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スタンリー・カウエル『Juneteenth』アルバム分析 [アルバム紹介]

 扨て今回は、私の敬愛するジャズ・ピアニストのひとりスタンリー・カウエルが『Juneteenth』(奴隷解放記念日)というアルバムをリリースしたという事もあってこれを機会に彼の非凡な音楽観を共に語るべき良い時期であろうと思い、今回のブログ記事にする事となりました。
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 私がスタンリー・カウエルを最初に耳にしたのはスタンリー・クラーク繋がりで1986年の事。勿論『幻想組曲』から入ったクチなのでありまして、前年夏のライヴ・アンダー・ザ・スカイ85に心酔していた流れもあっての事です。

 30年近くスタンリー・カウエルを知ってはいても、私は音そのものを追いかけているだけで、カウエルのプロフィールに関しては疎いもので、そうしたアーティストの背景に関して無頓着だったりするのは何もカウエルのみならず多くのアーティストに対して私の浅薄な知識などその程度の物でありまして、今回もこのブログ記事を書くにあたって、Twitterでも御世話になっている寺井珠重さんのブログ記事にどれほど多くの知識をいただけた事でありましょう!

 特に、スタンリー・カウエルがザルツブルク・モーツァルテウム大学出身とはつゆ知らず(あのカラヤンも卒業生)、成る程、いつもカウエルに感じていた高い楽理的側面の音楽観を随所に感じていたのはそうした教育が背景にあったという事をあらためて理解する事が出来ました。しかも今回録音のピアノは卑堡スタインウェイという物だという事も寺井さんのブログがとても参考になった貴重な情報であるのです。加えて、今回多くの曲は元々オーケストラ用に書かれた作品をピアノ・アレンジにしているという点も寺井さんの情報がなければ判らなかった事なので、こうした情報に遭遇できた事も感謝しております。今回は寺井さんご本人にも許可をいただいて当該ブログ記事をリンクさせていただいているのですが、いつも御親切に対応していただきまして深甚なる感謝の念をあらためて爰に申し上げ度いと存じます。

 
 今作『Juneteenth』はデジパックで40頁超の分厚いブックレットも付いた物で、しかもCD盤面はプレイステーション用ソフトと同様の黒い盤面なのであります。私はCDはそれほど多く所有してはおりませんがプレステ用ソフトと同様の黒い盤面のCDはこれが初めてであります。「きちんと再生できるのだろうか!?」とプレステなどオートバックスの待合コーナーで「電車でGO!」を遊んだきり記憶に無いという位、所有すらしていない私が心配した事など杞憂に終りました。


 そんな訳でCD評を語る事にしますが、アルバム冒頭を飾る「We Shall 2」は進行感に溢れたコード進行が明確ではありますが、モルドゥア系の情緒を基調として「嘯き」ます。つまり、メジャーであり乍ら短調風の短六度の音が要所要所で響く訳ですが全体としては一般的にも馴染み易い音脈となっておりますが、それは後に到来する高次な世界観の対比でもあるかもしれません。

 2曲目「Introduction」からが「奴隷解放記念日組曲」を飾る1曲目となるのですが、冒頭の嬰ハ音とト音による暗喩めいたトリトヌス(=三全音)は、所謂その三全音をドミナント7thコードの断片という風とは用いる事のない複調的な要素を持ったそれというのはその後の展開で直ぐに判るものです。この冷酷な程「空虚」に響く三全音は他の和音の断片でもないという独立峰の様にすら聳えた姿を見せる程の存在感を見出す事でしょう。その冷酷な程の立ち居振る舞いという肚の据え方に凄みを感じる物です。

 耳を惹き付ける0:32〜での C△7→F#△/G#→E△7aug/A は瞠目に価する美しい進行です。特に「E△7aug/A」はペレアス和音=「G#△/A△」の断片という風にも見る事の出来る響きであるので、非常に能く考えられた美しい進行だと思います。

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 余談ですがジェントル・ジャイアント(以下GG)のアルバム『The Power and The Glory』収録の「No God's A Man」では長七の付加四度、つまりメジャー7thコードに本位4度(=完全11度音)が附与されている和音を聴く事が出来ますが、先のカウエルに依る「E△7aug/A」というのは、付加四度の4度音がベースに来るタイプ且つ上声部が増五度音のメジャー7thコードという事であるとも見る事ができるでしょう。カウエルのこれは複調的に響いており、GGのそれが付加四度として響くのは基底音に用いるか否かの差であるとも言えるでしょう。

