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今一度スーパーインポーズ関連を振り返る [回想日記]

 今回、マイナー・メジャー7thの分散フレーズをマイナー・トライアド上でスーパーインポーズさせたり「関係調」という近親性からは縁遠いと思われるモードを想起したりする例を出したわけでありますが、そこに共通することをまず語ってみようかな、と。


 私の嗜好する音楽のタイプというのは和声的な面においても通常のポピュラー系の音楽においても端的に表現することすら難儀なものとなってしまう和声を持つものに多く遭遇してしまうモノです(笑)。まあこれは自分の好みがそっちに振れている以上、その手の作品に多く出くわすのは至極当然でもあります。

 そういう作品の楽理的側面を語ることで、単に自分だけが理解できるようなローカルなルールで文章を進めていってもうまく伝えることはできないとは思うのでありまして、例えば「ハイパーな」和声のコード表記というのは、一般的なコード表記というものを利用しつつどうにか端的に表現しようとする気持ちの表れでもあるワケです(笑)。

 故に、今まで左近治ブログをお読みの方なら「なんてコード表記してんねん!?」などと常々思われていた方は相当数いらっしゃるとは思うんですが(笑)、その表記というのはコチラが楽をしたいがために端折る表現をしているのではなく、そんな異質な表記をせざるを得ないことが「必然」である、という和声的な世界観を有している音楽が沢山ある、ということを先ず語りたい部分だったんですな。


 ポピュラーな表現に寄り添って表現しているものだから、後になってすり合わせることも難しくなりもどかしさを感じることしきり(笑)。面と向かって話して音を出せばほんの1時間もあれば語れるようなコトを、ブログとなると1日どころか1年経っても伝えきれないところが実にもどかしい。

 ただ、そこで焦っても仕方はないのであります。

 楽理的側面を学ぶ上でも、音楽というジャンルとは縁遠いものから「寓意」を通じて共感できるシーンがあるのも実生活においては誰もが肌で感じているコトでもあります。自分自身がうまく表現できないが故に、他人の端的な言葉に共感を感じることがしばしば。年功を重ねている人ほどその手の咀嚼された表現というのはシンプルで重みがあるものですが、受け手側が「シンプル」になってしまってはいけないと、特に音楽の楽理的側面を学ぶ上では決して端折って理解してはいけないことだと思うことしきりであります。


 寓意と呼ぶには果てしなく遠い左近治の冗長ブログの展開力(笑)。コレばかりはとても褒められたモノではないのでありますが、非チャーチ・モードの音楽の世界観を雰囲気だけで伝えてしまうようなコトだけは回避したいがためについついハナシが長くなってしまうというワケで、この辺りはあらためてご容赦願いたいなと思うばかりでありますが、今回の一連の話題によって、より深く理解された方もいるのではないかなと思っている左近治であります。


 音楽に限らず、どんな世界においても人は皆未経験で生まれ、経験に乏しいのであります。ヒットチャート系の音楽にしか触れる機会の無い人が、それらとは異質な和声的世界を繰り広げている音楽を耳にする経験すら乏しいのは当然です。その手の音楽を欲する人間ですら経験に乏しいと実感させられるほどの音楽に常日頃遭遇しているのが実際なので。

 経験に乏しいことを卑下する必要はないものの、それを口実に間違った音を肯定してしまったり、無秩序であってはならないと常々感じているのであります。


 例えばテレビのワイドショー。コメンテーターの判りやすく発した言葉に共鳴し、いつの間にかそのコメンテーターの言葉をそっくり受け売りとして引用してしまっている人など多いと思うんですが、コメンテーターが端的に発してくれた言葉であるからこそ理解がスムーズだったのにも関わらず、いつしか自分がコメンテーターと同等、或いはその立ち位置が「勝った」所に自らを置いてしまうような人、身の回りに何人かいらっしゃると思います(笑)。

 自分可愛さというのがあるため、シーンが異なれば医療のことなどシロウトのクセに患者の立ち位置はいつの間にか医師をも遥かに凌駕するポジションに身を置いてしまう人だっているでしょう。所詮テレビや雑誌程度の医療知識しか持ち合わせていないクセに(笑)。


 こと音楽に例えるなら、器楽的な面の経験がある人の音楽評なんていうのも実に無責任なものなのに、自分可愛さでそれはとても感覚的・本能的でしかなく且つふてぶてしいほどばかりに高潔だったりもします(笑)。

 感覚的・本能的な言葉に置き換えられると、そのシンプルで時には的を得た表現についつい引き込まれてしまいがち。シンナー吸って「あー、気持ちイイ!」なんて思ってしまうほどの感覚的な世界の形容にダマされてはいけないんですな。その心地よさが何たるか、というものやプロセスを知ろうとすることが楽理的側面を学ぶ面で必要なことだと思うワケですな。


 ところが、自分自身でも物事あまり考えないで雑誌やテレビなどの表現の受け売りだけに陥るようなタイプの人は音楽方面にも多いものでして、殊更自身の表現力に稚拙なものだから他人の言葉に共鳴したもの=自分の言葉かのように、いつの間にか理解してしまう輩がいるワケですな。

 誰かがあるレコード&CDの評価にミソを付けたりする。それを見聞きした輩はそれよりも遥かに劣る自身の見聞は忘却の彼方でさらに糞味噌(笑)。


 音楽というシーンでは、器楽的習熟と同時に作品に遭遇してきた各人の経験と知識の蓄積の差が千差万別であったりするのに、自身のプライドだけが邪魔をしてしまってそれを謙虚に受け止められずに我が道を行ってしまう人が多いのも事実。

 但し、物理的に数だけ多く音楽を聴いただけでは楽理的側面を知ることはできないのもまた事実。時間と物量さえ許容範囲であればこれらを有することができても、きちんとした楽理的側面を備えて音楽を耳にしているかどうか、ということはまた別のハナシ。


 なかんずく楽理的な面を追究しようとする者であらば、やはり常々謙虚でなくてはならないのではないかと思うことしきりであります(笑)。とはいえ「左近治のブログって高飛車じゃねーか!?」と言われると思うのでありますが、これはブログ開設当初から述べていることで「音を知りたいのかor言葉を知りたいのか」という「フィルタリング」を設けて顧客を選別しているような向きがあるので、その辺りのキャラ作りにもご容赦願いたいな、と(笑)。

 「お茶でも飲んでゆっくりしなよ!」と言われて、実際には青汁出されてもくつろいで下さいな、というのが左近治のスタンスなので(笑)。感情ひとつで理解力が大きく左右するようでは音楽を知ることは難しいのではないかと思うんですな。その感情というのは「感覚的&本能的」な結果ですからね。くわばらくわばら。