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ブーレーズに学ぶ微分音の実例 - Doubles for Large Orchestra [アルバム紹介]

 扨て、今回は打って変わって微分音の話題を語る事に。しかも現代を生きる耆宿、ブーレーズを語る事になるワケですから、辛口で多弁なブーレーズの著書に劣らずこちらも辛辣に語ろう等とは微塵も思っておりません。師の用いる微分音の実例に、「器楽的」な意味での響きの重要性とその咀嚼の在り方を学び取ろうという切り口で語るモノであり、賞賛ありきで語る事ですので誤解なきようご理解いただきたいと思います。
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 前回迄は一般的なコード進行を取り上げつつ、ドミナント・モーションという類の調性のメリハリがきっちりと「刻印」された様な仕来りに於いても美しい進行というものはあるもので、和声がどれだけ体系化されようとも、その体系化に胡座をかいてどこぞの馬の骨が容易く抜粋して作る事など到底できぬ「咀嚼」という理解があってこそ曲というのは作られ吟味されているのだという事がまざまざと判ります。コード・ネームにすればそれこそ単純な和音の類に分類できようとも感性などそう簡単に分類などできぬモノであり、その辺のボンクラと希代のアーティストの感性が体系化に依って同じフェーズに括られるという事だけは時代がどれだけ進んでも有り得ないモノであります(笑)。


 和声的な技法でどれだけそれがポピュラーになって陳腐化して聴こえようとも、良さというのは失われないと思いますが、ある特定の和音やらの技法を使えば駄作が名曲に変貌したりするワケでもなく、「微分音」という少々箔を付ける事が出来そうなモノを導入したからと言って全てが名曲に変貌するワケでもありませんし、唯単に珍しさという興味だけで聴いてしまうという聴衆の姿勢も褒められたモノではないと私は思います。


 とはいえ、一般的には「微分音」という音に対して耳を研ぎ澄ませて聴いている人は稀でしょうし、平均律の空間の「半音」の集積ですら漠然とした感覚で聴いていてどちらかといえば調性というアンカーが打たれていないと楽音を聴くという事そのものに難儀してしまう人の方が圧倒的に多い中で、そういう一般的な人々の間での微分音の受容というのは、律された空間とは異質の音を漠然と聴くモノとしてしか感じていないのではないかと思いますし、寧ろそれが一般的な理解に於いては「至極当然」でもありましょう。


 然し乍ら微分音という物を吟味出来るか否かは別としても、単純な皮相的理解にしか至らぬとしても興味本位で微分音とやらに接するのも敢えて面白いモノだと思って今回判りやすい例で提示するというワケであります。人に依ってはまともにチューニングする事すら覚束無い所に微分音を認識させた所でどうなるのやら!?と疑問を抱く人も居るでしょうが、きちんと律された空間の中で「律された微分音」が施されているアンサンブルというのはとても綺麗に響くモノでして、ヘッポコ吹奏楽の一人がたまたま調子ッ外れの音がたまたま四分音ズレて放たれたアンサンブルだとしても、それはやはり全く違うモノであります。


 私が微分音を形容する際、よく「卒倒感」という様な言葉を使う事がありますが、時には「歯痒い」モノだったり、ある時は旨い物を食した時のほっぺの落ちるような感覚にも似た感じを受ける事がありますし、ボーっと何かを考え事をしている時の意識から誰かに声を掛けられて意識がそちらを向く様な、「弛緩」と「緊張」のメリハリを感じる事もあります。


 例えばブーレーズの作品「Doubles」という曲は、冒頭、概ね20秒を過ぎた辺りのチェロのピチカートが短七度下からgis -> fis -> gis -aと上行フレーズを放つ所など最たる所で、3四分音(=150セント)隔たる「二度音程」を耳にする事ができます。フルートに依る二声のd音とcises音(←!? ※cis=C#音に対してcisesという表記は50セント低いという事を意味したモノですが、どのように表記していいかは不明)という短二度よりも50セント高く長二度よりも50セント低い「二度音程」を聴く事ができます。私は実際に「Doubles」の実演と楽譜を見た事がなく聴いた事しかないので、実際の表記がどのように成っているのかは不明で、先の嬰種で示した音も変種の変化記号で表されている可能性もあるかもしれませんが、四分音という微分音が放たれているは間違いないので興味のある方は是非聴いてみて欲しいと思います。もしかしたらhisis(=便宜的に呼びますがH#《Cの異名同音》より50セント高い音の可能性もあるという意)こうした微分音への音って日本人の方がもっと特性を活かせるのではないかと思っている所はあります。一般的な人でも微分音を受け入れる下地が日本人には備わっているのではないかなーという感想を抱いているので、敢えて多くの人が個人的興味で微分音にも興味を抱くのは良い事ではないかと思っています。


