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テクノポリスのヴォコーダー吟詠 [YMO関連]

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 先日はYMOのアルバム『Solid State Survivor』収録の「Castalia」にまで言及してみたりしていた物で、あらためて当時のYMOブームを追懐するのでありますが、YMOのブームというのは79年秋頃に始まってアルバム『×∞増殖』の発売辺りが最も巷間を賑わせていた頃だったと記憶している物です。


 そんな私の当時の記憶。前述のアルバム『×∞増殖』が発売されるという事は、凡ゆる媒体でも宣伝されていた物でした。予約をしていなかったものの発売直後には売り切れる前には買っておこうという心理が働いて買い物をしていた或る日曜日、資料からアルバム『×∞増殖』の発売日を探ると、その直後の日曜日というのは1980年6月8日との事。私はその日横浜市戸塚駅周辺を歩って、そこで買った訳ですね。


 この時の商店街の雑踏というのはゲーセンやファッション性のある様な店からの有線放送で「テクノポリス」や「ライディーン」がヘヴィー・ローテーションで耳にしたという位の物で、それはもう凄かった物です。インベーダー・ゲームが引き続いてブームを席巻していた頃でした。ギャラクシアンとかも勿論ありましたが、私がその頃一番没頭したゲームは「シェリフ」でしたでしょうか(笑)。


 そんな風にあちこちから聴こえて来るYMOの曲で最も能く耳にしたのは「テクノポリス」だったのではないかと思います。やはりあのヴォコーダーに依る「吟詠」がその特徴を決定付けているからでありましょう。当時の私が注意を惹かれるのは矢張り細野晴臣の手に據るスティングレイのスラップ・サウンドですね。こればかりはベースを奏する者からすれば避けては通れません。但し低音部はシンセ・ベースに頼っているアレンジですのでスラップが仰々しくは聴こえない訳です。シックのベーシスト、バーナード・エドワーズでもそれ程頻繁にはスラップ・サウンドを聴かなかった物でして、他はブラザーズ・ジョンソンのルイス・ジョンソン位の物でしたから、それを鑑みるとスティングレイのスラップ・サウンドというのはなかなか洒落ていた物でした。


 実は81年頃からスラップ・サウンドというのはマーカス・ミラーが俄に脚光を浴びて来る様になり、「蘞い」音のキャラクターであるスティングレイの音は「ンギャッ」と響くプルが艶かしく仰々しいのが避けられる様になっていくのであり、その後の83年のシャカタク、同年の日野皓正のソロ・アルバム『New York Times』参加のトム・バーニー(※フラット・ワウンド)、84年のガゼボに於てスティングレイによるスラップ・サウンドを耳にするだけで懐かしさを感じた位ですから、マーカス・ミラーという人もかなり大変革を起した人でもあったというのはこれにて伝わるかな、と思います。まあ私もベースの好みは一定以上の規準と拘りを持ってベースを奏でつつも、保守的でもなく結構時局便乗型でもあったんだなとあらためて思う事頻りです(笑)。


 そんな時代を振り返り乍ら、当時私が結構感化されていたのはカール・セーガン著『コスモス』ですね。今やブックオフでは上下巻併せて200円程で入手出来てしまうでしょうが、ボイジャー1号&2号で木星や土星接近のニュースが連日飛び込んで朝日新聞がカラー化を初めて導入した頃でもありましたから、天体の方の興味は自然と惹き付けられたものでした。特にテレ朝さんはコスモスをTV版に編集した特別番組を放送しておりましたし、そのスポンサーがIBM。一・十・百・千・万・億・兆・京……という風に「大数」を扱って、最後は無量大数ではなく「無量」「大数」として終っていたのも印象的だったと思います。

 70年代中頃というのはオリヴェッティ・デザインのタイプライターとか持て囃されていた物ですから、タイプライターが薄型になるだけで騒がれていた時代にてPC-88とか電気店に竝ぶ様な時代も80年という時は未だ見ぬ光景だったのでありますから、そんな時代にこれほどまでに「エレクトロニクス」を感じさせる曲というのは、多くの人が「電力」という物を制御する様にして取扱うそれに形而上学的というアブストラクトな神・霊的な力を感じ取り乍ら、その形容し難い霊的な力にワクワク感を高揚させられる物に心酔していたというのが当時の人々の心ではないかと思う訳です。或る意味では現今の原子力邑に群がる原発利権の人達も、電力を操る事への神の領域とも呼べる方面への挑戦と実行という物で感じ取れる高揚感が彼等を邁進させているのでしょうし、今や衰退著しい日の丸家電も、その家電の魅力を散々見せ付けられた80年にはなにしろウォークマンが流行していた最中だった訳でもあります。電気と高集積化の魅力という物が大衆にまでその魅力を実感するという時代だった訳でもあります。

