SSブログ

アコベでスラップ [クロスオーバー]

 「何言うてはりまんの?」とまあ、こんな声が聴こえてきそうですが、今回はAORの話題をと思ってこーゆー記事タイトルにしちまったワケなんですが、それにしても何故アコベなのか!?と、私の意図が全く判らない方が多いとは思いますので、その辺りを追々語って行く上でAORの話題が必要になってくるのであります(笑)。


 AORという「アダルト・オリエンテッド・ロック」。昨年はNHK-FMの三昧シリーズでもありまして、実はプログレ三昧同様結構好きなプログラムでした。私のリクエストした曲は3曲もかかったモンでして嬉しい思いをしたモノです。AORというのはそもそも大人っぽい響きをバックに唄うという所に端を発すると思いますので、バックのサウンドはやはり器楽的な面で明るい人はやはりバックの演奏やハーモニーにも食いつきどころが豊富にありまして、まあ、ハーモニーも豊かで高次なモノになってくるとやはりジャズ系統やらそっち方面に耳が慣れている方が捉えやすい「和声の形」というモノがありますんで、楽器を嗜む人間にも心地良い音楽という風にも捉えられるんですが、AORというのはやはり唄が先にありき、ですので肝心の唄というのはそれこそ背景の小難しいハーモニーなど無関係に素人の方にも優しく耳に溶け込むようなモノも備わっていないとなかなか難しいのではないか、と思うのもAORなんです。


 音楽の聴き方に於いて難しさを必要としないもののひとつに、牽引力がハンパないメロディー。これこそが名曲の代名詞ですね。AORというのは難し目の響きと共に、優しさのある牽引力のあるメロディーをリスナーから求められている所がありまして、特に70年代後半の日本のクロスオーバー・ブームの頃を境にその後のAORというのはメロディ独り歩き系のものがもて囃されるようになるのですが、その時期よりも数年前の西海岸系には結構イイ渋めのAOR系の音楽があったりもするんですね。


hungate_haslip.jpg
 私はそんな西海岸系のAORサウンドの中でも特筆したいのがデヴィッド・ハンゲイトのベースなんですね。実は今回の話題はこの人の話題をコアに語っていくのでありますが(笑)、そんな彼は初期TOTOのベーシストでもありまして、「Georgy Porgy」のPVではギターとベースのダブルネックを弾いちゃっていて、スティーヴ・ルカサーはまだレスポールを使っていた頃の映像があったりするワケですが、このPVからもお判りになるように、デヴィッド・ハンゲイトのスラップというのは少しフォームが変わった感じに見えると思います。私個人では、このようなスラップをする人は「引っ掛けタイプ」とか呼んじゃったりするんですが、それこそスラップ黎明期の頃というのは本当の意味で今日のスラップのフォームを巧みに身に付けていた人は後藤次利を筆頭に挙げるコトができると思うんですが、他は結構「引っ掛け」タイプの人が多かったりもしたものです。


 「引っ掛け」スタイルを生む下地としてあった背景には、それこそエレキ・ベースの奏法が所謂「いかりやベース」と呼ばれるスタイルがあったからだったのでしょうが、親指の腹で弾くスタイルのアレですね。これはそもそもフィンガー・レストが1弦側にあって、今日のスラップをやる人からすると「こんな所にフィンガー・レストあったらプルできねーだろ、馬鹿じゃね!?」とか言われる始末(笑)。親指の腹だけで弾いていた頃は逆にそちら側が指の安息所だったワケですな。

 そうして時代が移り変わると2フィンガー・スタイルが持て囃され、親指を低音弦側に置くようになるワケですね。そこでスラップというのは弦も昔はフラット・ワウンドだったモノですからメリハリの利いたスラップというよりも、目に見えずとも確実に音が明確に変わる「ベッチンバッチン」でメリハリを利かせればよかったものもありますし、しかも引っ掛けスタイルはどちらかというとベース本体そのものを「縦に構える」かのようなスタイルにおいてプルも小指や薬指側を使う事もあったモノなのです。そうした背景から「引っ掛けタイプ」は今日のスラップのフォームとは別の進化を遂げていた頃があったんですね。

 
 その「引っ掛けタイプ」を拠り所としていた奏法そのものがアコベのスラップだったのではないかと想像するに容易いのですが、見た事が無い人からすれば「アコベのスラップ!?」と驚かれるかもしれません。確かにジャズ界隈でも少ないです(笑)。それこそスラップどころかピチカート奏法の祖であるモンテヴェルディまで引き合いに出さなければいけなくなるのかもしれません(笑)。

 アコベのスラップとはとても特徴的でありまして、フツーのスラップのサムピングに相当するのは「掌底」を使います。掌底を低音弦でガツン!と当てて、引っ掛けるのがオクターヴ側の弦で、この場合は中指&薬指を使って「プル」をします。

 そんなの見た事ねぇよ!とか言い出す人もいるかもしれませんが、実はこの奏法、ロカビリー方面では結構ポピュラーな奏法でして、ストレイ・キャッツはやらないかもしれませんがこうした奏法がある、というコトだけは断言しておきます。即ち、こうした所のフィードバックが下支えとなって「引っ掛けタイプ」のスラップ奏法は確立されていたと私は分析するのであります。


