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硬減和音が掠め取る [楽理]

 扨て、チック・コリアが「King Cockroach」の当該箇所で採ったアプローチでは、何故硬減和音という構造を用いて非音階固有音の音脈を掠め取る事が出来たのか!? という事をあらためて語っておこうと思います。


 Fm9をドリアンとして嘯くという事は、F音から上に4・5度上に夫々ミクソリディアンとエオリアンを生じます。夫々の旋法に対して投影となる鏡像の姿を生み、更に、短旋法の近似性からFドリアンの上方2度に生ずるフリジアンの脈とその投影をも引連れて来るという、即ちドリアンからみた2・4・5度上に、非音階固有音となる新たな音脈となる「分水嶺」を見出す事が出来るとしたのが前回までの流れです。


 今回は、そうした音脈を一気に「掠め取る」吸着力とでも謂えばより一層判り易い表現でありましょうか。そんな側面から語ろうとしている訳です。即ち、これまでの流れに於いては「吸着力」が持っている物は「硬減三和音」という分子構造だった事を意味しているのです。その硬減三和音とやらがどういう風に存在しているのかという側面を分析する訳です。


 硬減和音の元の姿は減三和音です。すなわち、通常のチャーチ・モード社会に於いては長音階の七度上、つまりロクリアンを生ずる音に在る訳ですから、「King Cockroach」の当該部分Fm9という和音がロクリアンに相当する音度に存在するのは変ではないか!?という疑問を抱く方が居られるかと思いますが、その疑念を払拭するには次の様に考えてもらいたいのです。









 つまり、Fm9が包含する基底和音=Fマイナー・トライアドの第5音である完全五度音が「萎縮」するかのように減五度へ変化した姿を想起するという風に捉えていただきたいのです。仮想的な想起の世界ですから、基底和音に対して想起する事は幾らでも可能なのですが、短三和音の第5音が「萎縮」して取り敢えずは減三和音を作った、即ち、Fm9というコードの姿は変えぬまま、仮想的に想起している世界ではFdim(※ディミニッシュ・トライアド)として態と捉えているという風に思って欲しいのです。

 併しFm9というコードで突如Fdimを醸すのではなく、何らかの揺さぶりをかける動機がある、もしくはFm9の余薫が強く残る直後にFdimの一時的なオルタレーションを醸す揺さぶりをフレージングとして充てる事が重要でもあるのです。


 そして、仮想的乍らも減三和音を生じさせたのですから、この減三和音の第3音を半音上げれば硬減三和音の体が生まれる訳です。


 例えば、「King Cockroach」のFm9の当該部分の基底和音Fマイナー・トライアドがFdimという減三和音に変化して、それをハ調域に判り易く移高させれば、ハ調域のロ音=英名B音として移高するのと同様ですから、ex.1が示しているロ音上の減三和音に同義的に見做す事が出来ます。

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 ハ調域でのロ音を「I度」と見なすと、結果的にロ音上で硬減三和音を作る事が可能ですし、ハ音上は「♭II」となり爰にも硬減三和音を組成する事が可能ですし、同様にヘ音上は「♭V」となり爰にも硬減三和音を生む事が可能でして、これらの「I - ♭II - ♭V」をトランスフォームさせ乍ら、Fドリアンの音階固有音以外の音脈を掠め取っている訳であります。

 この掠め取り方とやらが、ある程度歪つ《いびつ》ではないと、Fドリアンの外にある非音階固有音を巧く掠め取ってこれない訳ですね。その掠め取り方とやらは調的且つ全音階的(=ダイアトニック)という世界から見たら中立的な方が掠め取る吸着力が強いという風に理解してほしい訳です。なにしろ、Fドリアンに対してCエオリアンという構造を用いたとしても、全く同じ構造なので掠め取る事など出来ずに同化してしまう訳です。

