスパニッシュ・モードが派生的に生まれた事を勘案すれば、これも合点が行く「原形」と言えるでしょう。

 とはいえ、マーカス・ミラーのプレイを聴けば、経過和音「G♯7」を除けば次の様にモード対応を局所的に転じている事が判ります。

A7……Aミクソリディアン
C7……Cミクソリディアン
B♭△7(♯11)……B♭リディアン
Am7……Aドリアン
Gm7……Gドリアン

という風に対応している事が如実に判ります。

 こうした局所的にモード・チェンジを繰り返している時というのは逐次フィナリスが変わっている訳ですが、大局的にはフィナリスをA音と採りつつ、C某しの時はC音をフィナリスと採るCミクソリディアン、B♭某しの時はB♭をフィナリスと採るB♭リディアンという風にして転じている訳であり、幸いにもC7 -> B♭△7(♯11)の部分はモードは共通している訳で、同一のモードで串刺しが出来る訳であります。


 扨て、この「串刺し」と呼ぶ状況を貫ける事が可能なのは、アヴェイラブル・ノートが同一であるが故なのですが、そもそもその使用可能なアヴェイラブル・ノートの源泉とはダイアトニック・ノート(=全音階)が形成している「音組織」である訳です。

 例えば、ハ長調の調性はハ音を終止音にする為、ハ音は主音であり終止音とも呼ばれます。では音組織は全く同一であるD音をフィナリスと採る時のDドリアンのフィナリスはD音です。このモードのフィナリス(中心音)はD音、トニックはC音であります。

*DドリアンであろうとAエオリアンであろうとCアイオニアンであろうと「トニック」はC音に変わりありません。CアイオニアンとAエオリアンの時のフィナリス=C音およびA音という「終止感を伴う音」を避けて、これら2種の旋法以外の旋法にてそれらの終止感に負けじと旋法的な情緒を強める為の別の中心音=フィナリスとして振る舞わせる物がモードの振る舞いであります。

 因みに 'tonal' とは調性の意味ですが、これは 'key' (調)よりも下位に相当する概念であり、旋法=モードというのは、その音組織がもつ 'tonal' よりも下位に位置する事となります。

 元々はCアイオニアンの副次終止音(=コンフィナリス)として治まりがよかったAエオリアンという2つの旋法はやがて、「調」という地位を与えられるまでに発展を遂げた訳でありまして、長調・短調という風にして「調」を取り扱う時のハ長調のトニックはC音でありイ短調のトニックはA音となる訳です。Aエオリアンなのであれば旋法としてのトニカの地位はC音なのです。

 グレゴリアン・モード(教会旋法)でのイオニアのコンフィナリスはドミナントに役割を与えられるので先の私の説明に見られる副次終止音(フィナリス )はA音(下中音)というところと混同するかもしれませんが、グレゴリアン・モードでのコンフィナリスはドミナントに置かれたり、またフリギアの様に、旋法の第5音にドミナントが有って然るべきであるのに基の音組織からの「導音」との地位を回避するようにしてロ音がハ音に措定されたり、あるいは時代によって解釈が異なり、史実的に照らし合わせても多義的な解釈をする所があるので注意が必要となります。  私が「Cアイオニアンの副次終止音はa音である」と述べている時は、オルフ・シュールベルク流を視野に入れた、あるペンタトニック(※要無半音五音音階)が何がしかのチャーチ・モードからの「断片」であるという状況でのフィナリスの取り扱いに準じて語っている事なので混同されぬ様にお願いします。私が語るモード音楽の「フィナリス」とは、決してグレゴリアン・モードに準則している物ではありません。それよりも広く取り扱う「旋法」「非チャーチ・モードのヘプタトニック」を見越した物なのでご容赦を。

