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ド・シ・ラ・プログレ度♪ [プログレ]

 PROGれど PROGれど 猶 輪が暗し 楽にザルザル♪


 どんなにプログレの度を強めようとも、一朝一夕ではプログレ界隈の人間の輪など広がる物でもなく、ふと気が付くとザルザルの様な微分音をも受容する(笑)、という風な意味合いに依る含蓄のある一節として詠ませていただきましたが、まあこんな冗談は扨置き、プログレッシヴ・ロックというジャンルは「ロック」という音楽スタイルを利用しつつ西洋音楽(=クラシック音楽)の音楽形式《特に近・現代》を採り入れている点が特徴として表れているのであります。

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 何故なら「ロック」という音楽スタイルは本来反体制・反権威的な動きから生じて生まれた物で粗暴で排他的なスタイルを前面に押し出す所から端を発した筈ですが、外面上の音というアンサンブルではロックや電気・電子楽器を採り入れつつ形式的な部分では高次な西洋音楽方面の音を導入して「折衷」となった物であると述べているのは、嘗てのプログレ雑誌でも小沼純一氏が述べていた事であります(『ヤング・パーソンズ・ガイド・トゥ・プログレッシヴ・ロック』音楽之友社刊)。


 言葉にしても「破る」と「裂く」が合わさり「やぶく」という表現が生まれた例がある様に、音楽に於ても単純に何かが複合されただけではなくそこから新たな別のスタイルが生ずるという側面が強化されて生まれたのが現今の「プログレ」と呼ばれる音楽なのであります。


 そうしたプログレは、概ね「変拍子」「長尺」という所に多くは集約されるでしょうが、実際には和声的にも対位法的にも高次な技法を用いて作られている物が少なくないのが実際であります。しかし複雑な和声を聴き取る事よりも複雑な拍子やリズムを理解する事の方が表層的理解に於ては判り易い部分ではあります。そうした複雑なリズムの上に複雑な響きを伴う世界観を有しているアレンジが施されている事が少なくないのがプログレ界の音楽なのでありますが、皮相的理解に及んでしまう様な聴き手は、概して(己にとって)判り易い箇所ばかり拘泥してしまい、その先の難解な方になかなか歩を進めない悪癖を備えていたりします。

 そうした皮相的理解に陥り易い人達にギタリストの比率が高いのは悲哀なる側面でありましょう。「ロック」という音楽の余薫を手掛かりにプログレに足を踏み入れたギタリストが抱える問題の中には、ギター周辺での道理でしか物事を捉えないという稚拙な己への自己愛とロック(=反権威・反体制)という物を結び付けてしまって正しい理解を是としない人達が少なくはないのです。殊に日本では皮相的理解から伴う、所謂プログレという皮相的なイメージを増幅させただけで肝心の音楽面が極端に卑近であるというバンドを幾多も生み、それがレコード会社及びレーベルが頻りに慫慂させてしまっていた悲しい時代もあったりします。とはいえ茲から足を踏み入れた現今プログレ愛好者というのはかなりの数を占めている事でありましょう。

 また、その手の近視眼的なプログレに蔓延る鍵盤奏者の中には単に速弾きを目指すだけで楽理的な理解に浅い人が居たりするのも珍しくはありません。「ロック」という側面が、どうもそうした無学な人をも許容するかの様な誤解から聴き手もプレイヤー側も甘んじてしまっている様な人達が今から30年以上前の日本には少なくなかったのが現実なのです。


 そういう人達から高次なアンサンブルが聴こえて来る事はありません。独りよがりな速弾きやそれに伴わせたユニゾンやトゥッティ程度なら度肝を抜く程度のソツの無さは備えているでしょうが、高次な響きには到達出来ていない事が多いのが日本の嘗てのプログレだった訳です。ですから対位法やフーガを書く様な人達は何故か和声法に準じた二声のハーモニー程度が関の山だったりします。

