SSブログ

反体制とカウンター・カルチャー [回想日記]

 私は、ここ10年ほどの間日本という社会は少々右傾化して来たのではと感じているひとりなのでありますが、だからと言ってコメンテーター面して政治や思想を語ろう等とは微塵も思っておりません。然し乍ら我が国をおいそれと見限ってしまうほど自国を嫌悪しているワケでもありませんが、言いたい事が全く無いのではなく寧ろ声高に語りたい事など幾らでもあるモノです(笑)。

 自国への思いも捨て去ってしまうように、それこそ唾棄してしまう位に自国への居心地が悪く変化したと言うとそうではありません。別にワガママ放題で物言おうとしているワケではなくて(笑)。


 例えば周囲の変化など、受け入れる側の嘗ては狭量な側面が経験を伴って養われて来ると、社会的な左右のブレという細かな側面などついついやり過ごしてしまう様にもなるものでもあります。変化の読みや時代のトレンドすらも見過ごしてしまうというモノではなく、寧ろそういう物に対応や追従する必要なくして、なるべく自分の立ち居振る舞いを変えずに自身を確立してくるようになるという自分自身の社会的振る舞いに於けるポジションを意味しております。

 右と左の立ち居振る舞いひとつで飯を喰らう類の人であればそうした社会のブレにはとても敏感にアンテナが反応しているでありましょうが、どちらかに触れ過ぎたり過剰にバイアスが掛かっている事象すらも大目に見るという意味とは全く異なるものでして、そうした区別をしつつ「変化」を読み解き乍ら自身の立ち居振る舞いを堅牢にするという感覚は身に付けておきたいと思わんばかりです。無論、これが意味する「堅牢な立ち居振る舞い」というのは、自身の社会的な地位を固守したいが為に己の懐く主義・主張を謾くという事ではありません。人付き合いに軋轢を生じない程度の節度ある感覚を有し乍ら、社会を正しい倫理観の下で判断を鈍らせたり世間の目をあざむく事なく正しさを発揮せよという自戒の意味を込めての事であります。


 扨て、音楽という物は本来は楽器を演奏する為の技能の習得や音楽を形成する上での一定以上の律するルール(=秩序)を学ばなければならないもので、こうした「秩序」を学ぶという事はとても大事であるが故に難しい側面もあるものですから概ねそれに反抗する側面を生むのも社会の常です。
 
 ファッションも同様で、フォーマルな方面からの脱却と反抗という文化がありまして、例えばモッズ系のファッションなど最たるモノですし、ビートニクという社会的スタンスも徒に「銭やゼニ!」という下衆な資本主義とやらを忌避するかのようにそこから反抗する文化として生まれてきたモノでありまして、左右どちらかにブレようともその先の社会は揺り戻しからの回帰で結果的にバランスを取り乍ら収まるモノで、そうして一定の収束を待ってもいつしかブレるのも世の常なのであります。

 音楽で例えるならばクラシックという正統な方面の音楽とロックという物が当て嵌まり、ロックという文化はまさに正統な方面からのカウンター・カルチャーなワケです。ロックが反抗していた側面は多岐に渡りますが行き着く所は社会、政治に置換する事ができるでしょう。それらが自分の欲望の足枷となることもありましょうし、自分自身の言い訳にも使われたりもするかもしれません(笑)。

 ロックという音楽ジャンルを筆頭にそれがカウンター・カルチャーであるという事に異論を唱える人は居ないとは思いますが、21世紀も10年以上が過ぎて、ロックというジャンルをあらためて見ると大きく進化しているとは言い難く、それこそ伝説と成り得るような黄金時代を練り歩いて来た「耆宿」達にまだまだ頼っているモノでもあるのが現実でして、そうしたビッグな先代の足跡をなかなか越える事ができないのも現在のロックの現実でもあるのではないかと私は思うんですね。


 その理由のひとつにロックというジャンルが既に、サウンド面から見てもある程度体系化され、形骸化していき、陳腐化してしまっているのが大きな理由。先代達が築き上げたサウンドの体系化と摸倣。それと同時に先代の大御所もシンプルばかりではない小難しい「音楽的語法」を鏤めて来たりもする様になっているというワケで、先代達の新たな試みとやらも半ば難しい語法をサラリと忍び込ませたりもしたりして現在も活動を繰り広げている人達は少なくありません。大御所達の「新たな取り組み」というのは何か!?それは音楽的に見ても新たな挑戦だったり、楽理的に分析すれば和声的にも少々凝った語法を使う様になっていたり等そうした例の事ですね。