 例えば、Eフリジアン・ドミナント(Eハーモニック・マイナー完全五度下スケールとも)というモードはE音を中心音として振る舞う所作として知られている物で、スコーピオンズやイングヴェイ・マルムスティーンやらロック・ギター界隈に於てこうした振る舞いに言葉は要らない程広く知られている物であります。  Eフリジアン・ドミナントという「モード」は、Aハーモニック・マイナー・スケールという音組織から生じており、その音組織の第5音をモード・スケールとする物でありますが、決してA音への終止感に負けじと延々とE音を「中心音」として奏する振る舞いで初めて生ずる「旋法的」な振る舞いなのであります。

 因みに余談ではありますが、現今のジャズ界隈では能く知られているジャズの音楽理論関連書籍のひとつマーク・レヴィン著『ザ・ジャズ・セオリー』日本語版ではモードの「フィナリス 」についてどのように書かれているかというと、「ルート」なのであります。  ルートというのは本来、和音を語る時の様に音を垂直レベルで捉える時に用いる物であり、倍音・音階の基となる音は「基音または基本音」が適切でありましょうが、一部界隈では信頼に足る音楽書籍ですらこの取り扱いなのですから驚くべき点でもあります。

 ジャズ/ポピュラー音楽界隈に於ける「モード」の取り扱いに際して、その旋法それぞれの開始音=フィナリスを単に「中心音」という風にして日本語で語られにくい理由は他にもあり、古代に於ける旋法の取り扱いでは例えばレからレで終わる旋法や同様にミからミ、ファからファ、ソからソで終わる旋法の何れもが「ラ」をcenter toneという風に呼ばれていたのであります。

 勿論、古代でのこの 'center tone' というのは現今用いられるtonal center や中心音とは全く別の物を指しているので特に注意を要する物です。古代の旋法の取り扱いを更に知りたい方は psalm tone や recite tone とググれば直ぐにアクセス可能でありましょう。

 日本の関連書でも、この時代の旋法を単に「中心音」として訳されているのであり、その後時代を経て旋法音楽は誤謬による伝承と改変を繰り返され、都合よく三全音を避ける様にして(なぜならフーガなどは顕著である様に、多声部で生ずる三全音を適宜避ける為に「変応」させる手段を採る)「フィナリス 」が他の音度で措定されたりした事を重ねてきた事もあり、現今社会に於て闇雲にジャズ/ポピュラー音楽界隈が用いるモードの中心音=フィナリスともなかなか呼ばれない理由も先蹤を拝戴しようとも実際にはその語句嵌当が音楽を俯瞰した時に不適切になりかねないのでお座なりになっているという状況も実際にはあるのです。茲まで視野に入れた場合、ジャズ/ポピュラー音楽界隈に於けるモード・スケールの開始音はフィナリス よりもファイナリティあるいはフィナルとかの方が適切であると私はブログで述べているのであります。

 Aハーモニック・マイナー・スケールという音組織は、Aナチュラル・マイナー・スケールの第7音が常にムシカフィクタとして導音変化を起こしている状況であるので、Aハーモニック・マイナー・スケール上の第5音はEフリジアンとならずにEフリジアン・ドミナントとなっている訳ですが、フリジアン・ドミナントという言葉自体は単なるハーモニック・マイナー・スケールの第5音から生ずるモード・スケールという意味ではなく、それ自体を中心音として振る舞わせるモーダルな演出を表すのが適切な言葉であると言えるでしょう。  スパニッシュ・モードという所謂アンダルシア進行に括られるモード体系のひとつは、フリジアンからの変化形であるという事も見過ごせません。

 こうした前提を踏まえた上で、Eフリジアン・ドミナントのフィナリス(中心音)=E音であり、そのモードを形成する基の音組織のトニックはA音なのであり、Aハーモニック・マイナーとしての終止音を醸し出さない振る舞いがEフリジアン・ドミナントというモーダルな世界観であるという事を忘れてはならないでありましょう。


 本来の調性を薫らせない様にしてD音をフィナリスとして嘯いている状態(決してDマイナーとして聴かせない)でDドリアンという状態を形成している時、これは同様にハ長調の様にも聴こえる訳がないのです。

