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定点観測が伝える客観的事実 [回想日記]

 坂本龍一に依る「スコラ 音楽の学校」が2013年に入り再び始まるコトになり、私自身この番組の趣旨が好きでこれまでも欠かさず録画してきたワケですが、どの回にも言える事なんですが、受講生の側に居る人は学ぶ事が多過ぎるが故に素直な表現が制限されている事に気付かず結果的に自己顕示欲の方を主張したいがために表現する音が歪曲してしまっているコトへの逡巡が見られ、自身の欲求の高まりから来る表現と未知の領域への葛藤が足枷になっている部分が顕著に表れていて、そうした受講生をある程度分類・体系できているという教育者としての側面も伺い知る事ができるモノでして、あらためて教育的な側面を実感するのでありますね。


 若い頃というのは生きて来た物理的な時間も少なく、その中で努力できるとすれば、寝る暇をも惜しんで器楽的な心得を少しでも多く蓄積したいが故に技能習得や知識を獲得するために時間を費やす事です。この時良い指導者の存在如何によって物理的な時間は更に縮める事ができるので効率が増して、技術的な側面と楽理的な知識を得る側面共に余力が増して情報量を増やす事が出来るモノです。

 若い人の多くは、自己顕示欲という「欲望」に負けてしまっている人が多いもので、それは、本来ならまだまだ表現しきれない音楽的語法しか獲得していないにも拘らず、自身の偏重的な癖によって歪められてしまっている没個性を唯一無二の個性として誤解してしまい、それを無理にでも主張してしまおうとするきらいがあったりします。本当はそうした「主張」というのは実はエゴを発端とするだけの無意味な「主張」でして、こうした無意味な主張を声高に声を張り上げるような「パワー」を備えていると誤認してしまっているだけで、脳レベルで見れば「楽な行動」を選択しているだけに過ぎないのです。そこを見付ける事が出来ない人は更に短絡的な欲求が起こる事となり、結局は自分に酔いしれているだけに行動になってしまうモノです。

 パワーがあまりにも漲っているので怖い物知らずの様に邁進して行けそうな牽引力を伴っていると誤解しやすいモノですが、技術習得の側面然り、音楽をもっと深く知ろうという知識の獲得という側面も亦、本来は自分自身を虐げる程辛いモノでありまして、脳が短絡的に「ラクな方」を示唆している方面に欲求というベクトルを同調させてしまうのは最も避けなくてはならない判断です。


 こう言っては語弊があるかもしれませんが、スコラの受講生の選出はとてもよく考えられてグルーピングされていると思うワケで、受講生の方々を罵倒するためにこうして論っているのではなく、彼らのひたむきな音楽への欲求がヒシヒシと伝わって来るからこそ、自身の欲望に負けて欲しくないという思いでついつい見てしまうのであります。私にもこんな時代があったなー、みたいな(笑)。


 先のスコラの第一回(シリーズ3作目)で、東京五輪の聖火ランナーや渋谷のスクランブル交差点を見て、どういう音楽を付けるか!?という題材がありましたが、東京五輪の方では拍節感があるファンファーレ的な音楽と拍節感の無いふたつの音を比較しておりましたが、言葉こそ違えど、東京五輪での後者として用いられていた拍節感の無い音楽に於いては殆どの人が「安堵」や「落ち着き」という、安らぎのある側面を表現していた様に思いますが、言葉にすれば色んな表現が十人十色で表れますが、マクロ的な面で見ると概ね一致していると思うワケです。

 「拍節感の無さ」という風には番組本編でも取り上げられておりませんでしたが、拍節感に依る支配というのはある意味自分の心拍や呼吸も無関係にそちらに同調して聴かざるを得ないワケで、あまりに乖離していなければ、その拍節感を「許容」して、音楽的なルールを以てして理解しようとするのが人間なのでありますね。例えば東京五輪のシーンでのファンファーレ的に用いられていた曲では、走者の足の運びを8分音符と捉え、それを2拍で大きくリズムに乗るような楽音にして構築されている曲でありました(キッカリとDAWのようにビートマッチングさせた様なモノでもありませんが概ねステップに合わせているという意味です)。