 例えばドナルド・フェイゲンのソロ・アルバム『Sunken Condos』収録の「I'm Not the Same Without You」の冒頭も6声に依る完全四度等音程の和音ではありましたが、四度の響きをふんだんに使うのではなく、暈滃しつつメリハリを付けて使っているのがカウエルらしい所です。その「暈滃」とやらは後述する事になる「短2度・短7度・完全4度・完全5度」を使い分ける事でもあるのです。完全四度を四度としてではなく「五度」として使うという事は転回が視野に入ります。それは追々詳述します。
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 3曲目「Proclamation」はブルージィーな雰囲気から入って来ますが随所に出て来るトレモロはその後の「ある世界観」の暗示である事が追々判ります。

《補足》ブログ初稿後に寺井さんからお教えいただいた事ですが、本曲「Proclamation」はカウエル自身の曲「Sienna; Welcome to This New World」のオマージュだとの事です。私はカウエルの全作品を有している訳ではないのでこの件を知らずに居た事が残念でしたが、アルバム『Games』に収録されている曲という事を配信物で確認させていただきました。この場を借りてあらためて情報提供をしていただいた寺井さんに感謝します。余談ですが、Siennaという娘さんの名前の曲は別に存在するのもカウエルを知る上で重要な側面でもあるかもしれません。これを機にスタンリー・カウエルに興味を抱いた方には是非知ってほしい部分でもあります。

1:33〜の所の下からハ・ト・ニ音の完全五度等音程をペダルに左手で変ト・変イ・変ロ・変ニ・変ホの黒鍵5音のクラスターに併せて、右手は先のクラスターの半音違いとなるト・イ・ロ・ハ・ニ音の白鍵5音に依るクラスターとの併存を更にペダルにして上声部にト・ハ・変ホ・トというCmを更にぶつけるアプローチとなっており非常に興味深いものとなっています。クラスターだけ抜萃すれば変ト音から変ニ音までの半音階のクラスターという事になりますが、黒鍵と白鍵夫々左手掌側面と右手五指に依る物として注記しておきました。
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 基本的にはC音を基底に4声の5度和音を下声部に想起(c・g・d・a)して、それに対してH音からの5度和音(h・fis・cis・gis・dis・ais)という10声の和音と見立てる事も出来るでしょうが、5度等音程という呈示のそれが、5度和音集積が齎した「二度音程の房」という風に為しているものだと捉える事が出来るでしょう。つまり、短二度の集積は5度音程由来の物であるという示唆めいた物だという事が判ります。

 因みに「5度和音」というのは奇しくも旋法性を保った和音として、松平頼則著『近代和声学』にて箕作秋吉や早坂文雄の例示を挙げておりますが、5度和音という物で見渡す事なく通常の西洋音楽の見渡し(つまり3度堆積の和音)で想起可能として反駁したのが嘗てのクラウス・プリングスハイム。しかしそのプリングスハイムも結果的に日本的旋法のそれに和声付けをしようとすると卑近な響きに収束してしまっている感は否めないというのが正直な所であるが、カウエルのそれは、五度和音を旋法的に聴かせようとしている物ではなく、5度等音程を足掛かりに、Cマイナー系統の和音を基底にしてバイトーナル(複調的)に聴かせようとしているのは明白でありましょう。


 4曲目「Reality Dreams Echoes」では「ともだち讃歌(リパブリック讃歌※原題"The Battle Hymn of the Republic")」はモチーフにしたフレーズが出て来ますが、こうした引用の際は複調で以て引用している所が最大の特徴であります。長七度複調、つまりこれはペレアス和音やストラヴィンスキーの「春の祭典」でも見られる物と同様の複調でもあります。この複調は変ロ長調の「ともだち讃歌」に対してロ長調系統の音組織を充てている様に思われるでしょうが、同度由来とするよりも変ハ長調由来とした方が実際の理解としてはベターな解釈で、やはり先のバイトーナル和音としてのそれと一貫した世界観を想起する事ができます。

 複調の演出が醸すそれは、普段の日常生活から耳にする様な親しみのある曲の断片が耳に届く情景として表現されているものでありましょう。西洋音楽では珍しい物ではないのですが、メシアンのトゥーランガリラ交響曲とて実は世俗音楽からの断片の引用があったりする物です。トゥーランガリラのそれは大自然ばかりでなく鳥類が現在の人間と共存している描写という狙いもあったのではないかと推察します。


