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コードの呪縛 [クダ巻き]



今回は少々楽理面における話題にしてみようかな、と思います。2010年始まってこの手の話題にはまだ振っていなかったので。

コードネームで表記されることの多いコードネーム。これがあるが故に単旋律のフレーズにコードネームが振られていれば、単旋律側の調号など前後の音符の音価やら強く意識せずとも概ね楽曲の持つ雰囲気が伝わってくるのでありますな。


今回タイトルにしているコードの呪縛というのはですね、そこに割り当てられたコード表記による「呪縛」が、かなりの面に置いて曲の調性を制限していることが多く、結果的に作曲やインプロヴィゼーションやらの可能性を狭めてしまう時が往々にしてある、というコトを述べたいワケですな。


一般的にポピュラーなバンド形式の編成であっても、そのバンドの各パートが多く集まって、あるコードネームに収まる和声を形成しているワケでありまして、例えばキーがCメジャーで「CM7」というコード表記があったとしても、このコードを強く意識して和声を与えているのは鍵盤楽器がギターでありまして、ベースもCM7弾いてたりとかするワケではありませんよね(笑)。音感がとても鋭敏なドラマーならCM7の音出したりするかもしれませんが(笑)、こういうのはまずありえないことでありましょう。


では、あるバンド・アンサンブルにおいてギターも鍵盤楽器も居なかった編成があったとします。そこにある楽器パートはドラムは別として、ベースとトランペットとテナー・サックスだとしましょうか。


この編成においてはベースがダブル・ストップとかやらない限り、各人は和声を与えることはムリだと思うんですな。つまり、この編成でCM7というコードを奏でようとした場合、CM7の構成音を全て満たすというような垂直レベルで白玉の和声を与えることはできないことになってしまいます。

和声面で見れば「CM7」という支配下にある小節内において、各パートがそれに則ってCM7の雰囲気を醸しだして結果的に時系列にフレーズとなって、その「支配下」の小節内で初めて「CM7」という和声感を得る、というシーンであると言いたいワケです。


この編成においてはコードをかき鳴らすパートが無いために、手っ取り早く背景にCM7という和声を与えることはムリだとしても、ありきたりな「CM7」というコードを鳴らされるよりかは自由度は高いとも言えるワケです。


では、この編成においてベースはC音を弾いていて、トランペットがミファソラシドレミ~というフレーズを奏でているとします。キーがCメジャーなので、ペット基準で見ればEフリジアンを吹き始めておりますが、結果的にはCメジャーの3rd音から吹き始めているという解釈に落ち着くワケですな。


ではここでテナー・サックスがペットと3度でハモってくるとしましょうか。ペットの6度下でハモるとすればソラシドレミファソ~という風に吹いてくるワケですな。テナー・サックス基準ならGミクソリディアンではありますが、ベースがC音弾いていてとりあえず割り当ててある「支配下」という面での世界観は「CM7」なので、CM7の5th音から吹き始めているシーンと言えるワケでありますな。


「何もこんな当たり前のこと述べる必要なかろうに」


などと思われる方もおられるとは思うんですが、先述のフレーズがトランペットはそのままに2回繰り返しているとします(この繰り返し中のベースはC音のまま)。テナー・サックスは2回目の繰り返しの時に「ソラ♭シ♭ドレミ♭ファソ~」と弾いてきた場合、この場合はもはや「CM7」という支配下にあるものとして聴こえません。


明示的に「CM7」という響きを維持するという指定があった上で「CM7」という表記があるのであれば別ですが、特にそのような和声感を維持する必要がない「自由度」が与えられえたシーンであれば、テナー・サックスが別のモードを想起したことによって生じた多旋法なシーンと言えるワケですな。

ジャズであろうとクラシックであろうと、こういう世界観というのは存在するもので、この多旋法な世界というものをマイルス・デイヴィスを始め、ジョン・コルトレーンやウェイン・ショーター、ハービー・ハンコックというのはどんどん採り入れていったワケです。


さらにウェイン・ショーターやハービー・ハンコックというのは、こういう多旋法の世界の中で生じる「コードからハミ出た世界」をも和声的に導入するような世界観を持たせているとも言えるのでありますな。


コードありき、の場合だとその構成音の呪縛から逃れるのはかなり難しいものでありますが、コードそのものがもっとシンプルであった場合(メジャーorマイナー・トライアド)、それらのトライアドが複合化したものとして解釈出来うるシーンが生じたりもするもので、結果的には、「一般的に」使用されるポピュラーなコード表記とは全く別の「ハイパーな和声」が生じたりするものであります。


この先、左近治が予定しているブログは、この手の話題を中心に進めていくと思われますので、「単一的」なモードの視点しか持たないようなジャズ屋さん達とは違うベクトルで語っていこうかな、と思っておりますので(笑)、その辺りを念頭に置いていただけると幸いです(笑)。


まあ、こうしてシンプルに例を示すと、例えば私がGG(=ジェントル・ジャイアント)の「Free Hand」を題材に「何を語ろうとしていたのか!?」ということをあらためてお判りいただけるかと思いますので、その辺りを今一度ご理解していただくと幸いですな(笑)。


単一的なモードしかベクトル向けていない音楽で、しかもそれが「なんちゃってジャズ」なんて言ってたら滑稽この上ない世界であるんですが、実際のところ、この手の「ジャズ」とやらが支持されてしまう向きもあるワケで(笑)、ついつい楽理知ってみたモンだから、それである程度弾けてしまうと、ジャズすらも知った気になってしまっているようなエセなジャズ屋がどんなに多いコトかと嘆いているのが左近治のボヤキだと思ってもらえればよろしいのであります(笑)。


そんな、楽理知ったつもりになっても一旦暗闇に放てば、大概の連中は一点の光を求めて、虫のように一点の光へ無我夢中になって飛び込んでいくワケですよ。飛んで日に入る夏の虫とはよく言ったモノでありまして(笑)、この手の一点のベクトルしか向いていないようなのが実際の所かなり多いのが実情だよ、とも言いたいワケですな(笑)。


そんな世界で、しかもジャズ常套句連発されてた日にゃあ興醒め間違いナシ!(笑)。もうちっと、別な方角からも理解しないとマズイんじゃねーの!?と、こうしてブログでクダ巻いているのが左近治なのであります(笑)。


こういう切り口だと、多少なりとも今後の展開とやらが判りやすくなってくるのではないかと思いまして、老婆心ながらクダ巻いてみました(笑)。