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ちったぁアフロ・ラテンなハナシでも [クロスオーバー]

ラテン系の音楽というと、想像するに容易いのはビートでありますが、その特徴たる「ならわし」とは別に、旋律的な部分における「ならわし」の方を強調して語っておかなければならない、と思いまして、今回は一転して話題をシフトすることに(笑)。
例えば「サンバ」のリズム。アレだって、原点を探ればいわゆる現在のサンバのリズムの「半テン」(=半テンポ)というのが基となっておりまして、フォルクローレやボサノヴァがそうした半テンのならわしを現在でも遺している姿と言えるでしょう。まあしかし、コレはビート的な視点での意見。

旋律的な世界のならわしは後に語るとしまして、この手のラテン系音楽と他のジャンルの融合というのは色んな方面で自然発生的に成立しているモノでありまして、例えばジャズの世界だと60年代頭辺りからジャズ界はそれまでのシャッフル(=スウィング)のビートよりも多様化を試みてアフロ・キューバンやらのビートを導入して、スウィング感よりもビートの平滑化が顕著になってきます。コレが、プログレ方面で語られるモノとは別の「ジャズ・ロック」の誕生なワケであります。

プログレ界で言われる「ジャズ・ロック」というのは、いわゆるストレートなロックではなくもっと多様なアンサンブルや鍵盤楽器のエレクトリック化によって齎されるモノでありまして、ジャズ界での当時の「ジャズ・ロック」とはまた違う意味で形容されるモノであります。まあ、それもビッチェズ・ブリュー以降、オルガンからエレクトリック・ピアノに大きくシフトすることで、それぞれの「ジャズ・ロック」というものはほぼ同じ道(人脈だけが違う)のような路線になるワケでありますな。

ジャズとしての様式で最たる特徴というのはツーファイヴ。しかしながらモード・ジャズをもっと高次の世界で追究するとですね、このツーファイヴの「ならわし」というのが非常に足枷にもなりかねないモノなんですよ(笑)。

私自身散々楽理方面で語ってきましたが、メロディック・マイナー・モードの特徴的な音を持つ音を和声的に用いた場合、ドミナント7th上に出現するオルタード・テンションの数々はそれらと一致することが多くなるワケですが、ドミナント7thを基とする形で使っていれば、メロディック・マイナーたる真の世界観はまだまだ暮夜けている、と言っても過言ではないでしょう(笑)。構成音が共通する音を用いているからといって、決定的に違うのはルートの音の扱いなワケですからね。

で、いずれは70年代に入るとジャズ界やロック界における双方の「ジャズ・ロック」という部分は、楽理的な部分において非常に似通った世界観を志向するようになっているワケですが、ジャズ界の多くはやはりジャズとしてのならわしを強く残し、インプロヴィゼーションそのものがジャズ系のソレっぽい色艶を持っているので「ジャズ系」として認知されるワケでありますが、ロック界におけるそっちの世界というのはもっとシンプル且つ大胆に「そっちの世界」を向くんですなあ(笑)。どちらも似通った音出している局面もあるんですけどね。

まあ、テクニカルな面においてはジャズ界出自のミュージシャンの方が秀でている事が多いでしょう。しかしながら、曲の根幹部分を手なりフレーズで埋め尽くされるよりも、もっと緻密な計算と感性で彩ろうとするベクトルがビンビン感じられるのがロック界出自のジャズ・ロックであると言えると思います。


とはいえ、それらのジャズ・ロックにおいてラテン音楽が支配的に影響していたワケではありませんが、異なるジャンルが融合することによって更なるフェーズへと昇華している点は見過ごす事の出来ない事実でありまして、旋律的&和声的な意味においてもラテン特有の「唄いまわし」というのがモード・ジャズの世界をさらに次の次元へ運ぶステップとなっている点を見抜かないと、ジャズやっててもモード・ジャズ理解しようとも、この点が一番重要な点なワケですな。

こうしてモードの追究はさらに高次のステージへと発展し、そうした結晶体は異なるジャンルにも伝播&波及し、それらはラテン音楽という垣根を超えてもはや和声的な意味においては、通常の音世界に飽きた人達が欲してやまない音へと変貌を遂げるのでありまして、それによって昇華された作品が次々に提示されていく、というのが60年代後半から70年代となっていくのであります。

一方、オールド・シネマ系サウンドというのはオーケストラやオルガンや鉄板エコーなどを巧みに使ってSEサウンドやらを得ていたりしていたりするワケですが、こういうナクロな作業がシンセサイザー出現時にも大きく貢献することで、シンセの「在り方」というのがスムーズになっていたのも見過ごせない点でありましょう。

指揮者から見ればオーケストラも「シンセサイズ」でありましょうし、ハモンドのドローバーだって「シンセサイズ」と形容できると思います(笑)。まあ、そんな中でも本当にエフェクティヴな使い方を提示していた先駆者はおりますけどね。クラウス・シュルツェとかアシュ・ラ・テンペルやらノイ!やイーノなど。

