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プロパガンダ [アルバム紹介]

今回はプロパガンダ(ZTTの)の話題についてチト語ることにします。


まあ、以前にもプロパガンダの「Das Testaments Des Mabuse」について語ったコトがありましたが、もう何年前のコトでしたっけ?(笑)。まーた今回プロパガンダのネタを語るコトにしたのは、来る7月にSalvoレーベルから「A Secret Wish」が既発のモノとはさらに未収録曲を追加して25周年記念アルバムとして新たにリリースするからなんですな。

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Salvoからは他にも有名どころではプロコル・ハルムなどリリースしているレーベルでありますが、あらためてリリースされる「A Secret Wish」には、まーた食指が動いてしまいそうな左近治であります。そういや時は1984年、この年はYMOの解散(散開)時に発表された映画「プロパガンダ」ってぇのもありまして、一世を風靡したYMOの動きとは別のジャンルに目を向けざるを得ない状況に鳴りましたが、奇しくも今やDAWと呼ばれる音楽制作における周辺機器関連というのはYMO解散後から大きな変化を見せてくる時代の到来でもあったんですな。

例えばサンプリング機器ブーム。これにはトレヴァー・ホーンによるフェアライトCMIによる功績が大きかったワケですが、コンシューマーレベルで見ればMIDI機器の登場とDXブームの幕開け、という風に時代は移り変わるワケであります。

今ではそれらの環境は当たり前のように普及しているワケですが、そういう環境が整備される以前からYMOが実践していたコトはとても凄いコトだったんだなとあらためて思い知らされるのであります。QX3やSBX-80のブームもここから5年ほど経過してからなのでありますからね。


プロパガンダの「マブーセ」の特徴的な音はフェアライトCMIとシモンズの音、歌劇を思わせるシンフォニックのサンプリングとムーグ・サウンド。ゴシックな曲調に曲の長さを感じさせない、今で言うならハードでプログレッシヴなテクノの音だったワケですな。

鍵盤楽器の発音方式がサンプリングを視野に入れたデジタル化というものは、フェアライトCMIやイミュレーター、PPGの2.2や2.3或いはWave Termというモノもありましたが、当時の価格でそれを全部揃えるとしたら2千万円あっても足りなかったのではなかったかと記憶しております(笑)。当時はヤマハですら「日本楽器」という名称でしたし、学校や官公庁用価格の「免税価格」というのも用意されていた時代だったのでありました。当時の2千万円という価格は今に換算すれば当時のTOPIX等判断すれば自ずとお判りになるのではないかと思いますが、そんな「夢のような環境」が今ではパソコンと数万円のソフトを揃えるどころかiPadでも実現しかねない所まで成熟してきているのでありますな。

いずれはクラフトワークがステージでiPadを片手にしたりするようなシーンを見かけるようになるのかもしれませんが、確固たるデバイスが普及すれば後はソフト化さえすればどうにかなるモノでもありまして、TENORI-ONもわざわざハードウェア化することなくその内ソフト化するんではないだろうかと容易に推察できるのであります。


CD産業や紙媒体も衰退していると云われている昨今、四半世紀くらい前だとなんだかんだ言って情報源は紙媒体に頼っていたのも事実でありまして、一番手に取る機会の多い紙媒体は少年誌やらの雑誌類だったコトは否定しません(笑)。ただ、私は少年誌やらに訣別できたのはドラゴン・ボールが魔神ブウ辺りを連載していた頃でありまして、キッカケはやはりMacを手にした時だったのでありますな。ATARI 1040STの頃はNortatorオンリーだったので音楽に没頭するシーン以外にATARIは用いていなかったので。

週刊誌やら雑誌の連載モノというのは「次」を読みたくなるという欲求が高まってリピーターとなるワケで、このような魅惑の力を解くのは何もマンガやらに限ったコトではなく結構難しいものでありましょう。私の場合はMacとの出会いがいとも簡単に週刊誌と訣別させてくれた、というワケです。週刊誌を買うことができなくなるほどMac貧乏に陥ったワケではありませんよ。


