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音楽とは特別なモノなのか!? [クダ巻き]

オルタード・テンションの反省とやらを語っていた理由は、今でこそソレに限ったコトではありませんが、コードという形式が持っている情緒によってその響きに助けられて安直な楽節を作るコトが可能なほど今日ではコードという形が体系化されており、しかもオルタード・テンションという形のそれは「オルタード・テンションという変化音を使わざるを得ない旋法に遭遇しているシーン」を表現するのではなく、「その音を用いるためにそのコードありき」という使われ方すらしているのも現実なのであります。


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コードという体系化された音世界をそうやって好意的に用いる行為全てが悪いのではなくてですね、仮に安直に用いたとしてもソコに潜む音世界を読み取って欲しいと思いますし、就中音楽を細部に渡って追究しようとする人であるならば、オルタード・テンションという出来合いの体に盲目的に理解してしまうようではダメだと思うのであります。故に多調的な側面で解体して分析できるように、音楽を別の角度からも分析できるように咀嚼しなくては意味がないのではないかと思うワケであります。

自身の好まない音楽を無理矢理理解しろとは申しませんが、少なくとも自分自身が愛してやまない音楽はトコトン裏側まで知り尽くしたいという欲求にかられてフツーの事だと思うのであります。人の好みなど千差万別ですから、私が取り上げるアーティストの楽曲など万人に愛されているワケではないでしょうし寧ろ万人にはホトホト厳しすぎる位の楽曲を取り上げているだろうと思います(笑)。


「たかだか着メロ屋程度に思われるのもアレだろうから言い訳程度に箔付けで楽理ネタ語ってんだろ!?」と思われる方もいらっしゃるとは思うんですが、まあ着信音なんて、と軽々しくは思っていただきたくはないんですな。私が制作に携わる身だから着信音というモノを擁護しているのではなかろうか!?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、別に擁護のスタンスではありません。制作当初からショートコメントにおいて「興味が湧いたらオリジナルを手にしてみてください」と注釈を付けておりました。オリジナル作品の良さを超えるコトは決してありません。そういうスタンスは今でも変わりありませんが、たかが着メロされど着メロと自覚しております。


たかが着メロというスタンスの側面を語るとすれば、先にも語った様にオリジナルの良さあっての着メロなので、着メロそのものを利潤追求のために金の亡者となって売ろうというスタンスは毛頭ありません。仮にそういうスタンスであるならば着メロ全盛期に私はヒットチャート物しか作らなかったでありましょう(笑)。

しかしCMコンテンツを追い掛けて制作していた時にたまたま制作することになった浜崎あゆみがBOSSのCMで歌っていたあの曲。後にも先にもKクリで1位になったのは左近治制作の曲ではそれだけなんですが(笑)、そんなトップに輝いた浜崎あゆみを持ってしても私が予想していたほど桁違いに売れたワケではなかったんですよ。私が予想が欲をかきすぎていたというのも否定は致しません。結構売れたワケですからね。

とはいえそんな時代にもジャズ・ロック系やカンタベリー系などをリリースせずに着うたにシフトして以降だいぶ経過してから自分のやりたいジャンルをリリースし始めた理由というのは短い時間内で表現し得る出来にすることが可能か否か!?という所で私自身色々思案していたワケでありまして、ハナから自分のやりたい事ばかりやっていたワケでもなくグッとこらえていた物も本当はあったモノです(笑)。着メロを作るにあたっての尺の制限とか、「この機種用のデータも作らないとリリース一切不可です」みたいな制限がなければもっと自由に出来ていたんですけどね(笑)。