 ですので、モーダルな曲想での中心音をトーナル・センターという風にある程度広く用いられてしまってはおりますが、本来はトニックとフィナリスは常に同一ではありませんのでその辺りを注意しながら今回は私の方が界隈に靡いて、モーダルな状況での中心音をフィナリスとは呼ばずにトーナル・センターと本記事では呼ぶのであります。

 そこで、トーナル・センター=Dが示すものは、D音を主音とする全音階的音組織の事を指すのが正解であり、モード奏法を充てるジャズ界隈ではそれが一義的に「Dマイナー」でもない訳です。ヘ長調の平行短調の音組織ばかりではなく、Dドリアンとする時の音組織、つまりそれはハ長調の全音階から生じている可能性も孕んでいる訳です。

 また、トーナル・センターがD音であるとしても、Dを根音とする短旋法組織における主和音がピカルディ終止(モーダル・インターチェンジ)をして長旋法系統の旋法に変ずる場合すら視野にいれなければなりません。

(「トーナル・センター」解説別記事)

 念の為、渡辺香津美のアルバム『TO CHI KA』収録の「Unicorn」のパーソネルを列挙しておく事にしましょう。因みにYouTubeにてアップした譜例デモでは、オリジナル・スタジオ版を踏襲し乍ら冒頭のサイド・ギターのフレーズは若干変えております。

渡辺香津美(G)、Joe Caro (Rhythm G)、Kenny Kirkland (Key)、Warren Bernhardt (Oberheim)、Marcus Miller (B)、Steve Jordan (Ds)、Mike Minieri (Vb)、Ed Walsh(Oberheim Programming)

 今回用意した「Unicorn」のデモのブリッジ部のサイド・ギターのフレーズは、キーボードと2度音程で衝突する箇所がありますが、原曲の方でもこうして2度でぶつかっている為に再現してみました。サイド・ギターの2弦&3弦のセーハから入ってスライドして行くという感じで次の様にタブ譜にしてみましたのでご参考まで。

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 本題に戻りますが、先の様な事を念頭に於て、況してや短旋法である全音階構造の「Ⅰ」をトニックとせず、「Ⅴ」をフィナリスと採る旋法という状況を予め知っていれば、「トーナル・センター=D」という表記は非常に親切なのであります。これはD音を終止音に聴かせよという解釈とは対極にある理解を必要とされる訳ですから。


 処が、トーナル・センターを終止音だと勘違いしている連中が意外にも多い事に気付かされます。これが齎しているのは、「フィナリス」という、楽典を習得するに当って相応しい語句を、界隈が早期の内に初学者に覚えさせない事に大きな原因があるのだと推察する事ができます。

 フィナリスというのは必ずしも主音ではない事を明確に覚えさせる必要があります。「Gミクソリディアンのフィナリスと主音は?」と訊ねられれば「フィナリス=G音、主音=C音」と答えなければいけないのであります。

 
 フィナリスという、たった5文字で済む言葉であるのに先の様な背景をスポイルさせてしまうと、その先にある理解は謬見となってしまう訳であります。

 因みに、音楽とは正視するよりも嘯く方面に発展して来ている物なので、フィナリスという性格を認識できない限り、「アンタら、ラヴェルのボレロどうやって聴いてんの?」と云われてもグゥの音も出ない事でありましょう(嗤)。


 また、ジャズ/ポピュラー音楽界隈での音楽用語というのは概してそれらはアメリカ発であるという所にも原因があります。米国社会というのは低学歴であっても人権は平等であるという事を、過剰な理想的標榜を掲げている事で「反知性主義」が蔓延っている側面があります。

 こうした反知性主義の悪しき部分だけが独り歩きしてしまい、新奇性のある言葉やインフルエンサーとなる人物がどれほど根拠に乏しい言葉を用いようとも、発進力と大衆の注意を向けるべく者であるならば造語であっても受け入れる様な所があるのは、確かな知識要らずでその場を凌げるという状況を選択するのが楽なのでそういう姿勢を止めない向きがあるのです。


