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マスコミや政治家よ、そんなにマイクの数が必要か!? [サウンド解析]

 最近では記者会見となると、ポジティヴなネタよりネガティヴで一般的目線で見た時叩きどころが見え見えという類の物は四方八方から食いつかれ叩かれるモノでありますが、マイクの数も一本ではなく数本も用意してある周到さもついつい視野に入ってしまうモノであります。政治家もそう。国会の予算委員会のみならずマイクは「民放」などとも書かれていたりすることも目にした事があるでしょう。そもそも傾けるに必要なのはマイクの首ではなく民衆への耳なのではないかとも揶揄されていたりしますがその辺どうなのでありましょう!?


 マイクによる収音という方法論というのは実はとても奥深いモノで、それは決して無頓着に機械や音響的な仕組みなど無頓着にカラオケで鬱憤を晴らして声を発する事に徹する様に仕向けているのではないのであります。方法論も曖昧なシーンではハウリングがピーピー鳴り止まない事態に遭遇したりする様な経験は誰しもが一度は経験している事ではないかと思います。

 政治家とて選挙となるとマイクの一本どころではなく数本用意したりして、それも唯単に音が大きく伝わるだけではなく、ハウリングが起こらないという方法論が浸透していたりもするのだから恐ろしいモノであります(笑)。勿論政治家自身がその手の方法論を一人で熟知している人は少ないでしょうが、ハウリングなど起きないためのマイク収音技術、場合によっては周囲の構造物を判断し乍ら自身の立ち位置までも周到に計算した上で場所を確保していたりする裏方の努力というのも計り知れないモノもあったりするでしょう(笑)。


 まあ、そーゆーワケで今回は「音響的」なネタを繰り広げるのでありますが、先述にも有る様に「記者会見のマイクはなぜまとめられていたりするのか!?」とか「ハウリングが鳴り止まないのはどういう事なのか!?」とか「日光東照宮薬師寺の《鳴き竜》って何!?」という様な話題を鏤め乍ら話題を進めて行く事にしようかな、と思っております。これらのヒントにピン!と来た方は既に音響的知識の素養がある方だと思われます。そうした側面を知っている方も知らない方も今回お付き合いいただければな、と思います。


 政治家なんてぇのは虫の良いハナシしか耳に入れねえクセしやがって、ひとたびてめえが喋るとなると周到にマイクやら用意したりして音五月蝿くして吠えまくってるモンだ!


 とまあ、こーゆーボヤキは選挙の度に日本の何処かで必ず耳にしているモノでありましょう。末端の声まで何処まで耳を傾けているかは判りませんが、政治家というのは確かに選挙の時が一番働いている様に思えるモノです。それが生業となっているのであれば「失職」と等しいワケですから必死さは至極当然なのかもしれません。「職業議員」という言葉がある位ですから。

 声を届ける行為を要するのは選挙時とならば注力しなくてはなりません。低予算でやりくりしてマイクなど使わず肉声で「辻立ち」しているのを目撃したりもするモノですが、「集客力」がひときわ違う大物政治家となるとマイクの数や凱旋車両に用意してあるPAシステムなど予想するだけでも専門業者の介在がありそうな方法論を目の当たりにする事もしばしばです。近接効果防止の為のショート・ディレイや、実音のローカットのEQ処理に加えて先のディレイ音部のウェット音の別のEQカット処理やら素晴らしいモノです。政治家自身が興奮してきてマイクを塞ぎつつもブーミーなハウリングが避けられたりなど、おそらくや政治家自身が大声を張り上げなくて済むであろうモニタースピーカーへのモニタリングの僅かなディレイや位相反転など、まああらゆる方面に配慮されているモノになっていたりするモノです。


 私がクラシック系音楽番組をよくチェックするのは、私の好きな作品が流れる事は少ない為どちらかというと奏者のテクニックや演奏の差異もチェックしますが、最も注力しているのはマイキングをはじめとする会場のキャパと奏者の位置だったりします。通常アコースティック楽器と呼ばれる楽器は音量の増幅を電気的な力に委ねずに響かせるというのが特徴であるものの、電気的に増幅する事が前提の楽器の「エレクトリック」という言葉の対義語は「アコースティック」ではない所に注意が必要です。一般的な理解で言えばエレクトリックの反対はアコースティックという理解でしょうが、ついついケチを付けてしまいました(笑)。その手の言葉尻をいちいち取り上げてはキリが無いのでその手の事を根掘り葉掘り知りたい方は他で学んでいただきたいと思いますが、いずれにしてもアコースティック楽器の類の「録音」にはマイク収音にならざるを得ないのです。

