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言葉と体の揺さぶり [ネタバレ]

 私が近年感じている事があるのですがそれは、友人・知人との日常的な会話での言葉のやり取りに於いて、言葉の意味の膨らませ方というのが愚直なほど杓子定規なやり取りを求められてしまう様なシーンでの違和感の事なのであります。


 本来の意味や用法とは微妙に違う事を話し手も聞き手も判り乍ら言葉に「含み」を持たせて使う事で其処に力点を置きつつ互いに話題を膨らませる事を意図したモノなので、例えば前回の私のブログ記事で言えば「墨痕淋漓」と「デュナーミク」に於いては、本来の使い方と違う「含み」を持たせた使い方で態と使っているのですね。

 愚直というべきか実直というべきか、違和感を抱くシーンはブログというネット上で感じる例の事ではなく、あくまでも日常的なシーンに於いての事であり、正しい言葉を「より正しく使う」というべクトルが妙に働いている事を伺わせる事なのですが徒なほどまでに、よく「それは○○だろ!」などと指摘や横槍が入る事が増えたモノだと実感するのです。

 別に私自身は、そうした横からの指摘が嫌なのではないのですが、あまりに紋切り型でもあり1ビット的といいますか、そういう所に「息切れ」を感じさせる事が増えて来た様に感じます。いちいちボケとツッコミという「絡み」がないと話を進むことができないのか!?と多くの関東圏の人は関西人に思う事にも似ているのかもしれません(笑)。但し、ボケと突っ込みではない事だという事をご理解くださいね。


 おそらくそうした傾向が強くなって来た背景にはパソコンまたは携帯電話の普及が要因となっているのだと思いますが、パソコン普及の後の当時の「ガラケー」が搭載している辞書が高度化する様になってきてから特に顕著なのではないかと思います。予測変換が普及し出した辺りから如実に変わって来た感がある様な。

 勿論、言葉を正しく使うのは礼賛すべき事なのですが、前にも少し当ブログで語ったように、日本語には江戸時代には駄洒落や当て字文化があって、明治の頃には漢語を敢えて適用してみたり、外来語に既知の漢語を当て嵌めて読ませたりという近代文化の象徴する時代に於いて日本語の持つ「振れ幅」というのはとても大きかったのですね。そうした背景に加えて書き言葉と話し言葉の違いをも引きずっていたのが明治時代の日本語だったワケですから、是亦(←私が最近こうした字を用いるのも《振れ幅》という含みを期待しての事)興味深いモノですが、とはいえ全てにおいて含みを持たせられないのはどうもギスギスした印象すら受けてしまうモノです。


 私には文学的な才には到底及ばないので、近代文学に於ける文豪達の語彙と同様に置換できないのは重々理解してはいるものの、読み手にしてみれば私のブログに目を通すという「手間」に時間を費やしてくれるという時点でヘッポコ野郎と文豪の書物に目を通す時点では、その後の価値は無関係に動機そのものは等価であるので、読み手にしてみたらそれこそ責任と節度も文豪達と同等の物を無意識に求められても仕方がない事です。インターネットというのは読み手に對して等価にしてしまったのですから。

 勿論全ての読み手の方がそうした責任と節度など頓着せずに「どうせネットの情報なのだから」と斜に構えて目を通す人の方が實際には大多数でしょうから、そこまで気にかける必要もないのかもしれませんが、責任を求めて来る人は少ないであろうと発信者が胡座をかいてしまうと、途端に力こぶを蓄えて横槍が入る事など珍しくは無いのも是亦現實なのです。その横槍が嫌なのではないですよ(笑)。


 日常生活であろうとネット上であろうと、杓子定規な判断に収まる事に無意識に進路変更してしまっている様な判断が浸透していると思える事が多々あるという事を意味したモノなのです。言葉=必然性という単一の正答が与えられれば由とし、蓋然性を伴った言葉の玩ぶ事が拒絶されている様な感すら憶える譯です。


 勿論、時には含蓄に富んだ暗喩めいた言葉というのは往々にして皮肉をこめたり語彙量も知識も正しいという事が前提での利用を要求されるモノなので、本来はとても敷居の高い取り扱いではあるのですが、文豪達は決して使わない様な日常的な言葉のやり取りの中でもほんの少しの「ゆとり」を持った言葉のやり取りがあってもイイのではないか!?と感じる事はあるのです。