 処が対位法を推し進めると、たった二声でも高次な響きを創出する事が可能です。悲しい事に、こうした世界観を表現するプログレ・アーティストですら国内プログレ・アーティスト連中というのは少ない物なのです。素地が「ロック」という所に胡座をかいてしまっている人達が少なくないという事です。


 所謂西洋音楽とやらを皮相的に捉えてしまう人の抱くイメージというのはそれこそ古典的で判り易い卑近な旋律すら映じてしまいかねないかもしれませんが、例えば 真正フーガとは先行句の完全五度上を追行句が応答する事であり、つまり追行句は属調に転調した音階で応答する事になる。とはいえ先行句という元来の旋律の主音と属音を、追行句の属音と主音に置換してしまってはいけないので、互いに交錯させて使う事が肝要となりますが、その一瞬の転調感が冴え渡る物なのです。

 先行句の属音を追行句の主音に置換しない事を「変応」と言うのですが、こうした技法を程よく理解すればあらためてGGのアルバム『Interview』収録の「Design」のそれがお判りになるかと思います。

 和音を一定以上熟達を高めてもその和音は重畳しくなり過ぎるきらいがあり、シンプルな響きからは程遠く、それこそジャズっぽさを感じ取ってしまいかねない事が往々にして起る事でしょう。つまり複雑な和声感はジャズに近しくなるというのも皮相的には彼等も実感するのです。例えば先のフーガの「変応」。これさえ判って居れば、たった二声で高次な響きを得るのです。たった二声で和声感を充実させる事など、通常のコードの使い方ならどうすべきでしょう。パワーコードでは3度がオミットされてしまいますし、聴き手の脳内に強く蔓延る調的な余薫を頼りに7度を附与して3度と7度を巧みに使って演出するか、それならば二声で3度か6度でハーモニーを形成しつつ且つ流麗に夫々のパートがヘプタトニックをフレージングすれば、ダイアトニック内の音をほど良く聴かせる事ができ、和声的な世界観としては単なるパワーコード一発やらの音よりかは充実する事になるでしょう。

 そうした二声のダイアトニックを保ったハーモニーばかりでなく、「変応」を使えばある一定の局面にて万華鏡の様に調性が局所的に転調する事によって違った世界観が見えて来る訳です。


 プログレ界隈に於ても音楽理論の勖勉に励む人は少なくないですが、多くはジャズ/ポピュラー界隈のそれに終始してしまって居ります。まあそれが悪いと迄は極言しませんが、閉塞する所はあります。何故なら、ドラムを除いた器楽奏者が3人居たとしましょうか。その人達3人が映じているのは、おそらくAマイナーの曲で少々ジャズっぽい理解ならAドリアンを想起とか。こうした理解はおそらく3者3様ではなく皆共通しているかと思います。

 曲のリフとは異なるインタープレイに於てモチーフの作り方が上手い人が居て、それに呼応する人が巧みであれば、先の「変応」によってカウンター・フレーズを用いる事で夫々が異なるトーナリティーを映じ乍らハモる事だってできる訳です。甲という奏者がAマイナー上でAドリアンを弾いていて、乙という奏者がAエオリアンを弾いても構いませんよ(笑)。夫々のモード想起が異なれば互いに異なる音を奏して逸脱する場面が生じて来る事でしょう。こうした逸脱が対位法にはもっと深い側面があるという事です。

 そうした和声的な響きの側面は後述するとして、プログレのリズム多様さ、特に変拍子と括られる点は恐らく最も顕著であろうかと思います。

 デジタル・データが0と1の数字で置換が出来る様に、リズムというのも実は「2と3」に集約する事が出来ます。西洋音楽の史実に倣えば非常に多様で複雑なリズムというのはトルコにあると謂われますが、まあ、そんなトルコ方面の話題は扨て置くとしても、「2と3」に集約されるとはいえ、3のリズムですらテンポを挙げると2拍子化していってしまうのです。「タン・タン・タン」とワルツの3拍子を奏していても、これを速めると段々「3連符」の様に聴こえてきて、その恰も「1拍3連」に息継ぎが欲しくなり、もう1組の3連を欲する様になる。すると茲で「2拍子化」が新たに創出される事になる、と。


