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キングパワー (3) [テレビ関連]

長三和音を構成する各音の半音下に同様の長三和音を配置する。


とまあ、半音違いの音が交錯する世界とは、なんて多様な世界なんでしょう。そういう世界が多旋法的に、例えばハ長調とロ長調のそれぞれのトニックが垂直レベルに遭遇した時に生じるような和声と形容すればよろしいでしょうか。一挙にそれを聴いた場合、ハ長調とロ長調をそれぞれ別個に聴いた時とは全然印象が異なる響きを齎すワケでして、たった二つの異なる調が巡り会うだけでこれほどまでに多様な響きを演出するものだと実感せざるを得ないのがペレアスの和声だと私は思います。

例えば、ドビュッシーも名前程度しか知らずに、ポピュラー形式のコード表記の流儀を知っていて、ペレアスの和声などは知らず、「C△ + B△」というふたつのメジャー・トライアドのハイブリッド・コードなんて、単一のコードの表記でも流儀に収まらずに、ハイブリッド形式としてもなかなか遭遇しない和声だと認識してしまっているとしましょうか。そんなトコロにひとりの幼い子供がやってきて

「ボク、こんな響きが大好きなんだ!」とか言いながらペレアスの和声を弾きだしたとします。


アナタが指導者だったら、この子の興味をより伸ばすコトが可能でしたでしょうか?


もう、この時点で私のブログを読んでいらっしゃればペレアスの和声というものがどういうモノなのか、というコトはご存知なワケですからペレアスの和声とやらをぞんざいな扱いをすることなく指導するコトが可能だと思われるワケですが、どうでしょう、一般的には正直ペレアスの和声ですらも知らない人の方が圧倒的に多いんですよ。ある程度の器楽的な習熟レベルに達していても、です。

その存在を知らない事を恥じろと言っているワケではなくてですね(笑)、子供というのは時としてイタズラ心だけで動いているようなトコロが多いモンですから、たまたま長三和音の各音に等しい半音たがいの音を抜粋して混合させて弾いているだけの行為だと認識して無視してもいいケースがあるのかもしれません。一番重要なコトは本当にその和声に陶酔している様を感じ取ることができるかどうかですよね。もしココに気付いてもらえない子供が居たとしたらそれは悲運なコトです。

曲がりなりにもドビュッシーと同じ感性を見つけ出して来た子供なワケですからね。本当はこういう子の能力としては高次な倍音をも受け止め、多様なハーモニーを聴くことのできる能力を既に備えている子供のタイプなワケです。しかしながら子供というのはその手の子供ばかりではなく、ただ単に無秩序に半音を抜粋してきて悪ふざけをしてしまうようなのも居て、それらを見抜くというのは指導者レベルでも実際は大変なコトだと思うワケですよ(笑)。いっそのこと、とっとと集団で覚える類の教育として音楽を「秩序ある」モノとして流儀に慣れてもらって体得してもらった方が教える側としてもスムーズなワケですね。

とはいえこうして大概の能力は「均されて」いくモノでもありまして、そういう道を通らなければピアノの習得すらままならなかったとかそういう人だって居るとは思います。しかしながら和声的な興味が一般的な音楽教育の弊害によるものかどうかの議論はさておき、本当は調律が不正確なので耳が育たなかった人が多いのが現実なのではないかと思いますし、デジタルピアノが普及しだしてから20年近く経過しますが、育ってくるであろう次世代の人の中に、それまでと比較して高次な世界に覚醒している者が増大しているのかというとこれまたそうではなさそうです(笑)。教える側にも教わる側にもある一定の水準で満足してしまっているようなトコロがあるのではないかと思うんですね。だから音楽学校に行ってみてようやく気付く、とか。

武満徹は18歳の頃に既に「2つのレント」を書いているワケですからね。

先日、題名のない音楽会で武満徹の「セレモニアル」を聴く事が出来たんですけどね、あの音楽というのは人間が死ぬ前に一度は誰もが体得する最後の「恍惚と快楽」みたいなモノを描写しているように私は思えてならないんですな。どんな形であろうとも、神経レベルに作用するそれを可能な限り苦痛を伴わない感覚をもって手にした最後の「感覚」を表現したかのような。

その「感覚」というのは、五感全てに作用しているかのような。まるでその感覚は全知全能。へその緒から胎盤に繋がり、胎盤の先には要塞のような巨大なCPUが惑星をも凌駕する大きさで繋がっていて、そこには無数の小宇宙という集団を形成しているようなトコロに身を投じていてその「感覚」を感じ取っているとでも言いましょうか(笑)。まあ或る意味ではサイケデリックな想像力を働かせて形容しているワケですが、死ぬ前には誰もが一度はこういう経験をして「あちらの世界」に行くのではないかなと思っているのですが、セレモニアルに用いてる「笙」の音ってそれこそ、トーン・ホイール・ジェネレーターでトーン・クラスターを与えているかのような、しかもそれが不快ではなく心地良く作用する所に、オーケストラが入り、時折ポルタメントで微分音で刺激され、さらに快感を伴うハーモニーのそれというのは、人間が半音階という12個の音全てを心地良く聴くための能力を得た、みたいなモノとして形容できるような気がするんですよ。

アート・ベアーズの「Piers」という曲にも武満徹の「セレモニアル」に似た部分を私は感じ取っているワケですが、まあ、半音階全ての音を忌避することなく受け止める事のできる能力を手に入れた!みたいな心地良さというものがあるとしたら、それを皆等しく感覚として手にすることができた、みたいなそういう例えとして受け止めていただきたいんですが、人間が死ぬ前に誰しもがそういう快楽を味わうのかどうかは別として、そんな感覚を死ぬ前には一度は実感してみたいな、という願望と、そういう風に形容し得る世界観を「音楽」として表現できる能力や、そういう風に感じ取る感性を有していたいな、という思いで形容した左近治なのでありまして、誤解はしていただきたくはないんですが、つまるところ、半音階全ての音を網羅する和声の世界へ話題を導きたいからこそこのように語っているワケでありまして、ペレアスの和声というのはそんな世界の入り口に相応しい、「趣きのある」和声なんだよと言いたいワケであります。


半音違いの長三和音がそれぞれ鳴っていたのがペレアスの和声で、調的な関係は半音違いの調が別々に織り成されている世界観。近親的な意味でも関係調の関係とは縁遠いワケですが、実は深く掘り下げると縁遠くはなく、寧ろ掘り下げれば掘り下げるほど半音違いという関係は実はこんなにも密接だったのだ、という事実を語って行きたいと思っているワケであります。半音の関係というのは導音とは異なる方向で語って行こうと画策している左近治であります。

でまあ、ペレアスの和声という世界観を語ると共に半音階の世界観を語るとなると、ようやくココでエドモン・コステールの「属二十三の和音」を引き合いに出さねばならないのでありますが、まあカンタンに行ってしまうと、通常ポピュラーな世界で扱うコードの「ドミナント7th」というモノが「低次な」倍音の第7倍音を7thとして捉えて、そこの範疇に収めて体系化したモノとするならば13度まで扱える和声として機能する、というモノだとしましょう。


G_Dominant23rd01.jpg
「属二十三の和音」というのは「ドミナント15th」として捉えるコトで最高で23度まで扱える、半音12音全てを網羅する和声だと思ってもらえれば理解が進むのではないかと思います。念のためにG音をルートとする属二十三の和音を図に載せておくコトにしますね(つづく)。