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Tomorrow's Girls制作裏舞台 [スティーリー・ダン]

 今になってドナルド・フェイゲンのソロ・アルバム「Kamakiriad」から選曲してケークリにてリリースするというのもどうだろうか!?という迷いがあったものの、そもそもその迷いというのは、あのアルバム作りにおいて特徴的なDX7の「ほぼプリセット」と思しきDXベース(私は個人的に好きです)を使っていることもあってどのようにして反映させようか!?と考えていたコトだったのです。 あの手の音を忌避する人はSDファンには多いので、「Kamakiriad」と「11の心象」というアルバムはどことなくデジデジな音とチープさが備わっている所が嫌気材料となるのでありましょう。中古でも200~300円ほどで売られているのをよく目撃したりするものです(笑)

 とはいえ楽理面では相当語りたい材料がある宝の山である所に天邪鬼な私の心に火が付いてしまうワケでして、楽理ネタ語り乍らついでにリリースしてみっか!と決断することに至ったワケです(笑)。


 そうは言っても忌避されるコトの多い曲をそのまんま倣った音使うのではあまりに面白くないし、ただでさえ難しいネタ扱って白眼視されてもおかしくない所に多くの人が忌避したくなるようなコトは流石に避けるべきだろうと私自身空気読んだワケですわ(笑)。ってなワケで今回制作してみて特徴的なことを語ってみることに。


 まず、DXベース(プリセット系)を倣わずに、私はチャップマン・スティックを選択。こうしないと私らしくない(笑)。スティックのメロディ部はトニー・レヴィンに倣ってローランドのJC(=Jazz Chorus)の音を目指すべくNIのGuitarRigを通せばディシプリン期のクリムゾンの音の様にはなるだろうという思いからスティックを選択することに。

 スティックを選択することでギター・ソロ部の、音を極力省く「サイドギター系」リフをスティックにやらせるコトも私の狙いだったのでベースもその辺りのアンサンブルもスティックで出させるというのは正解だったと私は思っております。

 ディシプリン期とはいえ、クリムゾンのアルバム「Discipline」の頃は、「Indiscipline」などエレハモのマイクロ・シンセサイザーによるオシレータのオクターヴ音が混ぜてハイを極力絞る音とか在ったりするんで、その手の音ではない「Neil and Jack and Me」系の音を目指したのが今回のスティックの音であります。


fairlight_cmi01.jpg
 で、イントロ部に用いている音で早めのLFOがかった音は何なのか!?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはiPhone版フェアライトの音を使ったものです(笑)。

 ホントならそれをリサンプルして原波形のLFOスピードを落とさずにピッチ変更すべく処理をKontaktでやらせようと思ったんですが、LFOの音がピッチ変更時にやや平滑化されてしまって音の差異感が大きかったのでそれはやめて、自作の音をArturiaのminimoogを使って高速LFOを通して作った音と混ぜながら使っています。

 今回の図に用意したCMIのプリセット音は増音程サウンドにマッチするので(笑)、ついでに「Tomorrow's Girls」で使ってみっか!という軽いキモチで作ったというワケです。昔ぁ旧ナニワ楽器で取り扱っていたフェアライトCMIを初めて本で見たのが1983年のコト。週刊FMにて坂本龍一と一緒にCMIの特徴的なスタイラスペンのある画面と一緒に納まるその波形の形に、当時坂本龍一が飼育していたと思われる猫の「風太」君とおぼしきシルエットを投影したものでして、奇しくも私の親友が坂本龍一の愛猫とソックリの猫を飼育していたので私は当時を懐かしみ乍ら今回制作したものです。その時の私の仲間の内他界している者もおりますので、月日の経過の短さと自身の経験を磨くための時間の儚さとやらにあらためて驚き乍ら作業を進めていたモノでした。
fairlight_cmi02.jpg

 あの時、魔法の箱のようにすら思っていたフェアライトが今やiPhoneという物凄い小さなパッケージに凝縮されている時代にあらためて驚かされるワケであります。

 そういう夢のような時代から数年も経過するとMacプラットフォームにてdigidesignはGalaxy Editorを伴いながらSample CellやProToolsというDAWへの道を拓くワケで、当時のウォルター・ベッカーはやはりVisionを中心に据えたMacを導入していた頃だったので、そうした2、3世代を経た当時のデジタル音楽シーンを凝縮し乍ら、それをも包括しているiPhoneの力を借りて作ってみようという狙いがあって今回の制作曲としているワケであります。但し、それをただ作って披露するだけでは自己満足に過ぎないので楽理面をキッチリ語っているというワケであります。