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音楽美学 [MONDO]

 前回では、あらためて転調という大前提を取り扱う事で、音楽面に於いて普遍的に存在する物事に對しての理解が意外にも疎かになっていたりしているのではなかろうかと思える例を挙げてみたのであります。少なくともネット上での「転調」という情報がウィキペディア日本語版上ですらも酷い内容でしたので聲を上げざるを得なかった譯です。


 普段は調性が少しでも希薄になるだけで付いて行くのがやっとだのと愚痴をこぼす初歩的な耳を持つ人達が、ポップス界隈において調性の大前提とやらが實際には分数コードやsus4コードの多用に依って主要三和音すら使い切れていない不完全な調性が蔓延している事も気付かず、「不完全」な調性の方法論は皆が使っているから私も使うという、右に倣え状態になってしまうワケです。調性とやらをクッキリハッキリと会得してからその手の分数コードやsus4だのと知識を獲得していった方がイイのではなかろうか!?と思ったりもするのですが、周囲と似た様な服を身に纏っていた方が彼等には安心なのですね。それでいてオシャレ感覚も一緒に纏う事が可能となる、と。あまりに目立ち過ぎてしまうのも嫌だという所にも端を発していると思うのであります。


 別に、音楽に於いて間違った知識を得たとしてもそれが元で怪我をしたり命を落とす事はないでしょうから、誤った知識を得てしまおうがそれを止めはしませんが、無知であるよりかは浅学非才の方がまだ宜しいのではないかと聲を掛けるワケにもいかず、そんな事をしようものなら「アナタ、無知ですね」と態々聲を掛けるに等しく、返って角が立つという始末(笑)。見知らぬ人に「その服装、似合ってませんね」といきなり聲を掛ければ、例えその通りでも云われた人はイイ氣はしないだろうなーとは思います。だからこそネットで恥をかく程度にとどめておいて、自身の音楽的素養は恥をかかないレベルなのか、それとも恥をかいてしまうレベルなのか!?という所を計り知るという事ができるモノと思って読んでもらうと助かるワケですね。柔軟である事は必要なのに、素養を伴わずして歳ばかり重ねて行くと凝り固まってしまい、恥をかきたくないモノだからついつい威厳を保とうと無理をしてしまったりもしかねないモノで、こういう歳の取り方を音樂面でもしてはいけないと思うワケですね。

 でも、転調という「調性」という西洋音樂の根幹に関わる部分の理解というのは、よもや音樂の権威たる部分に相応しい必要な理解である筈なのにそれを蔑ろにしてしまうというのは、少なくともネット上やそこから端を発して触発される層にとっては、権威を勘違いした知識の会得に依って誤った方角への潮流が生み出されてしまっているとも私は思うことしきりです。

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 扨て、今回は濱瀬元彦著「ブルーノートと調性」を引き合いに出してみようと思うのですが、この著書を理解するには、音楽の大前提の理解にとりこぼしがあればあるほど理解が進みまないもので、また調性から逸脱する側面の社会が万人にとって必要なモノでもないという事と無理解から来る誤解によって真の評価が歪められてしまっている向きがあるかと思います。私にとっては良著でありますが、読み手に配慮された文章ではないのも確かですので、本の側から人を選ぶ厳しい類のモノです。

 「大前提」という理解が疎かであるほど難しく感じるモノであり、大前提となる側面への理解の乏しい者に厳しさを向ける人ほど得てして読み手を限定するので、難しさは先鋭化してしまうのだと思います。嘗てのリットーミュージックのギターマガジン内で毎月「Perfect Seminarジャズ・インプロヴィゼイション」として連載されていた高橋信博氏の内容も、当初は私にとってはチンプンカンプンだった事が思い出されます(笑)。


 「ブルーノートと調性」への理解が進まない者は、おそらく下方倍音列という聞き慣れぬ言葉を勝手にオカルト化してしまう所に端を発しているのだろうと思われます。この著書を理解するに於いて必要な事前知識は次の通りです。


a・・・對位法における「順次進行」への事前知識
b・・・複調・多調を前提として得られる對位法的手法の枠組みでの二声の対斜



 まずaの理解で必要な「順次進行」。これを即座に理解できていなければ全く理解が進まないモノです。順次進行とは和音を構成する音の間を連結する二度音程の空間です。ハ長調という調的空間に於ける単聲部でC音という音があり其処から順次進行で上行となる場合はD音に向き、下行形で順次進行と云われればH音(=英名B音)に進むという理解が無ければいけません。その二度を超える音程を跳躍進行亦は跳越進行と呼びますが、大事なのは順次進行の理解です。これが理解できていなければ下方倍音列がオカルトと断罪してしまう無理解を生むのです。


 bの理解で必要なのは、通常の調的枠組みならば単一の調性内の仕来りで調性外の音がなるべく表れずに(経過的に旋法の変化が訪れる事はあっても)旋律が生じている体系でありますが、単一の調性も旋法的に弄られて行き、それらが多聲部に渡って重畳しい世界を過去を振り返れば對位法音楽では単一の調性は崩壊していき複数の調性が併存する様な状況も生みました。其処で、例えば二声がまずユニゾンでC音という風に奏でられていたとして、各声部は夫々に調性の調性の事など顧みず、自分の進みたい方向へ「順次進行」して行きなさいという大義名分を与えられた場合、次の様な可能性を生ずる場合があります。