 余談ですが、オーケストラの物理的な音量は奏者の規模(=人数)と作者の意図や過去の経験が伴ったりして決定づけられたりしますが、いわゆるPA装置を前提とするライヴやコンサートでの物理的な音量の取り方というのは、出音に対して隣の人の声がどれくらいの大きさになるか!?という所が大体の判断基準だったりします。ストラヴィンスキーの春の祭典を最前列で鑑賞したとしても、その手のお客さんが隣の人と喋り合うシーンはまず無いでしょうが、オケの音に隣の人の声はおろか自分の声すらもかき消されるような思いをする人はまずいないと思いますが、PAを伴う類の演奏でしたらこういう大音量は経験されている人もおられると思います。

 エレクトリックな楽器の人達というのはアンサンブルの音よりも自分自身の音のキャラクターを強く押し出そうとする人が大半です。音量の取り合いが始まってしまい、その競争にいち早く負けるのがボーカルだったりします(笑)。負けん気が作用してソコをグッと堪えていると喉を痛めます(笑)。やがて、自分の音に酔いしれプライベート・ドメイン(=自分自身の身勝手な領域という意味で使っております)の音を重要視するプレイヤーというのは、もはやPAよりも勝るアンプ・システムを持ち込んでPA要らずの様な音を繰り広げてしまうので、ステージ側の音が主体的な音となってしまい、それでもプレイヤー側はPAが更に増強してオーディエンスに届けているのだと誤解しているため、こうした身勝手なアンサンブルで次に割を食うのが意外にもドラムだったりします(笑)。


 オーケストラの人達は他人の音に惑わされずに自身のプレイそのものを牽引する術を持つので、「自分の声をかき消される思い」というシーンがあったとしても技術がそれを可能にする事もあるでしょうが、おそらくエレクトリックな楽器を操っている人達よりも数段上だと思います。エレクトリック楽器を使う人達というのは自分達の相対的な音量バランスは勿論、客観的に聴いた時にアンバランスがPAを凌駕してしまう様な音量を構築してしまうと、ライヴハウス〜チッタ、日本青年館クラス程度のキャパだとPAを活かせぬ事があるので注意が必要だったりします。デカイ音を礼賛する風潮があるので音量を絞る勇気が必要なのですが、音量から得られる「音圧」がアンサンブルの脆さを覆い隠してくれている側面もあったりするので、コレに乗っかってしまっていると結局は綺麗に聴かせる事のできないアンサンブルを伴ってしまう事にもなるので注意が必要だったりします。


 日本の建築美学の成せる業なのでしょうか、「鳴き竜」で知られる日光東照宮での現象は対峙した壁に依って中々減衰せずに特定の周波数が減衰する事無く響き渡る「フラッター・エコー」という現象が生じます。一方で、対峙する壁面が平行だと音速(気温の変化も伴う)の秒速のメートル・スケールを壁同士のメートル・スケールの數の2倍の数字を割る事で、スポイルされてしまう周波数を生じます。これは定在波として知られており、図では最も低次な定在波の例を挙げてみましたが、定在波はこの例の他に整数倍で生じる高次の物も生まれますので、(壁同士の距離×2)×整数倍という意味なので、1倍ならば先の様にディップ周波数はひとつしか生じませんが2倍となるとディップ周波数は2つ生じて、3倍するとディップ周波数は3つ生じる事になります。
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 ディップが生じていれば音波としてはピークという増強分のエネルギーもあるワケでして、僅かな移動距離で収音する音に遅延が生じて、その遅延に相当する周波数が強調されると、今度はよく知られるハウリングを生じるワケです。

 また、先の定在波とは別に、無指向性や単一指向性マイクが抱える重要な側面に、直接音というマイク収音までの距離と、地面からの反射音とマイク収音位置の距離から生じる遅延差に依って生じる「スポイル」というのも存在します。これは定在波とは異なるモノです。


 マイク収音というのは実はかなりスポイルされてしまうのが現実で、これをどうにか改善しようとする目的で床置タイプで設計されたマイクが次の様な名称で呼ばれているモノです。


BLM バウンダリー・レイヤー・マイク(Boundary Layer Microphone)
PZM プレッシャー・ゾーン・マイク (Pressure Zone Microphone)
PCC フェイズ・コヒーレント・マイク (Phase Coherent Microphone)


