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ツァラトゥストラは欠く篳篥 [クダ巻き]

 ここの所、チョットした深刻な足の怪我を患ってしまった事もあり、普段よりも読書に勤しむ事ができたりブログを落ち着いて書き上げたりする事が出来るのですが、いかんせん日常生活動作に差し障りがあるとSNSの様なツールは返って遠ざけてしまうのか、即効性のあるようなネットツールというのは縁遠くなってしまうモノで、やはり人間というのはマルチタスクに物事をアレコレやろうとしても肉体も心もひとつなのだという事をあらためて気付かされる思いです。故に、「使用者は目の前のひとり」であるという事で使用者が並列に行動できるマルチポインタの様な物がマルチタッチ・ジェスチャーなのであり、Appleのこうした操作形態を生み出した背景には間違い無くハンディキャップを抱えた方のアイデアが組み込まれていると信じて止みませんし、以前にもiPad出現時にそうした事を語った事が懐かしくもあります。


 私のブログ記事「平仄の符号」に於いて、『ウェブはバカと暇人のためのもの』についての感想を加筆しておきましたが、巷では一時期は少し話題に上った先の著書、初版からもう4年経過をしている事に驚きです。刊行物レイト・フォロワー&活字弱者の私は(笑)、今更乍ら目を通したモノでありますが、いわゆる「ネット強者&猛者」とやらを巧みにい断罪し乍ら、ネットというメディアとやらを斜に構えた批判を加えて興味深く語られていた所に妙に腑に落ちる事もあって、ネット上での袋叩きかのような被害には私も幾度となくそうした嫌がらせには当ブログも遭遇してきたモノであらためて感慨深いモノがあったモノです。


 ネットに情報が「落ちている」事は本来どういうモノなのか!?例えば、ある人が雑誌に興味を示して購買する。購買した人全てが文学性を備えた才人で、あらゆる角度から使用される言葉を検証して言葉そのものの使い方や言葉の裏に隠された更なるメッセージ(記号論への招待を参照)を「検証」したりする人だったりはしないでしょう。そういう風に見つめる人はごくごく僅かな人であり、ネットに転がっている情報は新聞の中吊り広告に毛が生えた程度でも充分であり、情報にダマされる事がなければ真偽のいずれかのどちらかを判断出来ればそれで充分なのですね。


 ところが音楽の場合の判断は簡単には行かない。音楽に於いて器楽的・理論的な背景という裏付けが全く無くともそれらに対する評価(=価値)への感想や表現というものは素人目には「無限大」の空間であるが故に、語彙に富み読み手が理解しやすい表現で含蓄を伴う表現に仕立て上げてしまえば駄作ですらも言葉に依って言いくるめられるという側面を孕んでおり、結果的には音楽を語る上での言葉遊びという術が横行してしまいかねない事となり、言葉そのものが形容する本来の意味に加え、そこに用いられる文学性のある「詩的」表現に依って字面からは得られぬ含蓄に富んだ意味へと変容して別の解釈を生んでしまったりするので、本来の楽曲が持っていた作品観とは異なる「デコレーション」された表現が独り歩きしてしまうという側面に気付かずに鵜呑みしてしまう聴き手がおり、そういう層を捕まえては言葉巧みに言いくるめてしまう輩が居るのも悲哀な側面であります。

 また、更には言葉の使い方が体系化する事で言葉の意味の重みが別の重みを得てイディオム化してしまうという、こうした警鐘を鳴らしたくなる様な側面が音楽を語る上では非常に多く当て嵌まるモノでありまして、こういう側面に気付いてもらいたいが故に私はつい先日池上嘉彦著の「記号論への招待」を引き合いに出していたのでありますが、「記号論への招待」の真意をきちんと掴むと、ブーレーズがストラヴィンスキーの春の祭典を徹底的に検証した上で批判した事そのものが杞憂に終わってしまいかねないほどその労力が水泡に帰してしまうかのように徒労に終わりかねないストラヴィンスキーの「本意」を見出す事が可能だとも思えます。少なくとも「記号論への招待」の最後の部分である「中心と周縁」からの項は必読で、私の意図もお判りいただけるのではないかと思います。