 しかし、その「ゆとり」という言葉も、ゆとり教育という物が懐疑的に見られたという反省から、ゆとりという言葉そのものがダークな印象を払拭出来ない時代に居るのもあり、言葉遣いには結果的に「デリケート」を要求されるモノで、そのデリケートなやり取りをしない方が得策だという事を認識していての事なのだろうと思うワケですが、自身に箔付けの為の、妙に一般的ではない外来語を否応無く押し付けて来るような、専門知をあてこすりの様に使って来る集団は私は好きになれないモノです(笑)。


 墨痕淋漓とは、筆による筆跡がとても豪快さを備えた巧みな事を表現しますが、そのダイナミズムを違った表現として使っているのが私の先の表現でもあり、デュナーミクという物も、私が表現したいのは厭らしいほどのダイナミズムという色気をともなった旋律で奏でるという狙いで使っていたモノでして、こうした表現は前回のブログに限らずあらゆる所で鏤めているので挙げればキリがないのですが、少し前のカデンツの各機能を括った時の「縲」という字も「類」を態と置き換えて、無理解な者を征伐するかの様な意味も込めているワケですね(笑)。ですから映画のワンシーンにて自身の強欲さを押し付けて結果的に犠牲を伴うという様な例を引き合いに出しているので、そうした「繋がり」をお判りいただければと思います。

 「使い方、間違えてますよ」と指摘される方に申しておくと、ご指摘はそれで確かに合っておりますが、頓着していただきたいのは言葉が持つ権威的な意味ではなく、音楽の権威的な意味の方なので、私が敢えて態と使っているのは今に始まった事ではないので「惑わされないよう」ご理解していただきたいと思うばかりです。


 音樂への本質的な理解が伴わない内に自身の中で勝手に解釈を拡大しては権威に凭れ掛かろうとする輩が食いつきそうな所を敢えて用意していると言えばいいでしょうか。そうする事で本質的な理解を伴う人がよりダイナミックに咀嚼して歩を先に進める事ができるというワケです。スポーツをスチルカメラでスロープレイさせて再生するかの様な理解を伴うのが本質的な理解ができている人という事です。理解が伴わない人は単純に言葉に食いつくだけの事です。私のブログの手法は今も昔も変わりありません(笑)。ほんの少しの感情の変化が理解を遠ざけてしまうのは、他者への責任のなすりつけです。結果的に自身を防衛したいが為の選択でしかないワケです。「左近治、厭味過ぎ!」と罵られようとも構いません(笑)。そこが本質ではありません。


 まあ、私の言葉の揺さぶりは扨て置き、音楽の演奏ひとつとって見ても揺さぶってる事は實に多いものです。ビブラートが皆無だったり、グリッサンドもチョーキングもない様な音、クラシックからエレクトリック楽器まで見渡して想像してみて下さい。どれほど味気ない演奏になるのか、という事を。


 ビブラートと言っても個人の独特の癖をアピールする類のモノや、ビブラートという音の揺れのリズムを聴き手に意識させぬように旋律に埋没させる「音価」を利用したり、或いはフレーズと一体化しているようなビブラートの与え方としてフレーズと一緒に「ノる」音価の与え方やら、自身の物理的なビブラートとある一定のテンポの楽曲に於いては体も揺らす事で相殺を避けたりする事や、ビブラートそのもののリズムを多く持っているのは当然の事でありましょう。聴き手が意識しないだけで色んな方法があったりして、演奏の殆どのケースは揺さぶりのある音です。


 その揺さぶりも、物理的な速度が速過ぎるのは聴き手もさすがに認識しやすかったりするもので、場合によってはその速過ぎる揺れは忌避される傾向にあります。二度音程同士の協和度の音程のビート(=うなり)も良い例ですね。人に依っては汚いモノとも捉えてしまうという側面もあったりしますが、そうした所に軈ては耳に馴染む様になるのですから不思議なモノです。



 扨て、そこで今度は「体の揺さぶり」という側面を語るワケですが、私の場合はジョギングは欠かさないタイプであるため、ついつい「走る」という事をテーマにしてしまうのは悪いクセかもしれません。

 でもですね、走って汗かいて体中毛細血管を覚醒させるかの様に少しばかり体を虐めてやると味覚やら聴覚も鈍化しなくなります。長時間音楽を聴いていると耳が「疲れる」という具合に概ね「シーッ」という感じの耳鳴りが治まらなかったりしたりしますが、そうした事がすぐに治まったりもします。