 DAWやらに勤しんでいる人ならばドラム音源のマルチ・マイクに依るサンプリングで「PZM」という名称を目にした事があると思いますが、つまりこれは音源までの距離に依る遅延は生じるものの、それ以外のファクターの間接音を排除する目的のマイクなのであります。床置が適切なのは、床から跳ね返る間接音と直接音との干渉(位相差)でスポイルされるからです。このスポイルを極力排除する目的で収音するのが最大の目的なのです。

 BLMとPZMは無指向性を埋め込んであるのに対してPCCは単一指向性のマイクが仕込んであるのが特徴です。またこれらの名称はメーカー主導だったり特定の商標だったりもするのですが、あまりに有名な為こうして呼ばれているワケですね。


 こうした知識が無く「なんとなく」知ったかぶりしている人の中にはPZMを「ピエゾ・マイクの略称」だのと宣う人が居たりもしますが、こうした恥はどうしたらかける物なのかとても不思議なモノなのですが、自身の拙い見聞と知識を身勝手なまでに混淆にして、きちんとした知識を得られぬまま音作りをしてしまうのもどうかとは思います。この手の事を知っていれば、ある程度の方法論を得られる様になるワケです。それは、影響される周波数ポイントという物はあらゆるシーンで同一の事は起きないモノですが、それほど大きな差は無い為、影響される大まかな周波数帯を経験で蓄積する事で理解できていくワケです。実際に収音している方が苦労は絶えないモノなので、少なくともそうした背景と現実を少しでも科学的な背景を知っていれば音作りに昇華する事が可能なのでありますね。


 因みにクラシック・コンサートの場合、自身のリスニング・ポジションでは必ずしやスポイルされている音はどんな人でも生じています。スポイルされている音は必ず生じていて、それを計算の上で構築しているのがオーケストラで、耳に届いた音が聴こえた音の現実です。

 バルコニー席のメリットは間接音の少なさもありますが、指揮者の音とはだいぶ違うので特定奏者にターゲットを絞るかのような鑑賞になるとも言えますが、夏場は音の伝播が上方よりも床面に近い方が気温が高く散逸しやすいのもあり、耳の位置も床面に近ければ近いほど音は散逸しやすいので音が無味乾燥な印象になりがちです。酷い場合はスピーカーのスコーカーだけで聴いているかのようにすら感じてしまいますが、バルコニー席はこうした無味乾燥を和らげてくれる効果もあります。バルコニー席をこれほどまでに礼賛しているワケではありませんが、S席ばかりが総じて良いというワケでもないという事を言いたいだけの事ですが、私がこういう戯れ言を語る前に皆ひとりひとり「音楽鑑賞哲学」という物を持っているでしょうから私に倣う必要などありません。ただのボヤキと受け止めていただいて結構ですし、こんなブログに態々目を通していただくのも時間の無駄であるかもしれません(笑)。

 クラシック音楽の場合大抵は吊りマイクでの収音の様ですが、おそらくステージ前部にバウンダリー・レイヤー・マイクを併用していたりもすると思われます。それらをミックスして音を作り上げているのですが、この作り上げた音がPAシステムを介して聴衆には届かないのが一般的なクラシック・コンサートの例でしょう。記録の為に収音される音は自ずとPAシステムを介在するワケであり、こうして記録された音は収音という物理的な側面とそれに伴う弊害も知っておかないと損失してしまう音の量を増やしかねない事にもなります。

 吊りマイクとて先述の通りスポイルは必ず生じます。それをどのように位相も含めて補うのかは様々な経験則があるのでしょうが、吊りマイクの位置そのものが発生したとしても音源と床と収音位置という3つの距離をコントロールする事でアンサンブルの音域に可能な限り配慮された音にするというテクニックもあるでしょうが、「スポイル」される音は概して逆相から端を発しているので無い音を一所懸命EQで弄っても再現はできないのであります。そうした失われた音をついつい拏攫してしまいたくなる程欲求を高めたりするモノですが、スポイルされてしまう音が器楽的な周波数帯域の広範囲に渡る所ではない所が或る意味では助けられている側面であるかもしれません。

 グラフィックEQのQ幅というモノも現実に即して考え抜かれているもので、「1/3oct」となっていれば二全音分という裾野の広さを意味しており、其の山は中心から對稱的になるため1全音ずつの鏡像となるワケですね。つまりグライコのひとつの帯域のバンド幅が「1/3oct」だった場合は、A音を基準とした場合、上に1全音上、下に1全音下の「山と谷」を描くモノという事になります。厳密に言えばブースト時とカット時のベルカーブ(=EQカーブの形)が完全に同一かというとそうでもない特性が与えられたりするモノも存在はしますが、こうしたグライコの例にある様にグライコの素子数が細かいモノでも、音域的なレンジで見るとそれほど広い部分を増減するワケではないので、スポイルされるという音も実際は音域的な視点で見ればそれほど広範囲に渡るモノでもなかったりはします。