 で、ようやくデヴィッド・ハンゲイトの話に戻るワケですが、デヴィッド・ハンゲイトという人は恐らく引っ掛けタイプのスタイルを残すベーシストのひとりであると思われ、日本においては細野晴臣でもYMOがソウル・トレイン出演時のベースなど特に顕著だったりするんですが、やはり引っ掛けタイプのスラップを演奏したりします。他には利き手も違うジミー・ハスリップ(ヘイスリップ)のスラップなんかもまさに好例だと思うのですが、ジミー・ハスリップの場合、ジノ・ヴァネリの「ブラザー・トゥー・ブラザー」以来私は見たことがないので、今もスラップをやるのかどうかは知りませんが、少なくとも「引っ掛け」スタイルというのは、ベースを立てるかのような逆に、利き手のサムピングとプルに相当する延長戦を弦と平行に近くあてがう様なプレイスタイルの様なモノだとご理解いただければ巧いこと伝わってくれるのではないかと信じてやみません(笑)。エイブラハム・ラボリエル師匠もそうした引っ掛けスタイルを残す方だと思います。


WhiteHorse_MichaelOmartian.jpg
 でまあ、そうした引っ掛けスタイルのベースを好む私は、特に70年代中期におけるデヴィッド・ハンゲイトのプレイには食い付いていたモノでして(笑)、先日も紙ジャケではないプラケースでのマイケル・オマーティアンのソロ・アルバム「Whitehorse」の再発があったばかりですが、昨年のAOR三昧では掛からなかったマイケル・オマーティアンを今ここで引き合いに出さなければ語る日はそうそう来ないだろうと思いまして語っているワケであります。

 私がマイケル・オマーティアンのアルバム「White Horse」を好むのはデヴィッド・ハンゲイト(初期TOTOのベーシスト)が参加しているからなのでありますが、一般的な耳に準えれば「佳曲」は多いものの、ビッグヒットにまでなる様な誰が聴いても名曲かのようなメロディの牽引力がグイグイと引っ張ってくれるような曲はないという(笑)、そっち方面の支持者からするとB級扱いされてしまいそうなアルバムだったりするんですが、いやはや実はこのアルバムは色んな意味でグッと惹き付けるモノが備わっているんですな。

 私は後のスティーリー・ダンの「ブラック・カウ」に於けるジョー・サンプルの弾くクラビネットなどはマイケル・オマーティアンのクラビネットにかなりインスパイアされていると思いますし、「Fat City」なんて私はついついAttitudesの「Promise Me the Moon」を感じてしまうワケですなー。

 先の「Whitehorse」の同名タイトル曲は、実はちょっとジャズ・ロック的な響きがありまして、Khanに似ているんですな(笑)。Khanと言えばデイヴ・スチュワートとスティーヴ・ヒレッジが代表的なメンバーなワケでして、よもやAORとカンタベリーの端っこにまでイメージを膨らませる事ができるのもオイシイ所です。

 SDのブラック・カウに於いて私が楽曲アンサンブル中最も重視するのは実はクラビネットだったりします。トム・スコットのホーン・アレンジの妙味も凄いモノがありますが、あの曲で本当にセンスの良さを感じるのはクラビネットの存在だと私は信じてやみません。しかもクラビネットを弾くのがジョー・サンプルですからね(笑)。ローズでも無いのです。クラビで。あらためてメンツを考えると東海岸と西海岸が良い具合にミックスされているように思いますが、デヴィッド・フォスターがシンセをフィーチャーした様なその後の西海岸の前の玄人向け西海岸サウンドを知る方なら、ブラック・カウを聴けば、「西海岸サウンドの気だるいアレンジ」という風に形容するかもしれません。とにかくイナタいサウンドがあった頃の「西の音」を感じさせてくれるアレンジだったりするんですな。

 私が感じる「西の音」というのは、シンセ(ポリフォニック)が無い頃のイナタい類の音。大体70年代中期辺り。パトリース・ラッシェンやジェイ・グレイドンと言えば完全な代表格でありましょうが、ジョージ・デュークやフローラ・プリムを合わさって「西の世界」を形成していたと思います。またそういう「西の世界」においてリリースされた嘗ての唄モノというのはAORの祖という扱いとして括れてしまうモノも多くてですね、私はついつい心酔してしまうのであります。


 そうした心地良くカッコイイ「けだるさ」がマイケル・オマーティアンには備わっておりまして、ハンゲイトの音を短めに弾き乍らも実は音を延ばす時のメリハリが絶妙な狂おしいベース・ラインはその後かなりのベーシストにも影響を及ぼしたのではないかと思わんばかりです。ハンゲイトのベースを皮相的に扱う人は全てがショート・ディケイのシンベのように扱おうとするんですが、こうして聴こえてしまう人はまだまだです。ある意味伊東広規には私はデヴィッド・ハンゲイトを投影していた所があったりします。

 というワケで、音がまだイナタさを残していた頃というのはやたらとサウンド・キャラクターの牽引力だけに拘らずに演奏面とアンサンブルを磨いていた音像の姿というものがAOR問わずギミック無しの頃にはありましてですね、これがマルチ・トラック数が増えてくると比例してどんどん形骸化してきてしまうのも音楽の負の側面だったりもします。こうした側面に埋没しない様な聴き方をするには、サウンド・キャラクター面に食い付くことなく、音そのものの深部を捉えることが重要だと思われるのです。