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新垣隆著『音楽という〈真実〉』を読んで [書評]

 扨て今回は、ゴーストライターとして巷間を賑わせた新垣隆氏の著書『音楽という〈真実〉』の書評を語る事に。
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 率直な所私自身としては、新垣隆という人の音楽家たる側面を知りたいもので、所謂ゴーストライター期の部分は興味は無かったものです。著書に目を通せばベリオやらの名が出て来る事にニヤリとしてしまい乍ら、文中の「シンフォニア」は疎か、他の作品Circlesに見られる特殊記譜法(機会があればいずれ語ります)やらから、「指示書」に見られる様な図形楽譜とモノホンのそれらと比較投影してもらいたいという意味もあるからでしょう。
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 とはいえ氏が著書を出すという事はそうした件が語られるのは不可避であろうと容易に推察に及ぶので、読み手としての私もその辺りは覚悟している訳ですが、私が興味を抱かなかったそうした側面も腑に落ちる、随所に関係各所に配慮が其処彼処に見られるのは徹頭徹尾貫かれている点に感服する事頻り。

 通常そのような態度を終始貫こうと企図した場合、読み手の側にも窒息しそうになりかねない雰囲気を齎してしまいかねない物ですが、読み取れる態度は終始和やかで思慮深い物で、慇懃無礼でもなく、読み手がすんなりと相容れる雰囲気が伝わって来るという部分に感服したという意味なのです。

 全部で7章に分れていて、私の知りたい部分は前半の2章でしたが、残りの5章が「なぜ、これほどまでにスンナリと腑に落ちるのか!?」といえる程丁寧に語れており、とても思慮深いものでありました。

 一般的な人々から見た音楽を制作する舞台裏を理解するにはさぞや難しい専門用語などにも触れる覚悟があるかと思いきや、平易に纏められ一気に7章を読む事が出来るのは、この本が自筆に依る執筆ではなく、おそらく、聞き手を見せない事での対話形式でそれを文字に起した物であろうという事も一役買っているのだと思います。

 私がその様に「対話形式」と思ったのは、本著12頁「バスに乗っていくんですが」という文章に遭遇した時。これが執筆となれば「バスに乗っていくのですが」と編集される筈で、成程、これは対話形式(聞き手は読み手に表れない形式を何と云うのかは識らない)で文字を起した物なのだと理解に及ぶ訳です。


 自筆でなくとも、12万文字程はあろうかと思しき文書量を発話速度で読んだとしても、結構な時間は費やされるでしょう。大学の1時限は使い切るかもしれません。処が、読書とは通常速読法をマスターしていない人は発話速度よりも遅いペースで読む筈ですが、この本は平易な文章が功を奏している為、発話速度でスラスラと読めてしまう所に敷居の低さをひしひしと感じるのです。これは恐らく敢えてそうしているのだろうと感じた訳です。その敷居の低さと平易な文章はどうしても必要なファクターであったというのは理解に及びますし、それが隅々まで行き亘っている事に息苦しさを感じさせない段階の踏み方の見事さに、流石、音楽の形式論にも投影し得る見事な物を感じさせます。

 無論、そうした音楽の「形式論」などを一般的な読者には微塵も感じさせない物ですが、読み終えた後に、胸のつかえが無い程に深く首肯できる後味の良さを感じ取れるのではないでしょうか。


 西洋音楽方面に生きる人であるため、脈々と続く音楽の大家へのリスペクトや周辺の人間相関の重要度が身に付いて居られるからでありましょう、凡ゆる人達の名前を見る事ができ、作曲家という人達がどういう人物なのかという風に巻末にも列挙されているのは非常に良いと思いますし、これこそが西洋音楽の側に居る人の配慮ではないかと思います。


「配慮」と念を押す理由は、殊に世俗的な文化方面にありがちなのは、脈々と続けて来た体系という物の事の重みを伝えずに現今ばかりに目を向けるという悪癖があります。勿論そこに悪意などはないのでしょうが楽をして共感しようとする向きがあるのか、軽んじているかのように見えてしまう事が多い物です。ですから音楽とやらも世俗音楽と西洋音楽では史実や理論面での取扱も大きく違うもので、特に西洋音楽方面では舊來からの体系・史実・根拠を重視するので、その手の書物となると詳らかにソースを列記するのであり、世俗音楽=ポピュラー音楽界隈のそれとでは取扱い方も異なるという事を意味しているのです。

「配慮」の先にある物は、何千年も続いて来た様式美の為の理論を脈々と受け継いで来て「現今」があるのでありまして、先人の顰に倣い、それを会得し、漸く自身の色を落とす様に心掛ける物なのです。その上で音楽の「一節」となる部分を想起出来たとして、西洋音楽ではこの断片を「技能的」に処置を施すのですが、世俗音楽方面ではその一節を大事に大事にしながら調性や和音の響きや進行或は歌詞の牽引力の力を借りて「作曲」とする訳ですが、西洋音楽ではそうした一節を更に使い回します。それが新垣隆の云う、西洋音楽での作曲に必要な技能な訳です。一節が浮かんだ事を氏の言葉を借りれば《テーマができれば、後の90%は技術的な問題になります。》と述べている事は、西洋音楽界隈での作曲技法である拡大・縮小・摸倣・移旋・カノン・対位法などこうした側面の事を謂わんとする物なのです。


