SSブログ

千里の道も一歩から [MONDO]

 扨て、今回は趣向を変えて話題は「大江千里」について語ろうかと思います。何しろ驚いたのが彼がジャズに転身!?とばかりにジャズ路線を打って出たのですから、コレは色んな意味で注目されるワケですね。ただ単にファン心理で大江千里を語るのは簡単ですが、私のブログでは常に音楽の理論的な部分を詳細に述べているので、大江千里の出すジャズの音とやらはどういうモノなのか!?というのをあらためて語るワケでありますので少々横道に逸れる事もございますがお付き合いのほどを。


 でまあ、今回大江千里を取り上げる理由は、「ジャズ」というモノを拠り所にしてしまって人気を得ようとしているのではなかろうか!?という憶測なくしてバイアスがかって彼の音楽を探求しないことを前提にした上で彼の音を楽理的考察で語りたいと思ったからであり、彼のように旧来の音楽キャリアでの知名度を備えていない真面目にジャズをやっても売れずに憂き目に遭う人が多い中で大江千里という人は間違いなく名前とキャリアでは知られているワケですから非難の矢面に立つという事も考えられ、ジャズという土壌を念頭に置かなければ有利な立場にあるかという状況において、その時点で一般的なファン目線では見守られるかのように有利な立場にありつつも一般的には敷居が高いであろうという音楽ジャンルに飛び込むのですからコレはかなり大江千里という人物が色眼鏡で見られてしまうリスクがあろうかと思います。私の場合楽理的考察から入るので、彼を毛嫌いしていたりするような発言とは全く異なるモノであるという事を述べておきます。


 彼の熱狂的なファンは私も少なからずリアルタイムで見て来たこともありますが、まあそれは盲目な程に熱心な人が多かったモノです。恋に恋する乙女のような感じ。バブルな時代、黒ぶちメガネの奥の屈託の無い笑顔と朴訥とした少年の様な雰囲気を持ち合わせ乍ら知性を漂わせるとでも言いますか、恐らく女性目線ではこういう所に惹かれるのでありましょうが、音楽を正当な目線で見た時のミュージシャン大江千里、という姿では私は見た事がこれまでありませんでした。それどころかおそらく大江千里という人を旧来のスタンスでも正当に評価されずに色眼鏡で見られてしまう事の方が多いのではないか!?というのも私自身は感じる事しきりです。


 私自身ほぼ同世代なワケですから、正当に音楽を評価されにくい人達って結構見て来たものです。オフコース、アルフィー、大江千里とかは結構それらの代表的な人達だったのではないかと思います。ましてや私はそれらの人達の音楽はテレビでしか視た事がないモノですから、ベースを弾く私としては穿った目で見ることなくともアルフィーのベースである桜井氏に目を向けるワケたりした事もあったモンですが、こういうドッシリとしたベースを弾きたいモノだなどと世辞抜きにアルフィー好きの女性の前で言葉を並べても、桜井氏にあまり頓着していない人が多く、それ以上会話が弾まなかったりとか、それこそジャニーズや宝塚に妄信的にファンになってしまう人はそのブランド性に酔いしれているので本質が見えてなかったりする人が多いのも事実であり、皮相的で近視眼的にそれらの人のまつわる音楽をさらにバイアスを掛けて評価されてしまう所に身じろぎする様な所もあったりしたりして、どちらかというとアーティスト本人よりもファンの側を煙たがれてしまうような扱いを受けておられる方が多いのではないかと推察するんですな。ファンというのは身勝手ですからジャニーズや宝塚のように日々厳しいトレーニングを積んでいたりするような事はしてはいないでしょう。

 そういう人達でなくとも、少なくとも音楽を奏でて飯を食う人達というのは音楽に対して厳しく向き合って日々トレーニングを積んでストレスなく一般の人達の耳に届いているという事をまず痛切に理解しておかねばならないでしょう。


 私はそういうファン心理を冒涜するワケではありませんし、寧ろ本質に向き合えない所が悲哀な部分とも感じ取っています。このブログをこうして書き上げる前にも大江千里のファンらしき方々からリツイートやメンションをいただきましたが、恐らくはそうした方々の多くは、ファン心理を周囲から虐げられてしまうような局面が多かったのか、専守防衛というような感じで伝えたい所がなかなか伝わらないもどかしさを私自身は感じていたモノでした。どこかコンプレックスを抱いているかのような、部外者は敵と思え!みたいなね(笑)。まあ私はそういう所は頓着しません。別に彼らとケンカしたいワケではありませんし大江千里という人で被害に遭ったワケでもありませんから(笑)。

