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ジョン・エサリッジに依るPutting Out The Bish [プログレ]

 ラヴィ・シャンカールの訃報が入り俄に驚いている私ですが、シタールを爪弾く偉大な音楽家とて歳には勝てないという事実もさること乍ら大御所の地位を生前に超越する様な新たな人間の到来を前に逝去してしまうのは現代のあらゆるシーンで痛感してしまう事実。


 知らない所では巨匠の交代と新たな訪れが在るとは思うのでありますが、高度な情報化社会は決して低俗な輩をも高次のステージに立たせるワケではないというのも皮肉なモノであります。

 ノラ・ジョーンズの父だったというのは今回初めて知った事なのですがそんな方面の驚きはどうでもいいのでして、音楽的な感性を研ぎ澄ませる為には意外にも情報に欠乏している位の方が欲求を高ぶらせる良い材料だったりして(笑)。

 扨て、今回は記事タイトルにある通り、2nd Visionというジョン・エサリッジとリック・サンダースに依るユニットが遺したたった一枚のアルバム「ファースト・ステップ」収録曲「Putting Out The Bish」について語ろうと思います。


 現在このアルバムはリマスター再発されており、そちらでは「ファースト・ステップ」というタイトルは消え、ジョン・エサリッジ&リック・サンダース名義での「2nd Vision」というタイトルに変更されております。

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 エサリッジという人はダリル・ウェイ人脈で、その後のハーヴェスト期ソフト・マシーンのアラン・ホールズワースの後継ギタリスト(ホールズワースが後釜に推薦)なのでありますが、一般的なソフト・マシーン感として、ハーヴェスト期辺りからはグッとクロスオーバー色が強くなり、ロック・フィールドの人間を遠ざけてしまう傾向があるものです。

 実際には、そこに忍ばせられている音楽的な《毒》の魅力に多くの人が気付かないのであり、食わず嫌いのリスナーを増産させてしまう事に。

 非常に高度な音楽的な魅力に気が付かない人は、《クロスオーバー然として聴かれてしまう》それを皮相的に捉え、《少々軟弱化した》だのとレッテルを貼ったりしてしまうモノですが、音楽面では皮相浅薄な理解で捉えて近視眼的に聴いてしまうと重要な所を聴き逃してしまうので注意したい所です。音楽的に心底理解を深めたい人はパッと聴きのサウンドやらに耳を奪われてしまわないように楽音を聴く様に心掛ける事を強くオススメします。


 然し乍らあらためて感ずるのは、エサリッジのアコギでのプレイが絶妙で、ラーガ風な曲想のそれにはジミー・ペイジのコンポージング(作曲)が好きな人なら間違いなく食い付く類のモノでして、ジミー・ペイジを引き合いに出さなくとも理論面に於いても高次な側面が用意されているのでこうして取り上げるワケであります。ツェッペリン程度しか知らない様な人でも騙されたと思って聴いてもらいたいという思いでこういう例えにしているのはご容赦ください。

 90年代にカンタベリー・シーンの再認識があった時期と重なる様に、エサリッジはアンディ・サマーズの連名で93年に「Invisible Threads」というタイトルで二人がアコギを弾いているアルバムがリリースされております。

 こちらのアルバムはテクニック方面を押し出したモノではなくラーガ風でもない方面の音世界の波間を漂う様な演出が施されているモノで、本アルバム収録の「moravia」という曲のセヴンスsus4コードの取り扱い(モード想起)はとても参考になるのではないかと思いますので興味をお持ちの方は是非聴いてみてください。この曲のクレジットは二人の連名によるモノですが、アルバム冒頭を飾るサマーズの「broken brains」も秀逸でオススメの一枚です。

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 扨て本題に入りますが、ラーガ風とはいえど色んな方法論があります。モノホンの世界観ですと微分音はおろか、オクターヴを12等分していない分割で生ずる微分音も生じたりします。それを12平均律で表現した時のラーガ風の音楽というのもありまして、そうした独特の情緒を活かすには通常の「ドレミファソラシド」という音列に補足されにくい旋律の動きをしないと、ついつい耳に馴染み深い方の音並びに聴衆は食い付き易くなってしまい、ラーガ風に聴こえなかったりする事もあります。