そんな当時の喜ばしい浜崎あゆみのコンテンツは売り上げ的にも1位だしそれはそれで喜ばしいコトだったワケですが、「売れる曲でも売り上げ的に結局この辺りを推移するならマニアックな曲を少しでも多く知ってもらった方がイイよね!?」とあらためて感じたのも事実でした。そういうワケで、ガメついた発想でヒット曲ばかりリリースしようとも予想を下回るのなら誰もが作りそうな所を作っていてもパイを取り合うだけで無駄だと実感したワケですね。それなら日の当たらないようなマニアックな曲を可能な限り制作しようと(笑)。無論そこには自身の制作意欲を持続させるために必要なエネルギー源でもあったワケです(笑)。


一方、されど着メロというスタンスで語るならば、本当なら所有する音楽という形が着メロ程度で甘んじてほしくなく、オリジナルの良さを判ってほしい。オリジナルを知らない人にはこれからオリジナルのメディアを買ってほしいし、既知のモノでも、「こーゆー風に聴くと更に面白くなりますよ」みたいな事を提供したいのが左近治なワケであります。わざわざ私が言わなくとも自分の楽しみくらい自分で工夫するよ!みたいな人もいるかもしれません。

ただ、そこに自発的に遭遇できることが難しいという人が多いのが現状なんですよ。音楽とか芸術的な方面あとは料理とか酒とか「嗜みの分野」ってぇのはいつでもそうなんですが、本当はそういう自発的な遭遇の術など殆ど持たずに他人任せのクセして、いざキッカケを知ってみたら手柄をガメちゃうみたいな(笑)、一番乗りを名乗ろうとするような不届き者が多いのも事実なんですわ。イノベーターやらアーリー・アドプト気取っちゃうワケですな(笑)。


例えば音楽にしたって左近治と似た音楽志向で聴くジャンルも似ていたりすればいつしか遭遇するかもしれないので、わざわざ左近治ブログを読む必要はないと思います。

しかしオリジナルの良さをもっと広く伝えたいとしている所へアナウンスしている以上、好みが同じではない人がかなりの比率を占めてくる所に、出くわすキッカケすらも相当少ない人達にもレコメンデッドするのは労力もかなり必要となります。その手の人達がどれだけ音楽を皮相的に捉えている人達であろうが、そんな人が興味を示す動機やキッカケはとても大事なコトだと思っているので、敷居を高める必要はないワケですね。ですが、音楽の深みを理解してもらうにはどうしても必要となるモノを最低限備えてもらうシーンも少なからずあるワケですな。酒提供しなければ判らない所に未成年やって来ても、飲ませたいキモチは山々でも拒否しなくてはなりません。


だからといって法的には甘酒だってNGなんだけど未成年に迎合してまで酒出したいのか!?というとそんな事はありません。ビールの味も判らないような幼児達にビールの銘柄を堪能してもらおうなどと微塵も思っておりません。ですが、母ちゃんのオッパイの味未だに忘れられないと言わんばかりの人間というのもどんなジャンルにも居るワケですなー(笑)。おふくろの味ならまだしも、お母さんのおっぱいの味ですよ!(笑)。左とん平は嘗てこーゆー風にモノ申したかったワケでありましょう。嫁さんによってはおふくろの味の事ですら「カチン」と来たりするコトもあるんで気を付けなければならない表現だったりするんですが。


音楽に興味を示すという事を紐解くと、それがどんな対象物であろうと動機が清純なモノばかりではないとは思います。不純な動機から端を発している人だって中にはいるかもしれません(笑)。私の周囲には、人生初のジェフ・ベックの楽曲との最初の出会いが某エロビデオのBGMだったという猛者もおります(笑)。印象的な映像と共にBGMも受け入れた好例かもしれませんね(笑)。

まあ、あとはアニメ由来だとかアイドル由来とか、その辺ですか!?蔑視を伴う悪しき例として挙げられるコトの多いジャンル(この手のジャンルが総じて悪いのではなく、悪くしてしまっているのは偏狭的なファンが自身の基軸や視点の基準をを常に固定化させてしまう所にあり、結果的にコンテンツそのものを偏向・矮小化させてしまう)は(笑)。私としては、その枠にずーっと価値観収まっていないのであればキッカケは何でもイイのではないかと思っております(前述カッコ内の通り)。寧ろ音楽との出会いというモノを好意的に反映されている事を喜べる感情を抱いているコトは重要だと思うんですな。