 ※通常の十二平均律の枠組みでの理解ならば「hisis」と表した場合、それはcis=C#との異名同音でありまして、本来ならばC音よりも50セント高い音を示す表記ではありません。同様にcisesと表記している物も通常の枠組みであればcis=C#から半音下がったC音の異名同音にしか過ぎませんが、微分音を形容するに当たって便宜的に今回この様に語っているのでありまして(これまでも過去に微分音を形容する際にこうした形容を用いております)、通常の理解と混同されぬようお願いします。私が他に相応しい形容を知らないだけですので、その辺りはご容赦下さい(笑)。

 一応、先の微分音を用いている当該部分を譜例に2通り示してあるので参考までにご覧下さい。

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 微分音への興味というそれを近視眼的理解と安易な批判としてさせない為にも、こうして微分音の美しさを前もって言葉で表現しているだけの事でありまして、人に依っては「どう聴こうがやはり調子っ外れの音にしか聴こえない。こんなのチンドン屋だ!雅楽を聴いた方がマシ!」と声を荒げる人も居るかもしれません(笑)。しかし、チンドン屋さんだって外れて奏でようとしているワケでなく、当てこすり的なポルタメントやビブラートと気を引く為の演出で態と調子っ外れの音から入って来たりする「技法」を備えているだけの事で、微分音と平均律を同居させようとしているモノではないのは明白です。素人の人だって嘲る様に唄ってオペラ歌手を思わせるように深いビブラートで唄ってみたりする事があるとは思いますが、深いビブラートの音程差に関しては無頓着だったりするのが殆どでありましょう。

 とはいえ、微分音に対して漠然とした理解しか抱いていない人にいざ微分音の本質を理解してもらおうとするならば、やはりそこには実例と併せて言葉での形容が無ければ理解が進まないであると思いますので先述の様に語っているワケです。


 微分音への「無頓着」を頓着に変えて、そこから執着という風に変化する事が微分音への確かな認知行動であり、なぜそこに「執着」するのか!?というと、そうした響きが卒倒感だったり陶酔感の投影があったり、疼痛や快楽とは異なる幾重の情感が凝縮している感覚があるからに他ならないワケです。


 言葉を覚えるにしても、赤ん坊は「言語」ではなく「音の反復」としてしか捉えていないでしょう。その反復に伴う自分自身の営みの「安心」「不安」やらの二次的要素と一緒に体得する事で「音の意味」を覚えるワケでありまして、一般的な音は共鳴的な慣れの果てであり、ある程度言語を獲得したら今度は歌を覚える様になるワケですね。メロディを唄うにあたっては共鳴体の複合化された体が結果的に唄いやすいので、ハ長調ならばF - C - G - D - A - E - H(=英名B)という完全五度の共鳴体の複合化であり、転調を憶える時にはその共鳴体が隣接し合う共鳴体に「ズレる」様な曲を習得する事が教育上望ましい発展なワケで、文部省も要項もこうした所からきちんと成立しているのであると思われます。


 微分音というのは、半音よりも狭い音程に「意味」を見出す事に等しいのでありまして、時には半音の半分=四分音やら、短三度の半分=3四分音やらの情緒にも感覚的に鋭敏にならなければ意味を見出せない事となるので、漠然と聴く事なく耳を傾ける機会があるのならば、ブーレーズの「Doubles」は冒頭から導入されているので判りやすいと思うのでこうしてレコメンドしているというワケです。

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 今回例に出しているのはダルムシュタット・オーラル・ドキュメントのBOXに収録されている1965年の演奏の物を画像例に使用しておりますが、このCDは一昨年発売されたモノであり、私はクシェネクの「戦時のカンタータ」欲しさで入手したモノでありますが、まあ、ブーレーズの「Doubles」の録音は目の前で飛び出して来るかのような音なので、昔の録音と言えど侮れません。


 とまあ、ブログの話題は「振れ幅」の大きい題材ばかり扱っておりますが、これが私のブログの特色でもありますのであらためてご容赦願いたいな、と。足を負傷中なのでついついブログの方にチカラが入ってしまうのでありますね(笑)。