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今あらためて池上嘉彦に学ぶ 「惰性に揺さぶりを」 [サウンド解析]

 良著に学びたいモノですが、今回のブログ記事タイトルは岩波新書刊・池上嘉彦著の「記号論への招待」の冒頭で語られる言葉です。これほど巧みに冒頭から惹き付けられる本は意外にも少ないモノです。


 最近の文章表現の多くは文体ばかりが仰々しく難解で、化粧に喩えるならファンデーションを塗りたくった様な、徒なほどまで形容する語句に重みが与えられている文章は読みにくい類の文章が多い昨今なのでありますが、数十年ほど遡ると、やはりインターネットというメディアが存在しない時代での書物の在り方というのは、文章表現そのものに腰を据えた落ち着き感が備わっており、読書という行為が苦難ではなく磊落なまでの行為として耽溺に浸る事のできる文章の真の重みと推進力というのは計り知れないものがありまして、先の「記号論の招待」という新書も実に魅力ある文章が鏤められているモノであります。


 「惰性に揺さぶりを」という言葉には一体どういう意図があっての言葉なのか!?という事は一度手にして読んでいただきたいモノですが、今回の記事タイトルにもした様に色んなシーンに置換する事が可能だと思います。今回私が結び付けたいのは音楽あっての事なのでやはりそれは「体系化」という方法論の事なのですが、「惰性に揺さぶりをかける」というのは、それそのものが日常化・体系化・形骸化してしまっている所への「ゆさぶり」という事を意味するモノなのです。


 以前にも私がマニュアル化社会の弊害を本ブログ上で嘆いた様に、所謂小売系のサービス業での社員教育というのは体系化に則った集団教育に依って鍛え上げる方がコスト的にも圧迫しない為に体系化が進むのでありますが、この手の手法が体系化してしまった背景は国内では不要とも思えるような外資系の株主やらのアイデアや新手の経営コンサルティングの声に依る過剰なまでの「急整備」が招いているモノとも言え、プラザ合意以降辺りから国内では徐々に変化が起きて来た様にも感じるのでありますが、そうした「マニュアル化」が徹底されてしまう事に依って「進んだ社員教育」の先に訪れる悲哀な側面というのは、まるでマシーン化されたかのような人間味も誠意の欠片も排除したかのような杓子定規な対応の「人間」が誕生する事が「弊害」のひとつなのでもあるという事は以前にも語った通りです。


 そんなマシーン化された人間でも本来は苦難を乗り切って理性を伴って身に付けた物なのでしょうが、そうした「心なき」コストダウンありきの教育は人間味とやらも一律にあてはめられてしまいがちなので、個人の得手不得手(=個性)すらも均質化されてしまい、軈ては会社の駒として技能を習得する事の方が(誰もが習得可能と烙印を付けられた類の技能)優先されてしまっているので、その先にある身に付けた技能の現場での実際というモノを接客に置き換えれば、本来ならば同じ仕事内容や対応が可能であった筈にも拘らず、個人のストレス量の差が実際には反映されてしまう事になってしまい差別化が生まれてしまうという皮肉な結果を迎えます。

 仕事の質や量が楽である方を労働者側が指向するので、その一方の客の立場は、いつしかそうした社員のストレスの強弱に依って良い接客を受ける事もあれば悪い接客を受ける事もあるという不公平を生じているのが現実です。
 
 しかも殆どの場合、客にとって悪い方のサービスが横行してしまう事が世の常でもあります。その理由に、先の様なマニュアル教育という業務そのものが《不健全》に陥っているからに他ならないので、ストレスを多く抱える者から不利益被るサービスに遭遇する確率が高まっているのが現実で、そうした「サービス」という本来なら客にサービスする事で対価が生ずる筈の業務が、なぜか実際には杓子定規な教育からはサービスの「差」が生じ、そうした差の不利益を客の側が少しでも五月蝿く指摘しようモノならクレーマー扱いされ、客の良心ありき(何事もなかったかのように客がグッと堪える)で初めてサービスが提供されてしまうという本末転倒な事態がまかり通っているのが今日のサービス業なのであります。