 5曲目「Anticipation of the Coming of Freedom」冒頭の5度和音「h・f・c」に対して更に5度脈絡のg音から下行フレーズで紡ぐそれが非常に綺麗なのですが、何と云ってもカウエルの真骨頂の部分がその直後の「cis - h」と続く和音外音への音脈を使う所。これが実にカウエルの非凡な所です。私が予々スタンリー・カウエルの4度や半音の使い方が巧みなのか!? という事を今一度思い出していただきたいのですが、短2度・短7度・完全4度・完全5度の等音程というのは軈て「半音階」を生みます。カウエルの非凡なセンスというのは、先の4種の音程の内、短二度以外の音程を「半音階の開離」として使う事が非常に秀でている点にあります。半音階を短二度で順次進行させれば卑近な半音階でしかありません。つまり音程を開離して巧みに使うという事は、常に半音階という世界観を俯瞰しているという事の果てにある物だとも言えるでしょう。

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 この曲の冒頭にある「唐突」な感じを私は、スティーリー・ダンのアルバム『エクスタシー』収録の「Your Gold Teeth」(※「Your Gold Teeth II」ではありません)のサビ結句部分のコード進行、E7(♭9、13)→A7→D9を追懐してしまったものです。特にこのコード進行の「E7(♭9、13)」の部分は、恰もエレクトラ・コードの様に「C#△/E△」近しく感じた物でして、先に例示した曲は全く違う外面を持っているのはご容赦を。


 私の主観的な印象なのであまり参考にならないかもしれませんが、そこには非常に重要な解釈である「複調感」を備えた和音であり絶妙なものです。その和音の、響きが逡巡した感覚のそれはUKのアルバム『Danger Money』収録の同名曲の冒頭のコードでも聴く事が出来る物です。
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 四度の響きが絶妙なのはパウル・ヒンデミットを筆頭に挙げる事が出来ますが、ジャズ・シーンでそのリスペクトと昇華を見せた一人がハービー・ハンコックである事は「処女航海」を聴けば自ずと判る事ですし、何よりもつい最近上梓された『ハービー・ハンコック自伝』(DU BOOKS刊)を読めば深く首肯出来る事でありましょう。

 カウエルとてジャズ界隈で一般的な和音体系を使う事はあります。異端なコードもありますが。その中で単なる半音階的なフレージングとは異なる、音程感に富んだスケール・ライクなそれとは異なる唄心ある半音階的世界があるのが彼の特徴なのであり、その世界観で生ずる「和音外音」という半音階の世界にある音脈の音の登場は、その辺のジャズメンの音とは一線を劃す唐突さと情景の移り変わりが劇的に変化する感があります。

 そんな訳でこの冒頭の「cis - h」と5度和音を背景に奏される和音外音は、これだけで感服する事頻りです。その直後e音に跳躍する時の背景の和音はFsus4です。Fsus4に対して長七度音をぶつける様な物ですが、実はこれ、不等四度。C音から4度音程をポジティヴ方向(つまり上行)に辿ると「c・f・b(英名:B♭)・e」という事になります。つまり、完全五度等音程との対比に不等四度が冒頭から現れるという素晴しく絶妙な和音外音をこのように聴かせて呉れるのでありますね。それが仰々しくなく「唄い上げて」いる。こういう巧みさにカウエルの素晴しさが表れておりますね。その後に現れるG7 (on D♭)である三全音複調型の和音をフォルティシモで刻みつけるその部分は、全く異なるもののトゥーランガリラ交響曲第7楽章冒頭のピアノを思い出した物でした。これらのモチーフを発展させて行くのですが「Juneteenth Recollecitions」を除く「Juneteenth組曲」の中で私はこの曲が最も気に入りました。


 6曲目「Commentary on Strange Fruit」は冒頭はE△7/Aから入り、先の2曲目「Introduction」ではE△7aug/Aとしていたのを上声部オルタレーション解除という風にして柔和に響かせており、全体としてはA音を根音にする左手はa・e音に依る空虚五度にE△7を置くかの様に聴こえるでしょう。E△7/A→F#△/G#→C△7→B♭△/E♭という柔和な進行が多くの人には判り易い、しかもどこか空虚さを備えた安らぎがある所に、その後カウエルのペダル・ワークの妙味に気付かされる事になります。アルバム中最も変ロ短調のドラスティックな情緒を活かして唄い上げている曲です。勿論、その変ロ短調を時には卑近に聴こえさせない様に「変形」させる訳ですが、全体としては一般的にも聴き易い情緒に仕立て上げているのはお判りでしょう。終始ラルゴで非常にゆっくりなのです其処彼処に現れる変形に伴う情景変化で長さを感じさせない物です。

