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あらためて複調をジェントル・ジャイアント「Free Hand」にみる [プログレ]

 ジェントル・ジャイアント(=GG)の6thアルバム「フリー・ハンド」収録の同名アルバムタイトル曲「Free Hand」のイントロの素晴らしさは瞠目に値するモノでありますが、複調(=バイトーナル)という物がこれほどまでに自然に聴こえてしまうというのも實に不思議な事でもありまして、人に依っては複調を忍ばされている事にも気付かなかったりするのではないでしょうか。いずれにしても美しいイントロのそれと、一度聴いたら忘れられないほど判りやすい音形と情緒で象られているのが見事な出来栄えです。
FreeHand_UK_Front.jpg



 「Free Hand」のイントロはアコースティック・ピアノの単旋律で入って来るのでありますが、この旋律がAマイナー(=イ短調)を思わせるフレーズであるのですが、突如その音形に對して二聲でハモるのですが、このハモりが「調性外」であり、各旋律の調性が併存し合っている状況なので「複調」となるワケであります。



 Aマイナーのフレージングに對して3度でハモる様にしてF#ドリアンのモード・スケールでハモるのであります。此処で註意が必要なののはF#ドリアンとはE△/C#マイナー(=ホ長調/嬰ハ短調)の調性で生ずるのでありますが、ここでのF#ドリアンはF#ヒポドリアとしてF#マイナー(嬰へ短調)の姿を嘯いているので、調号を嬰種記号4つではなく3つの嬰ヘ短調として所属させているのです。


 これらの複調はF#マイナー側に主導権がある様にしてAマイナーが隷属する様に振る舞っているのでありますが、F#マイナーが音域として下にあるとするとAマイナーというのは短三度音程離れた調域なのでありまして、F#マイナーから見たAマイナーは「メディアント・マイナー」という言葉で調域を示すのです。F#マイナーのメディアントに位置する「マイナー」という事です。

 ところがF#マイナーは先述の様に嘯いている為、変格化しているにも拘らず愚直な迄に調所属を求めてC#マイナーを与えてしまうと、C#マイナーが下にあってAマイナーが隷属する様な関係になります。つまり短六度の音程関係になってしまい、其の場合だとC#マイナーとAマイナーの関係は、C#のサブメディアント・マイナーの調域がAマイナー、という風にも言い換える事はできるのですが、F#マイナーとAマイナーという関係で見渡す事にするので、其の辺りを誤解されない様に註意していただきたいと思います。


 という譯で今回のリズム譜は上声部がF#マイナー(=嬰ヘ短調)で書かれてはいるものの、F#ドリアンの為、六度の音は必然的に短六ではなく本位六度となるのでナチュラル6thという風に数字を充てているのがお判りかと思います。短調のポピュラー界隈でのディグリー表記は「1・2・♭3・4・5・♭6・♭7」という書き方になるので、本位六度=ナチュラル6thには本位記号を付加しているという事なのです。
FreeHand_intro_bitonal.jpg

 因みに、譜例の注釈は次の様な文章なので念の為記載しておきます。

《F#マイナーをF#ドリアンとして嘯いて弾いている(ヒポドリア)為、F#ドリアンの調所属は實際にはC#マイナー(=嬰ハ短調)となるが、調号はF#マイナー(=嬰へ短調)を与えるので註意されたし》


 という譯で、GGの「Free Hand」は、こういう複調の前提がある譯ですが、この二聲はケリー・ミネアーのパートでありまして、もっと注目してもらいたいのはゲイリー・グリーンのギターの音なんですね。

 ゲイリーは先の二聲に対して、E音とB音(ドイツ名:H音)という2音夫々を単聲で弾いているだけです。F#マイナーが支配的な存在である為、F#音からゲイリーの弾く音を見ると、短七と完全四度音を弾いている事になります。

 ゲイリーのフレージングというのは先の複調夫々の共通音(=英語名:similar notes)であるのですが、この「共通音」というアプローチこそが最も注目すべき部分なのです。