 
 音楽というのはあまりに漠然としている空間であり、その音社会というのは音楽という社会通念上に存在する「共通理解」にしか過ぎず、長和音や長調に「明」を感じ短和音や短調に「暗」を感じるという物も、それが絶対なモノではなく単なる共通理解にしか過ぎず、それらをその様に聴くのが求められる様な厳格なルールが存在するワケでもありません。とはいえ単純に巧みに形容された言葉が「云われてみれば確かにそうだ」と思う様な表現を与えるとそこには音そのもの以外の信頼を得る事になり、そうした信頼し得る音を見付ける度に、その音を知覚する経験は最初の記憶を本人に意識させているワケであります。その共通意識は絶対的なモノではなくとも「共通理解」が生じている為、調性感が強固なコントラストで得られている類の音楽というのは共通理解を得やすい物で更にはその作品を形容するにあたって、共通理解という物だけにぶら下がらずに陳腐化した表現を避ければ誰もが共通理解の下で色々な言葉を巧みに使って形容する事が可能なのです。

 然し乍ら調的なコントラストが低い調性感が希薄な曲というのは、本来ならそれは楽音的にも非常に自由な空間を用いて彩られているにも拘らず共通理解の解釈を逸脱しているためアブストラクト(=形容し難い)物として一括りに片付けられてしまいがちで、本来の個性はコチラの方が強いはずなのに、形容しやすい方の曲の差異感(=判りやすいメロディ)がオリジナリティとして受け入れられてしまうのが現実で、それこそ言葉巧みにつかみ所の無い表現を羅列されては、本質すら理解できないので興味が半減してしまうのでありまして、こうして高度な音楽というのは共通理解が得られにくく本質が見えにくい物をあーだこーだ語っても無駄という風に近視眼的に判断されがちなので、聴き手も差異感が判りやすい所の作品を耳にして甘んじているという層が多いというのも亦事実なのであります。


 音楽の難しい部分をきちんと繙いて解説して、それを理解してくれる読み手の方は是亦絶対数は少なくなろうが存在するものの、私がそこにビジネス的な活路を見出さない(=食い扶持として利用しない)理由はただひとつです。それらを取り上げるにしても他人の作品の検証でしかないので、自分の事を取り上げて金になるなら別のハナシですが、他人の褌で相撲を取る事と同様なので、いちいち食い扶持を見付けようとか転んでもタダでも起きないだのとか、少しでも有益な情報があれば新書を出版するとかという打算は全く働かないのであります。或る意味では他人の作品をレコメンドして、それで金を得ている者は私からすれば他人のフンドシで相撲を取っている事と何ら変わりないという意味でもあります(笑)。


 『ウェブはバカと暇人のためのもの』では、多くのウェブ達人とやらが社会的には報われずに暇を持て余しストレスを発散させるために他人の揚げ足を取るための粗捜しをするという側面を色濃く誘導しているのでそれは確かに正解でありますが、こうした本の云われが私にも容易に当て嵌まるのかという事をきちんと見定めた上で読み手の方にはきちんと理解していただきたいと思います(笑)。私とてネット上ではこのブログが色んな嫌がらせを受けたりしているのも事実ですが、その手の輩に敢えてコチラからも嫌がらせをする事もあるのでその探っていただけると、私のブログの発言に関係するネタをどこかの掲示板で引用していたり他のブログで引用していたりなどとする嫌がらせに対して初稿の時点でコチラから「誤った」情報を発信すると、その検証ができぬまま引用していたりする事で嫌がらせをする当人を浮き彫りにする事もできるので滑稽なので面白いモノです。私の場合はヒマだから・・・ではなくそうした嫌がらせをする輩に恥を思い知らせる事が面白くてやっているのもあるかもしれません(笑)。


 例えば、いじめ問題にしてもつい先日マツコと池上彰が80年代の象徴的ないじめ問題を取り上げ乍ら問題提起しておりましたが、つまるところ「先生もいじめに参加していた」という事は確かに象徴的な事ですが、しかし多くのいじめ現場に遭遇して来た人なら判ると思いますが「先生の参加」というのは珍しいモノではありません。意外にも先生が関与している事は多いのですが、私の言う先生の「関与」というのはいじめに加担するという風に簡単に片付けられる類のモノではない例なのでありますね。

 私の学生時代にも煙たがられる類の生徒はおり、概ね弁は立つし引き下がろうともしない、とはいえ秀でた才があるにも拘らず親からの偏狭的な愛を注がれてお坊ちゃん&お嬢さん育ちしてしまっている者が大体その手の対象者になりやすい物です。私の時代にも先生が「関与」していた事がありました。まあ、大人の目で見てもコイツにはどこかムカつくような所があるんだろーなー、という程度の理解しか及ばなかったモノでした。