 二声のひとつが上行形を選択し順次進行する場合に於いて、その旋律の動機は「偶々」長音階の音並びとなる全・全・半・全・全・全・半という音程を選び順次進行していった。

 さらにもうひとつの声部は下行形を選択し、上声部が使う偶々長音階の並びとなった「調域」など無関係に下行形として全・全・半・全・全・全・半という音程で順次進行していった。音程幅が上声部と同一なのは「偶々」である。


 これらで生じている「複調」で興味深いのは完全な「鏡像」という空間です。この二声部から生ずる複調的空間から生ずる和声はとても多様になります。こうした鏡像が下行形に現れるのは珍しい事ではなく、同じ調性であってもCメジャー・スケールの上行形とEフリジアンの下行形の音程幅は全く同一であり、EフリジアンはA音の属音、すなわち短調での属音であり、長音階ではC音を基準として音が群がり、短調の枠組みでは属音の周囲に群がる様に音が組成(=調的枠組みでの情緒)されるのでありますが、こうした理解が前提に無ければ下方倍音列そのものを、実体として現れない物だと切り捨ててしまいがちなのですね。


 調性が視野に入って来なくなると、順次進行という動機は調的枠組みに収まらないのですから普通に考えるだけでも長二度か短二度で進行する音並びを得るようになります。上声部と下声部で偶々鏡像となった空間で非常に多様な音を生むという事で上声部と下声部それぞれの「四音列」を抜粋して「混合」してみると、単聲部としてそれを扱っても多様な空間を生じる様にもなり、特に鏡像的空間で生ずる和声空間は重宝される様になるワケですね。そうした鏡像関係を生み出すポイントというのは、まだ作られていない「足場」の様なモノで、「あそこに足場を組めばイイのだ」という場所が下方倍音列の組織だと思えば判りやすいでしょう。こうした理解がないという事は、単一の調性におさまっている對位法の理解ばかりしか無い事が足枷となって理解に及ばないモノなのです。

 「いや、俺、對位法とかやんねーし」と言っても、今日体系化されているコード理論とて西洋音樂での對位法音樂から生み出されている事をお忘れなく(笑)。ジャン=フィリップ=ラモーに足向けて寝られねーぞ、と(笑)。馬鹿は馬鹿なりにきちんと音樂を知りたければ、こういう所をおざなりにするなって事ですな。そんな事も知らずにブルーノートという音の魔力やらを安直に知ろうとするから、手前勝手な無理解が勝手な解釈を引き連れて来てしまいどっかのネット上の知恵袋系で馬鹿な発言と回答を繰り返す愚行を目の当たりにするようになるんですな。それに解決済みとするのもさすがネット由来の情報の限界を見た氣にもさせてくれるってぇモンです。私とて浅学非才であるという事だけはお忘れなく。


 「ブルーノートと調性」を懐疑的に見る事のないもうひとつ付け加えるべき事前知識は、必要な知識とまでは言わないので付加的にこうして3つ目として語るのですが、知識として持っていれば更に理解に弾みが付くであろうという物がバックドア進行です。平行短調側のキーの♭II7(=平行長調の♭VII7)として使うモノです。C/Amであれば、Cに解決する際にC6と見なしていてAm7という四声体の構成音と同様な解釈として用いて平行短調側のナポリタンな方角からBb7を出現させてAmではなくC6に解決という手順です。これはすでに体系化されていて解決時に6thを使わずにブルースな方面でのC△やC7として使うという事は以前にも語りましたが、この理解も併せ持っていれば、「ブルーノートと調性」で語られるIV→Iでのツー・ファイヴ的解体に依る連結とやらまでも懐疑的に見ることなくスンナリと実践的な例として受け入れる事が可能だと思われます。

 とはいえ食いつきどころは其処ではなく、下方倍音列という仕組みの出現なのですから、これには對位法の歴史をしっかり踏まえた上で、少なくともエッティンゲンやフーゴー・リーマンの理解が無ければ、「ブルーノートと調性」だけでフーゴー・リーマン周辺の理論を学ぶ事が不可能な為、これが判りづらくしている本質です。また調性外の音への因果関係をフーゴー・リーマンをレコメンドしつつヒンデミットの結合差音を引き合いに出せばより一層理解の深まる順序となっていたのではないかと私はそう思っています。インターネットの無い時代に、そうした事前知識を備えているのは極めて少数でしょうし、その少数理解が拍車をかけてしまった感があるのは払拭できません。そうした理解に及ばない者同士が群がってネット上で意見を集約してしまうと、悲しい事にネット社会というのは権威力が希薄且つ少数となると分が悪くなってしまうのもネット情報の負の側面だったりするモノです。

