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エイトーナリティー [クダ巻き]

これまで私が語って来ているハイパーな和声関連の多くは「無調」(=エイトーナリティー:atonality ※古くは『アトナリテ』とも呼ぶ)方面の世界で語られているシーンに共通する世界観でありましょう。特に左近治がよ~く使うハイパーなコードで、下声部には便宜的にドミナント7thを与えつつ、属七の和音の第3音の所にハイブリッドな和声を配置する例とかありますね。その辺のコトをもう少し詳しく語ってみるコトにします。


でまあ、エイトーナリティーとやらを引き合いに出しているものの、左近治は終始「無調」の楽曲を作ろうと試みているワケではなく、寧ろあらゆる情緒を活かしながら半音階を得られればイイな、と思うワケですが、一般的にも使用頻度の高い和音を背景にしながら手の届きにくい遠方の音を得ようとしている所がポピュラーな音楽観とは違う所でしょうか(笑)。

そもそもエイトーナリティーとは古い理論書だと「アトナリテ」と語られており、松平頼則著の「近代和声学」のp.310~312においても3度音程を用いた規則性音程配置の例を挙げてはいるものの詳細はシェーンベルクの和声法を求めており解は生じておりません。これは先にも語った様に答は出てはいないのですよ。松平頼則の偉大な功績は、古くからの楽式に則った見聞から古典的な様式から逸脱してくる近世・現代の音楽への深い造詣と用例を緻密に挙げて解説しているコトでありまして、よもや古い時代ですらも保守的なスタンスの人間からは唾棄されてしまいかねないような世界観を取り上げているにも拘らず、そんな輩の根拠の無い誹謗すら飛ばさせることなく、いつしか小鳥達の五月蝿い褒貶は賞賛へと収束せざるを得ないほど外堀を固めて語られている名著なワケですな。

しかしながらこのような名著であっても例を深く挙げているだけで、実際には情報量としても濃密ではない物理的にも少ない量で出版されている理論書の方にキッチリと答を得られたりするコトなど往々にしてあるものです。こうしたエイトーナリティーの世界を散々詳細に語っているにも拘らず答を導けずに忸怩たる思いをしている人がひとたびヒンデミットの和声学のp.105を読まれると、こんな所に左近治の根拠はあったのか!?と驚かれるコトでありましょう(笑)。


扨て、それでは左近治の先述のハイパーな和声についてでありますが、過去にも語っているように、ハイパーな響きが欲しい時、その時点で属七の体を生じようとも私にとっては「属音+ナンタラ」程度なんですよ(笑)。コードネームに頓着しません(笑)。「属音という単音をペダルに、上でチョメチョメしてるわ」程度(笑)。オリラジ藤森クンもビックリのチャラい発言でしょうか!?いえいえ、そんなこたぁありませんよ。少なくとも「属音+ナンタラ」の「ナンタラ」は非常に重要なワケでして。


チョット前に初音ミクに唄わせた手前味噌ポップス系デモを用意したコトがありましたけど、その時に「G7 + Ebsus4」という事を述べていたのは継続して読まれている方なら記憶に新しいのではないかと思います。


私は、属音から「上下に」長三度(=減四度/増五度)離れた所に等音程累積の和音を配置するのが大好きなんですわ。じゃあ属音から上に長三度離れた所に減七の和音を配置するだけならドミナント7thにb9thを付加させただけですやん(笑)。それと同時に「sus4」やら「7th sus4」を置くんですね。


ここでチョット待ったぁ!となります。「7th sus4」という体はあくまでも私がポピュラー形式の呼称に寄り添った表現でして、実際はその四度下の「p4」という完全四度累積(等音程累積のひとつ)の四声体の事を指しているんですわ。どーゆーコト!?