 勉強は労苦を伴う。それにて耳に新しいものは興味を惹く物です。興味から興った欲求を成就させたい。この焦燥感の前に、確かな依拠など立場は滅法弱くなります。

 学ぼうとしない者に学ばせようとしてもブレーキの利かない自転車に下り道を下せる様なモノで、止まり方など教えなくとも際限なく走り続けさえしなければ大丈夫という事を本能的に感じ取ってつまみ食いだけして興味は皮相的な物に終止してしまうのが関の山なのであります。J・S・ミル曰く


《言葉の意味しているすべてのものを、意識に如実に浮べているためには、派生と類推とに頼ることが必要である。この点においては、自国語の語根から合成語と派生語とを作っている言語、例えばドイツ語の如きは、無限の利益を得ている。これに反して他国語又は死語の語根から合成語と派生語とを作っている、英語、フランス語、イタリア語の如きは、その反対である。表現すべき観念の間に関係に即応して、固定した類推によって、合成語や派生語を作っている言語は最良の言語である》


 この文脈を以てして、英語はベストだと思う人はどんな本を読んでも理解する事は難しいでしょう。寧ろ「凝り固まった経験則に依って生まれる合成語・派生語を作る言語」と言い換えればその危険性と皮肉がお判りになる事でありましょう。

 但しドイツ語の場合は言葉が一つの語句に附与されていく為、そういう意味では原義を暈す事はしない訳ですが、ミル曰く、原義を最も損なわない語句には前置詞が関与するので、ギリシア語はその典型であるとも述べている訳ですね。


 ドイツ語の場合、私の子供の頃等医師は総じてカルテをドイツ語で書いていたと記憶しています。また代数的記号法なども他の余計な類推を許さずに表象が存在する為、ドイツ語は医学・化学・音楽などの分野では発展に寄与したのではないかと思われます。


 フィナリスが何たるか、という事を等閑にして「トーナル・センター」という語句を覚えてしまった時、トニック、主音、中心音、核音、フィナリスという語句に遭遇した時、これらを総じてきちんと意味を読み取る事は難しいと思います。フィナリスから入って理解すれば、これらは総じて覚えられるにも拘らず。



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 この様に、アンダルシア進行やフリジアン・ドミナントの話題が前回から続いておりますので、これを機会に前回例示したリー・リトナーの「Ipanema Sol」についても少々語っておく事にしましょう。


 YouTubeでは私がしびれを利かしてAテーマの冒頭部分を再現したデモを作っていたのですが、この「再現」には理由があります。それは、前回から示している様に、類まれなコード表記である「B△7(♭9)」をどうしても再現したかったからに外有りません。








 原曲冒頭のアルペジオの爪弾きを聴けば、そこにC音が附与される音などは入っておりません。だからと言ってAテーマ部の冒頭も同じコードであろうと解釈してしまうのは無理があります。

 というのも「B△7(♭9、♯11)/A♯」とするのが本来ならば最も的確に表したコード表記でしょうが、いかんせん「C音」というのは、私の周囲でも「聴き取れない」「錯聴」とまで云われる事も少なくはありません(笑)。

 ただ、私にはどうしても中央ハ音(=C4)に相当する音が聴こえてきますし、音響的に探ってもやはりC音に相当する音高は存在するのであります。それをギターが形成している音なのか、他の楽器由来なのかは定かではありません。

 私が先日Twitterで呟いた時は、フルートのA♯音が3音続く直後に中央ハ音を強く感じ易いと語っておりまして、矢張り当該箇所でもうっすらと確認する事は出来るのであります。


 そういう訳で、私が感ずる状況を再現してみればよかろうという事で冒頭部分のデモを作ってみたという訳です。原曲と丸っきり同様という風にはいかなかった物の、アンサンブルに於ては敢えて不協和感を際立たせる様にした溷濁感を狙っての事であります。