 例えば今現在、「プログレッシヴ・メタル」だの「プログレなんたら」みたいな、それこそ「プログレ」というジャンルが礼賛され、その言葉に凭れ掛かる様にそうした修飾語で自分達を売ろうとする下衆な手法が最近目立って横行する様になりました(笑)。そもそもプログレというジャンルは対抗文化ではなく正統な方面の際立った良さへの好意的な解釈と、ロックというサウンド面の好意的な解釈が同居しているモノでありまして、足元には一定以上の音楽的素養という基礎を備えているのでありますな。
 
 プログレのアーティストの多くの先人達は実はクラシック方面の造詣はとても深いもので、特に近代・現代への好意的解釈に依る昇華は見事であったりするのですが、プログレのバンドの中には人気だけが独り歩きしてしまって大衆迎合してしまい、音は近代や現代という時代から逆行するという、特にバロック方面へと行ってしまって聴衆からは叙情的で判りやすくなっていく方へスタンスを変えてしまったりするモノや、それがプログレだと皮相的に誤解してしまう(特に日本の関西方面のプログレに多かった)バンドが現れては消えて行ったりしたモノです(笑)。実は日本においてはこうした「勘違いプログレ」から端を発する様な人達がファンの構成比率としては一番高い構造となってしまっている事にも異論を唱える人は居ないでしょう。


 ロックというのは反体制というポジションを取り乍らも商業的にも成功する所が「カッコ良さ」を秘めているのでありますが、反体制的な方面に同調するファンには、本来ならば音楽を「マジメに」やっている上での苦労や真摯な取り組み部分という裏の姿を見せてしまう様な事はなかなかしないモノです(笑)。悪態ついている位の方が格好良く決まるワケですから、真面目に楽器のトレーニングに励んでいたり理論面の勉強をしていたりするような所など、おそらくやファンに自身の自慰行為を晒してしまう位格好悪いモノだと思っているでしょう(笑)。ドアーズは格好悪いのか!?というと亦それは違いますが、言いたい事は察していただければと思います(笑)。


 そもそも反体制的なサウンドとしても確立していない様なポッと出のバンドが、正統の前衛の権化でもあるプログレ要素を採用して一体何しようってんだ!?というのが先の「プログレなんちゃら」と平気で名乗ってしまうようなバンドへの私が抱く疑問なのですな。どうもテクニカルであればプログレだと勘違いしていたりしてはいないだろうか!?とか、テクニカルっつったってその辺のギターやキーボード練習で平気で聴こえて来るようなフレーズのダダ弾き程度ならお腹一杯なワケですな(笑)。偶々統率を取りやすい気の合う連中が見事なアンサンブル決めました、って程度に難しい事ヤッてみました程度で箔付けようとも、それはイカのキ○タマでしょ、と(笑)。正統な方面ですら無理解だったりするクセして、途端に自分自身の浅薄な知識と経験に靡いてしまう程度のバンドにシンパシーを得てしまうのは滑稽でしかないワケですよ。まあ実名をわざわざ挙げる事はしませんが、大体は言いたい事お判りいただけるでしょう(笑)。


 クラシック方面の作曲家、特に近代・現代方面を取り上げるのはそうした所から多大なヒントがあるにも関わらず、クラシック方面は無理解で収まってしまっている人が結構多いものですから、敢えて私は取り上げたりするワケですね。「いやいや、ジャズにかないっこないでしょ」なんて思っちゃっている人だっているワケですし嘗ては私自身も「ジャズこそが最高峰」などと誤解していたからこそ敢えて辛辣な事を言うと、そんなジャズですらも到底及ばない事を包括しているのがクラシック音楽界なのだと取り上げるだけでも近代・現代のクラシック音楽を例に挙げるというのはとても有効な手段なワケです。その「有効性」というのは温故知新、つまり旧き良き音楽(=近代・現代のクラシック音楽)から学ぶことと、そちら界隈で使われていた和声をジャズ流ロック流に昇華させるという事を意味します。


 悲観すべき点は、自分自身が音楽的バックボーンに於いて知識や経験に乏しい時代に理由も無く体制側へのスタンスのポジションを取ってしまう事で「無理解」を招いてしまう事。これは音楽に限らず色んな方面で見受けられる事です。政治についてもアレコレ横から揶揄する人はおりますが、政治への正しい理解と有権者の正しい行動としてきちんと理解し乍ら選挙にも足を運ぶ、というのは日本国内に於いては意外に少なかったりします。こういう事例から見ても「知ったつもり」になっちゃっている様な所があったりするんですね。

 政治の場合は、選択肢が少ないからそこから自分自身が支持する政党や候補者を選ぶのは難しいから結局人物のうわべだけの好き嫌いで選ぶようになってしまう、という人が多いのも実際なのですが、これを音楽に当て嵌めてみるといいでしょう。つまり「見てくれ」が良ければ音楽など二の次で好き嫌いで判断してしまっているようなモンなんです。初音ミクというキャラクターが独り歩きしてしまうのも似た様な側面があると思います。初音ミクの本質を理解する事ではなく、結局は音楽の本質を理解する事が大事なのであり、そこを見抜くのが難しいなら音楽なんか聴きたくねえよ!と思うような物とも言えるかもしれません。