ひとたびMac環境に身を投じて様々なアプリケーション類のマニュアルに目を通すと、当時のマニュアルってぇのは装丁も結構ゴージャズなモノが多く、内容もタップリ。ウン十万円投じたアプリのマニュアルというのは特に価値がありました。ユーティリティー系ソフト類のマニュアルなどは内容も薄かったのは今に始まったコトではありません(笑)。Web上で何らかの情報を得ようとしてもネットのインフラ整備がまだまだ未成熟。

Quark XPress使っていてPDFに対応していても「PDFの用途ってどんなシーンだろうか?」なんて思っていた90年代前半。


ソフトメーカー各社がコストダウンを図り、紙媒体ではなくPDF形式に注力するようになりましたが、21世紀頭くらいではPDF書類に注視するだけでも目がシパシパするので嫌悪していたモノでしたが、だからといって膨大なマニュアルのページ数を全頁セルフでプリントアウトするというのもこれまた骨が折れるモノで、メーカーのコストダウンの意図がこういう時にまざまざと実感させられていたモノでもありました(笑)。セルフと云えば、ガソリンスタンドなんてぇのも90年代後半辺りから徐々に目立ち始めたモノでして、利幅が狭くなってくるとセルフどころか店じまいに追い込まれているガソリンスタンドを結構多く目にするコトもあったモンでした。

余談ですが、そういや先日、私がソフトクリーム食いたさに訪れた某所の大手コンビニでは、セルフでソフトクリームを客に作らせるという俄に信じ難い店に遭遇するコトができましてですね、さしもの左近治もガキん時ぁ、とりいかずよしの初期トイレット博士に出てくる運子チャンよろしく巻きグソの絵書かせりゃ天下一品!と自負していたモノでしたが、ソフトクリームを自分で作ったコトはこれまでの長い人生を振り返ってみても全く無縁でしてですね(笑)、そんな奴にセルフでソフトクリーム作らせるたぁ見上げた根性してやがんな、と思ったモンでさぁ(笑)。しかも金払う前にセルフで作る必要があるだのPOPで注意書きくらいしていれば良さそうなモノを、金だけせっせと払わせて何も言わずにコーンだけ手渡された時ぁ驚きを禁じ得ませんでしたっけ。二度と訪れねぇぞあの店(笑)。

食品産業で「セルフ」が許容されるシーンで代表的なのは「お好み焼き」でしょう。お好み焼きを自分で焼くのが初めての人も居れば苦手な人も居るでしょう。セルフが当然ではあっても大抵の店は店員が焼いてくれるサービスは普通にあるワケでして、廃棄物や損失出したくないあまりに客に告知もせぬままレジでとっとと会計済ませて手も洗わずにソフトクリームのコーンを客に手渡しで作らせる(どうりで機械が客側向いているワケだとあらためて実感)店というのは、利幅が多少見込めるコンビニであってもフランチャイズ料という吸い上げが店には重いのか。仮に重くとも一店独自メニューでもなかろうし、商品の研修くらいは受けているであろうコンビニが客に何も知らせずにセルフたぁ世も末ですわ。さすがに閉口してしまい怒りの声すら挙げるのも忘れてしまいましたっけ(笑)。


まあ、企業がコストダウン図るキモチは大いに理解できるんですが、いずれ人手そのものが不要になっちまって肝心の店員も居なくなるのが未来のコンビニであるのだろうかと危惧する左近治(笑)。とはいえ接客も対話も無いあのようなコンビニはsooner or later淘汰されて行くのでありましょうが、コストダウンや効率アップを図るポイントを間違えているでは本末転倒。魅力そのものや原点さえ忘れていなければ、世にどんな新たなデバイスやらが浸透しようとも必ず存在し続けるはずなのですが、ケータイが老若男女問わずして普及した現在、肝心の電話マナーを失いつつある現代社会を見ていると不安にもなりますな。


