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音階固有音の余薫 [楽理]

 扨て、先に触れた様に、短旋法関連の近似性は何もエオリアンとドリアンばかりが近しい関係ではなく、フリジアンも其処に含まれます。


 つまり、投影法を発揮させるには原形となるドリアンからフリジアンを見据える事も、少々遠い縁故関係ですが可能性は少なくはないのです。つまり、フリジアンを呼び出すならば、その投影はアイオニアンを生むのであります。それを示しているのが緑枠で囲った譜例ex.2なのであります。

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 フリジアンという旋法はドリアンを主音とした時の2度上にある訳ですから、今度は分水嶺がドリアンの2度上に来るのは自明ですのでお判りかと思います。フリジアンの投影がアイオニアンである以上、フレージングさせるモチーフを巧く変形させて活用すれば、譜例のGアイオニアンの断片でも軽く拾って来れる事になる訳です。

 すると、チック・コリアが「King Cockroach」でFm9コード上で得ていたF#音や英名B音やらの出現由来は、先の譜例ex.1でのB♭エオリアンから生ずるG♭音と、譜例ex.2のGアイオニアン組織からの英名B音から鷲掴みするかの様に掠めとって来ているというのがあらためてお判りいただけるでしょう。亦、譜例ex.2で生じたGアイオニアンの音脈は自ずと原形のFドリアンとのテトラコルド同志を組み合わせれば恰もFメロディック・マイナー組織が茲でも手に入る事を見る事もできますし、メロディック・マイナーを一義的に充ててしまう事よりも多様になる事がお判りになるでしょう。










 つまり「King Cockroach」でのチック・コリアのアプローチは、硬減三和音という分子構造を基準に見れば「I - ♭II - ♭V」という組織にある事が判り、2種の投影法を用意すれば、原形のFドリアンを「I」と見立てれば「II ・ V」で起こる投影法に依る連関性という物がお判りいただけるかと思います。

 どちらが分析として見やすいか!? というのは理解者の解釈に委ねてよい物であり、己が見渡しやすい方角で見れば良いと思います。こういう事を踏まえると、リディアン・クロマティック・コンセプトとやらが如何にリディアン族とやらの近似的なスケールの多くを一義的に当て嵌めているだけの愚挙であろうという事があらためて判るかと思います。

 リディアン・クロマティック・コンセプトの落とし穴は、そのスケールの特異性ばかりに躍起になり、結果的にその音階がどういう背景にて生じたかという事は全く蚊帳の外となって無理矢理押し付けられるのです。

 私の場合は、今回は単にチャーチ・モードの一部を取り上げているに過ぎず、テトラコルドの組成ですら自由度を持たせた解釈としているので、本来なら投影法というのは非チャーチ・モードに依るヘプタトニックの組織にまで拡大出来るものなので、其処をお忘れになってしまってはいけません。ですから、少なくともパーシケッティ、アーサー・イーグルフィールド・ハル、フーゴー・リーマンのTonnetzやらが前提理解となっていれば、こうしたポリ・モードの世界というのは濱瀬元彦著の『ブルーノートと調性』にて語られている事ですからスンナリ理解できる筈なんですね。

 処がそうした方面の理解が無い連中がこうした側面を目の当たりにしてしまうと、一般的な理論と余りに乖離が大きい為か、オカルト扱いしたり、挙句の果てにはアマゾンの読者評で悪罵を垂れる様な愚か者になってしまうんですな(嗤笑)。


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 ブログ内検索をかけていただければお判りになりますが、嘗て私がアジムスの「Partido Alto」をカヴァーしたA・レイ・フラーのカヴァー・ヴァージョンのアコースティック・ピアノ・ソロのそれを取り上げた事がありましたが、それは、背景のコードがマイナー7th系であるにも拘らず、長七度音が生ずるメロディック・マイナーが生ずるという事が今漸く数年の時を経て、こうして語る事ができる様にブログが進捗した事を示しているのです。物事には順序がありますので、当時を思えば、あの時点で私は今回語っている事を述べたかった訳ですね。しかし、文字にするには時間もかかりますし、そこまで説明するまでの経過を辿る必要があるので、こうして月日を要する事になる訳です。




 因みにA・レイ・フラーのアルバム『The Weeper』には一部楽曲に故ジョージ・デュークも参加しているのですが、アジムスの「Partido Alto」(パルチド・アルト)のカヴァー曲のクレジットは以下の様に記載されております。

Gt:A. Ray Fuller
Ts:Eric Marienthal
Pf solo:Terry Trotter
Keyb:Bill Steinway
Ds:Teddy Campbell
Bs:Alex Al
Flugel:Walt Fowler
Perc:Kevin Ricard

 この曲のアコースティック・ピアノ・ソロの秀逸な部分はCDタイム3:19~からの特筆すべき一連の流れGm7(9, 11)というコード上でのアプローチでありまして、その最たる特徴は、マイナー7th系(つまり短七度を持つ短和音系統)で、メロディック・マイナーを醸す長七度の旋法的な訪れが、単にメロディック・マイナーを充てた物ではなく投影法由来の物であるという事が顕著に判る事でありましょう。