 更に付け加えて4つ目の事前知識として加えるならば、和声進行に於けるカデンツの根音を次の和音の上音(=倍音)に取り込むという前提をきちんと理解していれば問題無く受け入れる事ができるというワケですね。音樂を学ぶ上で誰しもが当て嵌まる事ですが、貪欲なあまりガッ付き過ぎてしまう事があります。そこまでで済むのならまだイイのですが、その先に愚か者が生まれて来るシーンでは、本来必要な前提の知識を惰性化させてしまって解釈を拡大しようとしてしまう愚行を繰り広げる者が後を絶たないという事です。


 「知識の惰性化」とは、理解している様で實は理解していない事を意味しています。

 おそらくそれに当て嵌まるのは、文語的ボキャブラリーにも貧困で、他人の語彙や言葉の揺さぶりに対応できない類の人間です。概ね「もっと判りやすい言葉で説明してくれ!」と要求してくるタイプがこの手の人間です。自分自身が判りやすい様な言葉でしか体得出来ていないため皮相浅薄な知識にしか成り下がるのです。

 判ったフリして根幹が理解できていない為、歩を進めば進めるほど破綻を起こすのです。拡大解釈でどうにかまかなっていても、根幹を伴っていなければいつしか無理が生ずるのです。ですから、「転調」という定義に於いて、私が下総皖一の言葉を引き合いに挙げた様な僅かな言葉という大前提で転調は説明が付くにも関わらず、そこを端折ってしまっている人間の理解というのは、それを手本としてしまう人間にそれ以上の理解は得られませんし、そうした重要な言葉すらウィキペディアで編集されないという事にも気付かない人間が、少なくとも音樂の転調やら調性を論ずる可きではないのだと言いたいのですね。『ブルーノートと調性」への理解も本当に理解できてんのか、オマエら!?って事ですね(笑)。



 喩えるならば、映画のワンシーンなどに於いては、間違った判断であるにも関わらず自身の強欲を貫いてしまって命を落としたりする様なシーンがあったりするモノです。誰もが一度はそうしたシーンを見た事はあるでしょう。
 
 正しい情報を共有する少数と誤った解釈の大多数が対峙した場合、概ね後者に潮流のべクトルは向いてしまうモノです。ネット上の「集合知」とやらは得てしてこういう負の側面を作り出す事も往々にしてあるのです。正しい知識に権威と信頼はあれど、それは大多数ではありません。ノット・イコールなのですね。

 正しい知識には、それに達するまでの研究と傍証の先に検証があっての事なので、信頼と権威が備わっています。それを得る為に「対価」を払って得なければならない事もあります。信頼と権威を手にする為に金の出費は厭わないという人だって多くおります。殘念な点は、生き方そのものが普遍的であるのでその価値が見過ごされてしまっており、シーンを先の映画の様に変えて形容するのと同様に、健康や命という普遍的な物に置き換えれば、それらに敬意を払えない人が増えてしまっている事を意味するのであり、普遍的な物事を蔑ろにする人というのは道徳的である別の側面に於いても蔑ろにしてしまおうとするのです。権威や信頼に對して易々と対価を払って来た者が、そう易々と「健康」や「命」を手に入れる事ができない様に、どうしても手に入れられない権威と信頼という物が音楽に存在するのです。器楽的な能力、例えば演奏能力ひとつとってもそうですし、聴取能力ひとつ取ってもそうです。


 自身の皮相浅薄な知識では咀嚼しきれずに理解した様で實は無理解のままで居て、なんとなく他人の判りやすそうな言葉の代弁を取り込み乍ら自身の拡大解釈と照らし合わせて、本来あるべきワン&オンリーの答が、なぜか多角的な方面から見てもザックリとした曖昧な答に姿を変える様になってしまい、しまいには正答の姿と価値が稀釈化されて行きます(価値が弱まる)。でも、實際には本当の価値が低くなっているのではなく、理解に及ばなかった者が抱く「主観」の中で勝手に価値と権威が矮小化させられてしまっているだけで、それを誰もが「等価に」発言できる様な場所で吹聴すれば、唯単に大きな聲を張り上げている者の聲が世間様によく聴こえている事と変わりないんですね。聲が届くという事と、それを世間様が受け入れるという事は同意ではありません。誰も耳を貸さないから街宣車でデカい音を張り上げたりもするのでしょうか!?(笑)。

 とまあそんなワケで、少数意見というのは常に異端なのか!?という事を理解する必要があると思います。無理解から偶々異端に思える事など往々にして有るワケで、若い内なら一時の恥で済みますが、歳を重ねるほどこうした軌道修正はそうそう難しくもありストレスを溜め込むモノになってしまうモノでしょう。しかし、正答の前にはやはり「柔軟」且つ「謙虚」で無ければならないのですよ。