 西洋音楽は「三位一体」という所から発展している事もあって、3拍子が礼賛される歴史もありました。そんな中で3のパルスを2で採って、「3×2拍子」を「2拍子×3」の様に聴かせたり、又その逆なども然りでして、こうした「ギミック」はプログレでは珍しくありませんが、西洋音楽界隈では「ヘミオリア」と呼ばれております。ヘミオラも同義です。

 それは2:3のリズム。界隈ではそれをワパンゴと呼ぶ事もあります。ワパンゴはメキシコ由来ですからスパニッシュな要素が入る訳ですが、例えばチック・コリア・エレクトリック・バンドの1st同名アルバム収録の『Silver Temple』はヘミオリアと総称可能ですが、曲想を思えばワパンゴという呼び方も視野に入れれば良いのかもしれません。西洋音楽界ではベートーヴェン、シューマンなどが顕著であり、ジャズ界に於てはビル・エヴァンスが好例でもあります。

 こうしたリズムのギミックやらもプログレの最たる部分でありまして、2と3の使い分け&組合せによって多様なリズムと拍子を生むというのも魅力の一つではあります。とはいえ、リズム面というのは和声感よりも判り易い方ですから、ついついこちらに固執してしまう人も少なくはありません。アーティスト側ですら複雑なハーモニーを捨ててリズム面に走る事すらあったりするのですから。大体卑近な演出をする様なプログレ連中はこうした所が顕著です(嗤)。

 例えばジェントル・ジャイアントのアルバム「In A Glass House(邦題:ガラスの家)」収録の「Experience」のイントロは4+5拍子系の物ですが、符割は次の様な12+15/16拍子という構造で、本来なら16分音符の3つ分のパルスを1拍とカウントする所をギミック的に16分音符のパルス2つ乃至4つ分でリズムを採っているのであります。

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 「スパニッシュ」と聴くとスパニッシュ・スケールという8音音階を浮べる人も居るかもしれませんが、スパニッシュ・スケールというのは抑も原型がフリジアンだという事を識らない人は少なくありません。フリジアンがフリジアン・ドミナントとして(つまり属音を中心とする事でその属音が主音化するモードの変容=つまり変格旋法)から端を発している訳ですが、このフリジアン・ドミナントの主和音に対してピカルディの3度を適用させるかのように長和音化した物を混淆とさせた物がスパニッシュ・スケールな訳です。

 ドビュッシーは「全音音階」を用いたとしてそのフレコミは有名ですが、それは楽曲全体を俯瞰した時に「全音音階」が生じているだけの事で、上下にそれぞれ異なる体系の調性の断片(=テトラコルド)を組合わせる事で生まれた全音音階であり、実はもっと多様であるという点を理解しなければ、単にその辺りのギタリストが属七の和音上でホールトーン・スケールを宛てがった様な物と一緒にしてはいけません(笑)。ドビュッシーとてスパニッシュな風合いの曲を書いた人であり、ジャズ/ポピュラー界隈的解釈で言えばそれこそ分数コードの走りと言える使い方をした最初の人でもある訳ですから。

 フリジアン・ドミナントが講じてスパニッシュ・モードが垣間見えるのは西洋音楽ではブリュノーの「夢」が顕著でありましょう。ブリュノーの「夢」の実際は嬰ハ短調で書かれておりますが、曲中フリジアン・ドミナントが現れる部分は中心音がF#音というフリジアン・ドミナント調が現れる訳で、そこでののⅤ→♭Ⅵという現今のスパニッシュ・モードに投影しうる進行が現れる物です。