 つまり、今回のポイントは12平均律に収まるラーガ風の曲想であり乍ら、通常の音並びに聴こえさせない様な情緒を巧みに活用しているプレイだという事を言いたいワケです。

 例えば、増六度、長七度、主音という風に音を並べるとしましょう。通常7音で構成される音列(=ヘプタトニック)に則っている音社会に於いて我々が馴染み易いそれに「増六度」が生ずるのは稀です。増六度というのは半音の数で言うと半音10個分の音程なので、通常の馴染み易い所での取り扱いでは半音10個分の音程は我々は「短七度」で扱う事が多いという事は多少なりとも楽理を認識されている方ならお判りの事でしょう。

 そうした半音10個の音程で「増六度」なワケですから、階名を与えた時に主音を「ド」と置き換えた場合、「ラ」に相当する6番目の階名が主音から半音10個分に相当する音程位置にあるという事を意味します。因みに主音までは12個なワケですから10個目の増六度と主音の間の11個目の音は、ヘプタトニックの音社会の枠組みに於いては自ずと「長七度」しか存在しない事になります。


 扨て、増六度、長七度、主音という音並びは、実際には半音音程です。半音音程が連続する音階というのは是亦限られて来るモノで、半音階を除けば、馴染み易い所ではジプシー系の音階だったりしますが、その他には「謎の音階」という物もあったりします。


 謎の音階というのは「ド レ♭ ミ ファ♯ ソ♯ ラ♯ シ ド」という音階でして、レ♭の音をスケール・トニックとして(=主音として)音程を数えた場合、重増五度・増六度・長七度・主音という風に半音音程が続く事にもなり、こうした半音音階を唯単にダダ弾きしてしまうかのような、音階としての情緒に希薄な為、スケールライクに弾いてしまうとスケールの情緒に凭れ掛かる事ができないが故に情緒を失い意味が希薄な半音音程の羅列にしか過ぎないフレージングになってしまうのが落とし穴だったりもします。

 こうした音階はある程度音楽に習熟している人でも取り扱いはかなり難しい方の音階でありますが、エサリッジはこうした所を巧く活用していて独特の情緒を得ているワケです。




 今回例に出した「Putting Out The Bish」の楽曲の拍子構造について、嘗てはハチロク(=6/8拍子)として明記したのですが、テンポを 'Vivacissimo' (ヴィヴァーチッシモ)という四分音符=173ca. という解釈にあらためる事としました。

 ハチロクで採っても構わないのですが、そうすると譜例として表す時の符割が非常に細かくなってしまうのです。32分3連符として表さざるを得なくなり、拍子感よりも音数の多い線を引き切ろうという風に視覚の側が急ごうとするので、この切迫感を避ける為に大きな拍節感として視覚に訴えかける意味で3/4拍子という解釈に変更しました。

 また、この変更に伴い以前は「ミクソリディアン何某」という部分を「ルーマニアン・メジャー」というモードにも変更する事にしました。ルーマニアン・メジャー・スケールは別名「リディアン・ドミナント・♭2nd・スケール」としても知られておりますが、譜例制作に伴いミクソリディアンの変応という大雑把な解釈から、より厳密な解釈へと変更しました。

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 Aテーマの冒頭は、モーダル・トニックである「E」を基準に短三度等音程=スロニムスキー流に言う所の「セスクイトーン進行」(1全音半進行)によってオクターヴを分割した短三度/長六度進行に依って、オクターヴをセスクイトーン分割されて生ずる各コードの根音は「E」を規準とした減七の分散で表す事ができるものであります。

 例えば、渡辺香津美の「Unicorn」での曲終盤のブリッジではアッパーのAマイナー7thに対してベースがこれと同じようにセスクイトーン進行(およびセスクイトーンの転回=長六度)に依る進行を行いますが、和音そのものは全く違う物の似た側面はあるかと思います。「C#m7」というのはポイントで通常の感性ならばここは「C#m7(♭5)」になりやすいのですが、そうさせない為の情緒が忍ばせてあるワケですね。ハーフ・ディミニッシュをあてがってしまうと「よくある情緒」に陥りやすいのです。




 もっと注目していただきたいのは「5」の部分のコードです。これは、通常の世界観で解釈した場合はE音を母体とする「E7(#9、♭13)」の表記として済ませられるものの、実際にはポリコード&ポリモードの世界観が必要な部分であると断言します。

 ジャズでは先の表記の様に「E7(#9、♭13)」とあっても7th音をオミットしたりする例も偶に遭遇します。それが偶発的に生じているモノであればそれはやり過ごしてイイのですが、意図的に7th音が表記はされていても実際には省かれている場合、そこは大半のケースでポリモードを想起してあげた方がよろしいパターンです。