 3・11以降、テレ朝の「朝まで生テレビ」に於いて田原総一朗氏が述べていた事があります。「朝まで生テレビの放送が始まった時辺りは原発稼働は少なく反対派もかなり声を上げていたにも関わらず、原発がここまで増えてしまっているという事は、反対派の声など無機能で何の役にも立っておらずに何やってたんだ!?」と。田原氏の言いたい本質は、今現在は誰もが判りやすいようなアンチテーゼとなる物をハイエナの様に見付けては来てはそれを騒ぎ立てるだけで改善の為の努力をしておらず、騒ぐことでメシを喰らうような輩の事を暗に非難している事なのであります。

 確かに、小言や愚痴を言わせるならば幼い子供ですら口走るモンです(笑)。反抗という側面は実はとても近い所に密接しており、他人や他者の足元をすくうかのようなケチを付けることなど子供の頃からできてしまうようなモノでもあるワケです。根拠の無い反抗ならばいくらでも出来てしまうワケで、よもやそれを「生業」にしようとも、改善のために反抗するのではなくメシを食うために存在する様な輩が色んな所に存在している事にも警鐘を鳴らしているとも感じたワケです。

 3・11以前の近年の日本において原発に対して反対の声が強まったのは、音楽シーンを例に挙げればブルーハーツと忌野清志郎の80年代の中頃の事であります。チェルノブイリの事故をキッカケに声が更に強まったワケですが、パンクス方面の人間達はチェルノブイリの事故が起こる以前から「原発反対」は訴えていて、当時を知る人からすれば原発の存在自体がピンと来ずに「何に対しての反抗なのか!?」と思う人も多かったのではないかと記憶しております。


 ウォルター・ベッカーの2ndソロ・アルバム「サーカス・マネー」収録の「Door Number Two」では、バイオ燃料バブルで一攫千金で財を成した人が農場にポツンとそびえるカジノに手を染めて金と時間を費やす様を皮肉っている描写があったり、「Selfish Gene」は通勤ラッシュの行動の中で自分自身の失敗から自殺へと身を投じてしまうのを、街のラッシュの喧噪に身を委ねて誰かの背中の後押しを待つ様なシーンすら描写できてしまう事すら考えに及ぶくらい暗喩に満ちているモノです。歪んだ社会の中で疲れきって、ペンギン達は自決を選んでいないにも関わらず、天敵の居る場所へエサを求めて自分のタイミングで飛びこびたいにも関わらず、エサを求めてしまう事と自分の身を守る為には誰かの犠牲が必要とばかりに遺伝子レベルに刷り込まれた行動は、先端にいるペンギンを犠牲にする事を選択して、後ろからの後押しでペンギンの体は海へと放たれ、運が良ければ戻ってこれる、という悲しきペンギンの宿命が現代のサラリーマンにも投影できるのではないかと思うワケですね。特に中央線のプラットフォームなどついつい私はペンギン達の「Selfish Gene」を投影してしまうワケですな。

 地ベタ這いつくばるような生活をするようになっても酒を欲する、それが幸せなのか!?とそれはスティーリー・ダンの「Deacon Blues」の歌詞。ビジネスに失敗して摩天楼のビルから身を投げる行動を選択せざるを得ない歌詞の「Black Friday」。こういう歌詞に不思議と現代の社会に密接なシンパシーを感じてしまう妙味を備えているものの、彼らの歌詞の部分のこだわりとは別の側面の楽理的な側面を見るだけでも価値があるというのは誰もが認める所でありましょう。言い換えるなら歌詞の面でも楽理の面でも妥協が無い。こういう音楽から「学ぶ」ことが重要なワケでありまして、インストゥルメンタルの音楽であろうとも歌詞が無いのは当然で、歌詞という食い付きやすいメッセージに凭れ掛かる事なく音楽を聴く事ができる位の音へのボキャブラリーを養ってみようと挑戦するのはとても重要だったりするのですが、音が歪んでなければ聴く価値なしだとか、レゲエじゃないとダメだの、ヒップホップ系の体系化音楽じゃないとダメだったりとか、キック4つ打ってねーとダメだとか、この辺にぶら下がってレコードしこたま漁って通ぶったりするのが関の山でして、本質を見抜くこともできずに本質を数多く皮相的に知ることなどなんの肥やしにもならないのであります。

 文句ばっかり言ってる様なのに説教でもしてやるとしたら、そこまで文句があるなら何で生まれて来たのか!?とでも言えばどのみち目の前でそう諭された事に反抗して目くじら立てるのが関の山でありましょう。つまり、楽をしようとしているのに難しい方の「生活という営み」を選択しているのでありますな。これがそんな人達の矛盾。解決するのは一過性のもので威圧か金の類でしかないのです。