 7曲目「Nostalgia for Homelands」0:40〜0:53に現れるD音からの下向ダブル・クロマティックからのフレージングはお見事で、調的に進行させる事のない「旋法的」和音を見事に巧みな2度をまぶして唄い上げており、これもカウエルの巧みな部分でありましょう。その後4度音程で大バッハのインヴェンション&シンフォニアの分散フレーズを遣っているかの様なプレイのそれに嘗てのスタンリー・クラークも参加したECMからリリースのアルバム『幻想組曲』収録の「イビン・ムフタール・ムスターファ(邦題では「イブン・ムクタール・ムスターファ」)の断片を見るかの様な錯覚に陥ります。この錯覚が後の現実となり、まるで "God brought us coincidence for a purpose"と言われるかの様に、偶然は必然となる事を体験する事になるでしょう。
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 8曲目「Proclamation Interruptions」は全曲同様、Fmが齎す短調の雰囲気を全体にまぶしているものですが、1:01〜ではドリアンの特性音であるd音からカウンターとなる様にFドリアン或いはFマイナー系列の音階固有音の「外」にある和音外音がd音に対してh・b・c・desという風に点在する訳ですが、この音脈を単にクロマティックとしては使わない唄わせ方にも妙味がある所です。1:20〜ではオスカー・ピーターソンを彷彿とさせる様なラウンジで磊落にジャズ・ピアノを嗜む事ができる様なブルージィーでオーセンティックな曲想を演出するのは、聴き手の過去の記憶をうまく掘り起こそうとする狙いがあるからでしょう。この部分を「ブルージィー」と評した理由は、左手が単に定旋律を刻んでいればラグタイムであるのですが、ラグタイムには聴こえさせない様にしてリズムを付けているからであります。

 9曲目「Darkness Transforming」これもまた6曲目の様に緩叙調であるためどんな仕掛けがあるのかとついつい耳が惹き付けられてしまうのですが、音程跳躍には乏しい「狭い動き」を執拗に呈示していますが、1:33〜の D♭ - B♭- B - D - A♭ - F - E - D#という半音階部分を除いたそれの「跳躍進行」こそが、狭い音程から動機を発展させ、亦トランケートさせる(※端切れとして切り取るという意味で用いています)というメリハリのそれを少ない動機乍らもこの様に「諭す」のがカウエルらしいフレージングのひとつでもありましょう。

 10曲目「Finale」これもヘ音を中心とするFメジャー感からの移旋を其処彼処に忍ばせ乍ら親しみ易い動機を用いておりますが、0:48でのF音をベースにC#メロディック・マイナーを弾く複調アプローチは実に見事な物です。その直後の進行感の妙味は存分に堪能していただきたい所。終止和音がCm△7というのもお洒落ですね。

 11曲目「Resolution」この曲の0:36〜の右手のフレーズがe - f - as - dと上行フレーズになる所でd音に行き着くとそれまでの間隙を縫う様にしてas - d音間の部分にフレーズを配置していくという、これもまた順次進行からの流れで今度は跳躍させた上で、その狭間の音組織を使って来る訳です。こうした「開離と密集」という、古典のダイアトニックな音のメリハリのそれとは異なる更に多様なフレージングの妙味を見付ける事が出来る訳です。


 12曲目「Ask Him」この曲名を見た時、嘗て私の友人が買っていたオス猫の名前を思い出した物でした。「アスキム」と呼ばれていましたが、猫の名前を飼い主に訊ねる際「Ask him」という遣り取り《実際には英語で遣り取りはしないが冗談で》のそれが「God knows」が「俺知らね」的な、野良猫だった猫に訊ねるのが筋だろ! みたいな冗談めいた遣り取りを念頭に置いて付けられた「彼」の名前を思い出した物でしたが、カウエルが意味する「彼」はOne of themを指す事は明白であり、そのthemの先に嘗ての奴隷だった人を想念している事には間違い無いとは思います。私は友人の飼い猫が嘗ては野良猫というそれと奴隷であった人々のワイルドさとを一即多にしている訳ではありませんし悪意はないのですが、そうしたワイルドな側面の偶然の一致をつい脳裡に映じてしまった事はあらためて述べておこうかと思います。

 こうしたどこか耳に馴染む感じの優しげな曲想というのはそれまでの高次な音世界とは異なる、副交感神経が安らいで過去の労苦を癒してくれるかの様な物でもあります。ある意味ではこの世界観を卑近と形容するのは早計です。それまでの高次な世界観から神経を一旦休めて今一度耽溺に浸るという意味で必要な安息の為のものだからですね。