 私が何を嘆くのか!?という狙いの本質はそうしたサービス業への批判ではなく、体系化してしまうと結果的には形骸化してしまうという事への批判なのです。例えば、「ありがとうございました」という言葉のひとつでも、もはや先のマニュアル化社会で教育された人間の一部には、言葉とは正反対の意味を心の中で思い浮かべていていそうな程の対応を目にする事も珍しくなくなってきた今日だからこそこうして嘆いているワケですが、そこを今度は「ウチはもっと徹底します!」という位に杓子定規化は更に先鋭化してしまい次には慇懃無礼なほど相応しくないサービスが横行してしまい、そうした対応の引き出しを人間味のある「気の利いた」発想を出来る人間が少なくなってしまっているので余計にギスギスしたアンバランスで不相応なサービスを目の当たりにする様になってしまっているのであります。


 「ありがとうございました」「ごめんなさい」という言葉そのものが、池上嘉彦氏の言葉を借りるならばまさに「惰性化」してしまっているだけの当たり障りの無い便利な言葉という「記号化」されてしまっている言葉にしかなっておらず、言葉そのものが陳腐化させてしまっているという核心部分にサービスを教育する側が気付いていない企業が非常に多く増えて来たという所も嘆かわしい所でもありましょう。こうした本来不必要であった筈の、結果的に負のベクトルを伴う教育というのは、圧迫面接の類が横行する様になってから特に顕著なのかもしれません。



 扨て、そうした負の側面とやらの核心は「惰性化」させてしまう程の体系化・陳腐化・形骸化が元になっているので、音楽にそれらを置き換えるならば、或る某かのタイプに属する和音のタイプを使えばさも名曲のコード進行と同じになるので引用する、だのとそうした手法が横行するようになるのであります。微分音を色彩的に使う事ですら体系化さえしてしまえば方法論を知ってさえいれば使えてしまうワケです。とはいえ何度も言っている様に、そうした体系を知って使った所で総じてどんな駄作でも名作に仕上がるワケではないのです(笑)。


 現存する音楽の殆どは何らかの体系に収まると言っても過言ではないでしょう。だからといって私がそうして「音楽は体系化されてしまっただけの芸術だ!」だのと宣った所で、その言葉に共鳴して音楽を聴く事に興醒めしてしまう人など皆無でありましょう(笑)。なんらかの体系に収まっている事がダメなのでもなく、枯渇・飽和されたかのようにすら思えてしまうような和声的空間ですら本当はまだまだ理解していない事が多いのでないのか!?と思うことしきりです。つまり、現存する音楽くらいはきちんと繙いてレコメンドしたいというのが私の率直な思いであり、ブーレーズ語ったり、日本ブレイク工業語ったり、初音ミク語ったり、プログレ語ったり、ポール・モーリア語ったりと思いきや中田ヤスタカ語ってみたりとまあ、振れ幅大き過ぎるのもアレなんですが、その雑食性とやらも私の特徴だったりしますのであらためてご容赦いただきたいな、と。


 今一度思い起こしていただければと思いますが、仮に全く異なるジャンルで同じ類の和音が使われていたとしても同一の曲想を思い浮かべる事の方が稀な様に、体系化が総じて曲想を同一にしてしまうモノではありません。同一視されやすいシーンの場合多くは調性という強固な重心にぶら下がっていて、そこにぶら下がる和音の体系の酷似、旋律の酷似という物でして、パクリでもないのに似てしまったりするのは概ねこうした調性やいくつかの和音の組み合わせ(=コード進行)の体系化やら旋律が和声感やら調性にぶら下がっていれば現在のポピュラー音楽シーンでなくとも18世紀頃の西洋音楽では既に「様式」ありきとしての世界では最早あらゆる手法が使い果たされたとまで言われていた程だったのですから、今なおポピュラー音楽で似た様な事が議論されていても全く不思議な事ではないでしょう。