ただその楽曲に「誰々が歌っているから」とか「唄モノじゃなければダメだ」とか、ずーっとその辺に収まっているタイプには私は否定的でありまして、音楽の「器楽的な部分」の善し悪しを図るコトが出来ない人は否定されて然るべきだろうなーとは思っております。別にサブカルチャー方面ばかりではなくジャズやらロック中心の人達にだってあらゆる音楽ジャンルに言えるコトですね。私が「敢えて」一般的に蔑視の対象となるような事を述べているのかは皆さんでお考えください。


着信音ってロングバージョンは存在するものの、尺としては45秒未満がひとつのルールなんですが、大半の楽曲ってこの45秒に収まる曲は無いワケでして、キッカケとか出会いとやらを大義名分にしただけのコトで音楽を本当に真摯に扱うのだったら着信音なんてダメダメな形式でしょ!?なんて言う人も存在するのは私も知っています。まぁどうぞ罵っていただきたいと思います(笑)。

今時分誰彼が望んでいようといまいとケータイというインフラは世界中で整備され普及したモノとなりまして、そこから生じるなんらかの訴求力に全くの無縁であることで居ようとするコト自体とても難しいのが現実だと思うワケでして、そんなインフラから生じる音楽的出会いは断罪して、ケータイ由来でない音楽的な出会いを信奉せよ!という排他的な考えには私には到底理解できないワケですよ。

無論、大切な音楽作品を皮相的に45秒程度に収めて売るなど言語道断!と思う人もいるかもしれませんが、少なくとも私は「たかだか45秒」なんて思ったコトはありません。46秒あったらもっと多くの作品リリース出来たなぁ、と思うコトはあっても(笑)。


テレビCMなんて15秒が殆どで長いので30秒。よっぽどの特別番組用に制作されたCMでそれらより長いものはあってもCMにもキッチリ音楽は色んな形で使われているモノでありまして、CMメディアからの楽曲の出会いですらもダメなんでしょうか!?そんな事言い出したらCD屋で流れていた曲を途中から聴いて気に入ったという例ですら「皮相的」な出会いに等しいかもしれませんし、それこそ音楽との出会いとやらは自分自身がどっかのライヴやらコンサートに能動的に足運んでツバ飲み込む時の口腔内の音すらも我慢して、これから耳に入って来るであろう楽節を端から端まで作者の抱いているであろう意図を汲み取って音楽を聴きにいかなければならないのか!?そんな事言い出したら殆どの人、音楽聴く資格無くなっちゃいますよ(笑)。しかもそこまで用意周到に能動的に足運んでくれる客なんて、作者からすれば超ド級の理想的な客のスタンスですわ(笑)。

楽節の一部を抜粋してそれが気に入ったのであれば出会いの場所や時間やメディアの種類など無関係です。自身の「脳」が気に入った事象には他人に迷惑が掛からない範疇で楽しめているコトが重要でありまして、そういう行動を他人がアレコレ言うコトではありません。


但し、大半の人は楽理的側面など知らない人です。曲によっては、その曲が持つ高次な世界を捉えるコトができずに感覚的だけでしか語ることができずにダメ出ししちゃう人が多いのも事実でありまして、言語道断レベルというのはこういう人達なのであります。とはいえ楽理的な専門知識を備えない限り音楽の善し悪しを口にしてはならないと言っているワケでもないんですね。口にする機会や場所が増え、更には無学や無秩序であってもそれがある程度許容されているというトコロに甘んじて、それを口実に言いたいコト言おうとも、根拠が無いクセして文句ばっか言ってんじゃねえ!ってなるワケですよ(笑)。ガキ共が理由もなく反発したり「なんかムカつく!」とか頭ごなしにされている感を嫌悪するかのような理由なき反抗と酷似するワケですな。そんなに嫌なら親に頼んで生まれて来なけりゃよかったんじゃねーの!?と悟りを開くように自分を見つめることはしないのも世の常ですね。


