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七つの海が凪ぐ頃 [回想日記]

 今回の記事タイトルは少しだけポエミックに(笑)。まあ七つの海と申しましても海洋は続いておりましてひとつの海なワケですが、確率としては全くのゼロではないといえどもかなり確率は低いといえども海洋全体がベタ凪ぎになる事ってあるのかもしれません(笑)。「平衡状態」という事でもありますが。


 音波も空気の「海洋」を漂うモノでありますが、人間の聴き取る波は意外と限定的でもありますよね。動物達はもっと高次の周波数を聴き取っている様ですが、かといって小動物は低次の周波数を嫌うので、ペットの類は男声よりも女声の音高が好まれやすく懐きやすいとも云われておりますね。とはいえ10オクターヴ程度の範囲を聴き取っているワケですから耳って凄いなー、とあらためて思うことしきりなワケです。


 不思議な事に耳が肥えて来ると、原色の様にドコを向いても方角が分かるかのような調性の情緒が放たれている曲調から段々離れて来る様であります。とはいえ調性というのは誰もが認識しているモノでもありますが、調性が希薄と云えば良いでしょうか、曖昧な音を受け入れる様になってくるモノです。


 そうした方面の最たる方向に「無調」という技法を用いた音楽があるのですが、無調に対して誤解があってはならないと思いますが、シェーンベルクのセリー技法を導入しても倍音と和声外音が齎す作用に依る牽引力やらを考慮すると、無調という音楽も実は何らかの牽引力があって真の無調は無いと謳う音楽家も居ると思います。

 無調への反駁というモノをさも「トーナリティーvs無調」という風に片付けてしまって両者を対立関係にある様に煽る連中も居るかと思いますし、実際にそうした対立構造によって人間関係が崩れた音楽家も過去には存在していたりするのも事実ですが、そういう対立構造というモノを近視眼的に見てしまって傍からやいのやいのと騒ぎ立てるのではなく、少なくとも両者がどういう立ち居振る舞いで、その中でどういう風に理解すれば良いのか!?という事をあらためて述べてみたいと思うんですが、私の見解としては次の通りです。

 シェーンベルクのセリー技法というのは、突き詰めれば調性という牽引力に凭れ掛かる事の無い「動機」を導入して構築させていく事の体系化であると私は考えています。つまり、断片的に浮かんだモチーフのそれを限りなく調性という世界の仕来りにおんぶにだっこの状態として凭れ掛かる事なく推進させる事が重要な技法だという事を意味します。調性に凭れ掛かるかのような作者個人の調的なクセなどを排除する意味での「凭れ掛かる事のない」という意味です。

 但し私の見解としては、そのような「無調」というのも地球上で実現可能な「無重力状態」と似たようなモノに置き換える事が可能でして、例えば飛行機が急降下した時の機内は無重力状態を実現できるのと同様ですが、あらゆる素粒子の構造すら平衡状態にしてしまう程の牽引力を逸する状態のような極限の状態を形容する事が、言うなれば真の無調なのであるから無調は実在しないのだという様なモノだと思っているのです。

 因みにシェーンベルクにしてみれば、先の機内で起こる無重力状態のレベルで充分の「無調」を実現しているのではないかと考えているのが私の見解でして、それに反駁するポジションの人達は「いやいや、その程度じゃまだまだ」と許容しないスタンスでの対極のポジションこそが「調性vs無調」の対立構造なのだと私は思っております。


 シェパード・トーンや無限音階にある通り、聴覚の錯覚が人間には表れてしまうワケで、そんな錯覚も排除してあらゆる音に対して聴き手も本当にニュートラルで居られるのだろうか!?という疑問も私の見解のひとつでして、本当の意味での調性の呪縛からの解放というのは無いのではないかとも思っています。とはいえ生まれて来た以上は必ずしや「縁」がある物と同様で、切っても切れない縁があって、疎遠になろうともどこかで調的な「縁」を感じているのが実際なのではないかと思います。


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 エルンスト・クシェネク(クルシェネクやらクレネクやら色んな呼び名があって統一されておりませんが、現在私のブログではクシェネクと呼ぶ事とします)という人はヒンデミットと関わり合いを持ち乍らも十二音技法に傾倒して今度はヒンデミットの無調への批判を非難したりという争いもあった様ですが、奇しくもアンセルメもストラヴィンスキーとはそれと似た関係にあったようで実に感慨深いのであります。


 私が先頃ツイッターにて呟いていたのは、クシェネクの作品である「戦時のカンタータ(作品95)」がYouTubeでアップされていたので、呟いていたのですが、ウィキペディアの英語版にある様に、この作品には11声に依る11音和音(northern lights chord=極光和音)が導入されているので興味深い所でもあったりするのです。ウィキペディアの方ではノーザン・ライツ・コードという紹介があって私は字数の関係から「極光和音」と語っておりましたが、11音和音という事は十二平均律に於いて半音階から1つの音を除いた状態と言えるワケです。



 半音階の総和音という状態からひとつ音を抜いている、という事を意味しますが、ひとつの音を抜くだけでも和声的な響きは隙間を得る事で響きを増して、実際に鳴る音の
響き以外に、「抜く」事によって得られる響きを感じる事ができると思います。

 こうした抜く音は勿論鳴っているワケではないので、鳴っていない物を知覚しているワケではないのですが、その音への存在に意識が行っているのも確かだと思います。扨て、コレをクシェネク自身はどういう「牽引力」として片付けるのか非常に興味深いのでありますが、実際に鳴っていない音にもこうして注視してしまう現実があるワケですから、宇宙に置き換えるならば、目に見えていないのに存在そのものは確実に「在る」と言い切れる暗黒物質と同様の役割に似た置き換えができるかと思います。

