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長音階の持つ唄心 [楽理]

 少し前に私が話題に出した事で次の様に述べていた件がありました。それは、音階の「情緒」というモノを巧みに活かすモノとして上方へ長三度跳躍する時の反行形として下方の三度は短三度として長短を持ち合うように、上と下で「長短」をそれぞれ持ち合うと唄心を演出しやすいという類の件なんですが覚えていらっしゃるでしょうか?


 不定期にそうした「唄心」とやらについて何度か語っている事であるのでしつこいかもしれませんが、そうした表現をただ単に「漠然と」解釈してしまう人が居たりするので、実はこの表現にはとても重要な要素を孕んでいるので皮相的に言葉だけを捉えて理解してほしくない部分なんですな。なにゆえ「唄心」なのか!?という事をあらためて語る必要があるかと思います。


 ここで私がいわんとする「唄心」というのは、教会旋法から逸脱することのないヘプタトニックが齎す情緒全体の事を意味しておりますが、その中でも「唄心」というのは、強力な調的な世界観の中でも「直視」している世界観の事です。

 つまり「直視」とは、Aマイナー・キーにおいてAドリアンで代用するという事ではなくAマイナー・キーにおいてまんまAエオリアンを想起するという「直視」の事でありまして、モード的解釈の「嘯き」すら視野に入れていない意味での、調的社会を「直視」しているという意味です。


 マイナー・キーをドリアンで代用しようとも、大半は「嘯き」と「直視」のメリハリと行き交いを楽しんでいたりするモノです。調的社会に直視していれば調性外の音など一向に出現するコトなどなく7音で収まる体系としてひとつの調性内で推移する楽曲が形成されるワケです。


 ドリアンという音並びは上にも下にもシンメトリカルな構造ではあるものの、「直視」した場合はドリアンとして見立てるのではなく、通常なら最も安定した構造が長音階であり、さらにその平行短調という姿になるのが通常の調的社会です。


 では長音階を例に挙げた場合、今回はハ長調のCメジャー・スケールを例に挙げますが、これが持つ「唄心」というモノをあらためて披露すると次の様な譜例に表されるコトになります。
mochiai.jpg



 譜例ではC音を基準に、上と下にそれぞれ反行し合うように絶対的な度数こそは同じ跳躍ですが、完全音程は完全を維持するのは当然の事乍ら、他の音程はそれぞれ「長短を持ち合う」ように形成されている事があらためてお判りになるかと思います。

 今回の例と同様にD音基準からの上下への音程跳躍の持ち合いやらE音やら7つの音全てにおいてお調べになれば判るかと思いますが、長音階というのはこうした上と下との反行し合う形が形成されていて、安定的であり調的な姿としても唄心を備えているという事が判ります。

 一方、次の譜例に見られるように完全音程が生ずるであろう四度と五度を見た場合、赤色の符頭で示している所は、F音若しくはH音を基準に上下にそれぞれ等しく四度と五度を形成しているのでありますが、上下に等しく完全音程を維持することはできずに、上下のどちらかが増・減の四度と五度を生ずる様になります。
mochiai_others.jpg


 つまりハ長調の調域で見た場合、C音を基準に上下いずれかに跳躍する音程のメリハリは完全音程は別として長短で持ち合うように生じて「唄心」が成立するようになり、他の旋法ではリディアンとロクリアンを除く旋法から生ずる完全音程(四度と五度)では完全音程を相互に持ち合うという関係が成立しており、ドリアンでは音程がシンメトリカルになるという特徴を持つ事が判ります。

 F音とH音を基準とするFリディアンとBロクリアンの四度と五度での部分では完全音程を持ち合わない事は次の様にも解釈できると思いますがそれは、増減の音程を上下の何れかに生ずる状況を、調的な意味において「俺らは完全音程で持ち合う事が出来ないけれどイイよね!?」みたいな「結果オーライ」的状況だと仮定した場合、下属音をルートした3度音程の重畳した和音は(F,A,C,E,G,B,D)、「結果オーライ」として総和音を生んでもやむなしという状況になるという意味で捉えていただきたいのでありますが、こうすることでサブドミナントから3度の調性を維持した体系での総和音というのが調的な許容ものではないものの、首尾よく調性内を維持した体系で3度を重畳「可能」な状況という風に捉えていただきたいワケですね。それと同時にF音とH音というのは他の調域を視野に入れることが可能な「分水嶺」という風にも考えられるような状況にあると考えていただくと判りやすいかと思います。


 先の図にもある通り、F音を基準とした例えば四度を見ていただくと、F音を中心に下に完全四度のC音と上に増四度のH音が生じている事が判ります。仮にH音が空気を読んで完全音程を維持しようとなるとBb音を生ずることになります。こうした「空気を読む」という状況が単一の調性の枠組みだけでは収まらない状況だとすると、そこで他の調域を視野に入れざるを得ない欲求の始まりだとも言えます。同様に、こうした「空気を読む」という状況を、先の図の右隣で生じているF音基準の五度では、下に減五度、上に完全五度を生じているワケですが、完全音程に配慮して「空気を読む」と、下に生じている減五度が完全音程に配慮する必要があるため、基準となるF音を変化させF#を生ずる必要になります。さらにはF#が生じた以上上方に完全五度を維持するとなるとC#音を生まざるを得ない状況になります。ここでのC#音はC調におけるナポリタンな音のD♭音ではなく、平行短調(Aマイナー)の同主調(Aメジャー)で生ずる3度音への「欲求」だと理解するのが適当かと思われます。
 