 私は大江千里という個人を貶めようとは全く考えておらず、それこそ個人的な恨み辛みがあればハナシは全く別ですが私自身全く彼を嫌う理由はありませんが無関心だった事は確かであり、私は彼の事を何とも思っておりません。

 が、しかし、彼自身がジャズをやるという事になったら少なくともジャズを聴く耳で厳しい耳で彼を語ろうとしているワケでありまして、私の辛辣な意見で語られた人など大江千里が初めての事ではありませんし、私はそれを目的としているドSな人間ではありません(笑)。寧ろ私は毎日体動かして自分のカラダをイジメてるドMな人間ですわ(笑)。


 大江千里の容姿とかそんなのは私には無関係。どういう音出してんのか!?という事を平たく語るワケですが、ジャズというのは高次な和音を集積させている音楽ジャンルのひとつですから聴き方としては難しい部類ではあるでしょう。しかし彼自身もジャズやる前からミュージシャンであったワケですから後述する事になる様な事くらいは判っているとは思いますが、ポピュラー音楽もジャズも、音楽的背景にあるコードなどの部分はかなり体系化されていて両者に大差はありません。多くの先入観がジャズを難しくしているだけでありまして、音楽とは音の文学でもありまして、難しい「音の語彙」を獲得していくことで理解が進むようになります。ですから難しく聴こえる音は経験が伴って聴く事が出来る様になったりするものです。

 ですからホントは旧来の大江千里とジャズの大江千里というのは器楽的な側面から見るとそれほど大した差はないのでありまして、音楽ジャンルとしては全く異なるモノなのでかなり大胆な転身の様に見てしまう人がいるかと思いますが、ホントはジャズというのはやるだけならカンタンな事なんです。中学・高校で音を歪ませるしか能の無いような者が音楽がトコトン好きで音楽専門学校に通う様になり、そういう連中でも楽理を獲得して入学数ヶ月ほどでなんちゃってジャズの音など繰り広げる事など充分可能なほどジャズとは実は敷居が低いモノです。


 但し、次の部分は強調しなくてはなりません。彼、大江千里はポピュラーな時代ですら一部の人達からは眉唾の様に見られる向きがある所に加え今回の様なジャズ転身というのはとても勇気がいる事だと思いますし、出て来る音で相当納得させてくれないと、フツーの人達よりも厳しい目と耳で見られかねないワケで、そのチャレンジの裏にあるものは何だったのか!?という所が私の正直なギモンです。ハッキリ言います。東京JAZZ2012でNHKにてチラッと映っていた演奏の内容、演奏は酷いです。アプローチの解釈が「?」という所を後述しますが、それに加えてミストーンとも思える音がたった数十秒ほどしか流れていない演奏中にも2箇所も散見できました。


 大江千里を応援するファンにとってジャズを知らない人がジャズを知るキッカケになればそれは趣味がひとつ増えてイイ事かもしれませんが、ご自身の動機の転機を大江千里という人間に結び付けるのは本人にとっても重圧ですし言い訳にしか過ぎません。但し彼もそういうファンの多くから肥やしを貰って成長してきたワケですからそういう行き方に慣れているかもしれません。それが彼の旧来の形だったワケですから。

 しかし、彼の音を聴くとこの転身はかなり無謀であろうと思えるワケでして、ジャズも判らぬファンの好意を利用してメシを食うつもりではなかろうか!?と厳しい目で見たりもするワケですが、私もファンも被害に遭ったワケではありませんのでどうでもイイ事かもしれませんが、どんなジャンルにおいてもその道の先人や専門の職人がおります。そういう人達に対して忍びないキモチになりますし、大江千里という名前でこれだけサラリとジャズをやれてしまう事がある意味羨ましくもありますね(その厚顔無恥っぷりに)。大江千里、松田聖子、スガシカオが出る位なら、「俺が!、私が!」と東京JAZZというステージに立ってみたいと思う人は少なからず居るとは思いますよ。そういう人達が報われないのが音楽産業の悲運な部分ですね。


