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調性への直視を避けた後 [スティーリー・ダン]

 前々回のブログでは、ドナルド・フェイゲンの今作「Sunken Condos」は全編に渡って調性を嘯く事は勿論、属和音の位置で解決先をも見越した「お天気雨」の様な情景を例にした狙いは、作品全体に渡って歌詞中に登場する主人公が本当は物事の大抵の事は経験済みで理解可能な物の、その先の更なる理解へは遮断してしまうかのような自我と忘却が交錯している様に投影されているかの様に思えるからに他ならないワケですな。

SunkenCondos.jpg


 若い女性を登場させるのでありますが、その女性への欲情も抱えているに違いないのに、その欲求とやらを露呈せずに寧ろ嘯く事を貫こうとする。いつしか猜疑心に苛まされ目の前の世界が惰性へと変化して自分自身を蔑ろにされたとばかりに否定的な幻影を見ておそらくは罪を犯してしまうかのようなストーリーが投影されている様に思えてしまい、その葛藤や虚無感を音として表現しようとする場合、フェイゲンはこうした「調性の嘯き」を選択しているのだなぁと私はつくづく感じてしまうのであります。


 アメリカ社会の性犯罪でよく耳にするのは、出所後のGPS追跡やら今後の去勢の実施の在り方や、更には脳神経レベルに性欲を抑える方法やら検討されているニュースが耳に入ったりするモノですが、それらを実施したとして直接的な性犯罪の欲求を抑える事はできても、さらにその先にある犯罪行為までを抑制する事はできないのではないか!?という、最早犯罪者も犯罪のスリルや達成感とは無関係に直接的な欲求や因果関係すら自覚する事なく、いつしか脳の深部に眠っている自覚出来ない欲求で「達成」してしまうかのような「虚無感」というのがフェイゲンの「Sunken Condos」ではとても強く表現されている様に思えるのです。

 自分自身を客観的に捉え乍らも3手詰みの将棋なら理解できても5手詰みが出来なくなるように先の見えない物が虚無感として、それを表す音が先の「調性の嘯き」であり、似た様な情景を投影している曲は私ならジェントル・ジャイアントのアルバム「ガラスの家」に収録されている「An Inmates Lullaby」を思い返してしまいます。あの曲の訳詞では精神病を患った少年の描写となっていますが、薬物常習者が廃人と成ってしまった様子を怖いくらいに描写している曲だと思います。曲終盤のechoingするかのような多重レイヤーの唄に紛れ込んで来る低い声が、少年が経験してきた世界では実感できない「成人の声」というのが物語っている様に思えます。

 まあ、そんな非日常的な事でも看過出来ない現代社会の恐ろしさをフェイゲンは問うているのだと思います。なにせ「ブラック・フライデー」や「ディーコン・ブルース」の歌詞を聴けば、よくもまああんな昔に唄われた事が今になって投影できてしまう事か!?とあらためて驚かされるコトしきりです。

 扨て、フェイゲンの曲を語る前に前回の続きから入って行きますのでご容赦を。


 和音はどのような音程で集積しようとも音を多数重畳しく累積させると、古典的な枠組みの方の強い牽引力を持つ和音やその断片が見えて来る様になります。完全四度音程を11回累積させて首尾よく「半音階」を得た所で、その半音階の中にはあらゆる和音の断片が凝縮されているという事も意味します。

 しかしそれは結果的に調的社会の枠組みの中で体系化されてしまった和音へ行き着いてしまうという事を意味するのではなく、寧ろその対極にあるもうひとつの性格を強調したいがための例えなのです。それは、調的社会の枠組みにある和音を包含していようともその和音の性格を強く出させず他の表情を見せるような物、として理解されるとよろしいかと私は感じております。


 先の「等比音程」の和音に準えた形容をするならば、長三度・短三度いずれかの3度音程で和音を構築した場合、属七の形(4・3・3)の形を何処かで見付けて来る可能性が在る、というのが前述の「属七の断片が見えて来るようになる」と語った良い例でしょう。勿論、属七の包含が起こらないようにわざと回避して累積させる事も可能です。先述のリストの「枯れたる骨」では属七の包含があるものの属和音と成立させていない所が顕著な例でありましょう。