 但し、複調・多調、微分音やらに目を向けるとなるとハナシは全く別です。不思議なモノで、調性にぶら下がるタイプの方が楽曲的には分類しやすい筈なのに、テーマそのものが判りやすいほど曲調として憶えやすい為か普遍的なオリジナリティとして烙印を付けられやすいモノでして、そうした音楽よりも遥かに自由度の高い調性が曖昧な音楽は、「調性が曖昧な」類として一括りに分類されてしまう様な聴き方をされてしまう事が何とも皮肉なモノでして、多くの人というのは調性や判りやすい牽引力を持つテーマに情緒を得て判りやすさを求めてしまうきらいがあるので、複調・多調やら微分音の空間がどれだけ広大であろうとも、多くの聴き手からすれば「一括り」として片付けられてしまっているのが難点なのであります。

 
 「差異感」が難解である所に加え、着地点が不明瞭だと自分自身がどういう順路を辿っているのかも判らなくなってしまうが故に理解が進まないのでありましょう。乗り物酔いした道中での車窓を心地良く記憶に留める事が難しいという事に形容できるのかもしれません(笑)。


 そういう難解な側面を「一括り」として漠然と捉えられてしまっている以上、私が微分音の空間を傍証として取り上げていても何処まで真意が伝わっているのかといえば、相当限られた人に向けての情報発信とも言えるのでありますが、難解だった物を少なくとも従来よりは容易に耳にする事ができるようなレコメンドやらをしていけたらとは思っています(笑)。そういう意味でも「にんじゃりばんばん」という子供でも食いつく事の出来る様な判りやすさの中で放たれる微分音とやらは余りに高低差のコントラストがあり過ぎて興味深かったので取り上げたのであります(笑)。和声面の難解な側面やらジャズやらプログレ界隈などを読む方がよっぽど興味深い事でありましょうし人に依っては中田ヤスタカやきゃりーぱみゅぱみゅの類の様な話題に辟易している人の方が、私のブログに興味を示すような人の中には多いでしょうが、敢えて私も語るべき事を語っている事であって、心底ポップスが好きでレコメンドしているのではないという事は察してやっていただきたいな、と(笑)。


 或る楽曲を私がレコメンドする際、難解な部分を肩の力を抜いて耳にする事が出来るように、なるべく繙いて興味が湧く様に心掛けているのでありますが、音楽を言葉に置き換えた場合、なぜその様な難解な表現になったのか!?という事を考えれば、例えば難しい言葉や熟語として構築された言葉には同時に頭の中で文字が浮かぶのであり、難しい漢字が組み合わさった熟語など、目にしただけでは意味すらも掴めない事もしばしばですが、教養が伴うものなので各人の知識量で受け止め方が変わって来るワケでもあるのが厳しい側面であるとも言えます。誰もが判る様な表現にしていないというのもポイントでありましょう。

 態々難しい文字が組み合わさったのは理由があるでしょう。漢字というのは音読み・訓読みが存在する様に、文字そのものに意味があるワケで、組み合わせの妙味も手伝って含蓄のある表現として更に強化されるのが熟語の醍醐味のひとつとも言えるでしょう。


 耳に届く音というのはその時点では「符号」でもなんでもありません。階名に置換される類の絶対音感というものが神経レベルで見た時の「二次的」な符号化の実際でありましょう。一時的な符号化というのは神経が情報を伝達するための1ビット信号への置換ですね。幾つかの1ビットの集積具合であらゆる音の差異を知覚しているのでありますね。


 難しい言葉を意味も判らずに覚える作業に苦労が伴うからと忌避してしまえば未来永劫意味が判らないままになるのと同様に、音でも難解な物には理解が得られない事に等しいのでありまして、難解な音を態々私が引き合いに出す時は「意図」を興味深く伝えたいという事に他ならないワケであります。一般的には記憶の隅にも残らない様な「排他的」な存在として脳が捨て去ってしまいかねないような音にも意味を見出してしまう悲しい性とも言えるかもしれません(笑)。でも、そうした難しいメッセージから伝わって来る情報量はとても重みがあるモノでして、これは漢字だろうが音だろうが私には同様なのであります。


