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便宜的なコード表記を許容する [サウンド解析]

まあしかしアレですね。これまで左近治はいくつかの少々一般的ではないモード・スケールやらそれらのダイアトニック・コードを列挙して説明してきたワケでありますが、ドコの馬の骨が語っているか判らない一般的でもないような楽理解説なんて眉唾になってしまっている人も中にはいらっしゃるとは思うんですよ(笑)。

そんな声など馬耳東風とばかりに左近治が推し進めたい理由はですね、結局のところ、チャーチ・モードから遠く外れたモード・スケールの音並びというのは、それこそ半音音程が連続したり、短三度音程が含まれていたりするものも増えてきます。


半音音程が連続するスケールを「和声的に」導入した場合、そのコードを本当にキレイに聴かせられるのか?


という所が難しい部分になってくるかと思います。


だけれども、その辺の一般的な楽理など身に付け、少々変わった所に手を伸ばしたいという人は少なからず存在するはずでして、私のブログというのはそういう人達にこそ目を通していただいているのだと信じてやみません(笑)。

ある程度刊行物でその手の例があったりすればより信頼性も強化されるかもしれませんが、ジャズライフの最新号の40頁の「マイナー・コード系」の最後に載っているコードは、これまで左近治が語ってきた世界を理解されている方なら、すぐにどういうモード・スケールを想起すればイイのかお判りになるかと思います。興味の有る方は次のページにも例が載っていたりするので購入されてはいかがでしょうか。さすがに私がそれをそのまんま掲載するワケにはいきませんので紹介にとどめておきます(笑)。


ハンガリアン・マイナーはI・II・IIIb・IV#・V・VIb・VIIという音列ですな。Cを基本とすればC、D、Eb、F#、G、Ab、Bというコトです。

まあ、このモード・スケールにおいてダイアトニック・コードを構築した場合、7番目のモードをルートとするコードが先のジャズライフの掲載しているコードだと解釈するのが一般的でありましょう(ジャズライフではあくまでも限定しておらずそこまで言及していないのは「ジャズ」たる自由度を持たせているためだと思います)。

これまで左近治が列挙してきた、類似するモード・スケールを想起することも可能ではありますし、答えはひとつではありません。

重要なのは和声的に半音音程の連続する音を和声的に用いている所を会得することが重要なのであります。


これまで左近治は、そのような音を用いている楽曲も色々例に挙げてきました。


坂本龍一作曲の「Elastic Dummy」「Sonatine」
ジョン・パティトゥッチ&チック・コリア作曲の「Baja Bajo」
スタンリー・クラークの「Life Is Just A Game」
フローラ・プリムの「I'm Coming for Your Love」
ザ・セクションの「A Kind Of Albatross」
ウォルター・ベッカーの「Door Number Two」「Medical Science」
ウェイン・ショーターの「Shere Khan, The Tiger」
ヒンデミットの「オーボエとピアノのソナタ第二楽章」

などが代表的なモノで、これまで語ってきているモノでありますが、ラテン系の音楽の多くには特殊な音並びを持つモードから生じるダイアトニック・コードをより積極的に導入して、通常見受けられるようなコード表記ではなかなか表現しにくい和声を生じさせることなど多々有ります。ラテン音楽の全てがそれではありませんし、一部のプログレ系や、カンタベリー系やレコメン系にだってその手の音は和声的ではないものの旋律的に導入しております。

ただ、和声的な導入として著しいのはラテン系には多いと思います。

コード表記が見慣れないからといって、自分の感性を矮小化させたりする必要は全く無いのでありまして、そんな一般的な狭義の世界での表記にこだわり過ぎて自分のスタンスを狭める必要はないと思いますし、何より大事なことは、目の前(耳の前)に現存する和声をどれだけ自分が受け止めて解釈できているか!?というところにかかってくると思うんですよ。

先の例に挙げた曲は、これまで左近治がリリースしたりブログで語ってきたコトでありまして、それら以外の曲にも特殊な和声を導入している曲など数えきれないほどありますが、実際にはこういうのを強く意識して聴いていない人が実際には多いのでありまして、器楽的なレベルは高いレベルにあっても耳の習熟度が浅い人が多いんですな。ビールの味も判らずに勢いで酒飲んでる、みたいな(笑)。

音は聴き逃すわ、雑誌の重要な情報も見逃すようではいけません。


ハナシの趣きを少し変えて、例えば心電図や地震計で生じた波形を方眼紙に描かれたものを「量子化」してみるとしましょうか。

縦軸はある一定の音域の収まる「音高」、横軸が時間という風に。


それらの波形ってどんな情感備えているか判りませんが、とりあえずは音楽になり得ます。音の幅、あるいは時間軸をもっと「音楽的に」聴きやすいように「引き延ばして」それを音楽的なリズムが備わるように演奏すれば立派な音楽ですよ。或る意味フリー・ジャズというのはそういうレベルにもありますし、自分の人生を1日毎に10段階で評価してみたとして、それを2万日用意した音を10音で表現してみたりとかね(笑)。それを「自由に」リズムに乗せたって十分な音楽ではあります。

それが一般的な情感を備えた音楽としては聴こえない可能性が高いかもしれませんけどね。色んな発想で音というのは表現できる現実があるんですな。

先週、先々週と、テレビ朝日系列で毎週日曜日に放送されている「題名のない音楽会」という番組で2週続けて山下洋輔やタモリが出演していたのは記憶に新しいところです。フリー・ジャズの場合は曲の情感そのものの成り立ちが違うので、局面々々を彩りを聞き逃してはいけません。私の場合「題名のない音楽会」はマイキングにいつも注目して見ておりますが。

先も山下洋輔の門下生である「る*しろう」というアーティストが出演していて、ヘンリー・カウ/スラップ・ハッピーのような音を繰り広げていたのは実に興味深かったモノであります。

とまあ、左近治の述べている部分というのは、その辺りの音楽やら楽理的側面においてもジャンルは様々であるものの、一点の関連性だけはキチンとスジ通して語っているのでありまして、その辺りを見抜いて許容していただければな、と(笑)。