 この「溷濁」と表現しているのは、耳に聴こえて来る音が「汚い」という訳ではなく、視覚的に表わした時の犇めき合う状態を敢えて溷濁と言いつつ、耳にしてみると「そんな事ないやん」と聴き手の方々に思ってもらえる様に敢えて「溷濁」と強調している訳です。しかもあざとく旧字を用いて注意を向ける様にして(笑)。


 「Ipanema Sol」にてその特異な和声の正体はどうあれ音響的に分析すれば矢張り、短九度が附与されている事に疑いの余地はありません。これを再現する事で、「耳慣れぬ」強烈な不協和音とやらを聴いた時、不快感を催す様な強い忌避感に教われる事でありましょうか!? 私は寧ろこうした響きを美しいと感じます。しかも、私はこの曲を遥か昔に聴いた時から「強烈な違和感」に教われた物です。その「違和」とは忌避したくなる感覚とは異なる、楽曲に対する強烈な迄の唯一無二の和声的な響きを感じ取った上での表現です。


 多くのベーシスト達は、この曲の収録アルバム『in Rio』を聴くのはマーカス・ミラーが参加する「Rio Funk」でのスラップ・ソロでありました。マーカスの音もまだまだ黎明期の「ガフガフ」した音で、後年のマーカス・サウンドとまで形容される音とはほど遠い物でしたが、なにせ符割の細かいベース・ソロに釘付けになった人は決して少なくない事でありましょう。そういう魅力を持った楽曲があったにも拘らず、私は「Ipanema Sol」に耳を傾けていたのであります。

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 余談ではあるものの「Ipanema Sol」の曲本編部分は、嘗ての米国刑事ドラマ『刑事コジャック』のオープニング・タイトル「小コジャックのテーマ」に似ている感じがするんですよね。「コジャックのテーマ」は後年、ウィリー・ボボが自身のアルバム『Tomorrow Is Here』にてカヴァーしておりますが、私は今回レコメンドするシーズンのオープニング・バージョンが好きでして、特にベースは音価の長い、ウィル・リーやランディー・ホープ・テイラー系統のベースを聴かせてくれる訳ですが、私はYouTubeでこの動画を確認するまで長らくこのベース・プレイヤーが判らず気を揉んでおりましたが、YouTubeのコメントを見る限りでは何と女性の Carol Kaye という名の方らしく、実に素晴らしいプレイを聴かせてくれる女性ベーシストである事が判った事で、これを機会に傾聴してもらえれば幸いです。




 扨て、私がベースの経験を通じて体得して来た個人的な和声感覚という物をどうしても伝えなければならない側面はあるものの、その感覚を他の人に押しつけようとしてみたり慫慂しようとまでは思ってはおりません。

 が、しかし。己が体得して来て積み上げた和声感覚というのは、どの様な響きを克服すると鍛えられるのか!? という事は判っているので、私が数十年前から抱いていた和声的感覚を元にして、高次で奇異な和声をテーマにしてブログで語るのは、こうした音楽で耽溺に浸る人の興味を惹くであろうし、それらの人々の中にまだ開拓されていない感覚を研ぎ澄ます為の助力となればこれ幸いなのであります。


 最も避けなければならないのは、己にとって汚い響きとなって聴こえる音を拒絶する事なのではないという所にあります。

 通り一遍の音楽界隈の体系などを覚えると例外も目にする様になります。従前の体系に属する事もない「埒外」となってしまう奇異な和音を、何某かの体系に従属させるというのは単に自身の理解の範疇の効率化だけに過ぎない物です。

 現実に聴こえている音を体系の外に置く為に「忘却」するというのも目も当てられないものです。能くある体系の卑近な和音の響きに一旦カテゴライズする事で、終いには聴いている筈の和音すらコード表記から文字を消したと同時に自身の記憶からも消し去ってしまう様ならば、聴こえている音すら聴こえないとする行為に等しい訳で茲には大きな危険性を孕んでいるのです。