前々回の記事でしたでしょうか。Csus4の体の譜例を出した時に「G音」を青くしていたのは。コレは、当時私がFinaleの設定を間違えていたワケではなくてですね(笑)、記事本文中には全く注釈もなく進めておりましたが、これはわざと意図していたコトでして(笑)、例えば完全四度累積の三声体である「Csus4」の最低音は「G」にあるワケですが、コード表記の流儀から言えばG音・C音・F音という三声体は「Csus4」と表記した方がスムーズなワケです。G音が最低音なんですけどね。

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それは四声体においても同様でして、例えば以前にも例に出した下声部にDb7上声部にF7sus4というハイブリッドコードというのはDb7の第3音に「F7sus4」を配置しているように思えますが、本当はDb7の半音下である「C音」から完全四度累積の四声体を積み上げているのが本来の私の意図なんですね。


でまあ属音に対して上下に長三度離れた所から等音程和音を配置したり、属音の半音上下から等音程を配置したりするのがハイブリッドなワザだと解釈していただけると、これまで回りくどく語っていた事少なくとも2年分くらいは要約できたのではないかと信じてやみません(笑)。


通常の調的な世界でのロクリアン・モードの部分というのは私に取ってはプレート・テクトニクスの海嶺のようなポイントでありましてですね(笑)、ここには減三・減七・増三、完全四度累積、規則的な音程(長三・短三・長三・・・という規則を繰り返したりまた短・短・長とかその他色々な規則的なもの)を「ハイブリッドに」配置したりするのがハイパーなポイントだと言いたいワケですね。


ヒンデミットの和声学でもココまでは突き進めてはいないものの、半音階を扱うと属音の辺りはこういう風に収斂して来るというのは楽理的方面ばかりに頭でっかちにならずとも音を聴いていけば自ずとこういうハイパーな世界に「収斂」するのだと私は信じてやみません。そこには先取りとなる音が出現するのも一例として挙げられますし、「なんで解決先の音が鳴ってんねやろ?」と思うこともあるでしょう。もっと言うと、「そういう世界だよ」と耳打ちされて判ってはいても、出て来る音の情緒に邪魔されない様に聴いていても転調感を全く感じるコトなく、いつしか心の中の調的な方角を変えさせられているような騙された作品として耳にする機会もあると思います。ブルックナーなんてアレほど執拗にフレーズを攻めて判らせようとしているにも拘らず、こんだけ幾度となく耳にしていても結局ダマされちった♪みたいな感覚に陥れられてしまうという(これはあくまでも私の感覚ですが)シーンがあったりします。


私の場合、大概な音楽じゃあ音楽的な情緒のジャイロは追従しますぜ!なんて心の中じゃ豪語していて、「さぁブルックナーさん、かかってきんしゃい!」とか思って挑んでいても、ついついブルックナーさんにいとも簡単に騙されてしまうのが私なんですよ(笑)。ブリテンやらラヴェルやら聴いていても複数の調性の感覚など追従できるはずなのに(笑)。ヒンデミットさんにも騙されっぱなしですわ(笑)。

オクターヴを「等しく」分割し合う音程、またはオクターヴ分割は関係なく等音程または規則的な音程累積を「同時に」行うことでハイパーな音を得ているのがこれまでの例だという事なのです。重要なのはそれらを「同時に」使うことですな。

オクターヴを4つの等音程に分割するのは減七の和音。3つに分割するのは増三和音の分散となりますが、これは正しくは「増五度/減四度」で分割し合う和音だという事をお忘れなく。見かけは長三度/短六度のようにも思えるかもしれませんが。せめてリストの生誕200周年である今年に「ファウスト交響曲」においてそうした「増五度」の魅力を紐解いてみてください。ドビュッシーやメシアンは「四全音」の妙味として注力して聴くとより感覚が鋭敏になるかもしれません。


20世紀に入って1920年代の辺りというのは現代音楽の幕開けであったりもするワケですが、ただ単にエイトーナリティーという動機は、それこそ音楽を哲学的に見るかのような達観した見立てからニュートラルなポジションを得ようと咀嚼すればイイのに、形式ばかりが色濃く出てしまうという側面もあったのではないかと思います。古典的な意味での和声的な機能はどんどん希薄になるのに、音楽を再生する道具と録音技術の確立、またそれらの道具の普及によって聴衆はいたずらに何百年も前にリセットされたかのように立ち位置を戻してしまう。そんなリスナーを前に音楽で銭稼ぐために大衆迎合しなくてはならない側面もあったりすることもあるでしょう。