 で、こういう音を白日の下に晒してしまったモノだから、穿った目で見ていた人からはもっと厳しい目と耳で評価される事となるのは必至でしょう。NHKもよくもまあああいう音を見過ごさなかったモノだとあらためて感心しますが、放送内で指摘したい音を後述する事とします。放送された部分は1分強なのでしょうが、2012年10月17日現在では他の週の東京JAZZで大江千里の放送があるかどうかは不明ですので、この記事の時点では前述の1分強ほどが大江千里の放送分となります。
 


 扨て大江千里の演奏ですが、基本的に両手の音域が狭いです。もちろん右手でインタープレイを噛ませてきますが、左手のヴォイシングのレパートリーが乏しく、同じ箇所をコードチェンジするまで打鍵をしているだけなので聴いていてメリハリに欠けます。ジャズに用いるコードなど六声の和音も珍しくないので、そうした和音は転回形もかなり豊富となるので色々試すことが可能だと思いますが、メリハリに欠け、打鍵は画一的なのです。左手は特に無頓着に近いです。
 
 本人インタビューの音声がダッキング(背景と本編が連動して音量が追従して変化すること)して演奏本編に映像が変わった時、おそらくはこの曲のトニック・メジャーのコードであるB♭M7が2小節続き、その後D♭M7(on F)という風に進行します。最初のB♭M7の2小節目では次のコードがD♭M7 (on F)という三度ベースであり乍らもFmを包含した様な音であるため、本人は勝手に3小節目で登場するD♭M7 (on F)の情感に早々と行ってしまうのか、よもや2小節目の4拍目でF音とA♭音を弾いてしまうのです。A♭音はB♭から見た短七の音であるのに、加えて本人が左手で下からA、B♭、Dという風にヴォイシングをしているワケですから、そこにA♭がぶつかってくるワケですから、これは酷い!となるワケですな。

 まあ広義ではアンティシペイションという次のコードを「先取り」する手法もあります。しかし、自分自身の左手がメジャー7thというコードを強調して於き乍ら忌憚なくA♭音を弾いてしまうのは、「この人、モード奏法すら獲得できていないんじゃ!?」という疑問すら抱いてしまう忌避すべき音なんですな(笑)。
 百万歩譲って、先のA♭音を異名同音のG#音だと解釈してみましょうか。そうすると増六度の音となるワケですが、メジャー7th上で増六度の音を持ち込むには、相当な前フリを周到に用意して動機を得てからでないとかなり難しい音です。

 正直な所大江千里のここまでのヴォイシングはジャズらしいというワケでもないヴォイシングなのですが、ちょっとココでB♭M7というコードの幾つかのヴォイシングの例を見てみましょうか。因みに大江千里のB♭M7上での主たる動機付けは「分散フレーズ」です。つまりそれは和音構成音をバラけて弾く、という事ですな(笑)。動機には希薄な所から突然増六っすか!?と、コード理論にお詳しい方は笑われぬようにお願いしたい所でございます。

 扨て其処で「B♭M7のヴォイシング例」という物を確認していただきますが、これらの例が全てではありません(笑)。大前提すら知らない方も今回のブログ記事はお読みになられる方もいらっしゃるかと思うのでB♭M7というコードは「B♭、D、F、A」という音で構成されている和音です。
 そこで次に進むと、譜例の1番は開離音程です。和声構成音のそれぞれの音程が完全四度(=5半音)以上の音程幅で構築されたモノ。
oe1.jpg


 2番も特筆すべき事ではありませんが、1番や2番を弾いてみて「クラシカルな音楽教室」の器楽的経験がある人ならば左手に違和感を憶えるでありましょう。ジャズの醍醐味のひとつは、左手が相当な低音域ではない場合やオクターヴを強調させたくない時を除いて、大半のケースはジャズの基本は左手7度というのが通常です。長七度音程、短七度音程と。まあ減七もありますがそれはココでは触れるべき事ではありません(笑)。主音を使った七度から九度の転回はありません(笑)。流石の大江先生も長七の美しい響きの感性は獲得していらっしゃるからこそ分散フレーズにて長七であるA音が強調されるワケですからね。

 3番も特筆すべき物ではありません。4番は右手が達者なフレーズを弾く時に和声感を補強したい時の「短二度(=半音)ぶつけ」なんですが、音域が下過ぎると汚く響くので音域には注意が必要です。チック・コリアはよ~く4番のヴォイシングが出て来ます。Gm9という和音はG音という音を除けばB♭M7を構成する同一の音を包含しているのでありますが、G音は完全にベース・プレイヤーに任せて先の4番のヴォイシングを弾く、という事も有り得る事です。