 茲であらためておさらいをしておく事にしますが、今回の譜例ex.1またはex.2の投影法に依る夫々モードからテトラコルドを抜萃して各々を混合させた時に得られるメロディック・マイナー系統の音脈を「メロディック・マイナー」として同義に考えるならば、次の譜例ex.3の様な近縁関係にて投影法を作る事も可能です。


 譜例ex.3の中央段はFドリアンではなく今度はFエオリアンであります。つまり、ドリアンとして嘯く為ではなく短音階というオーセンティックな姿であるとも取れる訳で、Fエオリアンという事はこの主音=F音からミクソリディアンの投影を作る事も可能なのですが、今回はFエオリアンをFメロディック・マイナーに「変化」させて、メロディック・マイナーの投影を得るという例にします。

(*この投影法で用いているF音のフィナリスを生ずるFドリアンは、A・レイ・フラーの「Partido Alto」のそれがGマイナーおよびGドリアンである為、必然的に移高して考える必要があるのでご注意を。一連の例として取り上げている投影法の例は前回の記事から通して語っている事であるのでご容赦ください)

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 その理由は、先の譜例ex.1とex.2で得られたメロディック・マイナーの情緒は、背景に短七度を擁する短和音上にて長七度音も併存させるスーパー・インポーズとしての在り方で説明している訳なので、譜例ex.3の様にFエオリアン上でFメロディック・マイナーとして変化させた方も併存させるという見方は、断片的なほぼ同一であると考えられるからです。

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 すなわち、メロディック・マイナーの投影の姿を「Fドリアン・フラッテッド2nd」として音脈を呼び込む事ができる訳でして、それに依って背景の和音がマイナー7th系であろうとマイナー9th系であろうと、短九度の音を併存させる音脈をも呼び込む事もあらためて理解できる事でしょう。


 因みに「投影法」とは、パーシケッティ著『20世紀の和声法』の和訳版である水野久一郎に依拠する語句であります。英訳では「Mirror Harmony」であります。


 モードを一義的に当て嵌める社会に於て、アイオニアンの鏡像がフリジアンだからと言って、ハ長調の世界でCフリジアンを延々と弾いた日には2度とお声が掛かる事はないでしょう(笑)。しかし、ハ長調に無かった音脈を先行句としてのモチーフを巧みに利用して「変形」させてCフリジアンに依る音脈で「滲ませる」事は、アウトサイドを要求する音楽に於て活用し得る脈となるのです。しかし、この変形具合は各自の作曲面やインプロヴァイズ面での多くの唄心のボキャブラリーの豊かさが要求されるので、この点に一義的な答など存在しないのです。ですが、重要な事は変形させる事が重要なので、この点だけは忘れてはなりません。


 扨て、振り返ってみると、主音を共有したエオリアンとミクソリディアンというのは、夫々の音階固有音は少々違うものの、「共通音」は意外と多いものです。この共通音がある事で我々はその「近似性」を利用し乍ら変形させて使う事が容易な脈となる訳です。

 加えて、先行句となるモチーフは必ずしもモード・スケールを準えた音階固有音であるべきものではありません。調性または背景にある和声的な響きが演出するダイアトニックな響きとやらが、その時点で強い余薫として漂っているのならば、先行するモチーフが非音階固有音という逸脱した組織から入って来て音階固有音へ戻る、というアプローチを採っても構わないのであります。

 概ねジャズ界隈ではこうした局面を半音上下または全音上下にある和音外音からのアプローチとして説明している事でしょうが、そこに楽理的な説明がされている事は極めて稀でもあるのが常であります。

 このアプローチとやらは、それを強固に使い続けていれば奏者個人の唯一無二の個性的なジャズ・イディオムとして耳に聴こえる為か、一義的には見据えられない音世界に対しては突如分析を止めてしまうのも後世のジャズ界が有する悪癖のひとつでもあります。

 処が、マイルス・デイヴィスの様な人の場合、異なるモードが併存していても、それらの共通音が「1音」であっても良いのです。2つのモードをギリギリ画鋲で刺して留めているかの様です。ですから、逸脱する音脈は豊富にありますが、そればかり使ってしまえば奇を衒うだけの音になりかねません。モード・ジャズとは一義的にモードを充てるばかりか、一つの共通音ですらも頼りに併存するモードを「留める」という事を理解しなくてはならないのです。

 モード・ジャズなのに何故モードが併存したりする様な状況が生まれるのか!?

 それは、調性社会システムとは異なる和音体系による「平行」の動機の性格に依って生ずるものです。Fドリアンを指定されたからといってFドリアンの音階固有音7音だけを生じさせるだけで奏すればイイという訳では決してありません。

 Fドリアンというモードを無理矢理当て嵌める事もモード・ジャズの一つの手法ですし、そこには、異なるモード同士を併存させた時の、夫々の非音階固有音がどのようになっているのか!?という事が、モード・ジャズでの逸脱する音脈と謂える訳です。これに関しては何れ詳述しようかと思いますが、とりあえず今回で投影法という事は深く理解できる筈ですので、先ずはきちんと投影法を体得してもらいたいと思います。