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暗示とは・・・!? [回想日記]

つまるところ、「暗示」ってぇのはどういうコト!?

というのは、前回まででお判りだと思うんですが、もう一度しつこく語っておきましょうかね、と(笑)。


aug4_dim5.jpgトライトーンの「減五度と増四度」の違いはお判りですね。ココには音律は関係ありません。平均律であろうとも増四度と減五度の取り扱いの違いがあるのは、その時点で七音に収まる標準的な音列を「示唆」しているからであります。


トライトーンが「解決」するという牽引力というのは、そもそも「ダイアトニック」という「予定調和」によって決められているのであります。いわゆる一般的なチャーチ・モードの世界観でのダイアトニックな世界というのは、そこにドミナント7thコードが出現しようがしまいが、「ダイアトニックな世界」としての予定調和によって調性は概ね確定しているワケです。そのルールに基づいて音列作って和声も作ってみたらトライトーンが出現しましたよ、と。

「最もダイアトニックな音に近い音に解決しようとするチカラ」

これが、ドミナント・モーションなワケですよ。


つまり、属七の和音が出現しようとしまいと調性をどの時点で明確に感じているのかというのは、旋律に加え、聴取者の能力に委ねられるワケですが、聴取能力に開きがあろうともほぼ同じような感覚で調性を捉えられるような音組織という楽音を聴いているのが一般的な例なワケです。転調感もなくダイアトニックな動きとしての力が大きく働いていれば、G7→Cというハ長調におけるコード進行において「シ」という7番目の階名の位置を敏感に感じ取る必要もないほど無意識に進行をスムーズに「解決」させられるワケですが、自分自身が無意識なままに外部の力で「シ」という位置を変えられてしまう世界もあるワケです。


G7の代理コードの裏コードが「Db7」だというコトを遠因に、コードがG7だというコトはそのままに、そこでDbミクソリディアンを想起するというアプローチを採ってみた場合、調的関係は非常に縁遠いDbミクソリディアンをわざわざ想起するコトは、その時点で「ファ」と「シ」の階名の位置関係が変わっているにも関わらず「等しく扱おうとする」のは無理があるだろ、と(笑)。

代理コードだからといってファとシの位置関係すらをも変わることを「無意識に」感じてしまってイイのか!?という所にギモンを抱かなければならないんですよ、ホントはね。

ドミナント7thの表裏関係(対極関係)というのを無視したとしても、それ以前にダイアトニックな音への解決として増四度と減五度の違いは存在するワケです。増四度と減五度の大雑把な違いというのは、「ある音から数えて4番目の度数」と「ある音から数えて5番目の度数」の違いというコトを意味するワケですから、トライトーンの両端の音を「転回」するだけでも度数の違いが発生することを思えば、常にダイアトニックの世界の導音を意識しながらも、トライトーンの「ファとシ」の関係の音を転調というワンクッションもなくその前触れ的に「スルリと」音の階名の位置を変えることも可能であるワケですが、この部分を私は「暗示」や「示唆」と述べているワケですな。


つまり、ツーファイヴを連続させてありとあらゆる調的な関係を結果的に12種類の調をうごめく前に、解決させる以前から本来はどういう「暗示」していた世界を見て来たのか!?というトコロに敏感にならねばならないんですよ。

ココに敏感に感じ取れないと、非チャーチ・モードの世界でのダイアトニック感覚を身に付けるコトが難しくなってしまうので、ココの感性が磨かれていないと、途端に耳や脳が処理しきれないのか、チンプンカンプン状態になってしまって曲の情緒を受け付けなくなってしまうワケなんですね。


それを防ぐために、ドミナント・モーションの解決がもたらす力以前の「示唆」している世界を見抜いていないとダメなんだよ、ってコトを左近治は述べていたワケですな。そうすることで、スケールの音並びとしては非常に難儀な音並びであろう音列ですら、実はホントは非常に近いところに存在しているのに、全く寄り添おうともせずに初歩的な楽理ばっかりで頭デッカチになってしまったという人ばかりが生産されていくのは何故なんだろう?という現実を目の当たりにしながらも、「自分だけはそうなりたくはない」という風にお考えになっていただければな、と思ってこのようにアドバイスしているというワケであります(笑)。


