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その和音、ホントに実像ですか!? (2) [テレビ関連]

そもそも、三度累積を繰り返せばいずれはどんな和音も属和音を包含してしまうというジレンマに陥る理由として、「平均律」というモノを手にしたからであります。


平均律を手にせず、それまでの厳格なルールに則った調性音楽の世界というのは或る意味では音楽家の間では飽きられていたのかもしれません。しかしながらそれを作らねばならないのは宮廷側の依頼もあるでしょうし、まあ色んなオトナの事情というモノがあったかもしれません。

なにせ当時の貴族というのは今に置き換えれば何千万・何億円とオーディオに金をかけるコトすらアホらしい!と断罪する大金持ちが現れ、そこにはマイルス・デイヴィスを初め、ウェイン・ショーターやハービー・ハンコックやらフレディ・ハバードやら雇って、気の向くままに聴きたい時に彼らに演奏をさせるようなモノ。こんな贅沢というのが当時の世界だと思えばよろしいのかもしれません(笑)。そんな人達のしきたりに逆らうことはできずに、半ば宗教的な利用もあったワケですから誰もが崇高に思えるような作風にしなければならない、あまりに理解不能な音は避けられていた世界の中で構築された世界の存在があったことを忘れてはなりません。


数々の名曲というのはそこに存在するのでありますが、平均律の到来を首を長くして待っていたのは厳格なまでの調性音楽がはびこるドイツ音楽界の巨人、バッハなワケですからこういうのも今となっては興味深い事実なワケですね。対位法というのは近親的な調を行き来するように壮大なフーガを書いたりもしますが、バッハとして近親的ばかりではない世界を見据えていたのでありましょう。


でも、こういうバッハの時代においても、「厳格な世界」においては使うことを避けている「独特の世界観」を齎すような旋律というのは既に存在していたワケですな。いわゆる「ジプシー」的要素のある民族的な響きというのは既に存在し、誰もがそれを「ジプシー的な」ものとして形容できるほど認知されていたのにも関わらず、楽音としてそれを導入することを避けた方が望ましい時代があったというのも事実でありますが、これは先の封建的・保守的な社会背景が大いに影響してのコトだと思われます。


こういうジプシー的要素がほのかに導入されてくるのは、ショパンやらリストとか、それこそバルトークやらショスターコヴィチという風に時代が移りゆくワケですが、昨年2010年という年は本屋やCDなどではディスプレイが顕著でしたが、ショパン生誕200年記念などと目にされた方も多いかと思います。

ショパンの活動期を振り返れば、日本に置き換えれば幕末の坂本龍馬を引き合いに出せばピッタリを符合するのでしょうか。まあ、そんな頃の時代の音楽を敢えて振り返ってみると、その間に色んな音楽は生まれて来てはいるけれど実際には音楽界での200年っていうのはそれほど大きな変化を遂げていないのが事実ではないでしょうか。

寧ろ、ここ100年の音楽の大きな変革ですら一般的にはまだまだ認知されずに高次な音楽、という語法の到来はまだまだごく僅かなシーンでしか許容されていない所があるのかなぁ、と私は感じております。そういう意味でもココ100年というスパンで見ると、ドビュッシーというのは一般的に受け入れられている方の作曲者であろうかな、と思うワケです。


ここ100年くらいの音楽の著名な作曲家の音の嗜好度って物凄い高次なモノを感じさせてくれるコトが多いワケですね。ハッキリ言いますとジャズという世界が物凄く小せェもんだと感じられてしまうくらいクラシック界隈の人達は凄い音を使っているのが事実です。私がクラシック出身でないだけに余計にそちらの世界の無知さが露になり、それまで私はジャズを偶像化してしまうほど陶酔しておりましたが、そんなモノも軽くスッ飛ぶくらい、知れば知るほどクラシック界隈の凄い音、というのは説得力のある音ばかりなんですね。決定的に違うのはインプロヴィゼーションではないコトくらいでしょうか(笑)。


でも、ジャズの世界だってある一定のモチーフとやらを凄く丁寧に扱って発展させて行く演奏を聴くと、「自分自身の過去の音」に対してとても敏感に察知している人ほどその都度捉えている垂直的な和声面においても鋭敏な感覚を有している人が多いと思いますし、音形の使い方やその発展がクラシック的な語法をも思わせる巧みな人というのは近年では故マイケル・ブレッカーだったのだなぁと痛感させられます。


とは言うものの、ジャズの世界だって多くは「低次な」倍音の扱いの流儀によって構築されているモノが多いですし、部分的に高次なモノを忍ばせてくるプレーや演奏者が居たりするだけのコトが多かったりします。それ以前にジャズやクラシックは全てを「良」として聴かなければならないのか!?というとそれはまた別のハナシです。