 本来ならいじめがエスカレートしておかしくないモノでしたが、ある程度罵られ乍らも対象の生徒が過剰なまでに黙殺されてしまうかのような雰囲気にならない程度の「いじられ」で済んだという理解が及ぶ様になったのは私が成人し自分の子供を持つ様になった時でした。その先生はいじめに関与していたかの様に「目を行き届かせて」いたのだという事が理解できたという事を。

 その先生は体育会系の教師であった為、色んな社会での自身の立ち居振る舞いや上下関係を知って来た人だと思います。一本気が強く、飯を食いきれないモノには食い終わるまで罰を与え、泳げない生徒まで泳げるようにするという熱血漢でしたが気の短さもあったモノでした。しかし短絡的に気性の荒さで加担していたとは到底思えず、同窓会でその事を訊ねてもそうした「方法論」を私に口外する事はありませんでしたが、「目を行き届かせている」が故の生徒社会への無意識な加担というのは素晴らしいと思えたモノでした。こうした方法論は法的に見れば×であり、それこそ先生の側への懲戒が加えられてもおかしくはない事実ですが、体系に収まっていない所での「逸脱への理解」を伴うという事をひとたび思えば、音楽の「逸脱」した社会への理解というモノも自ずと目先や耳先ではなく、真実を見極めなくてはいけないワケですね。自分達の良い様に表現されてしまったり出て来る言葉に真実というものは大概は覆い隠されてしまっているので、目に見えにくい物や逸脱したモノほど究明には目を届かせなくてはならないワケです。ですから音楽を繙くにあたっても表面上の言葉のやり取りに騙されてしまってはいけないのでありますね。


 先の例では教育の現場での「逸脱」が良い方に作用しているから問題にならないのであり、これが悪い方に作用すると先のマツコと池上彰が番組で指摘していたのと同様の80年代の東京中野区でのいじめ事件の例に繋がるワケでありますが、いじめる側が最も顕著に狙いを定めている所は権威や象徴を崩壊させる事であり、それらが一転して崩壊の様が対比として大きいほど彼らの行為はエスカレートしていくモノなのが顕著なのですね。一度こうした転落のレールに乗せられた物はやがて犠牲者が死を迎えようとも美談で済ませようとする様に欲望の向くベクトルは更に先鋭化して強化され興奮の増長の為に変換されている事に当事者は全く気付かないのであります。ネット上での罵り合いが起こったり報復行為としてネット上にあらゆる情報を曬そうとする行為は結果的に、説明や説得という類の言葉では反駁が不可能で有るため、手前勝手な一方的な欲求を衆目を集めさせて子供が泣きじゃくれば注目を引くかのような同じ道理で通用させようとする愚行が罷り通ってしまうというワケです。そうした不条理なまでの行動という物はアクションそのものが大掛かりであるため世間というのは因果関係に頓着せずに本来の善悪すら見抜こうともしない為に、不条理な者が起こした行動の悪意に矛先が向けられる事力が弱められる事を感覚的に知ってしまっている為、こうした愚行が果てしなく続くモノなのであります。

 ところがこうした体系という物も、皮相的理解しかしようとしない者にも、論点のすり替えやら本当の悪はどこにあるのか!?という「見付け方」を教えてやると途端に学習してしまうモノで理解が進むのも亦滑稽なモノなのであります。先の『ウェブはバカと暇人のためのもの』の刊行時と比較すると某掲示板の存在力もかなり違っている為、今になって同様の置き換えは難しいのかもしれませんが、先の著書がいわんとする「バカ」のやろうとしている行動については今も昔も変わりはないと私自身は感じる事しきりです。こうして著書に一定の理解をしつつも、私がブログで展開するそれを「暇人のたわごと」かの様に決め付けられてしまうのはご勘弁いただきたいと思うことしきり、という事です(笑)。



 扨て、ネット掲示板について少し語ったのでこの際語る事にしますが、私のインターネットの経験上「ネット掲示板」とやらが最も巧く活用されて機能していたのは、ベースボールマガジン社のサッカーマガジンが運営するWEBサッカーForumだったのではないかと今も尚信じてやみません。有益な意見交換が多く(匿名ですが)、某巨大掲示板出自のルールを散々押し付けられ叩き上げられ(=荒らされ)、結果的には閉鎖に至ったのでありますが、誰もが欲しがる様なネタに食いつきどころを与えてしまうと、そこにはペンペン草も生えぬような根絶やしが起きてしまうのもネットの悲哀な側面なのですな。