 楽理的な事を学ぶには労苦を伴う。それが厭だから楽をして音楽の大系を覚える。自身の感覚を優先させるだけ優先して汗をかいたり骨を折る事は極力避けたい。こうした体系を覚える事で自身の感覚を均されたくないと強弁して已まない連中はいつの世にも一定以上のレベルで存在する物です。

 そうした人達が自身の感覚に従順であるならば、こうした音を拾って来れる筈なんです。処が、通り一遍の事を学んだ上で埒外となる局面に遭遇すると、自身の脆い感覚とやらは途端に根拠を失って体系に打ち拉がれるてしまいがちです。

 ですから何でも無い卑近な体系にコードをあてがい、自身の感覚をそこに準則させてしまう訳であります。

 自身の感覚を優先したかった筈なのに、体系を咀嚼と反芻を重ねる事もなく単に覚えてしまっただけの者は、自身の感覚が実はどのようにも靡いてしまう事を自覚していないのです。どのようにも靡く感覚ならば、なぜ目の前の音を素直に聴く事が出来ないのか!?

 その原因は、和音体系を覚える事と平行して和音の響きを体得するに当って、自身の感覚で得手不得手の響きが備わってしまっている為、自身が不得手とする和音の響きに対しては靡こうとせずに拒絶してしまっているのです。

 ですから、自身の体得が済んだ和音種は見付けられる様になるものの、そこに得手不得手が生じてしまう訳です。

 音楽的な知識の上では、それこそ机上の空論が積み上がる状況になる訳で、自身の和音の知識から対照させても埒外となる和音となると、今度は未習熟な音楽的感覚がより強い拒絶となる根拠を生み、それに随伴させる知識からは拾って来れない(体系に無い)物を排除する。こうして彼等の好き嫌いが始まる訳でありまして、その後には臆断が繰り広げられる様になるのです。


 フリジアン・ドミナントやフリジアン・スーパートニックというのは、フィナリスと採る音に依って本来の音組織から生じている「調性」を嘯いている事に依って「調性感の蹂躙」を確認する事ができると思います。そこに旋法和声感の持つ独特の世界観が生ずる訳であります。

 能く云われるナポリの六度というのは、主音と採る音の♭Ⅱ上を根音とする所は確かにフリジアン・ドミナントやフリジアン・スーパートニックと酷似しますが、抑もナポリの六度というのは、それそのものがサブドミナント的扱いであり後続はドミナントに進む状況を指すのでありまして、しかも♭Ⅱ上に現われる和音を現今のコード表記で表わすとそれは「♭Ⅱ7」に類する物ですので、フリジアン・スーパートニックの様な「♭Ⅱ△7」が生ずる世界観と混同してはいけないのであります。


 サスケのテーマなど、この曲も冒頭はアンダルシア進行でその後イ短調に移旋しているという顕著な例のひとつですが、YouTubeにあるこの動画のサビ1:33〜の箇所での「サスケー、サスケー♪」(Key=Am)では、トニックのAmから♭ⅡであるB♭7に進行し、再びAmに戻ります。これがⅤへ進行するならばナポリの六度であり西洋音楽的には和音記号として「N」で書かれる訳でありますが、サスケのテーマは「Im→♭Ⅱ7→Im」という風に進行している訳で、「♭Ⅱ7」は「V7」の三全音代理であり、T→D→Tという風になっているのであります。
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 音度に於て長・短旋法形問わずして主音から半音上にある「♭Ⅱ」をナポリタンという事自体は誤りではありません。然し乍ら先述した様に、ナポリの六度として知られている増六度を用いた用法はサブドミナント和音のオルタレーションが生じてその後にⅤへ進行する事であるので、音度を指すだけの用法に於てナポリタンと総じて呼んでしまうのは危険性を孕んでいます。

 無論、西洋音楽界隈では、その厳格な取扱いを基にしているだけあって謬見に陥る事は稀でありましょうが、どちらかといえばジャズ/ポピュラー音楽界隈がこれらの呼び方を気を付けなければならないのであります。