 5番は左手が自由となっていますが、概ねキーボードやらを複数用意している時での音や昔のシンセの様に同時発音数が少なかった演奏にこういう和音は多いですね。勿論現在でもフツーに使われますが。

 6番はB♭M7をストリングス・アレンジにするかの様な時のヴォイシングに適している音です。シンセをお持ちの方はストリングス系の音で試されるのも良いでしょう。


 扨て、今回6つの例を出してみましたが、最高音にメジャー7th音を用いていないヴォイシングだという所がこれらの和音のミソです。大江千里の左手ヴォイシングのメジャー7thコードでは4番の左手フォームに酷似するタイプのフォームが多い様です。この4番の譜例では左手で4声を弾いておりますが、大江千里は4番の譜例のF音を省略した下から上の音で「長七、根音、長三度」の音を使ってヴォイシングする事が多い様です。


 扨て、長七度から長三度の物理的な音程の距離は「完全四度」ですので、この例だけで見ても充分狭いんですね、実は。それを補うには右手が広めに取ってバランスを取る必要もありますが、左手が狭いままで右手が高域に行き過ぎても今度はピアノ全体ではバランスが不十分で偏太りだったりか細い音に変容したりします。ジャズって左手は七度で構える事が多いので、一番下に「ド」と左手小指で弾いたら、左手親指で長七度上の「シ」や「シ♭」を弾く様なシーンが多いという事を意味します。

 ジャズでは左手七度というのも実は狭い方で、私ですら「左手十度」を弾いたりします。これは左手小指で「ド」を弾いたとしたら左手親指で「オクターヴ上のミ」亦は「オクターヴ上のミ♭」を弾いたりする十度の音程です。十度という音程を片手で開いた場合、薬指&中指&人差し指は内包している音程で「五度、七度、九度」を見付ける事ができるので、概ね五度や七度辺りに指を移動して、親指を掛留させたり、他の音への跳躍がとても豊かになるので重宝される音です。手が物理的にある程度大きい事が求められますが、嘗てのシンクラヴィア広告では完全11度開いていましたし、ギネスでは13度も開く人がいるそうなので、この辺はまめ知識程度に知っていただければ一息付き乍らお読みいただけるかな、と(笑)。

 でまあ、大江千里の尻込みしたかのようなバッキングでのヴォイシングは両手の音程が狭いんですな。左手が過剰に画一的。その際鍵盤のダイナミクスも画一的で、タッチは均されすぎて味気ない。本当はジャズなんて訥々と吃るように弾いたってイイんです。セロニアス・モンクやジョー・サンプルなんて流麗とは対極にある砂利道を固いサドルのチャリンコを走らせているかのような打鍵で弾かれるピアノを弾く代表的な人達ですが、それが魅力のひとつだったりもします。私は今にもピアノ線切れそうなffffを弾くジョー・サンプルのピアノの音は好きではないですけどね。ローズ・ピアノでのプレイは好きですが(笑)。


 今回、音の強弱や流麗さなどは特に問題視はしてはいません。先ずはB♭M7上でA♭音を一緒に弾いてしまう厚顔無恥とも呼べるかのような音を彼は何故使ったのか!?好意的に解釈してバイトーナル(=複調)という、複数の調性が併存している状況での音ではないのか!?と、私のブログでもそうした世界観を述べてはおりますが、複調や多調を得る為の動機や関連する他の音も存在しておらずただ単に次にやってくるであろうという和音に対して自分自身がテンパっちゃっているような状態で、コードチェンジへの対応に追従しようと焦るがあまりに拍を忘れて先取りしてしまったプレイにしか聴こえないのです(笑)。

 まあ、こうして私が言い訳を用意していあげても旧来の大江千里周辺でしか音楽を理解していない人にとっては調性の併存だのノン・ダイアトニックだのと言っても糠に釘打つかスポンジ脳に釘刺す程度のモノでしょうから私自身、今回のブログをその手の人達がどの程度理解できるかは期待はしていないのが正直な所ではあるんですが、少なくとも金取って演奏している人でいくらジャズという異文化に転身を遂げたにしろそれをエクスキューズにそれまでの音楽キャリアが全くリセットされてしまうかのような認識をさせてしまう様なビジネスのアシストは唾棄すべき部分でありましょう。