 つまり、走者のステップにある程度合わせて拍節感を意識的に感じさせぬ様にしても「調和」を忍ばせる技法があったり、それとは逆に拍節感を全く感じさせなくなるだけで映像と聴き手の主従関係が変わる(この点を捉えて説明されていたのが素晴らしい)という所がキモで、本来なら体のどこかで心拍や呼吸の支配がある中で、耳に飛び込んで来る音楽はなるべくなら自分の備えている呼吸感やら拍動から大きく乖離して欲しくないワケですが、好意的に高揚させてくれるタイプの音楽であれば人は「身を委ねる」ワケです。さらに身を委ねる必要がなく自身に感情のプライマリー・バランスがあると悟った時、文学能力に長けた人ならこういう時に文語的表現を駆使するワケですね。


 過去にも述べた様に、音楽的共通理解をないままに闇雲に自身の音楽的雑感を文語的表現でぶつけて来ようとする人が居たりします。読譜力がどうこうではありません。共通理解すら得ようとせず荒唐無稽に自身の思いを述べる様な人が居たりしますが、この手の人達は音楽を聴く事で快楽を得るのではなく、音楽を聴いた後にどのような語学力を駆使して言葉で表現するか!?というコトに快楽が作用している人なので、実際には陶酔している先は違う事を本人が認識していないという悲哀な側面ですね。こういう人はプライマリー・バランスが自身にある様な音楽を無意識に選別してしまうきらいがあったりしますので、こういう特徴もあらためて客観的に分析すると面白い事が判るかと思います。
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 加えて先のスコラでは、渋谷のスクランブル交差点の映像を元に音楽を付けさせるというお題を出しておりました。坂本龍一が言っていた様に方法論は幾つもあってどのように音楽を付けようが自由なんだとは言っていますが、過度に「楽音」に拘りすぎると、目の前の調律楽器の十二音から抜粋された「共鳴的」な体系化された和音の響きからの音楽的語法からしか音を構築できなかったりもしてしまうモノです。

 坂本龍一の場合は、アコースティック・ピアノを用いようとも、平均律内の音を使うのではなく特殊奏法によって低域の潤沢な倍音を利用してジョン・ケージの様な微分音を含んだ豊かな部分音をクラスターのようにさせて、おそらくは雑踏やらを形容しているのだと思いますが、受講者の表現はいずれも「器楽的」だったのが顕著でありましたね。その「器楽的」な偏重具合も実に巧く体系化されていて、右手と左手のポリフォニー感が宿っていたり、垂直的な和声への響きがおそらく鋭くポリフォニー的ではないものの、与えられた音でどうにか表現しようとしていたり、手癖を極力回避しようとギターで表現しようとしていたりと、色んな人がおりましたが、あの場面でもっと客観的に見なければならない物は非常に多いと思います。

 例えば、客観的な「定点観測」という物は概ね喜怒哀楽を稀釈化させるというコト。例えば3.11以降の原発事故の映像ですらも、あれほど誰もが戦く様な事態なのにも拘らず、定点観測が戦慄を稀釈化させてしまうというコトですね。湾岸戦争のピンポイントな爆撃の映像も最たる例でしょう。
 加えて、スクランブル交差点を行き交う人の波も、これまた他人同士の「社会的距離感」という物がありまして、マクロ的に見ると、進むべき道に進もうとする人の群れは一定の間隔に「群れ」が生じているモノで、歩幅自体も人は大きく違うワケではない。そこで「信号」という社会的秩序が向かうべき道を人に対して「制限」していて、流れるべきもうひとつの「潮流」が車両であり、それが動き出す直前では人は急ぎ始め、車の群れはある一定の車間距離を保ち乍ら動いていくという、数分単位のこうした繰り返しというのは、ある部分を断片的に抜粋すれば一連の「シークエンス」でもあるワケですね。そのシークエンスという抜粋を「無窮動」の様に表現する事も可能ではありましょう。


 そうした多くの「ファクター」をああした映像からどれだけ導き出すか!?という所が答のひとつでありますが、こうした所を教鞭を執る側は逐一懇切丁寧に言葉で説明しているワケではありませんが、それを「見ぬく」コトが必要な事なのでありますね。ですからバレエ・メカニックなどの映像が出て来て何を思うか!?というコトが問われるワケですね。