 この時点で生じた元の調域外の音はBb音の異名同音A#と解釈することでF#メジャー・トライアドを得るコトになり、元の調域との対蹠点の関係である音の脈絡はかなり近しいモノとなり、対蹠点に生ずるその長和音から平行短調側の音(=E♭音)を探ることも容易となり、Ebマイナーという平行短調のIII度を「短調の三度」としてF#augを得たとしたら、その「裏」(=対蹠)の関係にある元のハ長調の平行短調(=Am)も同様に「短調の三度」を探るとCaugを得ることが出来て、結果的にG#音を得た時に当初のハ調域の7音に加え、黒鍵の音全てを見通す事のできる状況を一望することになります。とはいえ、ハ長調から調域外の音を無差別にチョイスするのは愚の骨頂ですし、他の音を使いたいのが先にありきなのであればそもそもハ長調という調域を使う必要がないので、フレージングは自ずと細心の注意を払わなければなりません。大事なのは「欲求」というベクトルが発生する事そのものです。かといってダイアトニックな枠組みだけで収まってろ!というワケでもありません(笑)。


 然し乍ら、我々は調的な「嘯き」を自然に受け入れます。転調などせずとも一時的な調性外の音を使う事を好むワケですが、7音の世界からハミ出た5つの音をランダムに選別してきて選んでいるのではなく、その音への「欲求」というのは大抵近しい調的な関係にある音を選んでいたりする事が大半です。しかしここで重要な事は、調性外の音への「欲求」そのものに対してでありまして、7音の体系に収まることなくそこから逸脱した音にも脈絡を得乍ら拡大された曲の「色調」を幼い頃から耳は受け止めて耳は習熟を重ねて行っていると思います。その「欲求」が起こるのはなぜなのか?という事が重要です。


 例えば、先の調性内の音7つの音を維持したまま結果的に総和音を形成させることになる首尾よく3度を重畳した形では、ハ長調の場合だと下属音(=F音)をルートとした時に3度を重ねていくことで総和音を得ることができますが、そうした総和音という姿も拡張的な調的な世界では有り得るのだけれども、大概は隣接した近親的な調へ「嘯く」ことで単一の調性の音を全て使う状況の「飽和」を避け乍らセカンダリー・ドミナントを得る手法への魅力と欲求が強く働くもので、そうした近しい調域への「嘯き」を苦もなく扱えることができるような「欲求」を生ずる事そのものが、調的社会の枠組みを大きく逸脱すること無く少しずつ嘯きながら拡大する「ポジティヴな」範疇での強い調的情緒が齎す牽引力の賜物であると思います。だからといってこれとは別の例である総和音での音の重畳が悪なのではありませんからね、この理解には気を付けて下さい(笑)。


 色んな状況の音楽を知ると、マイナー・キーをドリアンで代用して嘯いたり、2ndベースの体をトニックと置き換えてBb△/Cという風にあたかもCをトニックとした場合の「嘯き」だと、これはCミクソリディアン系統であり、さらにはナチュラル11th音を和声的に用いている例のひとつでもある状況でもあり、「嘯き」というものは実は強固な調的社会を「中和」し乍ら、時には通常の調的社会で扱っていたドミナント -> トニックでの解決先の音を使い乍らも「中和」しているのだという事を気付いてもらいたいワケですな。


 そうした中和の用法が現れている状況とツーファイヴの状況を明確に違いを認識する必要があるワケですが、曲の収まりを通常の世界観の方へ重きを置いている曲の場合、中和した世界観を織り交ぜても、先取り感を強く示唆する音の中和が収まり悪く響くように聴こえてしまうのが大半だったりします。アボイド感の弱い先取り感覚はどうすれば維持できるのか!?という所が醍醐味だったりするワケですが、次の様に考えると判りやすいかもしれません。

 例えば、「ドレミファソラシ」という7つの音を使っている状況があったとします(和声的にファラドミソシレ)。単一の調性の枠組みから見れば立派に総和音で飽和状態であるとも言えますが、例えば3音+4音の混合という風に考えれば、もうお判りですね!?つまり、バイトーナルな状況において出現している音だとするならば、まるっきり飽和している状況ではないと言えるワケです。ヘタすれば2つの調性どころか3つ4つという状況すら想起可能でもあるかもしれません。

 先述した通り、調的な世界を大きく逸脱することなく少しずつ嘯き乍ら調性外の音を獲得する手法は、大局的に見ようが断片的に見ようが、旧来の古典的な調的世界の枠組みに則っている手法なので、こうした強い牽引力を伴う楽曲にしか耳が馴染んでいない場合は、それとは異なる情緒を齎す音楽において音楽を吟味するのは耳が未習熟な人にしてみれば厄介この上ないでしょう。調的世界の強い牽引力を伴う音楽観をゆりかごと形容するならば、それとは異なる音楽の情緒は背もたれの無い椅子のようなモノかもしれません。音楽においては殆どの人が背もたれを必要としてしまう聴き方をしてしまう人が多いのが顕著です。音楽の嗜み方から変化が無ければ古典的な枠組みを超える音楽に出会した所で何一つ理解を示すことができるワケがありません。音楽の聴き方にコンプレックスを抱いている人はまだマシな方で、自身の習熟度をいつしか高めて行く事ができるでありましょうが、それにすら気付かずに古典的な枠組みばかりでの音楽しか礼賛できぬような輩はおそらく、ナントカは死んでも治らないという形容が相応しいのかもしれません。