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短和音の平行 [アルバム紹介]

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 前回にチラッとジノ・ヴァネリの「Brother To Brother」を語ったので、この機会にジノ・ヴァネリの希代の名曲について語るのもイイかなと思い、語るコトに。


 私のブログに於いてジノ・ヴァネリの話題となると結構遡る事になりまして、嘗てはアルバム「Nightwalker」収録の「Santa Rosa」を制作したという事で取り上げたのですが、パッと振り返ってみても、それ以来詳しく語ってはいなかったのではないか!?と今更乍ら驚いている所であります。当時の記事もヴィニー・カリウタのドラミングを主に語っていたワケなので、意外にもジノ・ヴァネリの作品の器楽的な側面で詳しくは語ってはいなかったのである事に反省しきりであります。
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 ジノ・ヴァネリに遭遇したのは70年代も終わろうとしていた頃の首都圏台風直撃の時代を個人的には思い起こしてしまうのですが、テレ朝さんでひっきりなしにカール・セーガンのコスモス関連番組を放映していた頃でもあり、巷ではチョットした宇宙ブームと言いますか、パイオニア11号や今や冥王星の外まで到達してしまったボイジャー1号&2号で沸いていた頃でもあって、部活動の厳しいシゴキを思い浮かべるも、あの時の苦労があるからこそ大概の事は乗り切れるのだなと今では感謝している所です。まあ炎天下で午前中一滴も水を飲む事など許されないほどスポ根だったワケですが、そんな苦しみを解放してくれるのは、試合の時に遭遇できる他校の女子生徒の華やかさだったりしたモノでもあったモンでさぁ(笑)。
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 そんな私の欲情は扨て置き、ジノ・ヴァネリを知っているとその後KYLYNがKYLYN Liveにて矢野顕子がボーカルを担当する「The RIver Must Flow」のカヴァーを演奏していたりと、そんなアルバムに遭遇するワケですが、世に出てそれほど多くの月日が流れていないカヴァーとなるとアーティスト側としても結構思い入れの強い物なのだろうなーと感じ乍ら、あらためてジノ・ヴァネリ作品がマニア心をもくすぐってくれる高次な作品であるのだという裏付けを感じ取ったモノでした。そういう繋がりで坂本龍一&ザ・カクトウギ・セッションも知り、坂本龍一が今となっては珍しいカヴァー作品となるシスター・スレッジの「You're Friend To Me」を取り上げたりもしていて、素顔が曖昧なYMOというスタイルの特殊性とは別にYMO人脈の素顔というのが判るようでもあり、或る意味この人達もフツーの人なんだなと感じていたモノでした(笑)。当時のYMOブームは凄かったので時代が重なるんですね。ですから記憶がこの様に構築されているワケです。
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 ジノ・ヴァネリ作品は、所謂モーダル・インターチェンジを学ぶなら教科書とも言えるモノでして、結構仰々しく和音を鏤めて来るので和音に陶酔したい方には結構オススメだったりします。私のブログを継続的に読まれている方でジノ・ヴァネリを知らない人は少ないとは思いますが、あらためてオススメしてみます。遅くとも未成年の内には出会っておきたい、高校&大学では演奏したくなる曲のアーティストではないかと思うことしきりです。


 前回取り上げていたジノ・ヴァネリの「Brother To Brother」での当該部分はというと、いわゆるイントロ&コア・テーマ部でのコード進行で、GM9が現れる直前のコード進行の事だったのですが、取り敢えずコード進行を例に挙げてみましょうかね、と。

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EbM9 (on F) -> F7(b9,b13) -> EbM9 (on F) -> Db7(9, 13) / F -> Cm7(9, 11) -> BbM7 (on C) -> BbM7 (on D) -> Ebm9 -> Fm9 -> GM9 -> GM9 -> G#m7(b5) -> BM7(on C#) -> C#7(#9, #11) -> F#M9 -> F#M9 -> Ebm7(11) / Gb -> C#m7 -> G#m -> F#add9 -> C#6(9) -> F#7 (#9, b13)



 例に挙げた5~7小節部分がシゴキに遭遇していた時を投影した感じと、当時の友人で話し合っていた所で、7小節目のGM9が苦難を乗り切った後の達成感で、私の友人はその後のF#M9の2小節(11~12小節)が「家帰ってからの寛ぎだよな!」と言っていて事が今でも忘れられません(笑)。器楽的な心得など皆無なクセしてツボを心得ていた未成年のクセしてなかなか聴き所がイイ奴が居たモノでした(笑)。



 今回例に挙げたコード進行の冒頭4小節は、ベースをペダルにし乍ら構成音が近似するコードをイイ意味で「徒に」弄くり倒して変化を与えているのが妙味の一つとも言えるでしょう。ジミー・ヘイスリップがその後執拗なまでの3度ベースからルートに行き着くという類のベースラインは、拍頭から3度ベースに入って次の強拍でルートへ入るという類のベースラインでは、実はアラ・ブレーヴェでの曲(ジャズなどの倍テンポなど)では結構出て来るのでコレを機会に会得しておきたいモノです。