 つまり、二つの調性が併存している状況であるにも拘らずゲイリーは1つのモード(=旋法)で2つの調性を串刺しにしている事と同意なのです。調性が併存している時もひとつのモードで串刺しするという先駆者はマイルス・デイヴィスであります。抑もジャズの場合は、マイナー・キーであろうともドリアンで嘯いたり、メジャー・キーであろうともミクソリディアンやリディアンで嘯いたりする譯で、其の時点でも複調性はある世界なのですね。唯、そうしたジャズの大前提の嘯きは聴衆とて慣れている状況なので、もっと「逸脱」の様相を深めるには他の脈絡で嘯くこともするワケなのですが、ジャズの場合は多くの奏者が居たとしても和音を奏でるパートがピアノ以外は極力少なくなるため、これが「逸脱」に於いてとても良い状況を生んでいるとも言えます。


 とはいえ、「逸脱」が無秩序であってはならず、逸脱の仕方というのもあり、やはり着地点に収まりつつ逸脱する語法も重要なのですが、それらをひとつの旋法で束ねてしまうようなやり方がモード・ジャズなのであります。


 先のゲイリーのフレージングは偶々ふたつの想起し得る調性の共通音を使っているだけにしか過ぎないものの、ひとつのモードで束ねる事のできる体系でもあります。パーシケッティ著の「20世紀の和聲法」流に習えば、E音とB音を共通音として使える想起しやすい旋法の想起ばかりではなく、Cエニグマティック・スケールを充てたりする事も視野に入れる事ができるでしょう。モードの選択としては色々な可能性があるワケで、異なる調性が併存しようとも、共通音という脈絡からひとつの体系として束ねるような事がモード・ジャズに於ける重要なアプローチでありまして、ジャズのコード進行が「完全な轉調ではない」事はモーダルであるものの、この時点ではまだまだモード・ジャズではないのでありますね。


 マイルスが、たったひとつのモードで多数のパート(時には複調・多調)を串刺しにして束ねる行為のそれは、マイルスが選択するフレージングの牽引力によって他のパートがどんな調を想起しようとも束ねてしまうという事に置き換える事ができるでしょう。マイルスは和音を鳴らしている譯ではなく、単聲の旋律の牽引力で勝負しているのでありますね。其のフレージングの牽引力というのは、あまりに想起しづらい脈絡の希薄な音をも呼び込む事もあるでしょうが、マイルスはそういう選択を忌憚無くインプロヴァイズで表現するのであります。


 複調を唯単に束ねればマイルス程の異端さはないので、先のゲイリーのアプローチに似るという側面を垣間みる事ができ、先の例で言えば、パーシケッティの著書を想起するかのように一般には想起しづらいエニグマティック・スケールを用いて共通音を利用すれば異端なアプローチになり、これはマイルスのフェーズに在る様なアプローチとも呼ぶ事ができますが、これらはそれぞれ全く異なるモノではなく同じアプローチであるのです。こうした理解が重要なのです。故に私は出て来る音は違えど、GGの「Free Hand」にもモード・ジャズも、モードの在り方というのは同列に見ているのであります。


 今回あらためて声高に申しておきたいのは、ゲイリーのアプローチに依る「共通音」の行方ですね。共通音という物を用いて「串刺し」をしたというワケです。串刺しするために串を使わず槍を使うのがマイルスだとすれば、槍を用いるのはそうお目にかかれないアプローチでありまして、そこに異端という「逸脱」を見る譯です。逸脱してはいても束ねているという事でして、元々想定している調性の体系とも異なる脈絡を見出すそれは、先にも取り上げた様に、ウォーキング・ベースという對旋律が、調性や和聲構成音という体系からも逸脱する脈絡を利用する衝動の表れ方と同一なのであります。

 こうした共通音を活用しつつ、ベース・パートのレイ・シャルマンはF#マイナー調域でのルート音、5th音、9th音と使ってくるのですが、この9th音の使い方が絶妙なのです。所謂1-5-9型のラインというのはマイナー・コード上ではよく耳にする手法ですが、メディアント・マイナーという風に短三度上にAマイナーの調域があるという事を踏まえると、F#から見た長九度音=G#音を使うと、Aマイナーの「導音」にも摩り替わるので、隷属的なAマイナーのフレーズがベース音からの揺さぶりで強化されるという心憎い演出になるのも同時にお忘れなく。

 
 こういう、まるで無関係の様に思えた脈絡の希薄な衝動の表れというのは對位法音樂にとても近い物なのですね。クラシック音樂を知らない者は皮相的理解からなぜかクラシック音樂を卑下してしまったりする物ですが(私が嘗てそうでした)、こうした所を少なくともワーグナー以降の音樂からは學び取る必要があるのではないかと夙に思う事しきりです。