 もっと他の形容で置き換えれば、実像そのものは見えない真っ黒の服を来ている人が確かに居て誰かは判らないけれども他は明るく照らされていてその人だけが陰になっているのが判る状況が先の11音和音の状況とも言えるでしょう。


 私は、こうした実音が無い状況であろうともそこに「因果関係」があるならば調的な牽引力からの解放は無いのではなかろうかという見解なのであります。実音を伴った牽引力じゃないから別だろうという人も居るかもしれませんが、高次レベルの「調性vs無調」という言い争いはこうした所で言い争われるべきであると思うのですが、唯単に皮相的にこうした対立状況を論っているだけではなかなか本質が見えて来ないのではないかと思うのであります。


 こう考えると、ヒンデミットやアンセルメの立場というの物も実に良く見えて来ますし、シェーンベルクを初めクシェネクだって無調をどういう風に扱おうとしていたのか!?という事の「対比」を見る事ができると思うのですが、実際には本当の無調というのは無いのではないかという前提で私は楽音を聴いております(笑)。


 先の、航空機の急降下程度で作り出される無重力状態である事で満足ならばそれは「無調」でもあるでしょうが、本当の意味で無重力状態になったら素粒子の体も保てなくなるほど構造が引き延ばされてしまうのがオチだろう、というのが意地悪な方面の極論(笑)。

 通常の枠組みの中では両者は既に共存していてどちらも不正解ではなく、受け入れられてるのではなかろうかと思います。


 宇宙というのは不思議なモノで、常に膨らみ続けていると言われておりますが、少なくともビッグ・クランチよりかは永遠に膨らみ続けるという説が有力というのが大多数なワケですね。


 物凄く膨張していった先の宇宙というのは、例えば我々の肉体やらをも組成している分子構造や原子や素粒子も引き延ばされていってしまって、それぞれの素粒子の距離の牽引力が保てなくなる程引き延ばされた時が「真の真空」状態であり、これこそが「無」と言われる状態だとも言われております。「無」という秩序の体を保てなくなって逆ギレ起こしたのがビッグバンだという事を思うと歴史はいつか繰り返されるのではないかとも思えるのですが、私が注目したいのは引き延ばされるまで引き延ばされていった場合のシーンです。

 その状態は、確かにとてつもない距離にまで引き延ばされてしまったものの、超巨大な素粒子の構造や原子構造とも言い換える事ができるワケで、「距離」という尺度を変えてしまうだけでなんら変化も無いという風に「相転移」させて考える事も可能なワケですね(笑)。こうした面白い着眼点の本が講談社文庫から出ている二間瀬敏史著の「ここまでわかった宇宙の謎」という本だったのですが、この本を読み乍ら私は「調性vs無調」も結果的には先の例に似た様なモンなんだろーなーと考え乍ら読んでいたモノでした。


 例えば、半音階の総和音という12音コードがあったとしましょうか。どのように転回しようがどの様にヴォイシングしようがコードのそれは半音階の総和音状態に変わりはないのでありますが、音の響きとしてはどれもが同一であるかと言えば全然違う事が判ります。むしろ、和音という体がシンプルな状況下でのあらゆる転回形でのそれよりも響きは多様で、とても同じコードの体とは思えないほどに響く事でありましょう。

 そこからたったひとつの音を省いた状況が11音和音という生易しい状態ではないというのも同様なのですが、隙間を与えた事でより一層響いているのも確かでして、コード表記から見れば体系化できようとも、11音のそれは10個の半音と1個の全音という音列から組み合わさった物だと考える事が可能だとしても、それに対して愚直な体系化を行うのは愚かな行為に等しいでしょう。

 調的な世界の枠組みならまだしも、どのような状況がひしめき合っているのか!?という事を踏まえた場合、少なくともひとつの調性では語る事のできない世界と同様の体系化と転回を同一視していいのかという疑問もあります。

 というのも、つい先日二全音離れた二つの長三和音(B△とE♭△)は、確かにE♭とD#が異名同音で共有して接続し合っている六声ではなく五声の和音ではあるものの、両者を同一視してはならないという事と同意でして、同じ音が犇めき合っているだけとしての状況として捉えてしまうと本来重視しなくてはならない体系を見落してしまうからでありまして、少なくとも複数の「調性」を暗示している様な状況に於いては異名同音ですら「同じ音」ではないという風に考えてもよさそうです。


 半音階の総和音だって、1オクターヴあたり2~3音に留めておいて開離させればとてもよく響くと思うのであります。トーン・クラスターと呼べるに相応しい「塗り潰し」とはまた違う状況とも言えるでしょう。和音そのものを「転回」させてあたかも「塗り潰し」の様に理解してしまうのでは早計だとも思えるワケです。

 クジラがポルタメントを駆使してそれこそ人間の様にピッチを階段状にして認識する事なく多様なポルタメントを聴き取っている重要な側面は、あらゆる振動が作用する水波に阻害されないように音の「塗り潰し」を行っている賜物でありましょうし、単純なパワーコードという空虚五度も、楽理に疎いお兄ちゃんが偶々説明不可能なだけで、パワーコードの隙間に埋め尽くされた非整数次部分の部分音の「塗り潰し」に魅了されているのは、唯単に塗り潰されていれば良いというモノでもなく、歪んだ音のメーカーやエフェクターのキャラクターやらをきちんと認識した上で違いを選別していたりもします(笑)。

 つまり、ジェフ・ベックのチョーキングの嗚咽に官能的な作用があったり、歪み部分で人々を魅了するのも十二の音とはまた別方向の音の集積が齎す作用だったりもするワケで、こうした「塗り潰し」は唯単に二度和音(=四度和音)の集積よりも本当は微分音の方まできちんと目を向けて追究していかなくてはならない方面なのかもしれませんね。