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 余談ですが、トム・バーニーに依る日野皓正のアルバム「New York Times」での同名タイトル曲での冒頭のBbのブルース一発系のリフなのですが、4/4拍子でシャープ9th -> 長三度から入って来て2小節目の2拍目までルートが現れる事なく和声感を壊さずフレージングをして、クロマティックの与え方も絶妙な為、こうした「半音のクサビ」の与え方はダブル・クロマティックにも応用が利くので、ウォーキング・ベースに於ける脈絡作りにもとても役立つヒントになるので是非とも耳にしてほしいベースラインであります(4ビートではありません)。

 こういうフレージングから4ビート系のベースなどとてもイメージできないといういう人はアラ・ブレーヴェに依る和音のノリ方も判っていない方だと思うので、背景にある和声感を壊さず脈絡の希薄な方向から半音のクサビを立てて、和音を構成する構成音の脈絡にぶら下がったり、またはダイアトニックな音へぶら下がったり、自分だけディミニッシュ(減七フレーズ)で動いてきて回転木馬に飛び乗った(この回転木馬がその時のモードに沿った世界)という色んな捉え方があると思いますが、ルートだけに固執する事なく和声感をも壊さないフレージングで、他の音とは脈絡すらも希薄な、それこそ複調要素の高いフレージングで飛び乗って来るかのようなフレージングにいずれは昇華できる事なので、こうした「ルートまでの急く事の無いフレージング」というのはジミー・ヘイスリップやトム・バーニーからも憶えられるので是非とも参考にしてみて下さい。


 でまあ、本題の短和音の平行移動なのですが、これは「同種」の和音の平行移動を示す語句なので、先のジノ・ヴァネリの当該部分は、E♭m9 -> Fm9という進行で「GM9」の部分が本当は調性が
嘯かれて本来なら「Gm」系を想起しやすい所に与えられるので、良い意味で「裏切られた」感が演出されるのでありまして、一時的なピカルディの3度とも言えるでありましょう。

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 マイナー・コードの平行というのは結構キマるモノで他でも結構多用されていたりしますが、他に例を挙げるならばスティーリー・ダンのアルバム「うそつきケイティ」収録の「Your Gold Teeth II」は好例ですし、余りに例が多くて出すのもうんざりしてしまう程ですが、響きそのものは決して陳腐化・形骸化しているモノではないのでコレがまたオイシイ物でもあります。
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 「Brother To Brother」は、公式に於いては「Live in Montreal」で同一アレンジで収録されていて、近年発売されたセルフ・カヴァーではキーが移調されているのでそちらは敢えてレコメンドすることは致しません(笑)。私は、どんな名曲でもオリジナル・キーこそが全て!と思っているので、移調されると全くの別物扱いになってしまうのであります。12のキーの情緒なんて平均律の空間なら本当は無いに等しいなんてカッコ付けて言っている馬鹿が偶におりますが、ならば唄モノ12種類のキーで用意して唄わせて全て同じ情緒や声質保って演出されるのか!?と問えば間違いなく馬鹿でも理解できるでありましょう。シンセですら音高と音域が変われば倍音成分は変わり(音高が高くなれば可聴範囲が狭まり倍音成分が低域に音高が推移するよりも少なくなる)コトにも加え、楽器には特徴的な固有部分音(=フォルマント)があり、その音に対してどのように基音やスペクトラムの分布があるのか!?で音響的な彩りや性質が変化するので、それらの合わさった世界(=アンサンブル)で律されたキーで形成された楽音がひとつの曲であり、移調したら全てが変化してしまうので全くの別曲になると言いたいワケですな。

 勿論、嘗ての古典的な音律でコンサート・ピッチが現在よりも四分音以上も異なる調的空間の受容はどうなのか!?というとコレは亦別の問題で、長い事時間をかけてコンサート・ピッチが変化するのとコンサート・ピッチが変化する事に「慣れる」事と、それによる楽器の音響的変化に基づく演奏形態の方法論の変化などが試行錯誤されて時代と共に変化していくモノで、これが蓄積されて現在の様にピッチが変化しても馴染む様になっただけの事で、突然コンサート・ピッチが50セントほど上げ下げさせて変化させれば、半音に満たぬ幅であっても演奏そのものから全く異なって来ますし、固有部分音との在り方も変化してきますし、現在ある音響空間の中で駆使された残響に基づくテンポの解釈やら突然変わる事になるので、絶対音感を持たぬ人間ですら差異感を認識できると思います。


 まあ、そうした移調に伴う音色変化やらの事は扨て置き、私とて調的社会は決して無視して取り扱っているのではなく、ベッタベタなほどに調性を強固に感じる曲を好き好んで聴いているワケでもありませんが(笑)、調性が多少うろつき乍らも、モーダルではないきちんとドミナント・モーションにて演出されている楽曲とて私は好んでいたりもするので、そうした彩りをジノ・ヴァネリひとつ取り上げてみてもあらためてこうして名曲を振り返る事で調性の在り方と移ろい方という双方の側面がキッチリ見えて来るのではないかと信じてやみません。