 走る以前に「歩く」という行為ですら疲れてしまうという人も居りますし、私の周囲にも何年も前から「そんなに体動かさなくて大丈夫か!?」などと聲を掛けたくなる程体力が衰えている者が居たりしたものでした。何せ、「権之助坂歩ってたら息切れしちゃったよ」なんて言っていた友人も、今や医者に相当脅かされてウォーキングを心掛ける様になっています。

 ウォーキングの場合1歩を四分音符換算すると、bpm138~160位で歩くのを目標として、少なくとも45分位は歩いた方が健康にイイのではないかと思います。歩数計を携行し乍らでしたら30分以内に4000歩を歩く事を心掛けて実行するのをオススメします。夏場はだいぶスピードが落ちるのを實感する筈ですので、午前中の時点で気温が夏日を超えている日なら35分以内に4000歩にしてみましょう。真夏に30分以内で4000歩を歩いて良い時は日陰がある場所で風のある日意外は、たぶん普段体を動かさない人がいきなりやったら体のどこかの血管が詰まると思いますので(笑)、注意し乍ら實行されてみてはいかがでしょうか。真冬の寒い日なら35分以内で5000歩を歩くというのを目標にしてみましょう。


 走るのが苦手な人はウォーキングを3ヶ月程実行すれば体が覚醒を始めるので、オススメです。これはオジサン連中ばかりでなく、運動が苦手な部活動を習い始める年頃の子供達に於いても重要な事です。

 
 運動が苦手な人は、歩を進める事&呼吸をするという二つの律動が完全に独立してしまっている人が殆どなので、呼吸とステップを合わせないと疲ればかりを實感するだけで、体は常に楽な動作(=運動を止めてしまう)事を欲するだけなので身に付かないままになってしまいます。身に付かないのは呼吸の合わせ方が下手であり、そこまで指導に及ばない指導者にも問題がありますし、これが競争化を招いて差別化が起こり、いつしか虐げられる様になってしまいかねない要因になったりするのです。

 そうした事を習う事もなく体得できている子供達は運動が得意なタイプでもある為身に付いていたりします。それでも、無意識に体の健康任せで運動するよりも、呼吸とステップを合わせるという事を意識させるだけで、運動能力は更に向上します。こうした同調は歩いている時も同様で、少し負荷を高く掛けた歩行になると息が荒くなるので、呼吸を実感する様になるので、其処が教えるタイミングのひとつなのです。


 歩く体力すら無かった様な人間がウォーキングに慣れて来たら、今度は下り坂を早足で歩かせてみます。下腹部から下り坂を下る様な感覚の有無を確かめて、首が残るような姿勢で歩いていれば、走る下地が出来た瞬間です。私はこうして嘗てはトレーニングを下の者にさせていたモノです(笑)。走ってもいないのに、この時点でだいぶ顔つきが変わって来るのも教えていて面白さを実感する時だったりします。


 まあ、そうした経験があって今も私は健康の為に体を動かしているのでありますが、体を「作る」事が出来ていない時の運動は確かに辛いモノでもあります。しかし、一旦運動を出来る下地を作ってしまうと思い描いていた苦労は何でも無くなったりするのも運動の面白さだったりします。そうしたステップアップができるようになると、苦痛だと思っていた事を乗り越えられるようになり、その先にある寛ぎにメリハリが生じて面白くなるワケですね。

 ネットで選び自宅へ届き、ポストへ返却する時すらダルくてポスト返却ビジネスが現われる様にまでなってしまったら目も当てられません(笑)。ここまでになってしまったら肉体脱ぎ捨てた方がいいかもしれません(笑)。

 
 勿論運動の前提には、そこには怪我もなく健康・健常である事が必須条件なのですが、健常であるのに自ら不健康になって患って行く人達は本当に多いモノです。

 社会的格差など彼方此方で取り上げられますが、健康と健常である事に加え、命というものがいつしか金で買える様にならない事を祈るばかりです。命まで富裕層にガメられる様な世の中になったら、その下に生きる者は身体を有する事が地獄になる時代が来るのかもしれません(笑)。


 走るという行為ひとつ取っても私は器楽的な側面は忘れる事はありません。自分自身のステップがリズムを刻んでいる為ですから、自分の心の中にはステップに巧い事同期する類の曲がいつも流れたりします。iPodとかを利用しないのは、嘗てはガンガン利用していたのですがイヤフォンが2週間ともたないので、出費がかさみ、走っている間はガマンするようになったのです(笑)。