私が語りたい部分というのは、和声的にも通常の世界においてはなかなか語られないような複雑な響きに対しての嗜好具合において語ることを好むのでありまして、こういう欲求の現れというのはどこから沸き上がってくるモノなのか!?という興味を同時に語っているモノでありまして、この手の事象を語るにあたって色々とあてはまることが多いのが一般的な世界であるので、私はついつい語ってしまうワケですな(笑)。


おそらく我々は、楽音というモノを知覚する経験が浅い時というのは、「何かに」身を委ねるようにして、その牽引力に従って曲調やら曲の持つ重心(調性など)を感じ取っていると思いますが、ある程度経験が伴ってくると身を委ねるコトなく自分の行きたい方を自発的に選ぶようなモノだと理解していただきたいんですな。

例えば、道も水路も何もない所に水をその場に放ったらどういうコースで流れて行くだろうか!?みたいなモンで、「ドレミファソラシド」というある種の規則めいたコースの方が判りやすく、流れやすく出来ているんだけど、暫くするとこのコースに飽きてくる人が出て来て別の方に流れて行く川を見る方を選ぶ人が出てくる、みたいなモノだと思ってもらえれば良いでしょう。「ドレミファソラシド」という川は水難事故など有り得ないほど安全で浅く危険の少ない川で、他のコースの川は起伏は激しいし危険も伴うけれども警官としては実に見事!みたいな(笑)。


不思議なモノで、トニックとしての振る舞いで「全音階」という全ての音程を網羅する和声というのは、チャーチ・モード側では生じずに、倍音列を基に成立している方の世界だと途端にそういう世界を生じてくるワケですな。

そして、三度の重畳はどんなカタチであれいずれにせよ最終的には属和音を何らかのカタチで包含してしまうというのも事実で、だったら属和音から三度を重ねるとどうなるのか!?というと、コレがエドモン・コステールの属二十三の和音の実に興味深い所でして、半音12音を全部網羅するコードを属和音を基に構築するコトになってしまったぞ、と(笑)。半音全て網羅しているってコトは、現存するありとあらゆるコードというのは、属二十三の和音の一部でもある、というコトをも意味するワケですね(笑)。つまり、半音階という世界の捉え方というのもこの部分が手掛かりになりそうな気がしますね。ソコを先ず語ってみることにしましょうか。


我々が通常使う所の「ドレミファソラシド」という音並びというのも、その音を7つ選択すれば無論、属二十三の和音から7つの音を抜粋しただけにすぎないのかもしれません。しかしながら、倍音列に則った抜粋をしておけば後々高次な和声観を伴う楽曲を理解する上でも手っ取り早いのかもしれませんが、実は「ドレミファソラシド」という音並びを学んでから次の壁に遭遇した者が次のステージを知るとでも言えるかのような「知覚の選別」というものが存在しているように思えてならないのですな。

一般的に知られている所の旋法的な音並びから解釈して当てはめるコトのできる音と、それでは当てはまらなくなる音、という特に後者の選別を出来る方というのは誰もがそうなる必要性は無いのだけれどもより魅力は増大している世界を知るためにはコチラを知る方がイイでしょうね、と言わんばかりの知覚プロセスとしての選別があるように思えてならないという意味です。


通常の「ドレミファソラシド」には合致しないタイプの世界というのも色んな例を挙げつつ今後とも説明していくつもりですが、それに合致しないタイプの音世界というのは一挙に最終形としての姿を最初から知ろうとしても大半の人はそれは無理があるってぇモンでして、ある程度段階を積んで行って覚えた方が判りやすいワケです。

しかしながら、こういう感覚を指南するような本なども存在しなければ、或る意味では個人的な嗜好という分野でもあるため、個人的な差として受け止められ、そんなコトまで指南していたらキリがない!と言われる事だって有り得るコトなんですが、通常の世界に合致しなかったモノをあまりにも軽く受け止めてしまったり、姿形すらよく見えていなかった犯人を見ただけなのに、まるで自分自身を重要参考人に仕立て上げてしまっている人というのも残念ながら存在しちゃうワケですよ。

ホントは楽理的なコトなど殆ど知らないクセにエラそーに語ってみたりとか、理解しきれなかったクセして「あの音楽理論はダメ!」だとか言っちゃうヒトとかね(笑)。ネットの世界でもそうじゃないですか。この手の人というのはなぜかアクセス数を増やすようなコトだけはご丁寧だったりとか(笑)。音楽理論とは関係の無い所に「ご利益」を感じちゃってるような人など大概そんなモンで、知識も理解もペラかったりするのが世の常なワケですよ。そういうのに惑わされずに音楽聴けってこってすな。


では、そういう音楽を聴くにはどうすりゃイイのか!?っていうハナシですが、型通りに当てはまらなかったタイプの音楽とやらも、朧げながらその正体は見せてくれているからこそ音として耳に届いているワケでして、そういう姿を見ることができるようにするには、ある程度はその型に慣れる必要は出て来ます。その「型」というモノを「段階的」に見るとすると次のような例に例えるコトができるでしょうか。


