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悟りとは欺瞞!? [スティーリー・ダン]

スティーリー・ダンの名アルバムのひとつ「Aja」収録の「Deacon Blues」という曲がありますが、今後左近治がこの曲を題材にして少々楽理面で語っていくことになるワケですが、しかしアレですね。和声的な部分でも非常に興味深い側面があるのは今に始まったコトではありませんが、ディーコン・ブルースの歌詞を読むとホントに涙を誘います(泣)。

どのようなバックボーンがあって歌の主人公が置かれているのかは扨置き、絶望の果てにいるのは間違いなさそうです。それでも己に幸福感を得るために妄想しようか、酒に溺れて地ベタを這いつくばっているその場所を我が家と形容すればいいのか、ということを苦悩しているというような歌詞であるワケですな。

そんな状況に身を置かれてまでも客観的にどうにか見ようとしている様が実に悲しみを誘います。よくもまあこんな歌詞を思い付くモノだと。30年以上時が経過しても、このような歌はいつの時代にあっても寓意のように思えてならないんですなあ。

もっと噛み砕いて判りやすく形容するならば、アニメ「フランダースの犬」の昇天するシーンなどを投影していただければ、ディーコン・ブルースの歌詞とやらは知らない方でも想像に容易いのではないかと(笑)。

絶望の果てに酒や薬物に溺れようとも己はトコトン欺瞞であることがイイのか、それとも悟るという事はそれほどまでに辛酸をなめ続けても達することができない彼岸なのか。実に深い歌詞であります。

どこぞの政治家や財界の人間に聴かせたくもなりますが、如何なる請謁にも馬耳東風な社会というものを、現在の日本のみならずアメリカさんじゃあ今も昔もこのようなコトをまざまざと見てきたでありましょうからこうして歌にも出来るんでしょうなあ。

故ポール・ニューマンの「Cool Hand Luke」(邦題:暴力脱獄)も、右傾化に辟易とする様が描写されていたりしていたワケですが、そんな懐かしい映画の世界が日本にも散見できるようになろうとは思いもよりませんでした。


「こんな悟りを開いたオレの嘆き節をDeacon Bluesと呼んでくれ!」


とばかりに唱えても、結果的には無縁仏になっていくような人達には全く無視。ひとたび大企業が困れば税金投入、困った民衆には税金落とさない(笑)。目の前で溺れていく人を見かけて1万2千円金置いたって、そこで必要なのって金じゃないのはお分かりだと思うんですな(笑)。それでは命など助かりっこありません。命は金では変えませんよ、ホントに。票が買えるなら安いモノ!と思っているような輩の救済などそんなモンだというコトですよ(笑)。


まあ、平たく言えば「Deacon Blues」の歌詞は実に深いぞ、と。SDの楽曲は他にも寓意タップリの名曲がありますけどね。

とりあえずは左近治のスタンスとしては楽理面を詳らかに語るコトとするといたしますが、まだ「Deacon Blues」については語ってはおりませんね。

いやいや、これからが本番なのでありますな♪

今後の話題においてはひとつひとつのブログ記事がおそらくや「濃密」になってくると思われますんで(笑)、その前にチョット軽く「Deacon Blues」とやらに触れてみるってぇのもイイんじゃないかな、と思いまして。

底意地のrotten to the coreな左近治がごくたまに見せる配慮というヤツですか!?とまあ、そういう風にお感じになっていただければコレ幸いです(笑)。


因に後々にも語ることではありますが、私がSDのアルバム「Aja」を聴いたのは1983年のことでありまして、最初に好きになった曲は「Black Cow」なのでありました。「Aja」でのガッドのドラムのプレイ聴きたさに手に入れたアルバムでありましたが、その後楽理面とやらを覚えていき(高校2年の時に出会った音楽教師の造詣の深さと技量があまりに凄かったのが影響しております)、他の曲にも没頭していく左近治があったというワケです。