 録音された作品という物は自然な空間での音響とは異なりマイク収音ではスポイルされた私の場合は奏者の場所、各楽器の音域、弦楽器ならば弦長、音波(音域の)の物理的波長、二次間接音のシミュレート、イスの高さ、ステージ背面、壁面などの考慮で「この席しかないのなら今回はこの楽器に的を絞って●○の席」という風に選んでいたりします。携帯電話の着信音を鳴らし乍ら腕を振り回せばコーラス効果が出る様に、ヴァイオリン奏者が体を揺らしたりするのもこうした効果を狙ったり、或いは指揮者にカマかけていたりする事もあったりするようですが(笑)、色々な「遅延」の効果というものはあるモノです。


 ただ「アコースティック」楽器という物は、楽器そのものの筐体が「共鳴」してナンボなので、こうした楽器というのは或る意味では音源から聴衆までの距離よりも非常に短い位相差や共鳴を利用して形作られている「ひとつの音(=個性的な音響的色彩)」で「ひとつの音」と言い乍ら実は沢山の間接音を利用して形成しているので、仮に無響室でヴァイオリンを成らせば数億円するヴァイオリンですら無響室の中では味気ない音を繰り広げてくれるモノでありましょう(笑)。つまり、二次的な間接音も楽器の音の重要なファクターとして成立している楽器に対しては、環境音を当たり前の様に自然に捉えたいからという究極的志向から超指向性のマイクなどを用いて収音するのは或る意味で無意味であり、それは「真」を捉えた音ではあっても普段耳に届いている間接音とセットになった音とは違う音を捉えていたりもするので、数十メートルも離れたアンサンブルを「間接的に」聴いているような環境音と混ざった様な音として収音するという目的ならば亦別でしょうが、演奏を収音するという目的においては必ずしも楽器そのものを録音するという事に囚われ過ぎてもいけない事なのであります。つまり、マイクロフォンとは、利いた音をそのままに収音してくれるモノは意外に少なく、用途に合わせて収音する事で得られるキャラクターを熟知して利用する事が重要なのでありますね。


 マイクロフォンが収音している事で「厳密」であるのは實際には人間の耳に対して周波数特性レベルの曲線ではなく、捉えている音の「変化」に敏感なのだという事を熟知しなくてはなりません。

 例えば、無指向性の安物マイクを使ってカラオケを唄っているにしてもマイクからしてみればどんなヘッポコなマイクでも捉えている音は、歌い手の声でもありますし、歌い手の周囲から飛び込んで来る間接音も拾っていて、その間接音は歌い手の立ち位置でも決まっており(歌い手が遮ってくれている音もあれば歌い手の立ち位置で生じる壁や床からの二次反射という間接音)、そうした唄っている音とは「別の音」も實際には捉えているのがマイクなんですね。

 マイクというのは自身の周波数特性的なキャラクターを備えてしまっているため、歌い手(マイクのある位置)が僅かに動くと、位相が変わるのでこの移動距離に伴い、それに該当する周波数ポイントはディップされる音もあれば強調される音も生まれ、こうした音が生まれるのはたったひとつではなく幾多も存在するため、ピークの出現が過多となって生ずるのがハウリングの正体なワケですね。マイクというのは音源からの距離が一定であるのが望ましい収音なのですが、仮に椅子に座った人の聲を収音するだけでも人間は僅かに動いていますし、その移動距離がハウリングを招くこともあるワケです。

 記者会見や政治家が複数のマイクを持っていてマイクを集中的に集めて収音するのは、そうした位相差から生じる音響的変化が耳障りな音となって出現しない様に配慮されている工夫なんですなー。不思議な事にマイクというのは間接音もキッチリ拾っていたりするので、喋り手は全く動いていないのに、その背後で政務官やら官僚がドタバタと動いて環境音に変化を起こしてしまった事でマイクは敏感に間接音の変化を捉えてしまい、それが呼び水となってハウリングを起こす事も屢々なのですね(笑)。

 国会予算委員会やら記者会見など注意深くみていると、こういうシーンは意外に多い物です。水を満面に注いだコップから今にも溢れ出しそうな程中音域や中高域がヒンヒンとカン高く唸ってハウリング臨界状態の様な音が捉えられた空間に遭遇したりする事もあるでしょうが、ああしたシーンというのはそうしたPAシステムの實用的使用の経験が乏しく、且つ空間の設計が著しく「鳴き竜」を発生させかねぬ程設計が等しく設計されているからであり、鳴き竜とまでは形容しませんがフラッター・エコーというのも生じているのが現實だと思われます。この様に、マイクで収音する事で思いも依らない不利益を被ってしまう事に起因するのは「位相干渉」に依る物で、徒にマイクを掻き集めているワケでもないのであります。