 そーゆーワケで、私は心の中で音楽を「刻んで」いるのですが、一番支配している律動はやはり自分の足のステップです。ステップと呼吸を「合わせる」事が重要だと先述にもある様に、私の走り始めは次の圖の「1」の様な物となります。
steps.jpg


 譜例にしてみたのですが、上声部が左足で下声部が右足となっているのでご容赦を。

 私は必ずしも左足から歩を進める譯でもありません(笑)。左足から進むクセを實感した時は右足スタートに変えます。筋肉がなるべく均質化する為に階段の昇降での踏み足開始のステップも意識します。足を組む動作にも気を付けています(笑)。


 扨て、私の走り始めは7/4拍子を實感しているという事がお判りいただけるかと思いますが、譜例にまとわりつく曲線は!?というと、是は呼吸です。つまり、譜例の1小節目が息を「吸う」、2小節目が息を「吐く」という事なのです。以前にもブログで語った事がありますが、《2度吸って&2度吐け!》という教え方は間違いです。それは1度吸っている間に左右の足を計2歩進める事で、ひとつの呼吸に「くびれ」が付いて、恰も2つ連続で吸っているかの様なモノであって、實際には1つ吸っている内に2を進めて、1つ吐く間に亦2歩進める、という事を本当は述べているのです。つまり、その動作は「2」の動作と同じなのです。


 基本的には歩の合わせ方と呼吸の合わせ方は圖の「2」が基本形であると考えていただいて差し支えないでしょう。但し、私は走り慣れている為、この「2」の呼吸は勾配が少々急な坂を上る以外は行いません。月に数回、ひと月辺り100km以内の距離で収まる方なら「2」の呼吸を常に意識していた方が良いです。人によっては運動能力の弾みが付き過ぎて食欲増進で返って太ってしまったりして膝や腰を痛めたりする可能性があるので注意が必要です。

 更に私の場合は体の筋肉バランスの均質化の為に、走っている時の殆どは「3」を意識して走っております。しかし、体の調子がいつもよりパフォーマンスが低い感じの時は私も常に「2」に切り替えて走ったりします。これは走り始めでもその様に心掛けたりします。


 3種類の譜例の各2小節目の一番最後の拍の上声部の四分休符のみ色を変えているのは理由があります。「marcato」という注釈を与えていますが、これはどういう意図かはググっていただければすぐにお判りになるかと思いますが、一番伝えたい意図は、呼吸を吐いている時の動作の拍の一番最後は息が惰性となって弱々しくなりがちなので、「吐く」という事を少々強く意識して自発的に横隔膜を使って吐く様な感じにして、リズムを乱さぬ様に走って行くのがベストなのです。


 その理由が、實は2小節目で表す一番最後の「拍」というのは呼吸が最も弱々しくなりがちな「特異点」でありまして、ここが呼吸の惰性化と変わって行くと、呼吸の「くびれ」が埋没してしまって、足のステップの律動に「呑まれ」て埋没してしまうんですね。

 そうして「くびれ」そのものが消失すると、呼吸の數とステップの數が同数ではなくなるため、どこかで一定の周期を得ようと同期がズレながら最小公倍数を探るようになってしまうので、タイヤのスタンディング・ウェーブ現象の様な事が起きて、結果的に呼吸が乱れるんですね。その呼吸とステップのズレに起因する呼吸の乱れというモノを防止するために、吐く時の一番最後のステップ時の呼吸は重要なので、こうして注釈を付けているというワケです。


 歩き慣れた人がこうした呼吸を意識して走れば充分走る事のできる体を手に入れる事ができると思いますし、それに加えて實はいつの間にかリズム感の獲得にも大きく役立つ事に貢献してくれるとも思います。特に最後の拍の意識がそれを重要な理解という風になります。



 今回の譜例に挙げているテンポの表記=「190~260」というのは、これは確かに私の實際の歩の進め方なのですが、人に依っては運動する事そのものは扨て置き、このテンポ感で譜読みをする事が得意でない人が存在するというのも私は心得ております。譜例「3」での3拍子も、テンポ表記に倣えば殆ど6/8拍子に聴こえる事に等しくもあります。よく私が「ハチロクの拍子で走ってきた」というのは車をドライブしてきたのではなく、こうした意味で用いていたりするので、過去のブログをお読みの方は今一度ご容赦を(笑)。