 ポピュラーな枠組みにおける和声体系に慣れてしまった者は、その枠組みから外れただけで近視眼的に忌避しようとするきらいがあります。だからといってそれらの特殊な例の成立も知らずに「使える音」とばかりにあらゆるシーンにおいて特殊な音までも使うようでは愚の骨頂でもあるんですな。ですから私は敢えて大江千里の酷い演奏の傍証を固めていたワケでありますな(笑)。間違った音や無学な音らと、特殊な音の導入は似て非なるモノなのだという事をあらためて声高に語りたい部分であった為敢えてブログで語ったというワケですわ。

 包含されてしまったその属七が本来の輝きを放つ世界を「昼間」と形容したとすると、属七の断片が現れようとも半音階の世界を聞かせようとする世界は、昼間の明かりに負けて見えなくなってしまう様な星々の明かりの様な物かもしれません。皆既日食で星々が見えて来る様に、太陽の光を失わせると星々が見えて来る状況を音楽的に置換すると、太陽という強い力の「属七」は、三度音程の重畳で成立している体ですので、四度音程で重畳させれば希釈化しますし、同時に四度音程の重畳は軈ては、半音階の総和音を太陽に邪魔されずに得られる事となります。お判りいただけたでしょうか?

 長音階は下属音から完全五度を六回累積する事で得られます。これを「順行」とすると完全四度音程の累積は「逆行」に等しくなります。五度圏を時計回りに作ると四度圏は反時計回りと同じ様に。この「逆行」が拡張された音楽空間に必要な「応答」なのです。半音階の要素が重要になってくる音空間では逆行の要素を巧に活かす事でそうした拡張された情緒に触れやすくなるかと思います。逆行であろうと順行であろうとそれらは地平線をたどる様な物ですが五度の順行方面は四度進行によって解決していく音の牽引力を活用するだけで地平線の深淵がメリハリのある力を備えてはおらず、逆行の世界での深淵はパワフルであると形容すると判りやすいでしょうか。

 聴き慣れた音形というのは旋律的な形ばかりでなく、和声的な体系というのも存在します。但し和声というのは往々にして誰もが共有し得る物でもあるので「この和音を聴くと必ず誰彼を思い出してしまう」というのは有り得る事であってもそれだけで引用やパクりとは結び付けられない事の方が多いです。和音というのは独立したたったひとつの和音の持つ牽引力ではなく、複数のコードが連結する時の世界観こそが重要であったりするので、たったひとつのコードを抜粋して「誰彼の音に似ている」というのは和声を聴く時は避けた方が良い表現であります。自身の音楽的ボキャブラリーの貧困さを露呈してしまう様なモノでもあるので注意してもらいたいのと同時に理解していただきたい事は、一般的にも使われる和音というのは多くの人が共有していたりするものですが、だからいって同一ではないというのが先にも挙げた様に「組み合わせ」こそが肝だからなのです。


 漸く本題の3曲目「Memorabilia」の冒頭からの唄メロの音形は「Do It Again」の音形を半テン化させた物だというのはすぐにお判りになるかと思います。アイデアに煮詰まってこうしているのではないという事は明白でありましょうが、今作全体に於いてベッカー&フェイゲン時代やジェフ・バクスター在籍時の様な懐かしさやその雰囲気をひきずった70年代中期の頃までを思わせるのはこうした所にもヒントがあるかと思います。

 冒頭のヴァース&サビの後のAパターンでは忌憚なくトランペットが一見メジャー3rd音のBダブルシャープの減四度音(=Aのエンハーモニック)もトランペットは拭いて来たり(笑)、2回目のテーマではドリアンの特性音のナチュラル6th音ではなく♭6th音も拭いて来たり、こういう所も今作では徹底しておりますね。通常ならFドリアンで嘯きそうな所をわざとベタな所を突いて来てマイナーという短調での深みのある情緒を醸しておいて他で嘯いたりするのですから相当いけずなやり方です。相手が女性ならば「You cockteaser!」とでも罵りたい位の手法かもしれません(笑)。

 特筆すべきコードはBパターンでハッとさせられますね。先ずはCm9 -> B7(9、#11、♭13)というコード。特にB7(9、#11、♭13)というコードは同時に5th音をオミットしているので結果的にはAaug/Baugという二度違いのハイブリッド増和音を生む状況という風になります。これは私のブログでも過去にソフト・マシーンの「M.C.」やオリヴィエ・メシアンの「トゥランガリラ交響曲第3楽章」を例にして取り上げた事がありましたが、コードそのものはそれらと同じでありまして、次のコードがFm7というコードを考えると属七系の和音表記に拘らずにハイブリッド形式の表記に倣った方が本当は宜しいかと私は感じております。ブログ内検索をかけていただければそれらの記事について詳しく述べておりますのでご参考までに。