 
 マイクを持つ者は時として、口に圧接したり収音部を手で塞いだりして「近接効果」で音の太さを得ようと感覚的に知って態とやる人も居ます。自身の聲というのは通常耳から「収音」された音だけではなく腹腔・胸腔・口腔・鼻腔から生ずる骨伝導も「ミキシング」された音であるので、それらは大概低周波が大きく作用するので、客観的に自分の聲を聴くと甲高く感じたりすると思いますが、こういう事ですね。自分の声を客観的に知っていて耳の癖として野太い聲に仕上げるために近接効果を狙う人がいるのは、モニタリングする自分の声の差異感を埋めようとすると聲のキャラが変質してしまうのを畏れてこうした行為に及ぶ歌手も居たりします。

 こうした歌手にモニターを返す場合、ローをカットし過ぎると結果的に堂々巡りになってしまいかねず、やたらと明瞭な自身の聲を忌避してモニターを下げろと言い出したりもします。しかし外的な絶対的音量の変化に依ってアンサンブルが大きな音の時に自身の聲が往々にして負けてしまうので今度はまたモニターのレベルを要求する、しかし自身の聲との差異を埋められないという事に陥って自分自身の音程すら見失ってしまう人が居たりするモノです。あまりに大きな音の前に自身の聲を見失うと、喉周りの筋肉のn「壓」の強弱でしか判断できなくなるのでピッチを保つことも一苦労する事もあったりするモノです。また、「モニター慣れ」していない人は特にこうした負の状況を作り出してしまう事も多く、音量そのものが衰えたりする歌手も居たりするので悲哀な側面があったりもするモノです。


 政治家やマスコミというのはどれほど世間の聲を反映しているモノなのか!?という側面は全く別問題でありますが、そんな人達が必死に自分自身の聲を届けるにあたり、背景にはどういう事を乗り切っているのか!?という事が音声面だけでもお判りいただければな、と。但し、オーディオ的側面でどれほどスポイルされぬ様な音を構築した所で、言葉が「音」として届くだけではメッセージでもなんでもないのですね(笑)。楽音にも実は意味があります。音の「フレーズ」面に凭れ掛かる聴き方しか出来ない人は、先の様に、政治家の聲を「音」として聴く行為と同様なのであるという事をあらためて申しておきたいモノであります(笑)。あーゆー人達の言っている事そのものを聴き分けるという事が音楽にも出来るという行為は、私が常に行っている分析と等しい事なのですね。

 ある知られた体系に収まる和音や調性やら、そんなのから繙く事は簡単な事なのに、それすら逡巡しているようでどーすんの!?って事ですよ。聴こえる音のスポイルに頓着している暇あったら、自分自身の脳のスポイルに注視せよ、ってこってすね(笑)。まあしかし、その判断ができても判断基準が不明瞭でしょうから結局はコンドルセ・パラドックスに陥るかの様になってしまっていて結果的に「誰でも良い」状況を作られてしまって、さも選んだかの様に操作されてしまっている現世を繙くにはどれだけ時間を必要とするのか、という事ですね。まるで何処かの政黨や選挙にも置換できるシーンの様な(笑)。

 シーンを変えれば、音楽に没頭するとは言っても實際にはアイドルという「見てくれ」に心奪われているだけという聴衆も居たりはします。福山雅治に群がる女子が一方の孅妍且つ婉孌たる美少女アイドルとやらに群がる男子を唾棄しているという現實もありはするものの、どちらも双方同じ系統に映るのは正常な見立てを出来る方なら私だけではないでありましょう(笑)。

 或る意味ではチェレプニン音階のカデンツ機能も結果的にはコンドルセ・パラドックスに似た物があり、結果的には調的な隷属支配する音が茫洋として中和してしまおうという牽引力に依って主従関係が曖昧な中で旋律的情緒を強めようとする、逆風の中で歩を進めるかの様な所にもこうした視点は繋がるモノでして、「ハーモニー」という調和は實に色んな側面で興味深い事が露になるモノですね。



註 【拏攫】だかく・・・固く握る 【孅妍】せんけん・・・か細くて美しい 体が小作りで美しい 【婉孌】えんれん・・・恋い慕う 従順な 若くて美しい 何れも旺文社漢和中辞典より