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高音質の追求 [クダ巻き]

蓄音機から始まって、いわゆる「ステレオ」という機器が普及して、今やすっかりデジタル社会になりました。デジタルなんてデータそのものは同じなのに、音に変換すると途端にそこで差異が生じる。かといって高音域まで周波数特性の伸びがいいだけの特性が高音質に結びつくわけではないのはアナログもデジタルも一緒なのが現実。

そういう背景など気にすることもなく、アナログ時代と比較すればピッチは保たれヒスノイズは少なく、コピープロテクトが施されていなければ複製すら手軽に行える、と。大枚はたいて高級機材を買ったのに音が良くないというのなら文句のつけようがあるかもしれない。しかし金は極力かけずにコピー天国になってしまい、音の善し悪しには難癖が付いて回る(笑)。顧客というのは金を払う側である以上一定の権利は確保されて然るべきではあるものの、いつから作品の質を低下するような危険を冒してまで手厚く保護されなくてはならなくなったのか?(笑)。

まあ、高音質を語らせても大概の人は理解できないことなんですが、そんな人にも興味は尽きないのでしょうな。

で、その高音質を決定づける要素はどこにあるのかということは昔から盛んに研究されていて、心理的要素を含んだただのまやかしではないのか?という側面からも徹底して研究されてきたのであります。ブラインド・テストとかがその一例ですね。

この手のテストで重要なのは、被験者に対してある一定の「制限」を設けてテストすることなんですな。心理面で言えば負荷をかけるようなものですか。なぜかというと、仮にそういうテストを行う前にあるひとつの事象の答えがやたらとどちらかに偏移している項目があるとしますね。そういうのをテストしてしまうと偏向具合が弱まって「あいまい」になりがちなんです。すなわち10段階のレベルで、0や10の方に強く振れていたものが中間の方へブレてしまう。

被験者が確固たる能力を持っていなければ、ある一定の制限を与えればそういう「振れ具合」が弱まるというのは研究者の間ではテスト前から知られていることなんです(笑)。音楽を聞き分ける能力がそれほど優れていない人というのは、制限さえなければ非常にバイアスがどちらかに振れるものの、そういう人を対象にした場合、大概のテストとなると中間の辺りに答えがブレてしまうものなんです。これは仕方ないことなんですな。

しかし、研究や開発で重要視されるのは大前提で被験者選びなんです。何処の馬の骨かも判らない一般的な能力しか有していない人をかき集めてそういうテストを行うのは愚行なんですな。彼らが求めている被験者のタイプというのはそれこそ指揮者のような耳を持つ人を何人も集めてテストするワケです。

で、そんなエキスパート達を集めても項目によっては中間にブレるものがある、と。しかし研究・開発サイドがさらに注目するのは、それらの高い能力を持った人が強くバイアスが振れる(概ね回答がどちらかに集中する)項目に注目するワケであります。

で、長年こうした研究を経て得たものの中で音質面で重要な指標というのが、チャンネル・セパレーションと歪み率すなわち1kHzを基準としたトータル・ハーもニック・ディストーション(=THD)と今日呼ばれているものが重要視されていきまして、その他の項目も勿論重要であるんですが、こうした「発見」があったんですな。


例えばモノラルソースを被験者に聴かせます。モノラルという音は正直自然界には存在しないと言えるほど「不自然」な音なワケですね。非常にハイファイな周波数特性を持つステレオソースをモノラルに変換した時、変換後にそのままのモノラルを聴かせたり、さらにそのモノラルソースの高域をスパッ!とカットしたモノラルソースを聴かせたり、と。

選りすぐりの人達でも高域カットの違いはそれほど期待するほどのバイアスがかからず曖昧な回答になってしまったそうです。それが普通なんですね。でも、その後ステレオソースの様々なクオリティを聴かせたり、同じ演奏の曲の生演奏とかを聴かせると途端に違いを識別して、答えは一様にどちらかのバイアスが強く振れるワケですね。

ただ、ステレオの音というのも実際には2つのスピーカーに「限定」しただけの装置であって、被験者の耳からすればどんなに優れたステレオ機器を前にしようと「不自然な」制限のかかる状況なのであります。すなわち被験者は「両耳」を駆使して識別しているわけですね。その能力が秀でているからこそ「違いの判る」エキスパートなワケです。


一定の制限や負荷を与える環境において最も必要なことは、

・非常に優れた被験者
・回答の平均値ではなく、いずれかにバイアスが振れる事象


先述にあるように、ある一手の制限下でのテストというのは概ね4~6割程度の辺りを推移するようになるものなんですね。その分布から外れる所こそが重要且つ被験者が選りすぐりでないといけないわけで、万人を文字通り10000人ほど集めてテストを重ねても、その時に得る平均値というのはエキスパートの人達でも無視できる事象なのに、もはや「高音質」を追求するシーンではお門違いな平均値なんですね。この平均値もテーマこそ変えれば必要な時もあるでしょうが、こういう事象を調べる際には用い方が全く違ってきます(笑)。



過去に、私がブログにて「スティーリー・ダンで耳のチェック」みたいなことをやったことがありましたね(笑)。その記事のおいて語られている音を聴き取れるのであれば、耳が良いと自負できるでしょう。少なくとも、そういうレベルの人達を沢山集めてブラインドテスト系のものはやらないとダメなんですね(笑)。たまたまネットの検索でたどり着いてこのブログを見つけたという人達集めても、正直どこの馬の骨か分からない人ですら多く含まれるワケで(笑)、そういう人達をもまんべんなく対象とするのはあまりにも無理があるんですな。

では、左近治のいうところのブラインドテストとはどういう方法がよいのか?ということは先述の通り。この手のテストはネットで万人に向けてやっても無駄なだけで、被験者の質を向上させて行わない限り机上の空論になってしまいますし、自己矛盾をも招きます(笑)。だからこそ、その手のことを鵜呑みにせずに自分の耳を鍛えたり、器楽的に咀嚼できるような音楽の聴き方を身に付けて音の違いを判別できるようにしないといけないワケでして、ネットで覚えた知識なんていうのは九分九厘「文字」なワケですから音に関する部分というのはそのまま真に受けても無駄な所が往々にしてあるんですね(笑)。産声をあげた時からネットで八百万のエロ物コンテンツを時間を忘れて没頭して見たところで、たった一度の童貞脱却は不可能なのと同じ(笑)。無駄な知識で応用力が付いてしまったことによる「別解釈」というのは可能ですが。

こういい事がなにゆえ無駄で、または何をもって信憑性を高めなければいけないのか、或いは何を重視しなくてはならないのかということは何れ判ることと思いますんで、気が向けばまたクダ巻きますね(笑)。