 
 私が戸塚で耳にしていたYMOが賑わしていた商店街の雑踏から32年という歳月が経過するとあらためて現今社会に対して隔世の感を覚えるのでありますが、良くも悪くも敗戦から学んで来た事が風化してしまっている為か2012年の原発反対の集会に於て坂本龍一はその直後に物議を醸す事になる有名なメッセージにてそれまでの原発推進論を喝破しようと試みた物であった事でしょう。

「たかが電気のために命を危険にさらしてはいけない」


 坂本龍一のこの発言には、原子力利権に群がる連中と為政者に対して喝破しつつ、又自身も「電力が無くとも音楽はいつでも再現が可能」だとする理念に立ち戻ったかの様な発言に私は思えた物です。何となれば西洋音楽というスタイルは、世界のどこにも普く存在する楽器で「再現可能」な物である事が基本理念としてある故に、電気が無ければシンセすら動かないなどと揶揄するのは、音楽を近視眼的にしか捉えていない物であると感じた物ですし、加えて、政治的な負荷がかかると途端にあちこちで何処かのサポーターに依る喧伝が著しくなった世知辛い世の中に於て、こちらが好意を以て平たく咀嚼した発言をしよう物なら悪意を抱く(或は反対の側に居る)連中から、その「ソフト」な発言は暴圧なる声に掻き消されてしまう様にも変容してしまった感は否めない情況となりました。

 好意及び善意を抱く人というのは、悪意を持った人にすら善意を以て対処しようとする為、悪意を持った連中からすれば余りに無防備であるのです。悪意を抱く連中は其処を衝いて来るのです。いざ正当に反駁の声を挙げようとすると今度は善意を論って、「我々を悪とするのはけしからん(善意を抱いているならば何故我々に悪意を向けるのか。それは偽善だ!)」と論理をすり替えるように詭弁を弄するのですが、感情任せで物事を捉える人というのは平穏な水面よりも白波が立ったりカタストロフィの傍観者である事に昂奮する好事家へと変容しがちなので、善意を以てする人々というのが途端に弱い立場になりかねないという側面を見ても世知辛いとあらためて痛感するのであります。


 そうした側面を音楽に置き換えた場合、殊に音楽とやらも音波そのものには何の感情を表わす物などないのに、味覚や嗅覚と同様に、味わう個人の好き嫌いで判断可能な感覚な物でありますからついつい主観を優先させるという陥穽に陥る人も少なくありません。食事ひとつを例にとってみてもお判りの様に、自身の嫌いな味を吟味しようなどとは到底思わない事と同様に、音楽というのも自身の偏向性を極力無くして聴く姿勢にある人というのは相当高いレベルで音楽の習熟度を高めなければ到達できない物でもあります。


 音楽など門外漢であるのに素人でも良し悪しをアレコレ語る事ができるのは、オクターヴの同一性に依る事で、オクターヴ内の音というのはある音程を上下に6種の音程で網羅できる程少ない種類で知覚でき、脳に易しいからが故の事です。これらの上下の音程差の違いとある音の発音時間で音楽という物は多様な姿を見せるのです。不協和がある時は「近い内に」協和が来るだろうと類推します。この類推を更に「発酵」させた物が短調の世界観だと思っても宜しいでしょう。

 ある曲がヒットした時期は「◯◯だった」という風に、個人に記憶と紐付けさせて自身の思いを投影させる事は、楽曲からすれば身勝手な事ではあります。然し乍ら音楽というのはそうした紐付けする程の鞏固なレベルではなくとも、無意識レベルの「上下6種の音程」が齎す記憶が、自身が感じて来た世界観を呼び起す遠因となって感情を培わせる事だけは間違いないでしょう。音楽を聞いて、本来なら実際の曲とは全く無関係な情況を投影してみせるのは、そうした被験者の過去の体験が齎していたりするのでありましょう。


 或る意味では音楽というものはその程度の物でもあると謂えるでしょう。自身の嫌いな人間から此の様な事を言われれば音楽の価値とやらを卑下したくなるかもしれませんし、逆に自身の好む人間から謂われれば深く首肯し呼応するかもしれません。両者が同じ事を言っていたとしても、受け入れる感覚というのはこれほど迄に乖離するのであります。