左近治の身の回りだけでも相当数その手の人間は遭遇して来たので、ましてやネットに情報を頼るだけだとどうなるかは推察するに容易いワケでもあるんですな、コレが。しかしながら情報を欲する手段の良し悪しを語った所でこれまたハナシは永遠に終わるコトはないでしょう(笑)。大事なのはその欲求が生まれた「動機」ですよ。その動機をどのように追々活かしているのか!?というコトですね、大事なことは。

楽理的な部分などサッパリ判らなくとも、レコードやCDの所蔵品などに例えてみれば、どうしても手に入れたい一品というモノが誰にでもあるはずです。そういう欲求が音に対して起こる、というモノに似ているといいますか、ココを大事にしてもらいたいワケですよ。ひとたびその音楽を聴けば何時何時のパートナーを想起させるコトもあれば、やたらと嫌な思い出となる曲だってあるかもしれません(笑)。

音楽を聴いた感想ではなく、音そのものがもたらす作用ですね。楽理的な部分の。こういう所をスパッと読み解く術を身に付けて音楽をひとたび聴けば、より面白くなるのではないかと思うんですよ。ですから器楽的な心得がある人というのはそういう意味でも音楽を自然と理解するのに役立つワケですな。


それともうひとつ重要なのは、みんな誰もが自分可愛さで音楽聴いちゃってる人ばかりなんでアレなんですが(笑)、自分に無い感覚を持っている人を大事にするというコトと、その手の感覚を持っている人の感性(音楽だったら音楽)をリスペクトするコトが大切ですな。妬んだり僻んだりするんじゃなくて(笑)。遅いか速いかとか(笑)、そーゆーのはどーやっても追い越すコトできないんで、渋滞している道路で車一台分カッ飛んで急いでもバカ丸出しみたいなコト、音楽の世界では競り合ってもムダです、ホントに(笑)。自分の未熟さを謙虚に受け止める重要さとでも言いますか。産まれた時は皆誰もがバカだったんですからねー(笑)。


そういう器楽的な部分の立ち位置を知りつつ楽音を聴いていると結構感覚的に鋭敏さが増すモノです。転調という感覚もより鋭敏さを増すでしょうし、そこに「示唆」という形で現れるのか否か。そういう世界を漠然と聴いているのではなく、「読み取る」力が増すコトで、どういう世界を表現しようとしているモノなのかというコトがより深く理解できるモンなんですよ。

そういう意味をあらためて痛感していただく上でも、先日左近治はサティの「Je Te Veux」の近親的な調的関係にある転調を敢えて例に挙げたワケなんですな。あんなにやさしいピアノにもきっちり旨味と毒を忍ばせているという世界とでも言いますか(笑)。まあ、そういうのを堪能できればこれまた喜ばしいモンです。


先のサティの記事から更にまた、今度は黒木瞳が出演するCMでも「Je Te Veux」は使われているんで、「どんだけJe Te Veux引っ張りダコなんだよ!?」とあらためて驚きを禁じ得ない私ではありますが、やさしさのある旋律の身を委ねてそのまま曲想に埋没してはいけません。埋没しないように全てを聴く。コレに尽きますな、やはり。


でまあ、先にも語っているように「Je Te Veux」において重要な点は「隣接し合う近親的な調への転調」の存在です。4つの隣接し合うような近接的な関係にある調を移ろうかのように行き来するそれは、明確な転調というよりもモーダルな演出としてモード・チェンジを演出しているかのような転調ですね。今日のモード・チェンジがそこにあるように、サティの近親的な調へ行き来するそれは、やはり時代を先取りしていたのでありましょう。無論、このような技法は既にバッハとて明示していたワケですけどね。

転調そのものの「明度」が朧げであろうが明確であろうが、とりあえず注目すべき点は、転調の前後の対比ですな。例えば初歩的なモード奏法とてモード・チェンジの際にモードをあてはめる際には、音選びに問題が起こらないようにするための「暗黙のルール」があったりもします(笑)。この辺の「暗黙のルール」とやらを次回はチョット語ってみましょうかね、と(笑)。