 和声の体系化という歴史を見ればそれこそ古くはジャン・フィリップ・ラモーの時代からほぼ変わりない体系化されている西洋音楽システムに倣っているワケでありまして、大江千里という人がそれまでのポピュラー音楽界隈でのキャリアを鑑みれば、そちらの音楽においても和声体系という面で見るとジャズと大差ないのが実際なのです。

 ではポップスとジャズが和音という部分においてなぜそれほどまで差異感を伴うのか!?というと、先の例にある様にヴォイシングの在り方そのものに違いがあるからです。左手はオクターヴと思い込んでいる近視眼的な音楽教育に留まっている人が殆どなワケでして、そういう人達が左手七度を知るだけでも差異感としては大きく演出されてきます。それと同様にポップスとジャズの違いというのはヴォイシングの違いにも表れて来るのがひとつの理由でもあるワケです。ジャズっぽく聴こえるポップスがあればそういう技を忍ばせているのもひとつの理由と考えられるでしょう。

 但しジャズを知りたがろうが何をしようが、動機のキッカケとやらに大江千里という人物が絡んでいないとダメだという人はどんな音楽でも平たく聴いて自身で正当な評価を与える事など不可能でしょう。信じ込んでしまっている人達からすれば大江千里がどれだけ酷い音使いをしようが受け止めてしまう。その欠点すらも見出せず指摘もできない物だからアーティスト自身も軈ては甘える様になるのが関の山でありましょう。

 抑、大江千里自身がジャズに転身を図るのはどういう理由が背景にあるのか!?という事を紐解いて色々考えてみれば自ずとふたつの理由が浮かんで来ると思います。それは別に穿った見方ではなくして。
 それのひとつの理由に、大江千里自身が本当にジャズを志したくてそれまでのキャリアをかなぐり捨て旧来のファンとも訣別する覚悟で臨むスタンスの存在。もうひとつの理由は、コアなファンがいつも追従してくれるのでファンを頼りにこれからのメシを喰うというスタンス。ザックリ語ればそれら2つの理由に集約されるかと思います。音楽人としても訣別するという選択肢もあるかもしれませんが、それは無いようですのでこれら2つの理由に大別できるかと思うワケです。

 で、前者の理由を考えた場合、自分自身の音に責任という物がとても強く働くと思うので、よもやトニック・メジャーと思しきコード上でB♭M7上でA♭音を弾いてしまう事など有り得ないんですよ。ジャズなんて音外してナンボなんて皮相的理解に留まっている連中が多いからといって、そんなのを理由にドレミファソラシドという秩序の中でシ♭も弾いてます、なんて教える学校一体何処で習ったモンなのか非常に興味深いモノです。

 根音と長七度と増六度が同居するような方法論はあると言えばあります。しかしそれは単一の調性を視野に入れたモノではなく複数の調性が併存している時のアプローチなのでありますが、それを示唆する音は他に全く存在しない事が大江千里の演奏からは判るので、ジャズの冒涜と受け止められたり非難されてやむなしの音を出している事だけは強調しておく必要があるでしょうし、私が強調するまでもなくそれが国営放送で放送されたワケですからそれだけでも充分な事です。

 「私なんて間違える事なんかよくある事だから・・・」などとファンの方々は思っていらっしゃるかもしれません。でもそれってミュージシャン相手にその言葉をまんま使ってしまったらそれはもう非礼千万の言葉に置換されかねないコトバなんですよ。勿論大江千里の生粋の明るさと優しさからは、ファンのそうした言葉というのも一般的な尺度から放たれた自分自身への優しさのモノだと彼自身はおそらく解釈してくれる筈でありましょうが、ファンに気を遣う事が彼の音楽的な成長を妨げてしまう事になるという事を妄信的なファンは気付かなくてはならないと思うんですな。故に「大江千里にジャズは不向き」だと断を下してあげた方がよっぽど気の利いた言葉なのです。

 もうひとつの側面で、旧来のファンの追従を利用してメシを食う。こういう打算が働くとしたら本人よりもプロモーターの側でありましょう。CDから得られる権料よりも今やライヴを数多くやった方が儲かるのです。CDが売れないからCDよりも利幅の大きい本を書いてメシを喰らうのが10年代の社会の現実なのです。でもそれだって表立って口にすることはないでしょう。但しコアなファンとやらがプロモーター側からの餌食になっているのは間違いない事かもしれません。勿論そこからジャズへの新参者が増えて来て、それこそ女子ジャズだのと女性が小難しい系の趣味に走るのも礼賛されているビジネスの成功例に倣って乗っかりたいという心理が働いているのもあるかもしれません。