 たった二声で3和音や4和音の響きを如何様にして響かせるか!? これは結合差音の手を借りる訳でもなく二声が調性内の音を一定の音形でハモっていないと出来ません。そのハモりも強拍に印象深く根差しながら、ひとつは調性内の音を巧みに順次進行させていきつつ、残りの一声が、もう一方の線が残して呉れた調的な余薫を利用し乍ら異なる線を描かないと不可能な事です。対位法になるとたった二声でも余薫の色合いも変える事が出来るわけでして、そうした技法を駆使して、誰もがその曲を聴いて他にメロディを映ずる事も出来ぬ様に聴かせる事が「作曲」だと氏は言いたい訳ですね。

 勿論そこでは楽理的な言葉は必要としていない為、音楽を知る者からすると言葉不足の様に映るかもしれませんが、私がこういう事を述べる事がなくとも、謂わんとする事はこの手の様な事だと察する事が出来れば更に面白く理解できるかと思います。

 
 孰れにしても西洋音楽界をはじめとする人脈相関はとても興味深いもので、文中に其処彼処に出て来る作曲家の名前は既述の通り列挙されているのですが、中には作曲家ではない為に掲載されていない音楽家の名前もあったりします。

 
 中でも佐村河内守を「ディアギレフ」と称する部分は、セルゲイ・ディアギレフの事で、西洋音楽に明るい方なら無粋な事かもしれませんが、私は今回、西洋音楽方面の知識に疎い方が興味を更に持ってもらう為に敢えて述べるのでご容赦願いたいと思います。ディアギレフとは、ストラヴィンスキーを擁する敏腕プロデューサーの事で、次の様な写真も残っています。この写真こそ、実は私がこの世で始めてストラヴィンスキーを知った写真なのでありますが、その隣の強面の男がディアギレフなのです。
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 バレエや未来派の催しやら、丁度100年前というのは電気や機械の形而上的エネルギーが礼賛される時代でもあり「前衛」という文化は未だ見ぬ人々の幻想の様な心理を掻き立て昂奮させる所がある訳で、そうした文化的な背景と共に時代の寵児として新たな音脈を呈示した20世紀の巨匠ストラヴィンスキーの片腕のディアギレフとは後年ストラヴィンスキーも袂を分かつのでありますが、ストラヴィンスキー曰く


《ディアギレフの音楽を判断する力は、そうよくなかった。ただ、ある曲とか一般に芸術作品のなかに、成功する力が潜在しているかどうか、これをかぎわける鼻が、猛烈にきいていた》(ストラヴィンスキー著 吉田秀和訳『118の質問に答える』-音楽之友社刊-)


 ストラヴィンスキーに関する著書は国内では船山隆著の『ストラヴィンスキー』も興味深いのですがこれは後年の12音主義などが詳らかになっている楽理的な物で専門的な知識を要する物であります。
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 先の『118の質問に答える』の中で吉田秀和の訳文が示す、新垣隆が佐村河内守をディアギレフに喩えたそれの暗喩とやらはあらためてお判りいただけるかと思います(笑)。新垣氏が喩えたこの部分は私にはとても印象深く、ついつい吹き出してしまったのですが、読み手を退屈にさせない所でアンカーを打ってある諧謔的なポイントでもあるとも思え、やはり音楽の形式論なども熟知している人の話の進め方の妙味は深く首肯させられる物でした。


 私がこのように音楽関連図書のレコメンドをしたりするのも音楽を愛しているが故の欲求に他なりません。新垣隆氏の著書を読んで、始めは佐村河内守も決して悪人ではないのだなという事も伝わるのは、新垣氏も荷担していたという所から自虐的になれなかったという物ではなく、2人の、音楽に対する接し方の歪つな凸凹感が却って面白く描写され、それが余りに滑稽で、二人とも物腰は低かったのだなあと思わせる所についつい「こんな些細な事を怒れるだろうか」と思わせる程でとても興味深く、またその辺りの描写のスリル感は、読み手も荷担しているかの様にスイスイと入って来るのだから実に面白かった物です。

 「面白い」というのは語弊があるかもしれませんが、西洋音楽が関わりのない所のポピュラー音楽界での売り出し方等を鑑みると、佐村河内守&新垣隆の二人はそこまで糾弾されるべきものでもないのではなかろうか!? と感じたのが私の正直な感想であります。勿論そこにハンディキャップを抱えた人が絡んでしまった事を悔やんでいる事は読み手にも十分伝わる物でした。


 音楽という魅力とは不思議な物で、その音そのものには悲しみや喜びなどの意味は持っていないたかだか数分長くても数十分の音の連なりに、人々の心はそんな短い時間に一度傾聴すれば、悲しんだり、懐かしんだり、喜んだり、よくもまあこんな心理の変化を短時間で行える物よ! とあらためて思える物です。

 その「あらためて」思う事に、客観視が必要でもあります。どんなに現代音楽を究めても、音のどこに悲しみや喜びの源泉があるという事など見付けてはおらず、そんな物は無いでしょう。然し、人間が長年築いて来た共通の意識、哲学方面では「エトス」と呼ばれる事もありますが、そうした万人に共通し得る客観的な「入れ子」に、新垣氏は自身の気持ちを封じ込めたかったのではなかろうかと思います。しかし音楽という客観視できる側面が無ければ著書の様に吐露する事も難しかったのではないかと思います。

 幸いにも音楽が客観視できる物であるから、そこに身を置く人が、責任逃れとは異なる「音楽の客観視」に依って音楽の力を借りた贖罪となっているのが、著書『音楽という〈真実〉』の謂わんとする所なのではないだろうかと思いました。音楽の実体は単なる真実なんだけどフィクションを如何様にも附加させてしまう事もできる。しかし、音楽を愛するが故にBGMを掛け乍らフィクションを語ってしまわない様にし乍ら音楽の力を借りて贖罪とした、という意味ですね。

 ポピュラー音楽の乗っかり商法こそ、もっと悪どいと思いますけどね、私は(笑)。