 スパニッシュ・モードを選択せずにフリジアン・ドミナントという世界観を選んでも咎めを受けない状況であるならば、奏者は脳裡に「逡巡」は起るでしょうが、どちらを奏しても良い状況であるならば常に逡巡が脳裡に蔓延る事でしょう。互いに「モード・チェンジ」をして弾けばメリハリが生じ、他のパートがそれぞれ異なるモードにてハモらせれば「変応」を生じている事と同様となります。この際の変応は下主音と導音であり、平行長調から見れば短六度下となるモルドゥアにも見立てる事の出来る音組織を垣間みる事になる訳です。AマイナーでのEフリジアンを想起すれば、Eフリジアン・ドミナントはAハーモニック・マイナーのモード・スケールであり、Eの属和音が長和音化すれば下主音G音と導音G#音が逡巡し合う世界観となる訳です。これらを平行長調側のハ長調から見ればそれらの音はG#はモルドゥアで生ずるA♭音との異名同音となる音脈である訳です。こうして下方倍音の音脈は強化される事にもなります。


 ジェントル・ジャイアント(以下GG)のアルバム『Free Hand』収録の同名曲「Free Hand」のイントロは「恰も」イ短調(=Am)的フレーズから始まりますが、それの同形で嬰ヘ短調(=F#m)の音脈で形成される事でイントロ主題の短三度下(=長六度上)の音が平行している状況となるのですが、イントロ冒頭の単声が原調ではなく、その直後の旋律こそが主要な旋律である事は明白です。

 イントロ冒頭の「先行句」は、主題の短三度下(=長六度上)を平行オルガヌムとして奏でており、複調的要素が見られます。これは実は13〜15世紀の英国の「ジメル」という技法を導入した物であり、主旋律に対し3度下を平行オルガヌムで奏するという技法であり、6度の平行オルガヌムも併存していたという歴史があるもので、界隈ではとても注目される技法でもあるのです。

 英国音楽史の用例の中には3度を常に維持していない物や声部が交差する物も存在するのですが、それまでの平行オルガヌムというのは4度・5度というのが一般的で、平行3度が不協和扱いされていたという中で英国にてこのような独自な発展を遂げていたのが瞠目すべき点であり、ケリー・ミネアーはそうした英国の歴史を現今に甦らせ自身の作品に鏤めているのは、英国文化へのリスペクトがあっての事であり、自身もRCM出身という事も影響している訳でありましょう。


 リズムの複雑な側面と和声的側面の複雑な世界など、プログレを見渡すだけでもこれらの様な体系が判るのでありますが、ケリー・ミネアーのそれを思えば、母国の音楽歴史をリスペクトしているが故の想念である事は明白でありまして、こうした体系に背いたカウンター・カルチャーとしてジェントル・ジャイアントというバンドが存在する訳では決してないのであります。うわべだけの音からすればロック系のアンサンブルの音ですが、中身は全然異なる。ジェントル・ジャイアントに限らず多くのプログレのバンドというのは音楽歴史に対して一定以上のリスペクトを抱えて成立している物です。無論、彼等の音楽活動に於て時には大衆に迎合しないかのように振舞う事はあるでしょうし、自身の立ち居振る舞いを素直に公表せずに社会や思想やらにも反抗しているかの様に見せざるを得ない商業的な側面もあるでしょうが、燃え易く醒め易い皮相浅薄な人間というのは、そんな「幻影」を自身の脳内で誇張させて手前勝手に肥大化させて己の欲求を高めさせる為に対象の人物を誇大妄想としてしまうのは能く見られる事です。こうした所に根も葉もないデマや噂が生じたりもして来るのですが、そうした声に惑わされない基準を持つには体系への理解が無ければ自分自身に確かな基準が生まれないものなのです。

 そういう訳で、プログレというジャンルがややもすると一部のファンの心の中で暴走してしまっている向きが見られるのもあるので、プログレという狭いジャンルであるにも拘らず、その中の一部の「大衆」や「大声」という喧伝に惑わされる事なく、本来在るべく、「在るべく」が意味するのはレコメンドするに相応しい価値のある人達を取上げてこそ、次のプログレ三昧というのが単なるシリーズ化の惰性ではないという事があらためて評価される点だと思います。

 単に、プログレ好きが酒飲み乍ら好きな事を忌憚無く語れる場でも良いのですが、卑近な所は避けるべきかなとはあらためて思う事頻りです。