例えば左近治はこれまで、メロディック・マイナーの世界観とか、その手の話題を結構な頻度で引き合いに出していたとは思うんですが、メロディック・マイナーの音列から生じる和声で手っ取り早いのはマイナー・メジャー7thという「型」のコードなんかは代表的な例なんですが、和声的に見ればひとつの「マイナー・メジャー7th」としての「型」はもちろんあるんですが、或る意味でコレは半音階的な世界から見たトコロでの最終形としての「型」ではない、とも言える世界なんですが、こういうトコロから触れてみてほしいな、というコトなんですが、言ってるコトあんまりよ~く判らないかもしれません(笑)。


マイナー・メジャー7thから三度上にもう一つ音を加えて「発展」させるコトによって、今度は「マイナー・メジャー9th」という「型」を生むコトができます。


左近治のブログをお読みの方なら、既に私がどういう風にマイナー・メジャー9thを語っているのかというコトはお判りいただいているとは思うんですが、マイナー・メジャー9thという和声の「型」というのは、ある部分を基準に見ると高低いずれも対称となる「鏡像」の型を含んでいる興味深い形になる、と以前にも語ったコトがありますが、鏡像音程にあるコトが魅力ではなくてですね、その鏡像音程という型そのものにもっと多様な世界が存在しているのだ、というコトを見抜いてほしいワケですね。で、マイナー・メジャー7thという型はマイナー・メジャー9thに包含される一部であるとも言えるワケですよね。


そういう風に「型」を見て行った場合、ペレアスの和声というのはマイナー・メジャー9thという鏡像音程の世界を包含している和声でもある、というコトに狙いを付けてもらいたいワケですな。鏡像音程としての最終形の「型」とまでは言いませんが、或る意味行き着いた所の世界観、みたいにペレアスの和声にまで辿り着いてはいただきたいな、という意味合いで語っております(笑)。

また付け加えておきたいのは、楽理的な知識を得ずに高次な和声を耳にした経験もしくはその可能性というのは、左近治の場合ホントに坂本龍一作曲の「Elastic Dummy」だったり、ブレッカー・ブラザーズ(ランディ・ブレッカー作曲)の「A Creature of Many Faces」だったのか!?というとそれもギモンなんですよね。マイナー・メジャー9th程度の和声であればキイハンターのエンディングをも想起しますし、もっと遡れば恋のバカンスのエンディングにだって感化されているかもしれない。

私の耳の初体験がどういうモノだったかを探るのは置いといて、そのような響きを拒絶しなかったのだけは幸いです。無論私と同様の時代を生き抜いてきた方なら多くの方が知っているであろう、日テレの黛敏郎のテーマ曲(NNNニュースのオープニング)などはまさにその世界そのものですな(笑)。こういう音楽の出自など無関係に、響きそのものを許容している方というのは後年、高次な響きの魅力に惹かれている人が多いのではないかと思います。


でまあ、ペレアスの和声とやらがどういう和声構造を「包含」しているのかというコトがお判りになったトコロでコレを少し突き詰めて行きたい所ではあるんですが、その前にまだまだ順序立てて語るべきコトがあるんで一旦そちらに話題をシフトせざるを得ないのでご容赦を。包含しているのは何も先の和声構造だけではなくてですね、旋法的な世界も同様なんですが、通常ならまず親近感の無い理論で「下方倍音列」というモノを語る必要があるんです。

この辺りを現在最も詳しく語っている理論書は濱瀬元彦著の「ブルーノートと調性」でありまして、この理論書を読むにあたって自身の楽理的な知識と相容れない部分を持つ人はブルーノートと調性すらをも否定する人が存在するのは私も知っておりますが、概ねそういう人というのは低次な世界の理解も未熟な人に多いのも確かでありまして、真っ向から否定しまわれがちなので代表的なのは他にもジョージ・ラッセルのリディアン・クロマチック・コンセプトとかもそうですね(笑)。

あらためて述べておきますが、ブルーノートと調性もジョージ・ラッセルの方も結果的に「同じ音」の方を向きます。北極星は誰もが目指しているとご理解いただければよろしいかと。知らず知らずの内に北斗七星じゃなくて南斗六星見ちゃってた、なんてコトは先の理論にも有り得ない事であります。下方倍音列という概念的な考えも、実はバルトークはもちろんエドモン・コステールやオリヴィエ・メシアンやらドビュッシーやらでも必ず引き合いに出される概念ですので、聞き慣れないからと言って勝手に断罪したり否定されぬようお願いします(笑)。絶対に避けて通れない考えが下方倍音列でもあるので、その「特異な」世界とやらは実際はどれほど密接な状況にあるのか、というコトをも例に出しながら語るコトにしていきましょうかね、と(笑)。とりあえずペレアスの和声やらマイナー・メジャー9thの持つ鏡像音程とか、この辺キチッと念頭には置いてくださいね、と。