 私とて「着信音」というコンテンツで、他人の作品でそれこそ先述の「他人の褌で相撲を取る」という事はやっていたワケで、幾ら著作権料を収めようとも他人のフンドシで加担してしまっている事は認めなくてはならないのでありますが、そちらの着信音の利益とは全く異なる方面で音楽方面の深部を語ろうとする行動にしたため私はこうしてブログを展開しているのでありまして、利益ありきではない事はあらためて申しておきたいと思います。


 扨て、「他人のフンドシで相撲を取る」と形容した着信音ビジネスですが、一番儲けているのは著作者でも制作者でもなく実は事業者という事を忘れてはなりません。勿論違法コンテンツは全く別のハナシです。無料となるとアクセス数は桁違いですが、有料となるとどれだけ有名なサイトでも全く様相は異なります。無料で違法なコンテンツというのは、そのアクセス数が多過ぎて対応する事すらままならずに看過されてしまっていた所があったのでしょう。それを「大丈夫だ」と勘違いしてしまって悪質さは更に増して結果的に御用となるケースが後を絶たないのは、先の、自分自身の悪事を大勢の衆目に曬す事に依って、本来の善悪の是非とやらを大衆の興味から削いでしまうような注目度の高いモノを煙幕にして逃げる、という行動と全く変わらないという事が判ります。ネットというのは検索するのが余りにラクな為、悪事に手を染める事すらも手軽・お気楽なモノだから判断がきちんと及ばない人はこういう所に執着する様になってしまうのであります。


 こうしてあらためて多角的に色んな側面を語ろうとも、最終的にはきちんとした情報を提供するスタンスこそが重要であるワケで、それこそ私が何の根拠もない出鱈目発言を繰り広げよう物なら、ネット上のよくある叩きアクションは私を排除するための「浄化」という、行為に変換される事にも繋がる可能性もあったでしょうし、必ずしもネットのそうした「抑圧」という叩く行為は全てに於いてネガティヴではない作用も生じていたりはするのでしょうが、良い面に作用する事が少ないのも現実だったりするモノでもあります(笑)。とはいえ良い方に作用しない事を前提に情報発信者の側が何をやってもイイのだという事は許容されないでしょうし、そうしたバランス感覚は備えているのが左近治でありますよ、という事はあらためて察していただきたいと思います。


 新書というのは各社から出版されておりますが、「よくもまあ、こんなネタを引き延ばして書いたモノだ」という類の物が最近は多く見掛けるモノでして、それこそ他人の既に刊行されている類の事を言葉を変えて述べているだけの様な類似する様な本も見掛けたりするのでありますが、最近特に顕著なのが、語句に重きを置き過ぎて本来の意味がストレートに伝わって来ないのが多いのであります。使っていれば箔が付きそうなモノだったりするのでしょうが、なんだかんだ言って昔から評判の高い良著に託つけている様なのが多いのだと痛感してしまったりもするモノです。


 最近のココ1年以内に出版された新書で面白かったのは、幻冬舎新書刊 玉川徹著『ニッポンの踏み絵』平凡社新書刊小沼純一著『オーケストラ再入門』辺りが面白かったでしょうか。ともあれ新書というのはそのサイズの手軽さとシンプルなテーマで構築されている為、読み始めるとシンプルな道をグイグイ突き進んで引っ張ってくれるのが良い新書。一方あらゆる所に仕掛けがあって熟読させられるのを強いられるのは新書向きではない類の物(笑)。とはいえ各社Q数(=フォントの大きさ)や行数やら行間、カーニングなど大きな差はあるワケではないモノの、やはりカーニングや行間、級数、フォントの工夫は無視できないモノで色々工夫しているのだろうなあと思うことしきりです。