それでいてPDFドキュメントのみしか対応せずに電話サポートにも注力せずに、便利なデバイス登場(iPad)にあぐらをかいてしまったら、その時残る紙媒体というのはよほど必要性を問われる書類しか存在しなくなってしまうのかと思うと空恐ろしいモンです。利幅を一定量以上確保したいというのは日本国内における物流システム(卸との兼ね合い)と、販売そのものに制限を設けるやり方(再販制度)やら色々あるとは思うんですが、末端の消費者の裁量によって結果的に利益を吸い上げているようでは未来はないでしょうな。農業ですらも転換期なのが現実なのでありますから。


利便性を追究するあまり、対話や対応も礼儀もなくしてしまうのだろうか、と。せめてこういうコトが許されるシーンというのは唯一無二の企業が殿様商売しうるような場合。それを本来必要としない愚かな連中が利便性と利幅追究のためだけにマネてしまう。こーゆーの、既にどっかの世界で目撃している方は多いのではないかと思うんですね。だからといってiPadが盲目的な利便性のためだけに生まれて来たデバイスではないのは誰にでも判るはずなのに、デバイスの中のモノを生み出そうとする時、大多数は原点を見失うワケですな。


ウン千万円投資しても得られなかったほどの音楽制作環境が今では子供が貯め込んだお小遣い程度で手に入るようになった現在。ところが肝心の音楽制作のためのイロハすら知らない人が激増(笑)。生まれて来たばかりの赤ん坊は何も知らないし無学であっても当然ですが、なにゆえ教育は必要なのだろうかというコトをあらためて自問自答したくなるこの世の中。Windowsが普及してネットインフラも整備されて誰もが普通にパソコンを扱い、学校でオフィス系アプリケーションを学んでいるはずが、正規の職にはあぶれ派遣社員だけが増えて行く(笑)。本当にパソコンが必要であるのかと疑問に思ってしまう会社でも、目先の人間には目もくれずに目の前のパソコン操作しているだけの人間も実に多いものです。常態化してしまうコトで「失礼します」という言葉も無しにパソコン操作をする者。


彼らの特徴は、偏狭な必然性とやらの欲求にかられて結果的に「常態化」してしまっているだけのコトを「常識」だと勘違いしている輩が多いんですな、今の世の中では。利便性と利潤追求によって互いに得られるモノはあるんだ!という大義名分をとっとと性急に浸透させたいがために「常態化」させてしまう。でも、コレは「常識」につながるコトなど殆どありません(笑)。

例えて言うならお金のやり取りでの「○○円から頂戴します」の「~から」っていうのは、決して悪気はない「誤った敬語」ではあるのは周知の事実(笑)。でも、それを常態化してしまうことで勝手に常識化させようとしているんですな。多くの人はこんな使い方を「本当は間違った敬語」と認識しているはずなのに(笑)。しかし、それでも使う。常態化させてしまったことの惰性感覚はそうそう払拭できないモンなんですな。


音楽における「常識」とは何か。こういうコトを知る前に、身の回りから学べるコトというのは多いはずなんですが、誰もがラクをしたがっているので、体系的なモノしか会得しようとしない(笑)。ひいては作り手も聴き手も衰退させてしまっているようでは何の為の「常態化」だったのか(笑)。衰退するエントロピー増長だけは素晴らしい(笑)。


いずれにしても四半世紀も経過すれば世の中も相当様変わりするモンでありますが、利便性と利潤追求にばかり躍起になってしまって結果的に社会がギスギスしてしまうのはどうもいただけないモンですな。どんなデバイスを片手にしようとも結局は「知りたい事」と「やりたい事」自体はそう大きく変わっていないワケですからね。その辺をよーく考えて新たなデバイスやらを使いこなしたいモンですな(笑)。

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