 で、最後に結句させる所のコードが是亦特筆すべき点。「A♭dimM7」を用いて来ます。つまりA♭の減三和音に長七度の音が付加された音です。ディミニッシュ・メジャー7thというのは概してオルタード・テンションを伴うドミナント7thの断片である事が多かったりします。つまり、このA♭dimM7もそうした方向から「本来の姿」としてのドミナント7thを探る事は可能かもしれませんが、所謂一般的なジャズの語法に慣れてしまった方だと、基のドミナント7thの方を見付けようとしてしまいがちですが、この曲においてそういう姿を見ようとして穿った見方をしても無理な事です(笑)。

 というのも、「A♭dimM7」を他のドミナント7thの断片として見た場合、想起し得るのは「E7(#9)」および「B♭7(♭9、13)」などを想起する事が可能ですが、どうしても想起するというのなら後者の「B♭7(♭9、13)」という姿を求めるのが調的な背景からは後押しされやすい和音でして、これを想起すればFm7の方角からの「Im -> IV7」という寸止めの姿でもあるのですが、ドミナント7thの牽引力をも稀釈化(調性感の嘯き)という狙いが根底にあるためか、そうした姿の方を強調せずにA♭dimM7の姿の方を強調するワケですね。


 A♭dimM7上のアプローチで一番参考になるのは背景のトランペットのオブリガートで、トランペットのフレーズから探ると「A♭ディミニッシュト・スケール」を用いている様です。コンディミが「半 -> 全 -> 半 -> 全…」というシンメトリックな物に対してディミニッシュトの方は「全 -> 半 -> 全 -> 半…」として知られている音階ですね。
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 ここにも属七の和音表記に倣う事が可能であるものの、それを避けているのは「単なる属和音の包含」として見ていただきたい例という点であります。但し、誰もが近代和声学のような音楽理論の素養を有していて多調方面も視野に入れた音楽理論を理解できる人でなければ、従来の枠組みであるコード表記を「便宜的」に用いた方が理解そのものはスムーズに進むのかもしれません(笑)。しかし、その表記こそが理解をそこまでしか及ばせずにその先への理解を逸する事にもなりかねないのが諸刃の剣とも言えるかもしれません(笑)。

 機能和声の世界で見るならばドミナントがトニックに解決する強固な牽引力というのを嘯き乍らもどこか調的な、旋律の持っている牽引力においては自然に調性の重心を逆撫でする事のないような取り扱いで、巧いこと調性を利用しつつも嘯いているそれは、ドミナント7thの姿を明確にしない様な配慮を確認する事ができます。仮にドミナント7thを包含したとしても先のブログで例に挙げたように、F.リストのS.55「枯れたる骨(不毛なオッサ)」に於いても、予想している所とは全く異なる方角から音が聴こえて来るかのような和声感の演出がされております。「コッチからこういう風に光が照らされてる様な音だろ」なんて思っていると全く違う方向からライトを浴びるかのような。それはまるで、民衆が光の無い闇の中で光を懇願している局面で予期し得ぬ場所から光や声を認識するかのように投影できます。



 こうした、予想とは異なる方角からの音、というのがフェイゲンの今作では特に歌詞と巧みな相乗効果がある様に私は感じるワケです。メロディさえ追っていればそれこそサマータイムやラウンド・ミッドナイトやマスカレードのような、深い情緒に身を委ねて聴く事が出来るかのような物にも聴こえますが、実はそれとも異なる世界観を忍ばせているというのがフェイゲンの技法だという事を言いたいワケですね。

 でもまあ、ここまで調性を直視するのを避けているのはある意味では調性を強く意識しているからであるが故のものでもあり、その姿は泣き顔を人に見られてなるものかとばかりに顔を隠す仕草にも思えてしまうようなシーンをついつい想起してしまいそうにもなります。

 曲の一番最後のPad系サウンドのシンセと共にターンテーブルの蓋を開けた時のようなギミックは面白い演出です。日常感とノスタルジーを感じさせる「生活音」でありまして、楽音に没頭していてコレが聴こえると少々驚きます(笑)。