 私が今回示している上下のモードを見ても通常の音世界では互いの脈絡の無いモードでして、例えばそれが「F△/G△」だったとして上にリディアン、下にミクソリディアンだと上下の調域は完全にハ調域で一致してしまう様なそれとは全く異なるという事はお判りだと思います。こうしたポリモードの世界観はテーマ部のメロディを追えばすぐにお判りいただけるかと思います。


 扨て、6番目の「E△/F#△」はメロディが無い部分では「F#7sus4」と表記しても充分なのですが、テーマのメロディがF#△のメジャー3rdから入って来ている事を思うとsus4で扱うにはかなり無理が生じ、さらにドミナント7th系の表記で完全十一度音を包含する「F#7(11)」としてしまうのも、皮相的な理解にしか及ばない輩が揚げ足を取ってしまうかのような誤解を招きかねない所にも配慮すると「E△/F#△」という表記が一番腑に落ちるだろうという事でこういう表記にしております。

 但しその場合、コード表記はポリコードなのにモード想起がF#側だけ、というのは結果的にドミナント7th上でのナチュラル11thを扱う系の音を出して欲しいという意図があるための配慮なのでありますな。ピーター・ゲイブリエルの「I Have The Touch」やらYMOの「Perspective」のエンディングとか、松原正樹の「Been」やらと挙げればキリがありませんが、所謂11thコード・サウンドというのはそういうモノだという事をあらためてお判りいただけたら幸いです。

 で、私は4番目のコードを敢えてスッ飛ばして解説しているのでありますが、本作に於いて最も重要な取り扱いは「B♭△(#11)」の扱いなんですね。唯単に「B♭(♭5)」とか表記する所もあったりするでしょうが、長三和音の5th音が常に半音下がったモードを想起されると困る(長三和音の第5音が半音下行変位する硬減和音を含むモードを想起する事は可能ではあるものの)のでこうして表記しているのであります。しかもテーマ部のメロディを聴いていただければお判りかと思いますが、B♭という根音(スケールの場合の主音)から見ると、メロディは「A -> G#」という風に動いているのがお判りかと思います。

 つまり、B♭△から見ると「あたかも」メジャー7thと7th音を使い分けているように思える音使いなワケですが、長七と短七を使い分けているのではなく「長七度と増六度」を使い分けているという所が真相なのであります。つまり、メロディがG#音へ言ってもそこで「B♭リディアンから瞬時にB♭リディアン・♭7th(=リディアン・ドミナント7th)に移行」という風に考えてはいけないのであります。これが重要なポイントなのです。

 七度の音が長七→短七という風に理解してはいけない、という所が最大のポイントで、長七度を扱い乍ら増六度を想起する、というのが最大の醍醐味でありまして、メロディもそうした特殊で独特なラーガの風合いが最も顕著に表れている場所であります。この情緒を取り扱える感性を備えているか否かで、エニグマティック・スケールを与えても半音の羅列を持て余す様にしか取り扱えなかったりしてしまいがちなので、半音音程の多さに惑わされない音階が持っている本当の情緒を弾き出してあげなければならないのであります。

 音階単体で情緒を得にくい類の物は得てして中性的であったり全音や半音音程の連続が重畳しい場合が殆どです。こうした音階に対して情緒を得易いアプローチのひとつとして、長音階の断片や長三和音の断片を見付けて、それらに加えて「something」の三和音の断片との混合、という風に捉えるとイメージしやすいかもしれません。または四度和音の断片として見付けて来たり。

 以前にも私のブログで、ドナルド・フェイゲンのアルバム「Kamakiriad」収録の「Tomorrow's Girls」を例に出して、イントロの冒頭のコードが「謎の音階」(=エニグマティック・スケール)から生じる和音だという事を解説した様に、取り扱いが難しそうな音階でもこうした「断片」を見出して、それらの組み合わせを耳が拾い出せる様になると音楽の聴き方や演奏の仕方など飛躍的に拡大するかと思います。
 
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 Cエニグマティック・スケールを例に挙げて例えると、fig.1の譜例の様にEオーギュメント、F#メジャー・トライアドという断片に対して低音に単声でB音(=H音)を与えると、結果的にCエニグマティック・スケールの総和音を導く事が可能です。同様に先の上声部をオーギュメンテッドではなくEメジャー・トライアドにすると、低音の単声部は自ずとC音を導く事で総和音を得る事となります。