 粗暴な連中ならまだ判りやすいからイイ方で、反体制というポジションを生業としてるだけのエセな批評家やら活動家やらが存在したりもするワケですな。音楽評論家の類が書き連ねるライナーノーツやら寄稿文章など修飾語と人脈相関とバックボーンが8割ですよ(笑)。この手の評論家はまだまだエセな人達と比較すればカワイイもので、より良くしようなどとは微塵も思っていない物だから自分達が居場所を見付けて鼓舞できるようなアンチテーゼを探して吠えるワケですな。こういう下衆な手法に商業音楽は乗っかって大枚はたいてきたワケです(笑)。真面目に音楽やってる所からきちんと学ぶという事が今だからこそ必要なワケですな。

 反体制を貫くなら私の様なブログもアテにする必要などないんですね。それをせずに読む方の選択をしてくれたのであれば、少なくとも音楽の深部を真面目に議論したり吟味する事が必要なのではないかと。私のブログ読んで政治や社会を勉強できるなどとは思わないで下さいね(笑)。動機は大切ですので色んなスイッチは用意しますが、そのスイッチを入れても本人にパワーが無ければ動かないワケですね。


 私も色んな譜例などの例を提示していますが、実際に音を自分自身で弾いている人の割合は少なくなるだろうと思っています。そうした少ない割合の人達へも「動機」というパワーが伝わって初めて確認された「成果」でありまして、これは私への成果でもなく各人の成果なのでありますね。


 「動機」という物を得る為に、社会的なアンチテーゼを必要としている人が居ます。音楽界の中にも。それが生業じゃなかろうとも結果的にそう成らざるを得なく成ってしまっている人も一部には存在したりします。そういう人達が総じて「エセ」なのではなくて、言葉としてのメッセージが下手な音楽家が居たりもします。音楽だけじゃ一般の人にはなかなか本質が伝わらないもどかしさもあり、自身にも言葉が下手だというもどかしさを持ってしまっている人も居たりするんですな。動機への目の付けどころはイイのだけれどもその後の対処が苦手なので色眼鏡で見られてしまう人も居たりします。

 そうした誤解を払拭できるのはやはり本質を見抜くことなんですね。私からすればどんな理念や思想や宗教やってようが楽理的側面には無関係なモノなので、フィルタリングする必要もなく音楽だけを聴いて分析しております。音楽を作ろうとする欲求を生むためにアンチテーゼを見付けなければならないという動機付けはあってはならないモノだと思います。常に喧嘩したさに悪態付き乍ら事ある毎に難癖付けて怒りのスイッチを入れるのを待っているかのようです(笑)。スポーツやらでも日本という事を良い事にそれだけで怒りスイッチを入れて倍加させる相手もおりますが、それが本質かと言うと絶対にそれは有り得ない事であり、勝利への執念を剥き出しにしようともカンフー繰り出すかのようなサッカーやってしまったり再起不能の怪我を負わされるような事など言語道断であります。

 歌詞を聴いてナンボ、という音楽の聴き方しか出来ない者はそもそも音楽的なボキャブラリーの捉え方が不足しているからで、歌詞の文学性やアーティストの生き様にシンパシーを得てしまうのを良いことに音楽を盲信してしまうのも然り。やはり本質を捉えきれていないから生じてしまう短絡的な動機に過ぎないワケですね。ところがこうした行動を自分自身が否定できない者は幾許かの衝突も起こし乍ら自分の好きな様に邁進し後に悔いるのであります。

 最近の商業音楽シーンが低調なのは、そうした音楽シーンに対して「エセ」だという事がエセな人達よりも未熟であろう人達もが気付いてしまっている部分も往々にして原因があると私は感じます。彼らなりに無駄に遠回りするコトなく本質に辿り着きたいという欲求が選別という敷居の高さというスレッショルドを上げているんですな。このスレッショルドを自発的に上げるという行動は無視出来ないモノでとても良い兆候だと思ってはいますが、総じて彼らが賢くなったと言えるワケでもありません。こういう行動の中から真摯に音楽と向き合ってきちんとした本質を理解する人が増えて来ている(あくまでも比率であり、少子化という現実から人口比率で見た場合の増加)のでありましょう。

 本質を向き合わないまま音楽的ボキャブラリーを養わなければ、反抗するにもそれに相応しい反駁する言葉というものが脆弱になってしまうワケで、勝てないの判ってるからストレス溜めるだけではそれこそストレス社会という現代を象徴するモノにも反映される通りの行動となってしまうワケですね。ペンギンさんの行列で軈ては死者の行進ではあまりに悲しいではありませんか。小難しい事を知識や経験として獲得しようとせずに回避してしまうと結局しっぺ返しがあるワケですね。