オルガンそのものを「シンセサイズ」という風に駆使していたのは私はデイヴ・スチュワートだと思っておりますけどね(笑)。ハモンドよりもファルフィサの音を活かしつつエフェクティヴに仕上げる、みたいな(笑)。


そうした発想がさらに融合していくことで音楽はさらに多様化していくワケでありますが、和声的な面においてどうしても「その世界」とやらを演出しなくては気が済まないという方々がジャズだろうとプログレだろうと、色んな世界にいたワケでありますよ(笑)。スタンダード曲なんてやっても鼻で笑われそうなくらい追究しちゃってる人達ですね(笑)。勿論リスペクトはあるでしょうけどね(笑)。

この手の「判ってる」人達というのは、12色の色鉛筆をケースに仕舞う時の配置具合が絶妙にセンスがよろしいんですな。誰もがやりそうなありきたりなグラデーションで配置しない。ジャズにはジャズの仕舞い方があるワケですが、モードを追究した人達はジャズであろうがラテンであろうがプログレであろうが皆同じ感性を有している。けれども同じ配色にはならない、とでも言いますか(笑)。


誰もが覚えて知ってそうな音楽理論、まあ富士山二合目付近くらいの人達ならばとりあえず簡単なツーファイヴやらチャーチ・モードでのモード双方やらくらいは理解しているでしょうが、この程度で知った気になってはいけないというコトなんですよ。この手の人達がラテン音楽聴こうが、ジャズ聴こうが、ロック聴こうが、結局そのまんまのありきたりの解釈でしか聴くしか出来ない耳に収まっちゃってる人がなんと多いコトか(笑)。

まあ、例をどんなに提示していても悲しいながら耳が習熟しない限りはその響きは耳に受け付けないと思うんですけどね(笑)。自身の備えている狭義の音楽理論とやらに溺れてしまい、自身の能力を遥かに超越している音の根拠を理解できない人が、ムリヤリ自身の狭い理論の知識で収めようとしてもムリがあるってぇワケなんですが、人によっては「自分の知らないモノは習ってないから、こんな音は有り得ない」と完全否定してしまうような人達も多いワケですよ。但し、これらの声が大多数だとしても正否が多数決によって得られるワケではないということだけは熟知していただきたい部分なんですな。


モードの追究というのは、その「型」がもはや何かのジャンルを限定する「ならわし」になってしまえば、それは「足枷」にしか過ぎません。とはいえ和声的&旋律的に異なる振る舞いを導入したからといって、その音楽が何らかのジャンルっぽく聴こえてしまうワケではありません。

民族的な響きをポジティヴに導入した結果であろうが、モードの追究によって辿り着いたのであろうが、使う音が酷似しているからといってそれらはどちらが先か!?という議論は意味をなしません。ただ、少なくともモードの追究と、他ジャンルの持っていた「ならわし」が親和性高く融合した、というのが私の見解でありまして、ラテン音楽をはじめとする民族的な「ならわし」がその後のモード・ジャズの追究をより深めて行ったのではないかと私は推察するワケであります。


日本においても陰音階・陽音階とありますが、これらのならわしを大局的に見ればフリジアンの簡略形と呼べるかもしれません。フリジアン的な振る舞いだとしてもフリジアンの性格すら判らず、Eフリジアンの振る舞いをハ長調やらイ短調のつもりで聴いているような音楽センスに留まるようでは音楽を追究する上では非常に未成熟なものであると言わざるを得ません(笑)。

では、ジプシー音階などをモードとする世界やらチェレプニンをモードとする世界やら、コンディミやらをモードとしたりヘクサコードをモードとする世界があったとしたら、これはもう普通の世界の振る舞いではいられないワケでして、私はそんな世界を語っているワケですな(笑)。

これらの音世界の特徴的な振る舞いなど、それはもう出自が判らなくなるほど咀嚼され使われているワケですが、メロディック・マイナー・モードが徐々にポピュラーになりつつあるような伝播具合など本当に最近のコトであります。それまでの30~40年以上前を遡ってもその手の作品を目の当たりにするのは本当に少なかったモノでありますが、ここ数年はメロディック・マイナー・モードの咀嚼具合がカッコイイ人達というのは多く見受けられるようになったモンであります。

ジャズ的な振る舞いのメロディック・マイナー程度じゃまだまだ振る舞いとは言えませんけどね(笑)。無論、ジャズでもドミナント7thとしての振る舞いを捨てた使い方もあるワケですが、捨てない使い方ですらまともに使えていないジャズ屋さんも多いくらいですからね(笑)。

ラテンとの融合ばかりが答ではないのも事実でありますが、その世界に覚醒しちゃった人というのはやはり行き着く所は概ね似るモノであります(笑)。