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聴覚検査 [サウンド解析]

先日左近治は、とある病院にて聴覚検査を受けたのでありますが、その時の話題でも。不定期ではあるものの、まあ「定期的に」聴覚検査は受けている左近治なのでありますが、特に耳になんらかの異常を確認しているワケでなく自発的な検査なのであります。聴覚検査から成人病を発見できることだってありますしね。特に心臓などは結構深い関係があるようです。

あんまり病院とやらは喜び勇んでお邪魔したくはないというのが本音(笑)。んでまあ先日もその聴覚検査のために病院を訪れて、受付に行った左近治なのでありますが、他の来院患者や受付担当について思ったコトがありましてですね、ハイ(笑)。

まあ、順番を待ちながら並んでいて私の受付の番になって受付の人とハナシを交わしていたんですが、突拍子もなく横から他の来院者が割って話し込んで来るワケですな。

普段病院など来ない人が殆どでしょうから、その割って入って来ている人も要領が判らずに突然割り込んでいるのでありましょうが、受付の人はすかさず「順番で対応させていただいておりますのでお並びください」ということを告げて話を止めようとはしているワケですな。

ところがその来院者は少々厚かましい(笑)。そんなこたぁ馬耳東風とばかりに押し切って対応を迫っている始末。受付担当の人は何度も「順番なので・・・」を繰り返しながらも、結局はいつしか話のペースに巻き込まれ、その「厚かましい」人に説明をしているという始末。

厚かましい人への同調者ならこれを「得」だと思い込んでしまうんでしょうが、そんな所で損得勘定しなきゃいけないほど普段の生活嫌なコトだらけではないでありましょう(笑)。まあ、なんだかんだで2〜3分待たされている左近治と私に続く並んでいる方々。

この件で咎められるべき点は、厚かましい人本人のモラルにもありますが、それと同じく受付担当の対応にあるワケですな。

いくら割り込んで入ろうともそれを許容できるシーンというのは救急の人が入ってきたというようなシーンではあると思うワケですが、それとは明らかに違うワケでして、受付の人自身もおそらくは心のどこかで「目先の仕事を片付けたい」という安直な思いを優先させてしまっているのが見て取れるワケなんですな。

そのような対応をしてしまったとしても配慮が行き届いている人なら、ようやく私との話になった時に何らかの言葉でお詫びをして話を進めるのでしょうが、そうではない。今度は、その人にしてみれば私の事も「目先の仕事を片付けたい」という対象者へと変位してしまってテンパっちゃっているワケですよ(笑)。

この手の配慮の無い人が結局「苦情」に発展させてしまうのではないのかなーと思ったワケですな。

勿論左近治とてそんなことで文句言って時間費やしたくありませんからえびす顔とは言いませんが感情をあらわにする事無くやり過ごしているワケですが、受付の人にしてみれば私がその場をやり過ごした「良心」によって事を進められているというのに、おそらくはそこには気付かず「自身の臨機応変な対応の良さ」としてしか自分を見ていないと思うんですな(笑)。

仮に、そういうシーンで「苦情」という風に発展してしまうと、最初に必要だったはずの目先の配慮というものに目が行き届いていないのだから、どのような対応をもって詫びるか、という事まで配慮が行き届かないのは明白。そうするとおそらくは出て来る言葉というのは杓子定規のような、うわべだけのお詫びの言葉なのではないかと思うワケですな。

最近よく耳にする「クレーマー」というのは、自身の対応の悪さが引き起こしてしまった事案であるはずなのに、そこには気付かずに受付としての対応する側の偏狭的な自己愛の側面のボヤキとして描写されているだけのことで、「クレーマー」側をあたかも悪とするような所から生まれている過剰な屈折した描写なのではないのかなーと思っているんですな。

つまり、「お客様は神様」だとは毛頭思っておらず、苦情処理もまともにできない自分を正当化するためにに、客側を「悪者」にしてしまうというようなコト。

運営として見れば簡便化こそが第一ですが、ひとりの客に対して時間費やしてたらそれこそ損失ですな。その損失を少なくするためにマニュアルを用意するのに対応する側に誠意や配慮を欠いている所に加えて、その場で必要な言葉すら欠如した上での「マニュアル回答」ですから、怒りぶちまけている人にすれば火に油注ぐようなモンかもしれません(笑)。

自分の似たタイプとしか人間関係を構築してこなかった、という人が社会に出て、ハナからマニュアル用意されていたのではなかなか臨機応変な対応というのは身に付けることはできないでしょうなあ、と感じた左近治なのであります。

ま、こーゆー病院での一見に限らず、最近はあらゆるシーンにおいて顧客側の良心にあぐらをかいている「サービス」というのが横行してしまっているような社会に変容してしまっているなーとつくづく感じさせられるワケでありますな。

動かしやすい駒として大量生産させていくのであれば、この手の杓子定規的な人というのは教育もラクですし、なにしろ自分勝手な「現場の判断」というのをしないのが最大のメリットでもあります(笑)。この手の人たちというのは真偽も定かではないことをカマかけるように吹き込んだ場合、それを「口外」するようなことがある時に出所を見抜けたり、秘匿情報を話す事が出来るか否かという材料にもなります。