近年、音楽メディアは廃れて来てはいるものの、それこそレコードやCDというメディアが成長してきたという背景を考えれば、そんなメディアが無かった時代と比較すれば聴く機会が増えていて成熟しているのは勿論、子供のおこづかい程度で好きな曲を選別して買うことができるようにまで発展し、それに対しての感想ですら「全世界に向けて」発信することも可能になったワケですよ。どこの馬の骨か判らないのにもかかわらず(笑)。

私のブログとてどこぞの馬の骨なんですが、一応最低限以上の音楽的な教養と着信音制作に関わっているという立場から微力ながら語るコトのできるスタンスであるコトは確かなワケですが少なくとも「優劣」だとか「勝ち負け」とかは全く無縁なワケでして、音楽的な部分をきちんと読み取っていただければそれで充分なんですな。例えば今回語っているコトだって「たかだか着メロ屋」って部分が一番大事な文章ではないことはお判りだと思うんですが(笑)、音楽はおろか文章まで読み違えてしまうコトは避けていただきたいかな、と(笑)。


音楽を「読み違えて」しまうとですね、違いに気付いてはいても価値を求めることができないワケですね。だから他人の逆を行けばイイとか、大多数のそれに沿っていればイイだとか自身の価値観は他人で決まっているクセして、その「ブレブレ」感覚はいつしか強度を増してツラの皮だけを厚くしてしまうモノでもあるんですな。でも、哀しいかなこーゆー風に諭すコトで「なにくそ!」と思わせてしまうのは同業やそこに近い所だったりすることも往々にしてあるのも社会の常ではあるんですな。判っていそうで実は判っていない。ホントは素人が作り出した潮流に乗っかってそこに身をもたれたり逆を行ったりする程度の事が社会でもネットでも殆どのケースはそんなモンなんだという事を自覚しながら、そんな潮流にも流されずにブイのように、時には灯台のように振る舞うには「根拠」という根っこが必要なんですわ。


音楽という名の「根っこ」というのは殆どの場合、器楽的な経験が無いと深く理解できないことがとても多いとは思います。その器楽的な経験というのは身体以外の物理的な道具を必要とする楽器の演奏経験や、楽器そのものの製造に関わる方面とか、音楽を作曲したり、楽音の研究とかそういう風に分類できるかと思いますが、やはり楽器の演奏経験というのはモノを言うと思います。演奏という側面というのも色々ありますが、自分の手足が邪魔に感じるくらい神経から直接楽器を弾くことができればいいのにと思うくらい辛い練習の経験と言いますか、少なくともその程度の「苦しみ」を味わうくらいの経験ですね、重要なのは。こういう経験を備えていると、深みのある方面というのは実は理解が比較的早まるモノだと思います。


理解を早めるためにも教える側としては幾つかの方法論を備えているのでありましょうが、楽理的な面というのは置き換える言葉によって解釈が進んだり或いはその逆も然りでありまして、教える側としては音楽に伴う比喩的表現をなるべく避けながらも興味を惹かせる為の表現も知ってはいるものの、全てにおいて有効な手段でもないため、結果的には文語的な説明で終始することも多かったりすることも多いのではないかと思います。本という形で体系化されている以上、教える側としては過剰な脚色は避けなくてはならないでしょうし。


そんな中、ハイブリッドな和声や多調性やら対位法というのは、そういう術があるという事を学ぶ側としては「皮相的に」教わることが多いとは思います。但し具体例が示されるのはとても稀なコトでもあると思います。少なくとも中学・高校レベルでこのような「具体例」が示される環境で音楽を学べるのであればそれはとても幸運なコトだと思います。


とゆーワケで、この辺の事も次回以降語っていくコトとしましょうかね、と。