 でも、ジャズ聴きたさに大江千里から入るというのはよっぽど変わり者でしょうし、50年後にそんな事言って真に受けられる事は有り得ない事だと思います。

 こうした私の様な声に奮起して次作以降(あるのでしょうかねえ)マトモな音を出したりすれば、それはその時評価すればイイだけの事であって、次は必ず良いというワケでもありませんから、なにせ華やかな転身第一歩でこういう音出している人でありますから、この先どうなるのかは良い方に考えない方が賢明ではないかと思いますが、それも先は判らないワケですからどうとも言える事ですが、何よりも今の現実の音が示しているワケですから、マトモな音出してないんですからソコはご本人はおろかファンの方々もしっかり受け止めなければならないかと思います。


 で、彼の音は次の3~4小節目にも表れちゃうんですよ(笑)。たったこれだけの尺にこれほどまでに忌避すべき音やミストーンが多いとなると、ジャズ転身以前に器楽的能力の無さを指摘されてもやむなしではないかと思うことしきりなんですね。吊るし上げにしているんじゃないんですよ。真実を述べているワケで。

 そういう無責任な音を出してしまっているにも関わらず、彼のこれまでのキャリアや名前で無名のジャズメンよりもいけしゃあしゃあと脚光を浴びてしまうのは、きちんとジャズに向き合っている人が本当に報われないと思います。無論、本職の人達は人間的な付き合いを優先させて角を立てない様に彼を優しく扱うことがあっても、心の中では文句のひとつやふたつは抱かれているだろうとは思います。ましてやジャズというのは横のつながりが大事な分野なので、自分の作品や希代の作品を先ほどのような音で弾かれてしまったら、大事な服を貸したらシミ付けられたり破かれて返ってきた!なんて事があるのと等しい事ですから、ああいう音出している内は一緒に関わり合いたくないと思われるのが関の山ではないかと思います。

 彼には旧来のコネや運があるからそれが強みとでも?運の選択というのは確かに人生を一変する程ですから重要ですが、だからといってこれほどジャズを無碍に扱ってしまう大江千里のあの無責任な演奏の前に、きちんとジャズに向き合っている人は本当に可哀想で仕方ありません。
 
 とはいえ私、普段はジャズが「なんちゃって」化している事を憂い辛辣は言葉を浴びせてブログを書いているのでありますが、まあ大江千里ファンの方々は恐らくその辺の事迄目をお通しにはならないでしょうから敢えて語っておきますね(笑)。こちとらジャズやってるワケでもないけど大江千里が相手とならばジャズの味方につくわ!ってな感じですかね。
 まあ兎に角、大江千里の今回の転身はジャズ以外の音楽人に於いても冒涜していると、私はそこまで思っています。混沌とした音楽産業の現状だからこそこうした唾棄噴飯モノも流れ行く時間の風化と共にLet it goしてくれ、と関係者は思っているのかもしれませんが(笑)。


 扨て、3~4小節目を語る前に、変ロ長調(Key=B♭)に於いてジャズの場合、どういう風に音階をあてがう事が宜しいのか!?という例を挙げてみようかと思います。

 トニック・メジャー上においてブルース系ジャズならば七度の音は半音下がるのですが、今回の大江千里のそれはボッサ系ですのでメジャー7thを強調しています。但し、ジャズっぽく演奏する場合、このトニック・メジャー上ではB♭メジャー・スケールをあてがう事の他に「調性を嘯く」事がジャズでは礼賛されるため、B♭リディアン・スケールを充てる事もあったりします。


 その違いとやらが譜例2つ目の1段目と2段目という事になります。通常のメジャー・スケールとリディアン・スケールはそれぞれ特性音として一箇所しか違いが無いので、この特性音が使われているかどうかで彼のアプローチというのが判るワケです。因みに大江千里は通常のメジャー・スケールで対応していると判断できます(リディアンを示す音は無い)。
oe2.jpg


 メジャー7thというコード上で和声外の音や調性外の音を出すのは短七を基とするコード上よりも難しいモノで、かなり大胆な「嘯き方」として上声部にAメジャー・トライアド下声部にB♭メジャー・トライアドを与えた時、ペレアス和音という六声の和音を想起する事が可能です。上声部のメジャー・トライアドの長三度音と完全五度音はB♭から見たら完全な調域外の音なのですが、こうした和声を手掛かりに調性を嘯いてみてもまだ「A♭亦はG#」という音を使う事は難しいのです(笑)。