なにしろ自身を顧みれないためカマかけられていることにも気付かない。そこでどこかでグチとして口外してしまったり、今やネット社会。ネットでそんな事を口外しようものなら出所など誰かを特定することも可能になってしまうという。こういう事にも気付かない人が社会人にもいるワケですから、年少者のネットいじめとなればもっと「アシ」が付くというワケですな。

結論から言えば、ケツの穴小さいから招く事になってしまうのかもしれませんけどね(笑)。ホントならこーゆーシーンに直面してしまう左近治の在り方で人の振り見て我が振り直せ、と思わせられることもあるってモンでさぁ。

業務を遂行する立場になると途端に忘れがちな客観性。

「それほどの許容量備えるどころじゃありません」というのは結局はエクスキューズなだけでありまして、懐大きくして客観性備えることが結果的に自分のメリットとなるワケですが、自己愛が強いためかそれをなかなか受け入れられない人がひいては多くのストレスを抱えてしまうというワケでして、私が思うにこういう人達に共通するのは仕事以外での私生活面が非常にルーズなのではないかと思います。

仕事から帰宅してプライベートを実感するとしても概ねケータイ、テレビ、ゲーム、インターネットが多くを占めるでしょう。この時間を割くあまり、夜更かしをしてしまい、朝起きるのが非常にルーズ。早起き苦手&出社もギリギリ。こーゆー人が多いように思えるんですな。

私の場合は、サラリーマン時代でも「釣り」が私生活に根差していたためか(笑)、朝の早起きというのは非常にラクでして、朝早く起きないと夜グッスリ眠れない、というのもあるんですが、そういうのが役立っていたコトはあったように思います(笑)。私の周囲では「今寝てしまったら朝起きれなくなるから会社の門の前で寝ていた」などということもあると豪語していた者がおりましたっけ(笑)。

音楽においても器楽的な方面を学んでいくと、聴き手としてのスタンスを忘れて自己陶酔型の音しか奏でなくなったりと、そういう壁に斑あたる人だっておりますが、結局は邁進するにしても客観性を失ってはいけないのではないのかと思うんですな。

扨て、本題に入りますが今回の聴力検査では私としては初めて、ノイズに混ざった欠落した正弦波の補正能力みたいな検査を受けるコトになったんですな。

先のブログでの「カラダのキモチ」でもこーゆーのはやっておりましたが、色んなバラエティ番組でもやっていると思います。つまるところ、正弦波が言葉だったとして、その言葉の「子音」が欠落している音をノイズと混ぜて聴かせると補完される、という能力のコトですな。

ノイズの信号をスレーヴとして、欠落した音のアタックタイムを遅らせて、その信号によりノイズ信号をダッキングみたいな風に、音楽制作のミキシング的に考えてもらえれば判りやすいかもしれませんが、今回はそういう検査も行ったワケでありました。

その初体験となる検査を受けてみると、ノイズと正弦波の聴こえ方は私の場合は分離しているように聴こえてしまいましたが、ノイズの聴こえ方が若干違いました。なんとなくノイズが小火けて丸め込まれた音に正弦波が混じっているような。無理矢理3Dメガネ付けさせられて疑似立体映像見せられているような感覚と言えばイイでしょうか。耳で受けている音が疑似ステレオっぽい音になるという意味ではないですよ。

ただ、やはり微細な信号に対して感応度が高まるのか、非常に弱い信号の聴き取りが検査の結果で高まっているんですな。これには驚きました。なんだかんだ言っても結局知覚能力を引き上げている点において目から鱗が落ちたような気分です。

電話の音声信号などは可聴帯域のフル・レンジ確保しているワケではなく非常に狭い帯域を使っているワケですね。それこそオーディオ的な側面で見ればBPF通したような音なワケですが、通話という「言語認識」を最優先しているからこその音でもあるワケですな。

医療分野から見れば聴力というのは日常生活において支障のない聴取が可能かどうかという所が重要なので、ノイズを混ぜることで「虚像」となろうが、本来の実像の音像すら変容して聴こえようが、そちらの忠実性というのは二の次なワケでありましょう。

本質を見抜けなければ自身の経験で解釈してしまうのは耳や脳レベルでもこうして無意識に行われるわけですから、そこに自発的な心を働かせて人のハナシを理解すれば本質見抜けずに問題をさらに大きくしてしまうのは当然であるとも言えるでしょうな。だからといって無秩序に多くの人達に対して開けっ広げで付き合うことが必要だとは言いませんが、鳥を仕留めて焼き鳥にするのではなく、タグ付けて解放しながら様子を見るという側面もありまして、その辺うまい事利用して人との付き合い方に細心の注意を払うというスタンスもあって当然だとは思いますな。いずれにせよこちらの良心に身を委ねて対応するような輩にはそれ相応の仕掛けを用意しておけば十分なので、より見極めがラクになる、と。

音楽にとっての「本質」とは旋律の成り立ちであったり和声構造だったりと。ギターが入ってなければ聴けねえだの、よもやギターが歪んでなければダメだのそんな所こだわって聴いていれば本質見抜けねーのと似たようなモンかもしれませんが、人の話を聞くだけでは理解できない「ココロ」の部分。ハートがあれば音楽が成立スルワケでもないのでこれまた難しいモノであります(笑)。