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属音から見える完全11度音とはつまり!? [回想日記]

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 前回は松田聖子の「瞳はダイアモンド」のイントロのコード「CM7(on D)」まで引き合いに出して来た私(笑)。嘗てのアイドル・コンテンツではありますが、アイドル路線を手当たり次第に性的欲求のなすがままに聴いていたのではなくてですね、単純に器楽的な側面であるバック・ミュージシャンのプレイを追って聴いていたモノなので誤解なきようご理解いただければなと思います。音楽とは無縁の性的欲求の牽引力を手掛かりにした所で身に付く事などありゃしませんからね。音楽へ興味に対する動機という物も音楽以外の何かを頼りにするのではなく、自発的に器楽的な興味から見付けて来れない様ではなかなか習熟しないのではないかと思うことしきりです。




 とはいえ音楽とは少々趣きの異なる方角からの欲求を手掛かりに動機を見付けて「欲求のなすがまま」というのはある意味でストレートな表現なのも確かであるでしょう。人間の端的な言葉の上での表現というのは、ホントはキモチのそれをそのまんま表現している言葉でも無いように思えてしまうワケであります。喩えは非常に悪いですが、痴漢行為のそれは性的欲求のエゴの塊でありましょうし犯罪者からすれば素直な行動なのでありましょう(笑)。

 そんな悪い例を挙げるのはアレなので別の意味で言うならば、例えば「観たまんま」「聴いたまんま」を素直に表現する、というのは言葉の上では確かにそうかもしれませんが、実際は各人の偏りある目線や感覚で結果的に脚色してしまっている事が殆どだと思うんですね。それこそ観たまんまの事を絵に描けるとすれば素晴らしい写実的な作品を描ける事となりますし、「聴いたまんま」をそのまんま表現できるのならば、その通り再現しようと手取り足取り指示できれば名指揮者にもなるかもしれませんし、あらゆるアンサンブルを構築可能かもしれません。

 観たまんま&聴いたまんまという物を表現しようにも器楽的な面に於いては語るべき言葉が見つからず、着眼点や分析角度もどこから語れば判らなくなってしまって結果的に言葉の上での形容詞やボキャブラリーだけで上塗りしてしまっているだけで本質は何も語っていなかったりだのと、CDのライナーノーツやら音楽雑誌やらの一部の唾棄すべき評論などに多いじゃありませんか、こーゆー類のが。本質だけを語ると言葉にも重みがなくなるってぇんであらゆるボキャブラリーを駆使して大言壮語が始まってしまうワケですね。

 そのような事をあらためて踏まえると、言葉の上での「観たまんま・聴いたまんま」というのは観たり聴いたりしているようで実はそうではないという事が判ります。しかし乍ら、そういうハードルを越えて、本当に共感を得る類の物を多く表現している人の表現力というのは、一般的に「目や耳が肥えている」と言われる事が多いのではないかと思います。端的に表現する事も本当は難しい事なのだという事が判りますし、シンプルな楽曲構築である筈なのに、そのシンプルさと純朴な感性が本当に備わっているのであれば、シンプルな姿は軈て集積化されて高次な音楽をも産む筈なんですが、殆どのケースは体系化された世界で満足してしまうのか停滞する人が特にロック界隈では多いと思います。


 ロックの世界というのはカウンター・カルチャー(=反体制)という文化ありきの音であるため、その音の粗暴さや暴虐的な言葉によって世界観をさらに歪曲している様が美徳ともされるワケですが、体系化された美徳とやらを皮相的に手に入れるだけの「なんちゃってロッカー」というのは何時の日にも生まれては消えているのが現状です(笑)。

 チューニングの仕方ですら反体制で居たら流石に示しが付かないので、どうにかこうにか社会の振る舞いを覚えたら、今度は調性のルールを見付けて調性に歯向かうのかと思いきや、調性にドップリ浸かった曲しか作る事しかできず、ほんのチョットのメロディの断片をさもご丁寧に扱っては、その後の構築はどこかで聴いた様な音楽に終始してしまう事など日常茶飯事。セカンダリー・ドミナント覚えた程度で調を1周した程度で悦んでしまっているのが関の山なんですな。


 本当の意味で感性に純朴であるならば、メジャー・トライアドなんてぇのは純朴な姿なワケですから、この体を必ず見付けて来れる筈なんですな。

 何を言いたいのか、というと、バイトーナル和音の類だってペレアス、エレクトラ、ペトルーシュカ、ドゥアモルの類の和音がありますが、ドゥアモルを除けばそれぞれはメジャー・トライアドが2つ組み合わさった響きであるのです。

 例えばKoRnは通常の調性で生じる音列に歯向かうように、奇を衒う方へパワー・コードを進めて行ったりしますね。これはある意味でロックという音楽が調性に蔓延る事を逸脱しようとしているシーンの到来とも取れるワケです。こうした調性からの呪縛から解放しようという動きはオルタナやグランジの頃には散々試されて来たと思うワケで、ニルヴァーナもその典型だったと思います。

 しかし、やはり彼らの感性とやらもそこまでの「体系」に収まってしまうのか、その先から少なくとも15年位はもう進んでいないのであります。本来なら彼らの様なシーンから先のバイトーナル方面の響きが出て来ても不思議ではないんですね。本当に純朴な感性を有しているのであるならば。

 体系を知っても結果的に単一の調性内で及び腰になってしまうのが関の山だから、これ以上突き詰めると迷走してしまいかねないってぇんで、それ以上の発展を止めてしまうようなモノでもありまして、本当ならロックは多調方面に目を向けてナンボだと私は思うワケですね。勿論これから半世紀・1世紀進んで行くような時代の到来の兆しとしてニルヴァーナやKoRnの様なバンドが輩出されて来ているのではあるのでしょうが。


 でも、クラシック界の方からすれば、先のバイトーナル系の和音の登場など今から100年も前の事なんですね。私がそうした和音の世界観をブログで声高に叫ぶ様になるまで100年の月日を要するのかもしれませんが(笑)、どこぞの洟垂れ小僧がごくフツーにバイトーナル和音を語れる位に浸透するような音楽の世界の輪廻というのはやはり1世紀以上のスパンは必要なのだなぁ、とあらためて思うワケでして、数年前くらいの坂本龍一のNHKのスコラに於いても150年位で音楽は変わるという事を述べていたモノでしたがまさしくそう思えるのであります。

 以前にもニルヴァーナの「In Bloom」を引き合いに出して、結構興味深い和声が得られているという事に言及していた私でありますが、楽理的側面など全く無関係かのようなシーンで、こうした和音を聴く事ができるというのは、軈て和音が更に複雑化していくという未来への予兆なのでありましょう。

 単一的な調性の枠組みを知るという事もとても重要ですが、その先の複調・多調の世界も同様に重要なのだという事を今一度認識すると面白いと思います。