 プログレというジャンルを好むユーザー層は、音楽の難しい側面を理解できる人間が多かったりするモノですが、いわゆる有名どころの商業化に乗っかってしまっただけの体系に貪り付く聴き手の耳は、幾らプログレを聴いているといっても褒められたモノではない人達が多かったりもするモノです(笑)。特に、ハモンドやメロトロンとか、こうした所だけに食いついているだけの人間は耳が成熟していない輩がとても多かったりします(笑)。ですから楽音に備わっている「重みのあるメッセージ」を繙く事ができないのが非常に多かったするモノでもあります。それと器楽的な理解に偏重的な所があって、自身の体得して来た楽器以外のリスペクトが欠けていたり、自身の得意とする楽器にしか注力していないケースが多々あり、音楽を全方位に見渡せる程の下地が備わっていない聴き方をしてしまい乍ら歳を重ねてしまった結果、箔を付けるのがライブラリ量やら自身の根拠の無い「文学的」な形容に寄り掛かるだけの感想をアピールしなければ体を成さないのは、プログレだけではなくジャズやらクラシックのファンにも実際には多かったりするモノです(笑)。


 フュージョン・シンジケートとライフサインズの両者の音。人によっては同一視してしまうかと思うんですよ。表面的な音の類だけを見れば。しかし、私が繙くと両者は全く対極を成す論評になるワケですね、コレが。根拠なく賞賛と批判を繰り広げているワケではないのであります。私がなぜライフサインズを賞賛し、フュージョン・シンジケートに唾棄するのか!?という事をあらためて読み返していただければ自ずと理解ができると思いますが、プログレの中にも大概の人は単純にやり過ごしてしまいそうな所をきちんと楽理的背景に則って取り上げたいというのが私のスタンスであるので、今回あらためてプログレの面白さを新たに伝えてみたいと思います。


 というワケで今回取り上げるプログレとやらはカンタベリー・シーンでのハットフィールド&ザ・ノースの進化系とも言えるナショナル・ヘルスの1stアルバム収録の「Borogoves Pt.1」であります。
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 ライトモチーフを用いた美しい構築が「Tenemos Roads」に見られる様に、先にもNHK-FMの2度目のプログレ三昧で取り上げられていた事もあり記憶に新しい方も多いのではないかと思いますが、今回取り上げる「奇異な」和音とやらは「Tenemos Roads」からではなく「Borogoves Pt.1」であるというのが実に心憎く、そして、これぞ多調和音の色彩の真骨頂とも呼べるモノなのであります。


 「Borogoves Pt.1」という曲は不思議なモノで、パート2よりも後に収録されているのでありますが、深い真意は判りません(笑)。「奇異」なコードはCDタイム3分32秒の所で出て来ます。次の様な8声のコードですね。
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 F音は重複しているだけなので音符が九つあってもこれは八声体であるというのはお判りだろうと思いますのであらためて触れませんが、まあこうした8声に対してギターは二声(この二声のギターはオーバーダブだと思われますが、演奏に於いて実際の符割の速度やテンポや運指からしても二声を同時に一人で弾く事が可能であるためプレイ面の追究があっても良いと思います。加えて、そのプレイに固執するあまり、折角の高次な音の「当てはめ」という表現が、単なる和声外の音の闖入に依る妄挙とならぬように努めるべきです)にて重減七度(=短六度の異名同音)でハモっているワケですね。「重減七度」というのがポイントでこれも含めて後述する事にしますが、それについては次回以降触れる事に(※当段落の括弧内の言葉はブログ投稿時とはあらためた表現なのでご注意を)。



 とりあえずこの和音の興味深い所はペレアス和音を包含しているタイプで、Fメジャー・トライアドとEメジャー・トライアドを用いつつ、さらにE♭メジャー・トライアド由来の断片とも言える2つの音が加わり、8声のコードに対して二声のギターが重減七度のハーモニーに依り、常に8声以上~10声の和声を維持している空間を放つのであります。二声のギターは重減七度(=短六度の異名同音)を維持し乍らE♭音とG音から夫々クロマティックで九全音を一気に下降するモノですが、その道中においてB♭音(=A#音)は通過するので結果的に3つの長三和音が長二度で犇めき合う体は一瞬乍らも和声的空間の中で使われる事になります(E△/E♭△/F△)。