 ペレアス和音を想起した場合、図に示している様にある基準音を境にして上下に均等に音程間隔がシンメトリックな構造になる鏡像音程を生むのでありますが、この鏡像音程の拡張法を譜例には今回初歩的なジャズの語法を獲得するにはあまりにも高次でそれでいて慇懃無礼にすら思われかねないかもしれませんが、大江千里知りたさでペレアス和音のひとつでも知って帰っていただければコレ幸いな事なので、コレを機会に楽理的側面のさわりでも手土産にして吟味してください。耳がおそらく習熟されていないと思いますので相当な不協和を生じるのではないかと思いますが、こうした和音に慣れている人がジャズやクラシック音楽を聴いて堪能する人が多いのだと理解が及べば充分ではないかと思います。


 で、譜例の最終段はB♭リディアン・オーギュメンテッドという音階を当て嵌めた場合なんですが、この音階を当て嵌めてもA♭及びG#音ってまだ出て来ない、脈絡の遠い音なんですよ(笑)。どういう使い方があるのか!?という事までは皮相的理解でしかない人にはお教えしません。過去の私のブログを熟読して理解が及べば自ずと答を導く事が可能です。


 扨て、漸く最後に先の大江千里の3~4小節目のプレイを語る事にしますが、ここでのコードはD♭M7 (on F)という風に変わります。トニック・メジャーからこの調性外の音に変わったという事で、一時的な転調でもあると解釈して宜しい部分です。そうするとこのD♭M7の調性は何を想定すれば良いのか!?というのがジャズの醍醐味のひとつです。

 大きく分けてトニック・メジャーから短三度上行進行で別の調へ転調したと考える時、変更先を「トニック・メジャー or サブドミナント・メジャー」と二通り考える事が可能です。


 短三度上行進行に於いてはトニック・メジャーから次のコードもトニック・メジャーと想定した場合が良い時もあるのですが、多くの場合、次に表れる同種のコードはサブドミナントの物だという風に考えた方が功を奏する場合が多いのです。

 まあ、駅を共有し乍らも、2番線の時は乗り換えて少し動かなくてはならないような物だと考えるとよろしいでしょう。つまりD♭M7というコードがサブドミナントとして出現するという事は、ドレミファソラシドの順列で言えば「ファ」の位置がサブドミナントなワケですから、一時的な転調として変イ長調(=A♭)の調を想起して弾いた方がスムーズかと思います。


 この「一時的転調」の音を先取りしてしまったかのように先の大江千里はメジャー7th上で半音をダブ付かせるようにA♭音を焦って出してしまっている事が読めてしまうワケなんですね。ハービー・ハンコックならB♭メジャー7thというコードに於いてA♭音を使いこなせますし、ドミナント7thコード上でもハービー・ハンコックならば長七と異名同音の減15度の音も使う事が可能ですが、よもや大江千里がハービー・ハンコックと同様の音使いをしているなどと近視眼的に思われてしまっては笑止千万ですのでご注意を。


 で、4小節目の2拍目から3拍目において頭抜き8分音符を3つ右手で「キャキャキャ!」と高域に移動して弾く所がありますが、これ、下から上へ表記すると「C音とE♭音」を弾こうとしているのでしょうが、2拍目8分裏から始まるそのフレージングの最初の部分に於いて、先の2音の間に位置する「D音」をミストーンで出してしまっているんですね(笑)。背景のコードがD♭M7 (on F)であるので、D音を出しちゃうと短九度の♭9thなので、コレ亦メジャー7thコードで♭9thを生じさせる事をいけしゃあしゃあとやるとは、もはや厚顔無恥と形容したくなってしまうんですな。緊張がそうさせたのかとファン心理ならばそう思うかもしれません。

 然し乍ら、多くの聴衆の中で金を取って満足して帰ってもらう演奏をするにはそんな事言ってられないんですね。客全員が大江千里ファンなんだからイイじゃん!!なんて言っている様じゃ言い訳ですし、それを本人が聴いてしまったらホントは私の言葉よりも傷付くと思いますよ(笑)。

BreckerBros1st.jpg
 D♭M7上でD音を忌憚なく出せる脈絡があるとしたら、つい最近私がブログに書いたブレッカー兄弟の「A Creature of Many Faces」での上声部短九度方向のメジャー・トライアドに下声部がsus4というモノを狙ったモノでしょうか!?いやいや、大江千里がそういう音を出しているワケは絶対ありません。


