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音楽と触れ合う時間 [回想日記]

人間の寿命などせいぜい2万と数千日。左近治自身、生後15000日に満たない若輩者であります(笑)。私が中学生の頃までご健在だった曽祖父と曾祖母でも3万日を超えるくらいでしたから。仮に3万日の寿命だとしても1日8時間の睡眠時間を取っていれば、1万日は眠っているんですな(笑)。

楽器に携わる私とて、限りある生活時間の中で楽器演奏を習得したり、音楽を聴いたりしてきているわけですが、純粋に音楽を聴くという時間は意外にも少ないものなのだなあと実感するわけであります。音楽が生活に密着していない方の場合はさらに少ないというわけですね。

着メロや着うたというのは、携帯電話というメディアの魅力を借りただけで、音楽そのものへの執着心よりも携帯電話への愛着にエッセンスを加える二次的なものでしかないと思っております。着メロや着うたのほとんどは、オリジナルの作品を除けば殆どは何かの作品の二次的な利用でしかないわけで。

左近治の母は元ハワイアン歌手でして、バッキー白片さんの下で歌っていたのですが、そういう血を引いたのか私左近治も幼少の頃から音楽には親しんできていたのでありますが、楽器の演奏を習得したりする時間を除けば純粋に音楽を鑑賞する、という時間は本当にごく僅かな出来事でしかないのではないかとあらためて実感するのです。

で、私の着メロ制作時代は、世の着メロの隆盛と著作利用の関係がTVメディアを主体として非常に密接にリンクしたためCMソングもそれまでとは違った、着メロ受けするような曲になっていたりしていて、左近治の作る着メロもKクリにおいてマンスリーDL1位になった時もあったものですが(笑)、その当時は制作に追われるような時の流れで、自分の好きな曲すらも聴く暇がないほど、着メロリリース用の曲を物色するのにテレビ録画と視聴に追われるという日々が続いて、嬉しさと同時に地獄のような時を実感したこともありました(笑)。

左近治が着メロ制作をしなくなった理由は、着メロの音色というのは大半は「似て非なる音」のため、どんなに似せようとしてもデフォルメされる。そのデフォルメ感の「ウケ」具合で、ある程度のウケ具合を計算できてしまうわけです。そうなると、そのデフォルメとウケ具合だけで、音色作りやミックス具合は「テンプレート化」すら可能になってしまいかねず、そこまで到達した産みの苦しみよりも売れることを重視してしまってテンプレート化してしまうと、制作側としては面白味に欠けてしまうわけです。

もちろん、テンプレート化せずに追究することも可能ではあるのですが、オリジナル楽曲の作品に手助けされ、FM音源のデフォルメタッチにアレンジは手助けされ、それが制作の手助けになってしまうと制作側の喜びは本末転倒になってしまうのです。

難しいのは承知で、似て非なる音を模索して、似せながらも異種格闘技のようなエッセンスを超越した調味料など(笑)、著作者からクレームの無い範囲で著作物をアレンジする楽しさを継続するには、左近治には着うたにシフトするしか無かったワケであります。

こうして、リリースのためのネタ探しに躍起になることなく、自分の思い立ったときのアイデアを育みながら、音楽を純粋に聴いたり、楽器を自分のために楽しんで弾くということを取り戻し、私は癒されているワケであります(笑)。今週の月曜日から木曜日の深夜まで4夜連続で放送されたNHKの「日本の名峰」。

こういう良質な番組をどっぷり浸かって見ることができるのも、今現在着うたにシフトしているからなのです(笑)。

山好きは年配の人の趣味と思われるかもしれませんが、山はやっぱりイイですねえ。正弦波のような山ではなく、鋸歯状波のような山が(笑)。