 とはいえそうした人達にも「習うより慣れろ」という風に思っていただくしかないのですが、多くの人が速いテンポ亦は細かい符割に對してリズムが大雑把になってしまう傾向があるのは、實は今回の譜例で示している水色の「呼吸」の曲線に見られる様な、陰と陽とか昼と夜とも呼べるような完全な表裏一体の関係がどこかズレてしまう傾向があるんですね。概ね「吐く」時が惰性感に埋没しやすいのです。


 というのも、例えばリズム感を鍛える際に「裏」を鍛えようとするあまり、判りやすくポップスの例に喩えて言うならジッタリンジンの様な2ビート・スカ系にある様な裏を協調したギター・カッティングやら、奥田民生率いるユニコーンの「大迷惑」のスネアの様な「裏」という物をやたらと性急に意識してしまおうとするのですが、そもそも裏を鍛える以前に、リズムが狂う事の少ない「表裏一体」の関係を揃える事が一番重要なのです。それが次に語る様な事です。



 例えば、今回の譜例の「1」での7/4拍子とやらのテンポを今回のテンポ表記よりももっと速い表記にすれば、各小節は小節というよりも「拍」に聴こえて来て、いずれは7連符の様な感覚にも陥る事でしょう。それがリズムの概念というモノです。重要な事はテンポが速くなってしまった時の各音をひとつひとつ捉える事よりも、呼吸で示している水色の曲線部分をしっかり意識している事が重要なのですね。

 呼吸をする際、吸えば次は吐く、という動作が当たり前の様にして起こるのです。それが水中であるならば水から顔を出して息を吐いて水中で息を吸うなどという行為に及ばなくなるのは至極当然だと思いますし(笑)、水から顔を出して息を吸ったら、水中で息を吐かないと、次の動作で水から顔を出す時に吸えなくなってしまいますよね。

 つまり、自身にとって捉えやすい大局的なリズムはそうそう狂いようが無い物なので(息を吸った後にまた吸おうとはしません)、それを「吸って・吐いて」という感覚に置き換えれば、どんな速いテンポにも對應できる様になるのです。そうした大局的な「絶対に乱れないリズム」を獲得してから、そのプロセス中の細かい符割を憶えていく事が重要なステップなのであります。私の説明でどれくらい伝わるか判りませんが、この重要性、結構重要な事なんですが、これでも判らない場合は判りやすい人に遭遇する事をオススメします(笑)。


 「楽句という言葉は、その構造上、ほぼ一息で歌う事のできる長さの単位、という意味を持つ」


 幼い子供が鼻歌を口ずさみ、それは大概「一息」で歌いきれる類の言葉やフレーズの長さが伴って「作曲」されている様に、器楽的な所にも「一区切り」という扱いが大切なのであります。こうしたフレーズの形をしのばせて、実体を判らなくさせる様な様式がクラシック音楽にもあったりします。決して判りやすいフレーズ(メロディ)で構築されているばかりではありません。

 そうした重要な音楽的な「一言・二言(ひとこと・ふたこと)」にも収まり、作者が意図していない所にコチラが敢えて「文節」や「段落」を用意して上げて聴くという事も實際にはあったりします。ジャズのインプロヴァイズを聴くのが苦手なのは、文節の捕らえ所が判らない為であるのですが、器楽的習熟能力に長けていると、通常ならそろそろ「息継ぎ」が起こりそうな所にも未だ現れない珍妙な文節の与え方に刻まれるフレーズに酔いしれ、その妙味と新鮮さと斬新さと背景の和音との対比が絶妙で心酔したりするものです。


 歩き始めにも先の譜例の様なリズムを實感するのは良い事だと思います。ウォーキングの實行が鼻歌という動機の訪れだと思えば、いつしか速いテンポで最後の拍を強く意識していつまでも疾走する事が可能となるのです。律動を乱さない疾走という物には大局的なリズムの捉え方=呼吸の整え方=同期、という風にリンクするワケです。その後に細かい符割の對應があるのですが、そちらの会得よりも先にこうしたリズム感の獲得がないと先に進まないモノです。


 次に「走る」という事を題材にしたテーマを扱う際は、上り坂での私のリズム感覚を取り上げ乍ら細かい符割への對應というのを取り上げてみようかと思いますが、テーマ的に偏るのもアレなんで、少し間を置いて語る予定です(笑)。その題材に併せて「音感」とやらの鍛え方と音感とやらの見立て方というコトも語る事にしましょう。次回ではないですが、近い内に(笑)。