 政治的な側面は扨置き、嘗て耳にした「ライディーン」という曲は、YMOの他の曲、例えば「キャスタリア」と比して、とても卑近に聴こえる物でして、私が「ライディーン」を最初から最後までという所謂「フル尺」で自発的に耳にした事は20回も無いと思います。その次に「テクノポリス」もYMOからするとベタな感じではありますが、同位和音の使い分けなどが非常に坂本龍一のそれを物語っていて「深み」を感じる部分はあります。

 ベタに聴こえる「テクノポリス」とて細部を分析すれば可成り拘っていると思われる側面もあるものでして、特に、先述したヴォコーダーの「吟詠」と形容したそれは、楽理的にも注目すべき点があります。それは、「T・E・C・H・N・O・P・O・L・I・S」という風にして「詠まれる」その声のリズムです。

 この当該部分のオリジナル・アレンジは1拍5連符のパルス6つ分の歴時で詠まれて居ります。実際の発音部を付点8分5連(=1拍5連×3つのパルス)、残りを休符として扱うと5連符のパルスの組合せは次の様になります。
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 これらの5連符がさらに1つのパルスを挿入される事によって、6つのパルスに依る拍節が生じ、そのメトリック構造は基の4拍子である拍子構造からは、1つのメトリックが現われる毎に1つずつパルスが加わってズレていくのであります。ですから、次の様に下向矢印で示している所が4拍子各拍の強勢であるので、赤丸で示した挿入されるパルスによって1つずつ多くズレて行くのはお判りかと思います。
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 結果的には次の様なリズム譜に表わす事が出来るという訳です。世に出ているバンドスコアのそれは実際にどの様に記譜されているのか私は見た事がありませんが、少なくとも先の「吟詠」の部分は、1拍5連に依るパルスで、パルス6つ分で詠まれる訳ですね。ですから等差級数的に基のビートからズレていって、5連符のパルス1個分がズレていくとなると、10回ズレた先に最小公倍数の60(LCM [4 5 6]=60)が来る為、11個目の「S」にて拍が再び1拍目で合う訳ですね。
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・4拍子に於て
・5連符が
・6つのパルスを刻む

 という事で[4 5 6]のLCMを得るという訳です。「5連符の6つノり」という事になるので、1組のメトリックが生ずる度、基の拍子からはパルス1つ増しでズレて行くという訳です。

 ライヴ版の「Technopolis」では四分音符に合わせて詠む所から、これはレコーディング時の1拍5連符のパルス1つ分のディレイ・タイムを重ねて何度がオーバーダブを重ねた物なのかもしれませんし、或は普通に5連符を6つでノッて詠んでいるのかもしれません。5連符を習得していれば特に難しい訳でもありませんし、高橋ユキヒロ時代のソロ・アルバム『Saravah!』収録の「Elastic Dummy」のキーボード・ソロの冒頭は6連符の5つ刻みで入って来るので、特にギミックを施す事なく奏する技量を具えていると思いますが、機械的なグリッドに嵌める事に拘泥するならばギミックも必要になるかもしれないので何とも謂えない所ですが、何れにしても本人達にしか判らない部分を聴き手がこうして気付かない限りは闇に葬られたままであるので、聴き手は深部を聞き付けてナンボでもある訳ですね。

 一般に体得し難いリズムを己の主観の規準に均してしまったりする事は音楽の習熟度は各人様々なので致し方ない側面はあるでしょう。然し乍ら音楽方面の理解を深める必要がある時に、主観のまま等閑にしてしまってはいけません。特にこうした誤解が生じた所に、或る名称が存在したとした時、自身の理解の外にある様な語句が充てられていた場合など、己にとって語感の良し悪しだけで良い悪いを主観の上で決め付けてしまったりする事など往々にしてあったりするものです。

 どのような分野に於ても理解を深めると、その語句には特殊性を伴う様な語句に遭遇する物です。特殊である事が己の理解を疏外するとばかりに平易な言葉を選んでしまい挙句の果てには使い勝手の悪い専門的な言葉に対して造語を充ててみたりという者にも遭遇する事は少なくありません。特に音楽方面では世俗音楽界隈では誤謬が非常に多く蔓延しているのはこういう事なのですね。そこに反知性主義も重なったりするという側面もある訳です。

 一般的には、聞き慣れない言葉よりも聞き慣れている言葉を受け入れようとする心理が働く物です。聞き慣れている方の言葉がたとえ間違いであったとしても。

 音楽に於いて正しい理解とは、大きな潮流に身を委ねて傾聴する事ではないという事をあらためて知った上で、音楽の深部を吟味したい所です。卑近に思える所にも自身の感性が歪曲してしまっている事など往々にしてある物なのです。その上で「たかが音楽」にどれほどの重みを感ずるか。軽んじている者ほどスポイルさせてしまっている事が多い物ですよ。