 13曲目「Juneteenth Recollecitions」 これは長尺で、それまで「組曲」が元々はオーケストラ用に書かれたものをピアノ用に新たに編曲した物であった事を思うと、この曲は組曲形式ではなくカウエルの世界観を織り交ぜて来るという意味でもあります。0:31〜に現れるA♭△7augは先の作品が布石であった事が判ります。1:24〜1:34辺りは先の動機を更に発展させた一連の進行なのですが、実に美しい進行です。

 3:23〜辺りのE♭△の分散フレーズ上行形からF音を経由してダブル・クロマティックにD♭音まで下降すると今度はG#音から下行形でA△7augの分散フレーズを使う所が、行きと還りで三全音、そしてその増和音からの分子構造を後続のフレーズで別の音へと散らばって行くメカニカル且つ能く考えられたフレージングとして表現されています。これもカウエル流ですが、ツーファイヴ進行を♭V - VII進行と置き換えられる物でもあり、その進行の先には別世界を暗示しているとも言えるでしょう。

 6:15〜では緩叙部に差し掛かっていてB♭7augの分散をas・b・d・fisと使って来ますがその後のgisis音という増六度まで跳躍させるそれは見事なフレージングです。

 7:32〜ではC#m△7/Dmというアーサー・イーグルフィールド・ハルをも凌駕する様なマイナー・トライアド+長7+長9+増11度+増13度の和音、つまりは言い換えるならば私がローカルで使う名称であるマイナーのペレアス、つまりDmとC#mのバイトーナル和音を包含した和音と見立てる事も可能な和音ですね。これも又美しいものです。茲は左手は1・7・10度という風にD・C・F#という風に7・10度でヴォイシングして、上声部Am△7と見立てても差支えないでしょう。このバイトーナル・コードからの発展が実に見事です。こうして唄い上げられる所にやはりカウエルのフレージングのセンスが存分に発揮されているのが如実に判ります。

 今茲であらためて読み手の方に確認しておきたいのは、このような和声感覚や世界観を持つジャズなど、ジャズ界隈広しと雖もそうそう無い世界観である事は間違いないでしょう。卑近な界隈の和声体系しかご存知無い方ならば、カウエルのこうした事実や知られる事の少ない高次な西洋音楽のそれを傍証として例示しない限りはまずお目に掛からない世界観である事は間違いない所だと思いますし、こうした世界観を初めて知る方だって居るだろうと思います。それほど高次な世界である事を今一度確認して貰いたいのです。

 それらを鑑みると、「クロマティシズム」とやらがカウエルにとってはトランケートされたミクロコスモス(=小宇宙※決してバルトークのミクロコスモスの意味ではない)でもあり、大宇宙(=マクロコスモス)を俯瞰するかの様に乖離した音程をも唄いこなせる世界観だという風に見る事が出来ると思いますが如何でしょう。相当に非凡な作品に遭遇している事に驚きを禁じ得ません。

 9:35〜でも「ともだち讃歌」の断片が過去を振り返る様に蘇って来ますが、それらの複調の使い方は先の物とはやはり違います。実は原曲のモチーフも短旋法へ移旋させた上でのバイトーナルです。

 12:21〜の所でも旋法的和音、四度の断片が見て取れるフレージングがあります。こういうのはヒンデミットっぽい所がありますが、本CDの中で最もヒンデミットっぽい所が茲かもしれません。ここでのモチーフをその後変形させて行くのはお判りかと思います。

 15:24〜からの所謂同位和音という長調と短調の同居を更に高次にしたような響きが実に美しい。シャープ9th系の卑近なそれとは全く趣を異にする物です。仰々しく短調と長調の移ろいを見せているのではなく、長旋法と短旋法のメリハリを3度以外の所でも見せてくれる様な半音階。この半音階の使い方は、それこそ音律は違いますが四分音を扱うヴィシネグラツキのそれにも似た動機を思わせる美しい半音階です(四分音中に混ざる2単位四分音=つまり12平均律での半音の動き)。

 15:57〜辺りからのこのメカニカルなフレージングのそれは、何の摸倣か判りますね!? カウエルのアルバム『幻想組曲』収録の「Ibn Mukhtarr Mustapha」のイントロのそれを応用したものですね。こうした「追懐」を思わせる所も嘗てのノスタルジーだけではない一本の太い脈としてカウエルの世界観が構築されているという表現でありましょう。終止和音のそれを聴いても何と暗喩めいた物でしょう。天晴な作品です。器楽的心得に必須となるバイブル的存在のアルバムです。どうすればこういうフレージングのセンスを身に付けられる物でしょうか。こういうのが未来的なジャズだと私は思います。