 なぜなら、先述に例示した様にサスケのテーマでは「♭Ⅱ7」の実際はⅤ7の三全音代理としてのドミナント系の和音であります。加えて、前回のブログでも取り上げたドラマ『科捜研の女』のサントラのBGMのひとつは「♭Ⅱ△7」として現われます。

 これらはどちらも音度(ディグリー表記)から見ればナポリタン上の和音ですが、いずれもナポリの六度ではありません。特に注意すべきは『科捜研の女』にて用いられているフリジアン・スーパートニックの取扱いです。これらを総じてナポリタンと呼んでしまうのは、厳格なナポリの六度と混同してしまう可能性が高いので呼び方はきちんと区別すべきでして、ですから私はこうして区別して呼んでいる訳です。




 扨て、今回はもう少し附言しておくことにしましょう。というのも、私が今回の様な記事にしているのは、ジャズ/ポピュラー音楽界隈にて呼んでいる「トーナル・センター」とは大半のケースでモード(モーダルおよび旋法和声感の社会観)での中心音=フィナリスを指している事は重々承知の上で私は敢えてそれが謬見を齎しかねないと警鐘を鳴らしつつ「フィナリス」という語句を充てているのです。無論、それらの界隈で呼ばれる「トーナル・センター」とやらを「フィナリス」と呼ばないであろう事も承知の上で述べております。

2020年6月3日追記分  Rick Beato(リック・ビアト)氏は『THE BEATO BOOK』にて 'modal-tonic'(=モーダル・トニック)という風に呼んでおり、現今のジャズ/ポピュラー音楽界隈でも呼称を検める様に配慮しているのが理解できます。従前の呼び方よりも配慮される事で呼称を変化させるというのが後の学び手にとってより良い策であるが故の事実でありましょう。


 ですので私のブログでは今後も、界隈が「トーナル・センター」だと呼んでいる事について私は「フィナリス」と呼ぶ事を強行します。これ自体は何も間違っていない訳です。

 学び手の方からすれば覚えなくてもよいとも思えてしまう事すら覚えさせられている様な気分になるかもしれませんが、新たな事を覚える事が厭であるならば何も私のブログを態々目を通す必要は無いのです。

 この様な私の冷徹とも思えるスタンスを採る理由には、先蹤を拝戴せずに語句嵌当だけは新奇性ばかりの新陳代謝ばかりが横鎰しているジャズ/ポピュラー音楽界隈の多数の潮流に態々靡く様なスタンスを採りたくないからなのですね。そういう意味でも私は、モーダルな曲想の取扱いに於ける中心音を「フィナリス」と呼ぶ訳であります。


 本題に戻りますが、幾つかの変格旋法のフィナリスを見れば、本来の調性格を持つ全音階の主音とは五度・四度の関係にある事が判りますが、これが総てではありません。

 例えば、カデンツ(機能和声)に於ける和声進行の仕来りに於て、T・S・Dを総じて経由せずに、平行長調のフィナリス(=云う迄もなく主音)として奏されていたフレーズが直ぐに平行短調のフィナリス(=平行短調の主音)に座り込んでしまう様な楽曲など沢山ある物です。

 例としてはあまり褒められた例ではないものの、プチシルマのCMのテーマソングというのは長調のⅠから長調のⅥ、つまり平行短調のⅠに直ぐに座り込んでしまう様な観すらありますが、これらは機能和声的に見れば特段、トニック、サブドミナント、ドミナントという一連の和音機能を経由していないにも拘らず、二つのフィナリスに腰を下ろしてしまった様な物でして、これらのフィナリスは「三度」音程の関係に有る事がわかります。


 実は、日本の音階の中にはフィナリスを2つ有している物があるもので、特に、日本ではこうした「逡巡」する様な旋法性のある節回しが重用されて来た歴史がありまして、オルフ・シュールベルクもこうした複数あるフィナリスを述べている物です。

 尚余談ではありますが、フィナリスなどを学ぶ上でシュールベルクの教育システムを学ぶ事はとても重要な事であるので、騙されたと思って氏の著書を手に取って学ぶべきでありましょう。