 
 そうした和音が「E♭・E・F」という並びになっていない所も是亦興味深い所で、この音並びを見ると最早それは三度堆積和音で半音階の総和音としてエドモン・コステールが提唱した「属二十三の和音」の断片とも言える組織に酷似するモノとなります。つまり、今回の多調和音と比較すると色分けした部分がF音を根音とする属二十三の和音の断片という風に置き換える事が可能なのであります。
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 今回の例でのF dom23rdの灰色部分の音は実際に使われていない空間で、この空間を二声のギターが使う事となります。ギターは経過的な音でしかありませんが。

 此処で最も注目すべきなのは、属二十三の和音という体は元々が「三度堆積」由来であるにも拘らず、最終的には「短二度の集積」となる点であります。つまり高次な集積に依って半音へと「凝縮」させられた点を注目すべきでありまして、広い音程から狭い音程へ「密集」させられているという意図を先ずは理解する必要があります。


 更に重要なアプローチを見出す事がこのギターから学ぶ事も可能です。通常のジャズの理解では「与えられた」和声空間内でどのような音を使うか!?という事でアプローチを採りますが、ココでのアプローチは、和声空間として用いられていない灰色で示した音空間に対してクロマティックを当て嵌めていると考える事ができるのです。


 先の属二十三の和音で示した灰色の音を列挙すると奇しくもDM7augというE♭♭(=D)、G♭(=F#)、B♭(=A#)、D♭(=C#)という「使われていない」空間の音をクロマティックで二声で「使い切る」という音並びだと思っていただきたいのですが、和声的に先述の様に「10声」と述べているのは、残る2声は和声的空間が飽和するモノで、飽和を起こさぬようギターの二声それぞれが1音の空間を持ち合う事で、二声は下降する為のベクトルを得るために音空間を飽和せずに残り2声を自身のベクトルの為に「空けておく」という解釈を与える事が先ず重要な理解です。

 且つ、オーギュメンテッド・メジャー7thに対して(←音として使われていない虚像空間)「短二度」で埋めているというのも重要なポイントで、和声的な音として実際に使われている8声は転回すればこそ二度へ密集させる事ができる物の、それを「三度音程」の響きとして「開離」させて用いていて、音として使われていない空間の側=Dオーギュメンテッド・メジャー7thの側を半音の空間として使う所が実に巧みなのであります。

 七声を超える和声的空間では、こうした使われていない側の音響空間を巧みに利用するという所が通常の調的枠組みとは全く対極を成すモノで、等音程というものが共鳴的な音程と組み合わさる事で全く別のベクトルの手掛かりを得るように、使われていない音への脈絡の発生という物がウェイン・ショーターやスタンリー・カウエルのそれに見られる様に、こうしたアプローチが全くジャンルの異なるナショナル・ヘルスというバンドで確認出来るという所も同様に注目すべき部分でありましょう。


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 デイヴ・スチュワートという人は照れ隠しかどうかは判りませんが、音楽の難解な部分をサラリと上段を仄めかすように次の様な理論書をリリースしていたりします。元々は80年代後半から90年代にかけてであっただろうと思いましたが、リットーミュージックのキーボード・マガジン紙上で毎月連載していたコラム由来の本だったります。帯を見ても判るように「理論嫌い」の人を歓迎しておりますが、この著書は良著でありますが、ここに書かれてある事は少なくとも私が今回述べている事の知識程度は知っておかないと充分な理解が得られないモノでもありますので注意が必要ですが、微力乍らも貢献できれば理解も進むのではないかと思い、あらためてレコメンドしてみる事に。

 いずれにしても音楽の面白さと、実音と虚像という双方を視野に入れたアプローチというのは、動機の産出にとても重要な事なので、こうしてナショナル・ヘルスの実際を例に挙げたワケですね。私の言わんとする事が少しでも伝われば、今まで私が述べていた事も少しは繙けるのではないかと信じてやみません(笑)。