 理論書の方では「全音階的」という呼称があり、この呼称は音階全ての音を用いた和音という時に用いられるモノです。但し「全音階」=ダイアトニックというのは、調性の仕来りありきでの枠組みと誤解されている人もいるため、長音階と短音階を考慮に入れない特殊な音階における全音階、或いは全音音階の全音階、という呼び方も可能ではありますが、私はそうした全音階的和音を「総和音」として呼んでいますので、おそらく混同は少ないかと思いますが今一度あらためて念を押しておきたいと思います。

 扨て、ハナシを戻してCエニグマティック・スケールを例に挙げてどのような断片を見出す事が可能かというと、今度はfig.2の様な断片および等音程の組み合わせを拾って来る事も可能となります。

 fig.2のマイナー6th等音程は、コレ、平たく言えばオーギュメンテッド・トライアドです。では何故「長三度の等音程」ではないのか!?という疑問が沸くかと思いますが、エルネ・レンドヴァイ著にも同様の事が書かれているのであらためてココで記しておきますが、増三和音を長三度等音程として見立てるのではなく、長三度を短六度で転回させると、六度音程の間に「広い隙間」が生じる事で別の脈絡を得る事ができるワケでして、バルトークはそれを視野に入れて拡大解釈して楽曲を構築させていくワケですね。

 レンドヴァイ著の方では、こうしたシンメトリックな音程関係にある物を数字の比率で表しており、今回私が「8:8」という風に明記しているのはそれは半音の数でありまして、本当は「8:8:8」という3つの比率で「結ばれる」モノでもありますが、他の等音程の解釈の為に敢えて「8:8」と明記しております。

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 同様に他にも等音程が完全四度で現れます。D♭音の異名同音をC#とすればC#、F#、Bという完全四度等音程が生じます。次に短三度等音程はこれはA#ディミニッシュ・トライアドの断片なのですが、つまり異名同音を考慮するとA#、C#、Eという物になるんですね。

 これらの3種類の等音程の組み合わせはいずれもE音を共有して構築させている物でして、等音程の集合を強く意識するとエニグマティック・スケールの第3音とやらにはとても強い重力が働く事になりまして、音階が齎す情緒はこの音を中心に強く働くものとも言い換える事ができるでありましょう。

 そこで先の「B♭△(#11)」にてB♭エニグマティック・スケールを充てているという事を今一度確認していただくと、どのような性格を更に導く事ができるのか!?という側面も見出す事が可能となるでしょう。

 つまり、色んな断片を見付けるという事は、長音階の断片だったり、長三和音という体を保つ構成音としての断片だったり、その他のトライアドの断片だったりと色んな断片を見出す事で、ひとつの角度ばかりで音楽を分析する事なく多角的に見渡す事が可能となるワケです。

 先のオーギュメンテッド・トライアドも長三度音程ずつに隔たれたものとして見立てるのではなく、短六度亦は増五度の類として見立てて「隙間」を多く作る事によって、その間に拓けている音達を使う為の動機として拡大させているというワケであります。

 そして、先述の「Putting Out The Bish」での6番目のコード「E△/F#△」は、譜例では勿論F#ミクソリディアンを想起して記述していますが、Cエニグマティック・スケールの第4音をスケール・トニックとして扱い、且つ強固なまでにC音をアヴォイドするモノとして想起する事で、本当なら縁遠い筈のエニグマティック・スケールを導く事が可能になるとも言えるのです。

 ココのコードはテーマが入らない時の伴奏はF#7sus4として響かせても問題はない響きでした。それを思うとセヴンスsus4コードやミクソリディアンを想起し得る場所でのエニグマティック・スケールへのインポーズは殊更驚くべき事ではないとも言えるのであります。

 よもやセヴンスsus4コードはどちらかというと四度音程累積としての響きの方が強く、全音音程が集積されていく2度和音の性格も見えているモノですが、そのような和音の状況から半音音程の羅列としても表れる全音と半音ではそれこそ全く逆のような両者を導き合わせるという驚きの脈絡を手に入れる事ができるというのはとても興味深い事だと思うのです。

 和声の情緒に凭れ掛かるだけならば前述の様に四度和音や二度和音の性格しか導きだせないのが関の山なのかもしれませんが、工夫次第でこうした脈絡を呼び込む事ができる、という事も併せて知っていただくと宜しいかなと思います。

 こうしたアドバイスは奇しくもオリヴィエ・メシアンの「わが音楽語法」で言及されている事なのであります。咀嚼された言葉に依って難しい音楽ですらも聴き易くなるかのような、私にとっては魔法の言葉にすら思えた「わが音楽語法」。こうした所でも役立つワケでありますね。