 つい何小節か前にはメジャー7thコード弾き乍ら短七=増六の音弾いてしまっていた人の演奏ですからねー。なかなか信頼する事はできません。奇しくもジョー・サンプルのソロ・アルバム「Spellbound」収録の「U Turn」という、これまた偶然Take 6が参加して唄っている曲のイントロというのが、バックのコードは長七で、ベースはスラップで増六とルートのハンマリング・オンで弾いているバイトーナル由来(=複調)のアプローチを遂げている名作がありますが、東京JAZZ2012を見ていればこういう奇跡的な共通点があるワケですから、一方は酷い音のアレだとしても、同じ音の扱いとして括ってみるのも面白いかなーと思いましていつもの様に長々と書き連ねてしまいました。
Spellbound_JoeSample.jpg


 メジャー7thというコードに固執する事で、放送部分で流れた曲のエンディングはG♭M7(+11)にて終わるという、♭VIM7(+11)で終わるというよくあるアレですね。先のリディアン系で嘯いたり、この手のノン・ダイアトニック・コードを曲中で導入する事など特段ジャズの素養が無くとも取り扱って当然の事と言える位、作曲する方であればジャズに転進する事なくごく普通に備えている技法のひとつですので驚くべき事ではありません。そういう点が私の言う、ポピュラー音楽とジャズとの和声体系の間に大きな違いは無いと述べている部分なのです。

 ジャズ転進というそれまでの立ち居振る舞いとは異なるジャンルに転進したという事で全く異なる音楽ジャンルはそれほど違いがあるものなのか!?と錯覚させられそうですが、和声体系の面で見れば違いに大きな差などありません(笑)。霧雨と小雨の違い位でしかありません(笑)。

 まあしかし、ポピュラー音楽界隈の人がペレアス和音まで熟知されているという事は稀な例だとは思いますが、ペレアス和音を除いた先の3つの旋法の例、これはジャズを知らなくとも就中作曲を志す人であるならば是亦知っていて当然の事であります。私が殊更それらを例に出して語っているのは大江千里の周囲に存在する盲目ファンの無責任な本人への崇拝を払拭した上で音楽とやらを理解できればいいのではないかという思いからこうして語っているワケです。現実に私のツイッターではその手のファンと思しき人から散々突付かれている様ですが、大江千里を私物化してしまっているので周囲が全く見えていない状況にこちらも暖簾に腕押し状態でもあるんですが、その手の人達が音楽を皮相的に捉えない為に敢えて音楽の厳しさの方面を語っているのであります。大江千里のファン向けじゃなくとも普段は私は手厳しい事ばかり述べてますから当該人物ばかりではないですよ、耳の痛い方というのは。


 ジャズって難しいと思わないで下さいね。継続して私のブログをお読みになられている方ならお判りですが、普段の私、近年のジャズに対して物凄く辛辣に語っていますから(笑)。そんなジャズが屁に思える位、音楽を学んで、学ぶ事には苦労が九割九分で、楽しめるなんてラク言える事の方が少ないモンですわ。好きだから苦労を伴えるってぇだけのハナシであって。


 「音楽」という言葉は「音を楽しむ」と書くが故に「愉しくなければ音楽じゃない!」などと豪語する人が居ますが、音楽に理解が足りない人だからこそ、そんな言葉に食い付いてしまうんですよ。音聴いて認識しなければ音そのもの。聴いた音を理解できないから言葉を当て嵌めたりして置換してしまうのが関の山。自身に優しく響く心を打つ言葉という物は判りやすさで出来ているものの、音楽的語彙に乏しい人にとって琴線に触れる言葉というのは、本質を捉えきれていない、ただ単に端的に捉えて形容してくれている便利な熟語のひとつでしかないんですよ。自身に偶々食い付きやすい言葉を免罪符にしてみたり拠り所にした所で説得力など何もありゃしない。

 それほどラクして音楽を聴いて来れて癒されて感覚も満たされて来たのであれば、なぜその年月の間に音楽の聴取能力が高まらなかったのか!?という事に自責の念に駆られる方というのがきちんとこれから音楽を学べる人である筈です。大江千里の唄がありゃあ幸せになれる人なら私の言葉をいちいち論う事など無いんですよ。どこかにコンプレックスを抱えたりしていてその発奮材料に音楽を使わないでほしいと思わんばかり。