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 すると、ex.2で3種類の硬減三和音の構成音群から得られた物をヘプタトニック組織に並び替えると次のex.3の様な人造的な音階を生む事が出来ます。

ex03Busoni_No4_5mode-346dd.jpg


 このヘプタトニックは「通常」名称が与えられておりませんが、フェルッチオ・ブゾーニの『新音楽美論』には載っておりました(笑)。『新音楽美論』内にて語られる中立的な音階として4番目に語られている為、便宜的に「ブゾーニ第4スケール」と名称を与えてみましたが、このスケールの第5音を主音とするモードとして見る事が可能であるのです。

 というのも、ブゾーニが『新音楽美論』内で述べている7種の中立的な音階は過去にも掲載した事がありましたが、それがあまりにも中立的な素材でもあるため改めて注目する価値があるのです。但し、これは私が頻りに読み手の方々へ慫慂するのではなく、チック・コリアの「King Cockroach」を細かく分析すれば、こういう側面が見えて来るという、依拠する所の素晴しさとその合点の行くアプローチ手法に讃嘆するからであり、この様にあらためて取り上げるのであります。

 私の記憶が正しければ、パーシケッティはジュリアードでも教鞭を執っていた経験がありますし、チック・コリアもジュリアード出であったと思います。チック・コリアの在籍時に教鞭を執っていたかどうか迄は定かではありませんが、然し乍ら何等かの影響はあって間違いないと思われます。因みにパーシケッティの原著『20th Century Harmony』は1961年に上梓されているので、ほぼ同時期ではあるのは間違いありません。


 まあ、そんなこんなで、バップ・フレーズというツー・ファイヴ解体やら投影法などを詳悉に語って来た積りですが、この手の楽理的側面な事はまだまだ氷山の一角であります。そんなバップの世界も、コード進行を細分化する訳は、コード一発の状態やらの状況でフレージングのメリハリを附けたいから「転がす」のであります。短いスパンで経過的に、全音階的に四度進行で転がせば転がりはすぐに勢いが増すのです。また、それと同様にトライトーン(=トリトヌス)を共有し合う「裏コード」という世界観が半物質またはカイラリティーの様に存在しているのが次の図からも判るでしょうが、この世界観は単なる初歩的な「調所属」の充て方が目まぐるしくなるだけの話です。
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 つまり、投影法というのはそういう既知の世界から逸脱する工夫という風に理解されると宜しいかと思います。

 何故そこまでして非音階固有音という音脈を求めるのか!?

 それは、ドミナント機能が稀釈化している実例でも能く判りませんか!? ですから私はスウィング・アウト・シスターの曲やら「多義的」なドミナント7thコードの振る舞いを語って来たのですから、そういう意図も含めて感じ取っていただかないと、こうした世界観から気付く事は非常に難しいかもしれません。


 ジャズがブルーノートという音楽的イントネーション(=訛り)という語法が出来てから1世紀程が経過し、後に続く者はいつでも先人が遺した体系の顰に倣うだけで、時には音楽的感性など要らぬままに方法論が整備され、俗化され、陳腐下し、退廃する物です。然し乍ら西洋音楽は代謝があるから良いものの、ジャズには換気も行き届いていないかの様に閉塞した状況は、その音楽の深部を分析するだけで進化していない事が判ります。せいぜい少数の人間が中立的な世界での響きが、既知の体系から逃れる為の物として寸借するかの様に使っている事が稀にある位の物で。

 ジャズとやらが何故保守的になってしまったのか!? 方法論に溺れただけの後に続く者が散々活躍のフィールドを荒らし、汚してしまったのは謂うまでもありませんが、アンサンブルの主役が鍵盤奏者に委ねられる事が多くなり、鍵盤奏者の取り扱う世界観に過剰なまでに寄り添ってしまった側面を無視する事はできないでしょう。寧ろ鍵盤という「操作インターフェイス」が12平均律の為の物だけが一人歩きしてしまっている事で多様な世界観を自ら萌芽を摘んでしまっているのではなかろうかと思います。マイケル・ブレッカーが四分音を使った所で、それを一体どれほどの人が着目していたでしょうか!? それを考えると多くのジャズ界の聴き手も奏者も評論家にも責任はあったのだと思いますが、それに歎息するばかりでもいけません。

 一義的なドミナントの強い余薫を捨てて、多義的な方に鼻が利く様になるだけで十分なんですよ、ホントはね。