 私は、ジャズ/ポピュラー界隈に蔓延る「一義的」な語句嵌当を是とするような反知性主義に裏打ちされた様なスタンスをとても嫌うがために彼等の語句嵌当に容易く首を振らずに反旗を翻している様に映る事すらあるかもしれませんが、寧ろそれは逆であり、ジャズ/ポピュラー音楽界隈の殆どのシーンで西洋音楽の体系を軽んじている事から起こってしまっている事なのであります。


 西洋音楽とてF・リストとバルトークの両者に於てはハンガリアン・スケール、およびジプシー・スケールは両者ともフィナリスが違うだけで音階固有音としては同一です。

 但し、フィナリスの捉え方が異なるという事は性格的にはガラリと趣を異にする物であるのでそれを通常の体系で形容するならば、ハ長調におけるソラシドレミファソのフレーズと、Gミクソリディアンにおけるソラシドレミファソの両者は全く趣が異なるという事でもあると言えるでしょう。


 それらのフィナリスの捉え方の違いを私はこれまでのフリジアン・ドミナントやフリジアン・スーパートニック、アンダルシア進行の流れで例示して来た訳です。西洋音楽界では増二度をフレージングを避けて声部を作りますので、ハーモニック・マイナーの音組織を固守したまま所謂モードを維持してフレーズを形成する事はジャズ/ポピュラー界隈とは丸っきり扱いが異なるのでありますが、増二度を避けるのは「ジプシー」っぽい響きを避ける為なのであります。

 つまり、貴族社会から見た「乞丐臭さ」を無くす為に避けられていた訳です。無論、それらも軈ては半音階的全音階を駆使する事で音脈を使う様にもなり、オペラの世界ではジプシーの女性と恋に落ちる題材など珍しくもなく変化して行った訳ですが、卑近な所の機能和声を学ぶという意味では増二度の取扱いはそういう物だと顰に倣っていて損はない物の、それとは異なる実際もあるという事が、世俗音楽となればフリジアン・ドミナントの感覚だって是認してしまえる訳ですから、音楽の捉え方が違う両者を同一のテーブルに並べるのも些か滑稽なのではありますが、こうした両者の違いを把握しておく事は損にはならないでありましょう。


 マーク・レヴィン著『ザ・ジャズ・セオリー』の169頁の脚注が実に曖昧模糊とした表現になっている事からも、界隈がトーナル・センターとやらにそれほど強く拘泥しておらず、また「フィナリス」という語句を用いる事を拝戴する事も無い事は薄々理解できる事でしょう。

 とはいえ、彼等も決して軽んじている訳ではないのでしょうが、重視しなくとも良いという土壌にてジャズ論を繰り広げているのは確かでしょう。なぜそれほどまでに拘泥しないのか!? ひとつは先述した様に、社会的背景に反知性主義が瀰漫している事。ふたつ目の理由に、ジャズはそもそも調性を欺いているという事です。


 「調性を欺く」。私は敢えて「嘯く」と表現している事です。マイナー・キーであってもナチュラル・マイナーを充てるのではなくドリアンで嘯く事が常套手段である様に、ジャズというのはそもそもが調性を直視していないが故に、調性での主音やモードでの中心音(=フィナリス)のそれらに深く拘泥していないという所にも目を配る必要はあるかと思います。なにせ嘯く事が重要なのでありますから。

 それらを鑑みると、極言するならば愚直なまでにアヴェイラブル・ノートやアヴォイドやらを意識している事自体、まだまだそれらの人々は嘯きを体得しきれていないのでもありましょうし、調性を嘯く為には調性をきちんと捉える耳を鍛える必要があるというのも是亦当然の事であります。

 半音階の節回しとて全音階の運びを詳悉に体得してからではないと学べないのと同様に、中立音程の体得にもきちんとした調律にて半音階組織を体得してからではないと学び取れないのも学ぶ順序として非常に重要な物なのであります。