嘗ての宮廷からの封建的・宗教的オファーに比ぶれば、世の聴衆からの突き上げなどまだまだカワイイ方ではないかと諌める人も居るかもしれません(笑)。音楽って、金さえ払えばそこまで払う側は偉くなれるモンなんでしょうかね?(笑)。どんなジャンルにおいてもコレって不思議なモンです。大半の聴衆というのは金を払うと同時に作者や演奏者の技術や才能すらも懐からカッ攫っていくかのような配慮のない人達が多いモンです。その人が満足さえすればその後にはようやくリスペクトなんていう取って付けたような美辞麗句を付けて大した違いも判らないのに言い訳がましく語ろうとする。

トーシロだって格好付けたい時があるだろうから彼らにだって客なりのプライドがあるのだろうから大目に見てやればイイではないか!!


先のような客の大半っていうのは「酔いしれている」ワケですが、彼らの酔いしれる部分は音楽の深みを熟知している人達が酔いしれる点はまるっきり違っていたりするものです。加えて彼らの「嗜み」には確固たる理由がなく、まるで酔っぱらいの戯れ言に付き合わざるを得ないようなこともしばしばで、あまりに横柄の度が過ぎてそんな彼らに諭してしまうと一気に「酔い」から醒めてくれるのはイイんですが、プライドとやらも崩壊させてしまうためか、その後の「可愛さ余って憎さ100倍」みたいな掌返しはこれまた凄いんですよ(笑)。

そういう人達のプライドというのは何かに培われているワケでもなく自身のわがままから構築された幻想なのに、なぜかそこが崇高なのが不思議な所なんですな。音楽をあらゆる点から考察しようとする事がそれほど辛いのか?

感覚的にしか知ることができないというのは、音楽を聴くためのボキャブラリーに乏しいと言えない奴らのエクスキューズですよ。そんな彼らにも「崇高な」プライドを有しているもののプライオリティーがなぜ彼らにあるのか?音楽理論書はそういう輩に理解させるために出版されているのでありますが、そいつらが判るように改訂されるようになってしまうとしたらそれは本末転倒ですな(笑)。


器楽的な心得が無ければ音楽の深みを知ろうとする人は極端に少なくなるモノです。楽理的な側面然り。しかしながら器楽的な心得がなくとも音楽の深みを知ろうとするコアなファンも存在するワケですが、この手の人達が貪欲なのはライブラリーの蓄積ですな。また人物の相関関係とかそれらの作品の収集です。音楽を学ぶ上では音楽的な部分以外の背景も引っ張り出して検証する事もありますが、和声的な方面を感覚的にしか理解できていなければ、これらを蓄積していっても音楽的である感性の方の肥やしになるとは思えないワケですな。そもそも自分自身が欲するハーモニーや旋律というのはその人自身の脳が欲しているモノなのに、それとは全く異なる方面の音楽のバックボーンやら所蔵品を蓄積していくコレクションのための所有欲という脳の欲求って全く異なるモノでして、音楽のどこに喜びを感じていたいのか、ということを理解していなければ和声的な方面の感覚はそうそう磨かれることはないでしょう。

それでも、昔と比較すれば小難しい曲の理解もできるようになったと思えるのは、それだけ歳を重ねていった時に自然と物理的な時間の蓄積によってもたらされたモノですが、そこで気付いても早期から高次なハーモニーに目覚めている人と比較するとスタートが大いに遅れてしまっているだけの事かもしれません(笑)。こう言うと闘争心を煽ってしまうのか、競争でもないのにやれ我れ先とばかりに先を急ごうとするのは概ね男性に多いです(笑)。


初めて聴く音楽に対して己が「無知」で居られる状態を自分で作ることが本当の意味でのエイトーナリティーなのかもしれませんな。その音楽がどれだけ明確な調性を表しているにしても、です。