 前述のグイグイと引っ張ってくれる類のモノではなく、ただ単純に文字数も少なめで読みやすいというモノもあったりして、NHKのニュースの読まれる速度位で読めば概ね3時間程度で読める類の新書は行間が1頁辺り16行、1行辺り42〜44字というモノで、この手の類が一般的な新書の文書量ではないかと思います。『下山の思想』は12行で、新書の中でもかなり少なくこれは2時間ほどで読了できてしまいましたが、通常の新書というのは概ね次の図の様な感じです。16行×44文字というのが一番一般的ではないかと思います。これが概ね200〜220頁位が一般的な量なので、文字数としては13〜15万字位の量を読むという事を意味する事に。こうした文章量を考えれば私のブログなど非常に少ないモノだという事もあらためて判ります(笑)。
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 文字数の量に依って質の善し悪しは決定されるモノではないですし、殊更音楽の場合は文章で説明が必要な側面であっても本来ならば少ない文章量で的確に表現できている事が望ましいのでありますが、楽理的な側面を伴わず主観だけを羅列しただけの文章ほど唾棄したくなる表現はありません。音楽には本当はそうした「喩え」は必要の無いモノだと私は感じているからです。

 そうした「喩え」というのは時として過剰なまでの偏愛や拒絶を招いたりしますし、ましてや音楽に対して「喩え」ばかりを重んじるだけの輩が、音の直截な差異から読み取る事は不可能だと思えるのです。主観に依って何かのアンカーとなる「喩え」をどこかに打たないと他の表現も成立しなくなるという側面を孕んでしまいます。ましてやこうして偏った分析をしてしまう様では、仮に犯罪者が偶々素晴らしい楽曲作品を世に残したとしても、犯罪者としての罪の重さは無関係にその作品を正当に評価する事など到底無理でありましょう。無論、素晴らしい作品を書く犯罪者に恩赦を認めよ、という事を言っているワケではありません。あくまでも「仮に」というハナシです(笑)。

 正当な評価をしたいが故に私は色んな作品を取り上げる事はあっても、それで飯を喰らう様な事はしません。他人の褌で相撲を取って飯を喰うなど本末転倒だと思っているので(笑)。自分の事で飯喰えるなら別ですが、これは「壁」とは言わないのであります。弱者が食い扶持としての仕事に転用出来ないという類のモノではないのです。不毛な事で音楽を捉える事のできぬ輩に正答を突きつけているだけの行為で、それを生業という尺度で当て嵌めるのは矛盾が生じるワケですね。生業で食っている奴のどこにどれだけの根拠があるのだ!?と。対価の無い世界での根拠は無力なのか!?というと是亦違うワケでして。

 弱者として当て嵌めるのはネット社会上でなくとも二元論に持ち込むことで「勝ち負け」という関係のコントラストが皮相的には強く映るため、興味本位な視点では確かに興味深い負け組と勝ち組という風にも投影させられるのかもしれませんが、そもそも私は勝ち負けを求めておらず、信憑性を強化する為の傍証を取り上げているだけの事でその後の判断は読み手の人が判断するワケですから、自分の判断が後々弱者になりたくはないからと言ってハナから弱者&鼻つまみ扱いして読んでしまわれる様では音楽の理解は進むモノも進まなくなってしまいますよ、と言いたいワケですね。杓子定規に、出版されている本から植え付けられた尺度を安易に音楽へ置換する事は到底無理なので、押し並べて比較しても無理がありますので、そうした判断はなるべく避けた方が宜しいですよ、と私は述べているワケですね。そこを読み取れないと、踏み絵にするのは決まって本の側か目にしたブログの側か、という事になり、自分可愛さで自分自身を踏絵にしようとは思わない人が産出されては徒に音楽を理解して行くだけにしかならないのですわ。

 楽音は、音波の有無という関係はあっても雌雄関係に置換出来るかのような二元論は存在しません。あってもそれは表面的な共通理解でのコントラストにしか過ぎず、音楽そのものの「事実」ではありません。長調と短調という仕組みを持ってしても短調は常に「暗い」モノではありません。共通理解として「暗い」というひとつの要素を考えるのはアリですが、短調や短和音の成立のそれが絶対的に「暗い」という取り決めなどどこにも存在しないという事です。それを判った上で音楽をどれだけ形容する事ができるか!?という事が問われていい筈なのに、「誰彼がやいのやいの言うモンだから聴きたくなくなってしまった!」とか言い出す様では、音楽を聴こうとしていた欲求がたかだかその程度で崩壊する動機付けの弱い人間でしか無いのですが、自分自身を「動機付けの弱い人間」と辱める人間は極めて少ないのが現状なんですよ。殆どの人が自分自身を客観視できずに顧みれないモノだから安易に他人を蹴落とそうとするだけの事なのです。それが元となって音楽が評価される様では本末転倒って事で、さらにはコレで金稼いでやる!という打算が働くような厚顔無恥な人間に音楽は到底理解できないだろうと思う事しきりなワケでした。